以前から紹介したかった本ですが、あまりにも内容が濃すぎて、私には手に余ると思っていました。それが、たまたま大竹さんの『カスバの男』という本を知ったことで、これをきっかけとして思い切って取り上げてみよう、と思った次第です。
前置きが長くなりましたが、その本は四方田犬彦さんの著書、『モロッコ流謫』です。
まずは著者について書いておきましょう。
四方田 犬彦(よもた いぬひこ、1953 - )さんは、比較文化学者、映画史家、評論家といった多彩な顔をもつ学者です。例えば「評論家」という肩書き一つをとっても、四方田さんが論じる対象は、映画、漫画から文学や思想まで幅広いのです。私たちの世代だと、浅田彰さんや中沢新一さんが「ニュー・アカデミズム」の若手の学者としてもてはやされた時に、同時に出てきた人、という認識があるのかもしれません。しかし四方田さんの活躍ぶりは「アカデミズム」の枠に収まらない、学者的な彼らとはまったく異次元のものでした。
私は一時期、図書館にある四方田さんの著書をすべて読もうと試みましたが、思わぬ書棚に著書が潜んでいて、その量の多さに諦めざるを得ませんでした。こちらの教養が四方田さんのスケールの大きさにとても追いつかない、という事情もありました。
とにかく頭の良い人ですが、四方田さんは好奇心に応じて世界を股にかけて歩く行動の人でもあります。この『モロッコ流謫』もそんな四方田さんでなくては書けない、奇跡のような本です。繰り返しになりますが、内容が濃密なことにおいては、彼の著書の中でも5本の指に入るのではないでしょうか。
それでは、この本の書店の紹介を読んでみましょう。
モロッコは人の運命を変える。青く高い空によって、音楽の陶酔によって、いや、何よりも魔術によって。ポール・ボウルズとその妻ジェイン。バロウズ。ジュネ。バルト。石川三四郎…。モロッコは人を砂漠の静寂へと導き、夢想と放浪を説いてやまない。十年にわたりこの神秘の国に魅惑された著者による、旅行記と比較文学論の、みごとな結合。伊藤整文学賞、講談社エッセイ賞受賞。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480431851/
この本の前半の主役は、上の紹介文に名前のあるポール・ボウルズ(Paul Frederic Bowles、1910 - 1999)さんという作家、作曲家だと言ってよいと思います。
皆さんはポール・ボウルズさんを知っていますか?
私はこの本でボウルズさんについて知り、さらに四方田さんの翻訳によってボウルズさんの長編、短編小説を読みました。しかし実はその前に、ちょっとしたボウルズさんのブームがありました。それはベルナルド・ベルトルッチ (Bernardo Bertolucci、1941 - 2018)さんが監督した映画『シェルタリング・スカイ』の封切りによってです。
https://eiga.com/movie/13948/
この『シェルタリング・スカイ』の原作を書いたのが、ボウルズさんなのです。この映画が封切られた頃は、私は就職して5、6年が経っていて、職場が変わって忙しかった頃でした。結局、見逃してしまって、その後10年以上経ってから、私はこの『モロッコ流謫』によってボウルズさんのことをくわしく知ったのです。私のような凡人には、こういう時間差はよくあります。
さて、先走りましたが、この本の中ではモロッコに魅了された有名人がたくさん出てきます。彼らを少しずつ紹介しましょう。
その最初の有名人はローリング・ストーンズのメンバーだったブライアン・ジョーンズ(Brian Jones、1942 - 1969)さんでした。次の動画をご覧ください。
https://youtu.be/SDiVBteXfEM?si=9u4SjxKWG1Wk5U16
不思議な笛の音が聞こえてきますが、これがモロッコの音楽です。
それでは、ブライアン・ジョーンズさんについて書いた四方田さんの文章を読んでみましょう。
ブライアン・ジョーンズは1968年にタンジェを訪れた。彼はながくこの地に住んでいたブライアン・ガイシンに導かれて、タンジェから南西に100キロほど行ったクサール・エル・ケビールの南の小さな村ジャジューカを訪れた。ジャジューカはわずかに500人ほどの人口しかもたないが、独自の音楽をもち、宮殿お抱えの楽師をつねに輩出してきた村だった。村人たちはこれまで長髪の白人を目の当たりにしたことが一度もなく、ロンドンでの人間関係に疲れきってやって来たブライアンを歓迎した。到着の夜には祝宴が開かれ、山羊が屠(はふ)られた。ブライアンは肝臓を口に含みながら、「この山羊はぼくだ。ぼくは今、自分の内臓を食べているんだ」と、傍らにいたガイシンに告げた。彼は痛々しい笑みを顔に浮かべていた。二人は村に数日滞在し、村人たちが何時間にもわたって演奏する音楽に、これまでロックミュージシャンとして知ることのなかったような宗教的法悦の体験をした。
(『モロッコ流謫』「第一章 蜃気楼の港」四方田犬彦)
その後もブライアン・ジョーンズさんはジャジューカを訪れ、そのとき録音されたテープが発売されたのですが、そのときにはブライアンさんはすでに亡くなっていました。謎めいた自殺を遂げたのです。
タンジェはスペインに程近い港町ですが、モロッコはこの入り口の街からすでに魔術的な雰囲気を醸し出しています。その雰囲気に魅入られたのが、ローリング・ストーンズのメンバーであったブライアン・ジョーンズさんだった、という話です。
次に四方田さんは、モロッコを描いたいくつかの映画について触れています。そこには欧米人の思い描くモロッコのイメージが反映されているのです。そのステレオ・タイプのような映画が、「ディートリッヒの、かの有名なフィルム『モロッコ』」でした。
https://youtu.be/sIX65uBrVFE?si=FjQZterFIh1zBn0y
そしてアルフレッド・ヒッチコック(Sir Alfred Joseph Hitchcock、1899 - 1980)監督の『知りすぎていた男』について軽く触れた後で、四方田さんが語ったのは『カサブランカ』でした。この映画をご存知ない方は、次のサイトのあらすじをご覧ください。カサブランカはタンジェから少し西に行ったところにあるモロッコの港街です。
https://eiga.com/movie/43303/
https://youtu.be/8hX-AVL8uQ8?si=d2cJ1gCEY6CT9Yg1
この映画について四方田さんが書いていることは、映画を見る目というものが、鑑賞者の成長に伴ってどのように変わっていくのか、という好例です。とても興味深いので、書き写しておきましょう。
おそらくこのフィルムほど、年代に応じてわたしの見方が変化した作品も少ないといえる。14歳のわたしにとってそれは、いささか退屈なところもあったが、怜悧な美しさをもったバーグマンを中心とする、スリルに満ちた脱出劇だった。18歳で名画座で再開したとき、わたしを魅惑したのはボガートのシニックなダンディズムであり、それに寄り縋(すが)ろうとするピーター・ローレの卑屈なお追従だった。「俺があんたを信頼するのは、俺みたいな人間とハナから付き合おうとしない類の人だからさ」という彼の科白に、わたしはある人間的な真実を見たような気がしたのである。25歳で映画史という物語に自覚的になり出したわたしにとって重要だったのは、監督であるマイケル・カーティス自身が東欧からの亡命アメリカ人であり、このフィルムが第二次世界大戦への合衆国の参戦を鼓舞し肯定するというイデオロギーに裏打ちされているという分析だった。そして幾度目かのモロッコ行きの後でわたしが思うのは、そこに数人の召使を除いていかなるモロッコ人も登場しないことへの疑問である。この作品は現実のムスリム都市カサブランカとはまったく無関係であって、ハリウッド製の甘美な植民地主義の神話によってのみ構成されているという事実が、そこから浮かび上がってくる。
(『モロッコ流謫』「第一章 蜃気楼の港」四方田犬彦)
この映画はハンフリー・ボガート(Humphrey DeForest Bogart, 1899 - 1957)さんの魅力が詰まった映画です。しかし、それとは別にして、映画の背景にあるものが明らかになるにつれ、映画に対する評価も変わっていくところが面白いと思います。
それにしても、14歳で『カサブランカ』を見るだろうか、あるいは見たにしてもその評価を覚えているだろうか、と四方田さんの早熟ぶりには驚きます。
さて、この本には、私の未見の映画や、映画以外の知らないことについてたくさん書かれています。それらについては言及しにくいので、私が学生時代に見た印象的な映画について、もう一つだけ取り上げておきます。
それはスイスのダニエル・シュミット(Daniel Schmid, 1941 - 2006)さんが監督した『ヘカテ』という映画です。
https://hecate-japan2021.jp/
https://youtu.be/st2PTrlo2N4?si=XOWWAMKtea_H3WRc
この映画について、四方田さんは次のように書いています。
わたしが最初にタンジェという邑(まち)をスクリーンを通して観たのは、それからずっと遅れて、1983年のことだった。それはスイスの監督であるダニエル・シュミットが、ポール・モランの『ヘカテとその犬たち』を映画化したときのことである。
『ヘカテ』と短く題名を改められたこのフィルムは、両大戦間のタンジェを舞台とし、ひとりの若い外交官が謎めいた領事夫人に散々に翻弄されるという物語である。全編が青白い月の光で撮影された感のあるこの作品では、フォン・スタインバーグの『モロッコ』以来、欧米の映画人たちがけっして描こうとしなかったモロッコの映像が登場していた。それは植民地統治者であるフランス人によって次々と銃殺されていくモロッコの民族主義者たちであり、狭いヨーロッパ人社交界のなかに漂う死臭、加えてマゾヒズムを中心とした性的倒錯の世界である。シュミットはタンジェを、白人たちが安心してメロドラマを演じることができる、異国情緒たっぷりの背景としてではなく、孤独と頽廃に満ち、しかも甘やかな夢幻の感覚に満ちた魔都として描いていた。
(『モロッコ流謫』「第一章 蜃気楼の港」四方田犬彦)
私はこの映画を封切り当初に見ましたが、なんだか禍々しい映画で、人間の深くて暗い側面を見たような気がしました。それに、ひと昔前のヨーロッパと、アフリカやアジアの関係性を垣間見て、割り切れない思いを抱いたのです。この映画の翌年にはフランスの作家、マルグリット・デュラス(Marguerite Duras, 1914 - 1996)さんがフランス領インドシナを舞台にした小説『愛人』を書き、すぐに日本でも翻訳されて評判になりました。そんなふうに、欧米の文化が世界に残した爪痕を、私のような無知な人間でも意識するようになっていましたが、『ヘカテ』について四方田さんがここに書かれたような分析など当時の私にできるはずもありませんでした。モロッコに行ったことのない私には、今でも四方田さんがこの本で書かれていることをすべて実感できているとは言えないでしょう。
さて、なかなか主役のポール・ボウルズさんに辿り着きませんが、やっとここで登場します。
ボウルズさんがモロッコに来た経緯について、四方田さんは次のように書いています。
ポール・ボウルズは1910年にニューヨークのクイーンズに、歯科医の息子として生まれた。
<中略>
(ボウルズは)高校に進学すると、パリでガートルード・スタインが刊行している国際的な文芸誌「トランジション」を購読し、シュルレアリスムの自動記述に影響された詩を投稿した。それは掲載され、18歳の少年はいきなりブルトンやジョイス、エリュアールといった当時の前衛的文学者と並んで、誌面を飾ることになった。南部の大学に入学こそしたものの、心は流浪を求めてやまず、パリに出るとそこで男性との性的体験を結んだ。また十歳年長のアーロン・コープランドから、作曲法を学んだ。
才気に満ち、美しい容貌をした21歳のボウルズにタンジェ行きを勧めたのは、スタインである。彼女はあるときまで彼の内面において、女性であるにもかかわらず、抑圧的父親に似た超自我とも呼べる権能を振るい、詩人たろうとする彼の自尊心を深く傷つけた。ボウルズとコープランドは船で地中海を渡り、アルジェリアのオランから汽車でタンジェに入った。
(『モロッコ流謫』「第一章 蜃気楼の港」四方田犬彦)
幼少時からすでに凡人とは違う才覚を見せたボウルズさんですが、この最初のモロッコ探訪から十数年後に、モロッコへの永住を決めたのでした。
そのボウルズさんを、四方田さんがどうして追いかけることになったのか、その経緯について四方田さんは『モロッコ流謫』の中で説明しています。それは四方田さんが1980年代の中頃にニューヨークの大学に客員研究員として呼ばれたことに端を発しています。ひところ世間から忘れられていたボウルズさんでしたが、この頃には再びニューヨークの知識人の間で話題になっていたのです。
その事情を四方田さんは次のように書いています。
80年代の前半まですっかり忘れられていたこの作家は、今や生ける伝説として、ふたたび話題とされていたのである。わたしの周囲の文学好きのアメリカ人たちは、バロウズ、ブコウスキーと並んで、ボウルズこそは20世紀アメリカ文学を彩るスキャンダラスな3Bの一人だと、夢中になって論じていた。その書物は30年の空白ののちに次々と復刊され、聖マルクス通りやスプリング通りにある、知的流行に聡い書店で平積みにされていた。わたしはそうした時期に彼の小説集や詩集、それに作曲集に出会ったのである。
(『モロッコ流謫』「第一章 蜃気楼の港」四方田犬彦)
言うまでもなく、「バロウズ」とは1950年代にビート派の詩人として注目を集めたウィリアム・バロウズ(William Seward Burroughs II、1914 - 1997)さんであり、「ブコウスキー」とは無頼の作家、チャールズ・ブコウスキー(Henry Charles Bukowski, 1920 - 1994)さんのことです。どちらも麻薬やアルコールに彩られた破天荒な生涯を生き、過激で破滅的な作品で知られています。
そして、四方田さんにボウルズさんの作品の日本語への翻訳を強く勧め、モロッコのボウルズさんの居場所を教えたのは、その当時、まだインディーズの映画監督だったジム・ジャームッシュさんだそうです。そんな風に背中を押された四方田さんですが、四方田さん自身はボウルズさんの魅力について、次のように3点に分けて分析しています。
①世界文学の歴史の中で、ボウルズさんが類まれなる結節点となっていること。
世代的にはロスト・ジェネレーション(ヘミングウェイなど)とビート・ジェネレーション(バロウズなど)の中間に位置し、ドラッグ、同性愛などの主題を通してのちの世代に影響を与えています。また、テネシー・ウィリアムズの舞台音楽、ヴィスコンティの映画の脚本を担当するなど、美学的多様性を持っていて、「あたかもその統合点に立つかのように見える」のだと四方田さんは書いています。
②ボウルズさんは、「帰還の不可能という主題を生涯をかけて探求してきた」こと。
「モロッコに留まること半世紀、その間に彼は民族音楽を採集し、市井の名もなき青年たちと交わり、タンジェがコスモポリタンであることを止めても、けっして祖国に戻ろうとしなかった」と四方田さんは書いています。これはホメロスの『オデュッセイア』などの帰還者文学の逆をいく独自なものだと言うのです。
③「ボウルズの作品は徹底した達観という姿勢」を貫いていること。
ボウルズさんは安手のオリエンタリズムに陥ることなく、「自分を世界の外側において語ろうとしている」のだと四方田さんは書いています。そう言われれば、ボウルズさんの小説では酷い目に遭う人たちもたくさんいるのですが、彼らに同情することなく、冷徹に記述するボウルズさんの態度を私も感じました。これはなかなか不思議な感触です。
そして四方田さんは、ボウルズさんと会うことに成功します。ボウルズさんに会おうとモロッコまで行ったのに、会えずに帰ってくる人もいる中で、四方田さんは道案内を買ってでた現地の人々に導かれて、ボウルズさんの部屋にたどり着くことができたのです。ただし、道案内の中に魔物がいたらしく、いつの間にか四方田さんのカメラはなくなっていたそうです。
その初対面の場面を読んでおきましょう。
初対面のボウルズは白いワイシャツにネクタイ、それに青いベストという格好でわたしを迎え入れると、日本風にいって十畳ほどの応接間に通してくれた。彼は小柄で、けっして声を立てることなく、言葉を選びながら語った。
意外なことに、彼の口から最初に漏れた固有名詞は、わたしがつい二ヶ月ほど前に会ったイタリアの映画監督のものだった。「ベルトルッチがついこないだ、ここまで来てね」と、ボウルズはいった。「『シェルタリング・スカイ』を映画にしたいというんだ。ぼくは彼のフィルムを観たことがないのだけれど、きみはどう思うかね。なんでも中国の皇帝について最近撮ったとか、いっていたが・・・」
わたしは『ラストエンペラー』の感想を話した。ボウルズによれば、ベルトルッチはこの部屋を訪れたその日の夜に、怪しげな誘いに乗って裏路地に連れこまれ、現金からパスポートまでいっさいを強奪されたのだという。ボウルズのいうところの「魔物」である。彼は翌朝になって、それを報告に来たよ、老小説家は付け加えた。
(『モロッコ流謫』「第一章 蜃気楼の港」四方田犬彦)
ベルトルッチさんのエピソードには驚かされますが、彼はこのような災難にも負けずに『シェルタリング・スカイ』を映画にしたのですね。さすがに身も心もタフだと感心します。
さて、「第一章 蜃気楼の港 タンジェ」だけで、これだけ盛りだくさんの内容になってしまいましたが、その後も少し見ておきましょう。
「第二章 蜘蛛の迷路 フェズ」では、四方田さんが翻訳したボウルズさんの長編小説『蜘蛛の家』の舞台となっているフェズについて書かれています。タンジェから内陸に入ったフェズは、複雑な迷宮のような街です。せっかくですので、四方田さんの街の描写を読んでみましょう。
あの崩れかけた蟻塚のような邑(まち)。世界で最も複雑な迷宮と呼ばれている、かつての王都のことが思い出されてくる。記憶はもう10年も前にこの邑を最初に訪れることのできない、要塞のような場所として残されている。それはタンジェのように、一年を通して海の微風が通りを横切り、いく種類もの言葉が飛び交うコスモポリタンの邑とは対照的に、逃げ場のない内陸にあって、モロッコ的なるものを何世紀にもわたって黒く煮詰め、壁という壁、小径という小径にべっとりと塗り重ねたような息苦しさと、異教徒であるわたしにむかって獰猛で邪悪な眼差しを差し向けてくるところであった。
(『モロッコ流謫』「第二章 蜘蛛の迷路」四方田犬彦)
ときに四方田さんは、地理学者や社会学者のように土地を観察します。あらゆることに興味を持ち、知識を総動員してモチーフに迫るところがさすがです。
そして「第三章 砂と書物 アトラス超え」では、さらにモロッコの山間部に入ろうとした四方田さんに、ある美術商が平岡千之という人を紹介します。この平岡 千之(ひらおか ちゆき、1930 - 1996)さんという人は、モロッコ特命大使を務めた外交官ですが、なんとあの大作家、三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925 - 1970)さんの弟です。快活な中にニヒリズムを秘めた平岡さんと四方田さんは仲良くなって、平岡さんが亡くなるまで交流があったようです。
この平岡さんが、兄のことをどのように語っていたのか、興味がありますね。四方田さんはそのことを次のように書いています。
ある晩のこと、食事が終わってブランディーに切り替えたころ、平岡さんはふと思い出すかのようにわたしにむかって、そうそうぼくの兄貴が小説なんか書いててねえと、切り出してきた。でも、四方田さんの世代くらいになると、ああいう古臭い小説はもう受けないのだろうなあ。
封印が破られたなと、わたしは感じた。三島由紀夫は今でもみんなが読んでますよ。ぼくも夢中になって読んだ憶えがありますと、わたしは答えた。突然に平岡さんの顔が快活になった。そう?そうなんだ。いやあ、実はぼくも高校時代に文学に憧れをもっていなかったわけじゃなかったんだが、兄貴が役人の仕事が終わって家に戻ると、書けない書けないといいながら机に齧りついているのを目の当たりにしてるとねえ、やっぱり家業を継いだほうが楽だと思って、外交官を目指したというわけなんだ。ひとたび封印が破られてしまうと、平岡さんは兄の思い出を次々と語りはじめた。
(『モロッコ流謫』「第三章 砂と書物 アトラス超え」四方田犬彦)
うーん、それにしても、四方田さんの人脈はすごいです。
そして四方田さんは、アトラス山脈に沿ってたどり着いたマラケッシュの街で、大道芸のようなことをやって逞しく生きる少年など、市井の人たちの暮らしぶりを眺めます。そこで四方田さんが思い出したのは、かつてヨーロッパとアフリカを放浪する中で、マラケッシュのことを回想録に書いた石川 三四郎(いしかわ さんしろう、1876 - 1956)さんという社会運動家、アナーキストです。
マラケッシュはわたしに、ひとりの独自な思想をもった日本人を思い出させる。彼の学説について聞いたのは1970年代の中頃だったが、その奇怪さはいつまでも耳の奥に残っていて、わたしをこの邑へと向かわせる遠い要因となった。
石川三四郎は、現在では非戦論を唱えたアナーキストとして記憶されている。彼は1876年に生まれ、幸徳秋水や堺利彦とともに「平民新聞」の創刊に関わったのち入獄。このため皮肉にも「大逆事件」で逮捕されることを免れた。サンジカリズム系の労働運動を支援したり、クロポトキンの翻訳を行ったりしたのち、戦後は日本アナキスト連盟の結成に参加して、1956年に八十歳の生涯を閉じている。
(『モロッコ流謫』「第三章 砂と書物 アトラス超え」四方田犬彦)
その石川さんが、ヨーロッパとアフリカを放浪していた時のことを、帰国直後と最晩年に著作として残しているのだそうです。その中にはマラケッシュでの体験も綴られていて、四方田さんはその文章を引用して当時のマラケッシュについて思いを馳せています。
それにしても、この社会運動家の文章が、「わたしをこの邑へと向かわせる遠い要因となった」と四方田さんは書いていますが、その好奇心の広がりに感心してしまいます。
「第四章 地中海の余白 タンジェ、ララーシュ」では、モハメッド・ショックリー(Mohamed Choukri,1935 – 2003) という作家が登場します。皆さんは、この作家をご存知ないと思いますが、それは当然です。このモロッコの作家は、四方田さんでさえ、会うのを躊躇した曲者なのです。
モハメッド・ショックリーには長い間、会うことを躊躇していた。
もうひとりのモハメッド、すなわちモハメッド・ムラべには、最初にタンジェを訪れたときから、すでに何回か会っている。だがボウルズが翻訳を企てたタンジェの、後に作家となる男たちとは違って、ショックリーだけは幾重にも悪名高い噂に包まれていて、わたしを充分にたじろがせたところであった。いわくラマダーンの日にわざと酒に酔い潰れ、警官に絡んで勾留され、公衆の前で鞭打たれた。いわく何千人の娼婦と寝たと放言した。いわくその著書の少なからぬものがモロッコで発禁になっている。今ではすっかりタンジェの文壇(というものがあればの話だが)で有名となり、知らぬ人とてない存在となったが、最近はかつての庇護者であったボウルズを批判する著書をフランス語で発表した。モロッコ人が一筋縄で行かないことは理解しているつもりでも、これはひょっとして特別に狷介な人物かもしれない。
(『モロッコ流謫』「第四章 地中海の余白 タンジェ、ララーシュ」四方田犬彦)
このような要注意の作家が闊歩するモロッコに、かの犯罪作家のジャン・ジュネ(Jean Genet, 1910 - 1986)さんが現れます。彼は晩年に中東を訪れるようになっていたのです。このジュネさんとショックリーさんの出会いについて、四方田さんは次のように書いています。
この回想録(『タンジェのジャン・ジュネ』ショックリー著)によれば、このときのショックリーは心配げに成り行きを見守る仲間を後にして、ゆっくりとジュネに近付いていったようである。それからまず、自分がモロッコの作家であると自己紹介した。ようこそと、ジュネは礼儀正しく答えた。タンジェはお好きですか?全世界で一番美しい邑だと、お考えになりませんか?と、ショックリーは尋ねた。とんでもない!いったい誰にそんな考えを吹き込まれたんだね?とジュネ。アジアにはここよりももっと美しい邑がいくらでもあるよ。
思うにショックリーには、ジュネの名声を知りながらも、心の底では彼もまたナザレ人の観光客の一人にすぎないだろうと、軽く見る心理が働いていたのだろう。彼がそれまで接してきた多くの西欧の芸術家たちは、タンジェの美とコスモポリタンな雰囲気に酔っていたのだから、その観心を引くことはショックリーにとって、赤子の手を捻るくらいのことであった。だがジュネはその手に乗らなかった。その前年に日本旅行を通してはじめてアジアに接したこのフランス人は、現地人の口から発せられたいかにもステレオタイプの挨拶に、簡単に応じなかった。
(『モロッコ流謫』「第四章 地中海の余白 タンジェ、ララーシュ」四方田犬彦)
なんだかキツネとタヌキの馬鹿しあいのような、緊張感のある出会いです。そしてジュネさんは、パレスチナの政治闘争にのめり込んでいきます。ジュネさんは晩年に咽頭癌の宣告を受け、モロッコで過ごす時間が多くなり、フランス人との交友関係がほとんどなくなった中で、パリで死亡したのだそうです。
それから、「エピローグ」では、モロッコを訪れて作品を残した画家、アンリ・マティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)さんについて少しだけ触れていますね。
マティスさんの作品は、私も大好きですが、四方田さんはマティスさんの作品を絶賛した後で、私たちをハッとさせるようなことを書いています。
異国情緒に魅せられてタンジェに向かうことは、当時のフランスの画家の間ではブームであり、彼が滞在したホテルには他にも(現在は忘却の河に沈んでいるが)何人もの画家が宿泊していた。だがマチスほどに、タンジェにおいて眼差しの危機とでも呼べる体験をした者は他にいなかった。わずか数ヶ月を挟んで描かれた2枚の絵画の間に横たわる決定的な違いは、彼が事物の形態をめぐってより解放された思考に到達し、色彩の戯れの側へと身を委ねていったことを、如実に示している。これは文字通り、開かれた光景であり、開かれた絵画なのだ。そういってみたい誘惑に駆られる。
だが同時にわたしは、この作品を可能とした時代の原理的選択についても、思いを寄せないわけにはいかない。マチスは眼前の風景からヨーロッパ近代と植民地を感じさせるものをいっさい排除してしまい、すべての形態から意味を追放してしまった。この2枚の作品が描かれた1912年から13年という年が、モロッコがフランスの保護下に置かれ、リヨテ将軍が派遣されてきた年と同じであることは、けっして偶然のようには思えない。リヨテもまたモロッコのメディナにヨーロッパ近代の歴史的時間が不用意に侵入することを許さず、それを永遠の相のもとに置こうと考えていたのである。
(『モロッコ流謫』「エピローグ」四方田犬彦)
この時期のモロッコの歴史については、例えば次のサイトをご覧ください。
https://www.keisen.ac.jp/blog/heritage/2012/07/post-25.html
また、四方田さんが問題としている2枚の絵のうちの一枚は次の作品です。
https://newimg.org/goodsprev.cgi?gno=040mati
この時期のマティスさんの絵は、私も大好きですが、マティスさんがこの解放的な作品を描いていたその時に、マティスさんが滞在したモロッコでは、市井の人たちにとって解放的などと言っていられない、政治的な動きがあったのです。
私は、造形芸術の中で、特に抽象的な表現においては、その当時の社会的事象を作品が反映していなくても仕方ない、と考える者です。暗い時代に、あえて明るい絵を描いても良いわけですし、場合によっては現実の世界で泥まみれで生きている画家が、純粋で清涼な作品を描いても良いのです。
しかし、この時期のモロッコに明るいモチーフを求めて旅行するということは、いかにもヨーロッパ的な行動ではないか、といわれても致し方ないと思います。私もマティスさんのように、絵画の造形性を重視する者なので、特に社会的な問題をテーマに制作することはありません。しかしそれでも、現在の社会が抱える矛盾について、常にヒリヒリとした感性をもつことは重要だと思っています。それは具体的な表現に表れなくても、作品のどこかに影響すると思うのです。
ですから、もしもマティスさんが母国の動向に注視していたなら、はたしてこの時期にモロッコに出かけただろうか、という疑問が生じてしまいます。
さて、このようにヨーロッパとアフリカが交錯し、明るい光と魔術的な禍いが同時にふりそそぐモロッコですが、そのことを余すところなく語る四方田さんの本があってこそ、私たちはその正体を知ることができます。
この『モロッコ流謫』によって、私たちはヨーロッパ人の身勝手な憧れと欲望を知り、さらにそれをしたたかに利用するモロッコの人たちと出会うのです。
前回の大竹伸朗さんは、そんなモロッコを肌で感じ、街角の乱雑な貼り紙の壁にすら魅力を感じたのです。今回の四方田さんは、そんなモロッコを語り尽くします。よかったら、両方の本を入手して、読んでみてください。
猛暑の日本で、遠いモロッコのカスバを彷徨うのはいかがですか?夏休みの過ごし方として、お勧めします。
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