前回のヤマザキマリさん、須賀敦子さん、矢島翠さんと話題が及んできて、矢島翠さんの夫だった加藤周一さんのことを思い出しました。
この加藤周一という人は、あまりにスケールの大きな文化人だったので、ちょっと近づきがたい思いを抱いてきました。しかし、そんなことを言っていると、興味深い人なのに何も接することができずに終わってしまいそうです。これを機会に、私のわかることだけでもまとめてみたいと思います。
この加藤 周一(1919 - 2008)さんのことを知ったのは、昔読んだ『夕陽妄語(せきようもうご)』という新聞のコラムがきっかけでした。その内容が文学や芸術、歴史、政治、社会問題まで幅広くて、これはどういう人が書いているのだろう、と思ったおぼえがあります。いったいどれだけの知識がある人なのか、何冊の本を読んでいるのか、どんな勉強をした人なのか、と不思議に思ったのです。のちに彼が、戦争を放棄することを訴えた「9条の会」の重要な人物であることがわかりました。『夕陽妄語』のコラムの内容に貫かれている倫理観が、確固とした意志のあるものだったということに気がつきました。
だいぶ昔のことなので、記憶が定かではないのですが、この加藤周一さんのことを調べてみると、岩波新書から『羊の歌』という自伝が出ていることがわかりました。その本の表紙をめくったカバーのところに、次のような本の紹介文が掲載されています。
「現代日本人の平均に近い一人の人間がどういう条件の下にでき上ったか、例を自分にとって語ろう」と著者はいう。しかし、ここには羊の歳に生れ、戦争とファシズムの荒れ狂う風土の中で、自立した精神を持ち、時世に埋没することなく生き続けた、決して平均でない力強い一個性の形成を見出すことができる。
(『羊の歌』 カバーの文章)
「現代日本人の平均に近い」とは、よく言ったものです。彼がどれだけ非凡な人であったのか、このあとわかることでしょう。それでは、加藤さんの人生の、主に若い頃のことになりますが、かんたんにたどってみましょう。
加藤周一さんは開業医の息子として東京・渋谷に生まれました。子供の頃は病弱であったようです。武骨で頑固な父親と、遊び人の祖父と、その双方の様子を見ながら育った加藤周一さんは、第一高等学校から東大医学部へと進みます。名門校から東大へという、絵に描いたようなエリートコースです。ただ、加藤周一さんが並のエリートと違うところは、彼は医学部の講義に出席する日々の中で、文学部の講義にも出席していたのです。同じ時期の仏文科の学生には、後に著名な文学者となる中村真一郎がいました。マラルメ、プルーストなどの海外の文学はもちろん、哲学や思想まで学生と教員が入り混じって論じ合う雰囲気が、当時の東大文学部にはあったということです。これは医学部にはないことだったそうですが、それは両方の学部に出席する加藤さんでなければわからない感想ですね。
時代はその頃、第二次世界大戦に入りますが、加藤さんは肋膜炎を患い、徴兵を免れました。病気の回復期には読書や文楽鑑賞などに浸っていたようで、その時期に文学者としての素養に磨きをかけたのでしょう。その一方で、親しかった学友が召集されて、大切な友人を亡くすという経験もしました。なぜ、その友人が亡くなって、自分が生き残ったのか、そのことに悩み、明確な理由が得られなかった加藤さんは、「みずから退いて、羊のようにおとなしい沈黙を守ろう」と考えるようになりました。ちなみに、加藤さんは羊年の生まれで、それがこの自伝のタイトルになっているのです。
日本に残って医師として働く加藤さんですが、戦争はますます激しくなり、大学の医局ごと信州上田に疎開することになりました。加藤さんたちは終戦もそこで迎えますが、加藤さんの周囲の医局の人たち、あるいは疎開先の地元の人たちも、意外と冷静に敗戦を受け止めたようでした。
ここで『羊の歌』は終わり、『続 羊の歌』に続きます。
終戦の年、1945年のうちに加藤さんは東京に戻りました。そして東大とアメリカの軍医団が共同で広島に送った「原子爆弾影響合同調査団」に参加します。そこでアメリカの軍医と親しくなり、医療のこと以外にも様々なことを話すようになりました。こういうところでも、国際的な感覚を身につけていったのでしょうね。そして加藤さんは中村真一郎、福永武彦(池澤夏樹の父親)らと同人誌を出します。戦争が終わって、やっと心置きなく本格的な文学活動を始められるようになったのでしょう。
1951年に、加藤さんはフランスに行きます。パリ大学などの医学研究室に通っていたはずなのですが、『続 羊の歌』に書かれているのはヨーロッパの芸術や文化の話ばかりです。「詩人の家」、「中世」、「音楽」などという章のタイトルが並びますが、そんななかで、本の終わりの方で加藤さんは医学の廃業を決意し、そのことについて少しだけ書かれています。医者の仕事は多忙であり、また医療の研究は専門化が進んでいるので、医学の研究に没頭していると、一般の社会で何が起こっているのか、さっぱりわからなくなってしまうのだそうです。加藤さんは、それではダメだと感じたのでした。そこには戦争中の体験も反映しています。戦争中に、自分が冷静でいられたのは、社会的なできごとに関心を持ち、色々なことを知ろうとしたからだ、と加藤さんは考えました。同じ学問的な研究活動でも、文学の研究は医療と違って、社会から隔絶されることはないのです。それで、東大の医療研究者として第一線で働いていた加藤さんは、文学活動に専念することにしたのでした。
このように『羊の歌』『続 羊の歌』は、加藤周一という医学者が、文学者となるまでの魂の遍歴を記したものです。そこには、戦争という体験とヨーロッパ文化との出会いが大きな位置を占めていました。
加藤さんは、たまたま医学部に進んで医者の免許を持っていた文学者というのではありませんでした。彼は第一線の医療研究者でしたが、その地位を捨てて文学に専念することを決めた人なのです。こんな人のどこが「日本人の平均に近い」と言えるのか、と先の紹介文にはつっこみを入れたくなります。
しかしその一方で、加藤さんは一般の人たちが何を感じてどう生きているのか、そして社会全体がどのように動いているのか、ということに興味を失わなかった人でもあります。彼が世界をかえりみない人だったら、文学者にならなかったのかもしれません。
戦後を冷静に受け止めた普通の人たち、逞しく生き延びた市井の人たちのことを、加藤さんは忘れなかったのです。加藤さんの文章が、内容は高尚なのに言葉遣いがきわめて平易なのか、そんな加藤さんの姿勢を示しているのかもしれません。
さて、その加藤周一という人が、文学の研究上でどれほどの成果を上げたのか、それこそ私などの評価できるものではありませんが、ここでは彼の代表作と言われる『日本文学史序説』の一部分を読みながら、その成果に触れてみたいと思います。
まずは、『日本文学序説』のPR文から見ていきましょう。
日本人の心の奥底、固有の土着的世界観とはどのようなものか、それは、外部の思想的挑戦に対していかに反応し、そして変質していったのか。従来の狭い文学概念を離れ、小説や詩歌はもとより、思想・宗教・歴史・農民一揆の檄文にいたるまでを“文学”として視野に収め、壮大なスケールのもとに日本人の精神活動のダイナミズムをとらえた、卓抜な日本文化・思想史。いまや、英・仏・独・伊・韓・中・ルーマニアなどの各国語に翻訳され、日本研究のバイブルとなっている世界的名著。上巻は、古事記・万葉の時代から、今昔物語・能・狂言を経て、江戸期の徂徠や俳諧まで。下巻は、江戸期町人の文化から、国学・蘭学を経て、維新・明治・大正から現代まで。
(『日本文学史序説』のPR紹介文より)
この通りだとすると、たいへんな本です。
実際にこの本は、日本人が書き残したものとして、7世紀頃までさかのぼったところから始めています。例えばその一つとして、7世紀後半の『17条憲法』が取り上げられています。これは、聖徳太子が書いたと言われている憲法です。このような法律の文章から、いったい何が読み取れるのでしょうか。
加藤さんが言うには、一つには統一国家の原理を儒教的な概念で語ろうとする姿勢です。二つ目には、人と人との調和を大切にする日本人の和の精神です。
このように日本の文学からは、外国からの思想や宗教を日本人がどのように取り入れたのか、その影響関係を読み取ることができます。あるいはそういう影響下にありながらも、当時の日本人の特異性もわかるのです。
このように、必ずしも私たちが文学作品だと思っていない文章からも、わかることが多々あるのです。
しかしここまで読んでくると、そうであれば尚更のこと、これって「文学史」か?という気持ちが湧いてきます。「文学」と言うよりも「文化」全般が、対象となっているのではないか、とそんな気持ちになるのです。そう思っていたら、興味深い談話記事を見つけました。
『日本文学史序説』について、有名な外国人の文学研究者が「優れた作品だが文化史であって文学史とは言えないのではないか」と批判しました。しかし、それは間違っている。加藤さんのように一つ一つの作品を文学的なテキストとして深く読み取る文化史家・文学史家はいなかった。具体的な読みの上に立った、日本社会、日本文化、日本の歴史についての結論が、この本にはあらゆるページに満ちている。
(『鼎談 加藤周一が考えつづけてきたこと』大江健三郎の発言)
https://www.webchikuma.jp/articles/-/989
大江健三郎さんのような方にこう言われると、門外漢の私は、そういうものなのかなあ、と納得してしまいます。「文学」史というものを狭義にとらえると、これは外国の研究者の方のように「文学史とは言えないのではないか」というふうに思ってしまうのですが、文学というものがどのように成立しているのか、その存在にはどのような意義があるのか、ということを考えると「日本社会、日本文化、日本の歴史についての結論」がここにあるのだ、という大江さんの解釈にもうなずけルのです。
私は大江さんのこの解釈を読んで、『日本文学史序説』という書物の底には、加藤周一さんが戦争体験から学んだ文化への独特の対し方があるのではないか、というふうに考えました。先の大戦で悲惨な戦争へとひた走ったことも、敗戦の状況を冷静に受け止めたことも、ともに同じ日本人のメンタリティーから発しているのです。
これはいったい、何なのか?
それをつきとめるためには、文学作品として評価の高いものばかりではなく、「思想・宗教・歴史・農民一揆の檄文にいたるまで」を分析する必要があったのです。しかしそれにしても、日本の歴史的な文献から日本の文化、日本の社会を解読しよう、などというとんでもない企てを、誰が実現できるのでしょうか?平凡な人がそんなことを考えたのなら、それは誇大妄想ではないか、と思ってしまいますが、加藤周一という人ならば、可能なのかもしれません。大江健三郎がその「結論が、この本にはあらゆるページに満ちている」というのですから、折を見ては再読して、勉強し直さなくてはなりませんね。
ということで、この壮大な『日本文学史序説』を本格的に読み解くのは、私の任ではないと思います。しかしその一方で、加藤周一さんは文学ばかりでなく、造形美術にも広く目配りをして、興味深い文章を書き残しています。この本の厚みからすれば、それはほんの一部分ですが、それにもかかわらず個性的で注目に値する内容ですし、加藤周一さんのような巨匠でなければ言えない内容も含んでいますので、その部分を最後に読んでおきましょう。
日本文化のなかで文学と造形美術の役割は重要である。各時代の日本人は、抽象的な思弁哲学のなかでよりも主として具体的な文学作品のなかで、その思想を表現してきた。たとえば『万葉集』は同時代の仏教のどんな理論的著述よりも、奈良時代の人間のものの考え方をはるかに明瞭にあらわしていたといえるだろう。摂関時代の宮廷文化は、高度に洗練された和歌や物語を生みだしたが、独創的な哲学の体系をつくり出しはしなかった。鎌倉仏教は、おそらく徳川時代の儒学の一部分と共に、日本史の例外である。しかし法然や道元の宗教哲学は、その後体系として完成されたのではないし、仁斎や徂徠の古学は、その後の思想家に大きな影響をあたえたけれども、より抽象的であり包括的な思惟を生みだしたのではない。日本の文化の争うべからざる傾向は、抽象的・体系的・理性的な言葉の秩序を建設することよりも、具体的・非体系的・感情的な人生の特殊な場面に即して、言葉を用いることにあったようである。
(『日本文学史序説』「日本文学の特徴について」加藤周一)
はじめの一文で、「文学と造形美術」と書かれているところに、まず注目してください。とりわけ、音楽関係の芸術が入っていないことが気になります。
それから「抽象的な思弁哲学」よりも「具体的な文学」の方が日本の思想を表現してきた、という断定も思い切ったものです。鎌倉仏教や徳川時代の儒学の重要性を認めつつも、それは「日本史の例外である」と言い切っています。私は加藤さんの言いたいことが感覚的にわかるものの、このように強く言えるほどの根拠を持たない人間です。さらに続けて、加藤さんはこう書いています。
他方、日本人の感覚的世界は、抽象的な音楽においてよりも、主として造形美術、殊に具体的な工芸的作品に表現された。たとえば摂関時代の芸術家は、仏教彫刻と絵巻物に、そのおどろくべき独創性を発揮していた。しかし声明や雅楽に、日本人の独創性がどの程度まで加えられていたかは疑わしい。たしかに室町時代は能の、徳川時代は浄瑠璃の音楽をつくったが、一度つくり出された音楽的様式のその後の発展は、わずかなものにすぎなかった。室町時代に水墨画をとり入れ、狩野派を発展させ、一方では南画に到り、他方では大和絵の系統を融合させながら、琳派に絢爛たる開花に及び、遂に浮世絵木版を生んだ絵画の歴史とくらべることができないだろう。日本の文化は、ここでも、楽音という人工的な素材の組み合わせにより構造的な秩序をつくり出すことよりも、日常眼にふれるところの花や松や人物を描き、工芸的な日用品を美的に洗練することに優れていたのである。
(『日本文学史序説』「日本文学の特徴について」加藤周一)
ここにおいて、造形美術と音楽との差異は決定的に断定されます。加藤周一さんにとって音楽と美術の優劣よりも、音楽は抽象的な「構造的な秩序」を持った芸術であり、造形美術は具体的な「日常眼にふれるところ」を表現した芸術である、という棲み分けが重要でした。日本文化の特性から考えると、後者の表現に発展的な傾向がある、と解釈したのです。
そのことは海外の芸術と比較するとよくわかります。西洋と日本との比較はいうまでもありませんが、日本が多大な影響を受けてきた中国でさえ、思想や芸術の傾向においては日本と違っています。そのことについて加藤周一さんは次のように書いています。
もちろん中国では、文学と美術(殊に絵画)との関係が書を介して、しばしば密接不可分であった。音楽もまた文学から独立して西洋でのような器楽的発展を遂げたのではない。そのかぎりでは、日中文化の間に、一方から他方への影響を別にして考えても、少なくとも表面上の類似がめだつ。中国は優れて文学の国であった。しかし二つの文化が決定的にちがうのは中国的伝統のなかでは、包括的な体系への意志が、宋代の朱子学にも典型的なように、徹底していたということである。
<中略>
中国人は普遍的な原理から出発して具体的な場合に到り、先ず全体をとって部分を包もうとする。日本人は具体的な場合に執してその特殊性を重んじ、部分から始めて全体に到ろうとする。文学が日本文化に重きをなす事情は、中国文化重きをなす所以と同じではない。比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的となったのである。
(『日本文学史序説』「日本文学の特徴について」加藤周一)
この部分では、まず加藤さんの考える西洋音楽の特徴が簡潔に的を得ていて参考になります。西洋音楽が演劇や舞踊とは独立して発展したのは、抽象的な器楽音をさまざまな方法で構築したからでしょう。音楽を記録する「楽譜」というものが作曲家の構想そのものを表現するように発展したのは、西洋音楽だけでしょう。しかし、そのことはサラリと触れられるだけです。
それよりも、中国の文化や思想が「普遍的な原理から出発」しているという指摘に、ああ、なるほどなあ、と思わずうなずいてしまいます。私がそのことを特に強く感じるのは、日本と中国の山水画を比較してみた時の印象です。実際に、中国の大きな影響下にあった山水画は、両国のものが頻繁に並べられて展示されることがあります。そのときに、はっきりとは言えないけれども、二つの国はどこか違うなあ、という感想を持つのです。それが私にはうまく説明できません。
しかし加藤さんが書いているように、中国の絵画は「普遍的な原理」を背景に持っており、日本の絵画は「部分から全体へ」という流れを持っている、と言われれば、そういう感じがします。私のようにぼんやりと生きている人間は、その両国の差異を大陸的なものと島国的なものという、きわめて感覚的な解釈で納得してきたのです。
さて、ここまで読んできて、私は加藤さんの文章から、もう一人の優れた評論家の書いていたことを思い出しました。それは音楽評論家の吉田秀和(1913 - 2012)さんが書いた美術評論、『調和の幻想』のはじめの文章です。
それは、こんな文章でした。
日本の文明が、かつて中国のそれの圧倒的な影響を受けて展開したものだということは、知らぬものはない。文学、宗教、学問、政治の制度等々。その結果、両国の間には多くの共通性があり、類似点ができた。にもかかわらず、日本は中国と、ひどく、ちがう。
中国の土地を踏み、はじめて北京に足を入れての私の最大の感想は、「ここは日本と何とちがうところだろう」ということだった。私は、中国を見るより、ずっと前から、何回かヨーロッパに旅行した人間だが、その私からみれば、中国は日本よりずっとヨーロッパに近かった。「中国旅行とは、ある意味では、第二のヨーロッパに出会う旅行のようなものだった」というのが、私の偽らざる感想である。
(『調和の幻想』「紫禁城と天壇」吉田秀和)
吉田秀和さんは加藤周一さんよりも6歳年長になりますが、ほぼ同世代と言って良いでしょう。吉田秀和さんの美術批評は、紫禁城を訪れた時の圧倒的な印象から、その感動の正体を探るというものです。
この、加藤周一と吉田秀和という、文学と音楽を主に論じた巨人たちが、美術表現において日本が圧倒的な影響を受けたはずの中国に対して、大きな文化的距離を感じているところが面白いと思います。それは加藤さんの解釈によれば、中国が、そしてヨーロッパが「普遍的な原理」から出発してものごとを考えるという特徴があるのに対し、日本は「部分から全体へ」と思考するということでした。これは吉田秀和さんが抱いた問いへの答えにもなっていると思います。
さて、ここまで考えていくと、現在の私たちの文化や思考はどうなっているのか、ということが気になります。加藤周一さんは、そのことに関する本もたくさん書いているようですが、私は残念ながらそれを読んでいません。ただ、私事に当てはめてそのことを考えてみましょう。
例えば私は何かを考えたり、創作したりするときに、どこかでヨーロッパ的な、つまり抽象的な思考から入らなければいけないのではないか、という気持ちを抱くことがあります。つまり、私の創作の背景には、普遍的な原理のようなものが存在するべきではないか、そうでなければまずいのではないか、というような気持ちです。
しかし往々にして、そのようなこだわりを貫いた作品はつまらないもので、逆にそんな原理的なものなどどうでも良いくらいに作品に没入した時の方が、ましな作品ができているのです。このことは、現代の私たちが常に西欧的な原理と日本的な土着との間で引き裂かれていることを示しているように思います。
仮に、現在の私たちがそのような引き裂かれた存在だとして、それは厄介で悲観すべきことでしょうか?私は、必ずしもそんなふうには思いません。今の私は、そのように引き裂かれた自分というものを現実のものとして受け入れて、かんたんにはどちらへも行けないことを否定せず、むしろそのことを肯定的に捉えるようにしています。それが私にとって、今を生きるということではないか、と考えているのです。
こんなふうに、私たちはものごとを考えるときに、ほとんどの場合、自分の体験をベースにするしかありません。加藤周一さんにしてみても、『羊の歌』に書かれていたような終戦の体験、そしてその時の市井の人たちの冷静さとたくましさの印象から逃れることはなかったのだと思います。
そう考えると、この巨人の書いた壮大な『日本文学史序説』という書物が、少し身近に感じられます。私のような無学の人間がこの本を攻略するためには、そのような加藤周一さんの思いを共有しつつ読む必要があります。残念ながら、昔この本を読んだときにはそこまで思い至りませんでした。この次にこの本を読むときには、もう少しマシな読み込み方ができるでしょう。いずれチャレンジしたいと思います。
ところで、以前にも書いたように、紫禁城で感動した吉田秀和さんは、その気持ちの理由を求めて美術評論の旅に出て、最終的にはセザンヌという画家にたどり着きます。その吉田秀和さんの書いた『セザンヌ物語』を、近日中に読み解きたいと思います。どれほどの読み込みができるのか、ご期待ください。