平らな深み、緩やかな時間

231.須賀敦子の翻訳の仕事、ヤマザキマリの言葉から

NHK・Eテレの番組『100分de名著』の6月は漫画家、文筆家のヤマザキマリさんの語る安部公房の『砂の女』です。その初回の放送を見たときに、ヤマザキマリさんと『砂の女』との出会いを聞いて、驚きました。

 

私が安部公房の作品と初めて出会ったのは、十七歳でイタリアに単身留学し、フィレンツェのアカデミアという美術学校に通っていた頃でした。異郷の地で画家をめざしながら、極度の貧困のなかでもがいていたとき、画廊と書店を兼ねていた文壇サロンに通うようになり、そこに集う作家たちに勧められて読んだのが、世界中で翻訳された『砂の女』(一九六二年)のイタリア語版だったのです。  

(『100分de名著「砂の女」』ヤマザキマリ)

 

え、イタリア語版?とあなたも思ったでしょう?そのことについて、ヤマザキマリさんは、別なところで詳しく書いています。

 

当時フィレンツェには「ガレリア・ウプパ」という画廊と出版社を兼ねた、地元の芸術家や文芸人の集まるサロンのような場所があって、私と詩人は足繁くそこに通っていた。ウプパには私たちよりはるかに年上で、それまでの人生においてあらゆる不条理を経験し、現在進行形で貧困という辛酸を舐めつつも、諦めずに創作を続けている画家や作家や思想家たちが集っていた。  

ちょうど須賀敦子さんのエッセイ『コルシア書店の仲間たち』に出てくる雰囲気に近いかもしれない。仲間にはマルキシズムとカトリシズムを取り入れた「解放の神学」を説く社会主義のカトリック僧侶もいたし、軍事独裁政権や革命などにより祖国を追われた、南米や中東からの政治亡命者も多く集っていた。私は彼らと仲良くなり、お金がないときにはその画廊でパスタを茹で、塩胡椒とオリーブオイルをふりかけただけのものをみなで分けて食べたこともある。彼らは与えられた制度や既存の体制の中で満足せず、芸術や政治や人間について、毎晩のように熱い議論を交わした。そのサロンの存在は、貧困という現実に打ち拉がれていた当時の私の救いだった。  

日本から来た年端もゆかない小娘に、文学や芸術について教えてやらなくては、と思ったのだろう。この何もわかっていない娘っ子に、さて何を読ませてやろうかと考えて、サロンの主宰者だったイタリア人の老作家が書棚から持ってきた本が、安部公房の『砂の女』(一九六二年)のイタリア語版だった。

 「これを読みなさい。今の君はこういう文学に触れておくべきだ」  

それは一九七〇年代に、まさに須賀敦子さんがイタリア語に翻訳した『砂の女』の古本だった。その頃まだイタリア語の読書に慣れていなかった私は、辞書と首っ引きになってページをめくり、一気に安部公房の世界観に引きずり込まれていった。

(『壁とともに生きる 私と「安部公房」』ヤマザキマリ)

 

ヤマザキマリさんは文章が巧みですね。一気に1970年代のイタリア・フィレンツエに連れて行かれたような気分です。それに文中に出てくる『コルシア書店の仲間たち』を読んだことがある人なら、ああ、フィレンツエにも文化的サロンがあったんだ!と合点するはずです。それから、ここに出てくる「『解放の神学』を説く社会主義のカトリック僧侶」という不思議な存在も、須賀敦子さんの読者なら馴染みのものです。

こういう場所を持っているヨーロッパ文化に対して、ちょっと羨ましい気持ちになりますが、私が学生から社会人になった頃の、神田界隈の現代美術の画廊には、こういう雰囲気がすこしありました。その中心にいたのが、山岸さんという画廊主でしたが、その話は以前にも書きましたし、またいずれどこかで書き継いでいくこともあるでしょう。

さて、話を本題に戻します。

須賀敦子さんのことをよく知る人なら、彼女のイタリア語の翻訳の仕事がめぐりめぐって、現在大活躍中のヤマザキマリさんに影響を与えていたなんて、須賀さんの成し遂げたことの裾の広さにあらためて感じいるはずです。でも、彼女が亡くなったのが1998年ですから、若い方は須賀敦子という文学者のことを知らないかもしれません。そこで私のような者の任ではないと思いつつも、須賀敦子さんのことを少し紹介して、一緒に今回の驚きを分かち合いたいと思います。

 

須賀敦子(1929 - 1998)さんは、『ミラノ 霧の風景』というエッセイで1990年頃に、私たちの前に彗星のように現れた文学者です。その後、亡くなるまでの数年の間に、優れた著作を次々と発表し、晩年の文章ではフィクションともノンフィクションともとれるような、彼女の心象の表現とでも言いたいような境地に至りました。その須賀さんの足取りを簡単に辿ってみます。

須賀さんは兵庫県の会社経営者の家に生まれました。父親の豊治郎氏は、若い頃に家業の視察名目で一年間のヨーロッパ旅行に出かけていて、そのことが須賀さんのヨーロッパ留学に大きく影響していたと思われます。

須賀さんはミッション・スクールに通う子供でしたが、やがてカトリックに入信します。聖心女子大学で学んだ後、慶應義塾大学大学院に進学し、さらに慶應を中退してフランスに留学します。しかし、なぜかパリの学業に不満を持つようになり、26歳の時に日本に帰国してNHKに就職します。それも不満だったらしく、1958年、29歳の時に奨学金を得てローマに渡りますが、すぐに先ほどもヤマザキマリさんの話に出てきたカトリック左派の人たちが集うミラノのコルシア書店関係者と接触します。

1960年にローマからミラノに移り、後に夫となるジュゼッペ・リッカ(ペッピーノ)と知り合い、翌年に結婚します。実は須賀さんの、日本文学のイタリア語翻訳の仕事を支えたのがベッピーノでした。しかし1967年にペッピーノが急逝し、1971年にミラノから日本に帰国しています。

帰国後は慶大の嘱託の事務員や、上智大学の非常勤講師などの仕事に就きます。1979年、50歳で上智大学専任講師となり、1985年に日本オリベッティ社の広報誌にイタリアの経験を題材としたエッセイを執筆します。これが後に『ミラノ 霧の風景』として出版されると、読書家の間で評判となり、いくつかの文学賞を受賞します。それ以降の活躍はよく知られていますが、残念ながら執筆活動を始めて十数年で病のために亡くなってしまいました。私も、生前は彼女の本が出るたびに楽しみにしていたので、本当に残念でした。

 

今回は、その須賀さんの文学活動の中でも日本文学のイタリア語翻訳という仕事に焦点を当てます。

実はその仕事のことを、須賀さんは『ミラノ 霧の風景』の中の「セルジョ・モランドの友人たち」という章で語っています。これを読むと、日本文学全集が須賀さんの翻訳で出版されたということが、貴重なめぐり合わせであったことがわかります。すごく面白いので全編をここに書き写したいところですが、それはまずいので端折って話の内容がわかる程度に引用してみましょう。

 

ながいことイタリアに住んで、いちばん身になった、というとおかしいのだが、いちばん楽しかったことのひとつは、ミラノにいて、ボンピアーニ出版社に出入りしていたころのことかも知れない。ボンピアーニといっても、もちろん出版社全体を知っていたわけではなく(だれにとっても、出版社とのつきあいというものは、多かれ少なかれそのようなものかも知れないのだが)、セルジョ・モランドとパオロ・デベネッティという二人の編集者を知ったことで、あのころの私の生活がどれほど精神的にゆたかになったかわからない。

日本の文学作品をイタリア語に訳してみないか、というそのころの私にとって願ってもない話が、やはり出版関係の仕事をしていた夫を通じて私のところに舞いこんだ。そもそも若いころから私は滅法と言ってもよいくらい翻訳の仕事が好きだった。それは自分をさらけ出さないで、したがってある種の責任をとらないで、しかも文章を作ってゆく楽しみを味わえたからではないか。それにイタリア人の夫と結婚してからは、自分の背後にある日本の文学を知ってほしいという願望が日ましに強くなっていた。だから、イタリア有数の文芸書の出版社であるボンピアーニ社で翻訳者をさがしている聞いたときは、なんの迷いもなく、それは自分のための仕事だと信じてしまった。そのとき会ってくれたのが、セルジョ・モランドだった。

(『ミラノ 霧の風景』「セルジョ・モランドの友人たち」須賀敦子)

 

このモランドという人は、出版社の中でかなり重要な地位を占める人だったのですが、須賀さんは初対面から気があって、夢中で話し込んでしまったそうです。イタリアでは、このモランドのような人が社外では著名な評論家だったり、作家だったりするそうで、つまり相当な教養人だったのです。

さらにパオロ・デベネッティという人も、モランドの親友であると同時に「哲学・宗教関係の編集者でカトリック大学のユダヤ系語学の教授でもあった」人でした。パオロと須賀さんはモランドの部屋で一緒に話をすることがあり、この三人の会話はさぞかし教養的な厚みのあったものだろう、ということが想像できます。須賀さんは、この頃は30代のそれほどの実績にない若い日本の女性だったのですから、その彼女がイタリアの出版社の一室で地位も教養もある二人と長話をしてしまうのですから、本当に知性と才能に溢れた人だったのでしょうね。

こんな文章を読むと、イタリアという国がうらやましくなりますが、このような良好な文化的状況は彼の地であっても長くは続きません。それはあたかも、須賀さんの夫のベッピーノの逝去とともに時代が少しずつ変わってしまったようなのです。

そのころに須賀さんの翻訳原稿の担当をしていたのが、ボナチーナという若者でした。恥ずかしがり屋ですが言葉の才能があった彼に、ベッピーノが亡くなった後に須賀さんが一人で書いた原稿を預けた時のことを、須賀さんは生き生きとした文章でこう書いています。

 

ボナチーナ君が最後に私の翻訳の面倒を見てくれたのは、川端康成の『山の音』だったから、68年か69年にかけてのことである。それは、翻訳の仕事をはじめたときから私の訳に一応目を通してくれていた夫が67年に死んで、すっかり自信をなくしているときだった。翻訳の依頼を受けたとき、私は作品の一部を訳して、ボナチーナ君に、このままでも読むに堪えるものかどうか判断してくれるように頼んだ。これが駄目なら、私のそれまでの仕事はすべて、夫あってのことだったのだと(そのことについては、今日も疑わないが)背水の陣のつもりで、そう頼んだのであった。数日後、ボナチーナ君から電話があって、例の羞じらったような、一語一語かみしめるような口調で、「だいじょうぶ、あれでいけます」という言葉を聞いたとき、自分にとってほんとうの意味でのキャリアがはじまった、と私は思った。

(『ミラノ 霧の風景』「セルジョ・モランドの友人たち」須賀敦子)

 

須賀敦子のような人にとってさえ、日本の文学を異国の言葉に訳すことが重圧であったことがよくわかります。そして惜しいことに、このボナチーナという若者は、ほどなく会社をやめてしまい、アカデミックな世界で生きているのかどうかさえ、わからなくなってしまいます。パオロとモランドの二人の人物も、やがてボンピアーニ社をやめてしまいます。他の会社で外国文学の編集を続けたようですが、須賀さんとは疎遠になってしまいます。先ほど、イタリアの文化的な状況がうらやましいと書きましたが、イタリアでも時間は刻々と流れていて、良いこともそうでないことも押し流してしまったのです。そのような状況について、須賀さんはこう書いています。

 

モランドがボンピアーニ社を去ったころから、イタリアの出版界は大きく変化していった。大資本だけがすべてを決定するようになり、辞書だとか週刊誌を持たない出版社は、つぎつぎと経営難に襲われた。編集者の性格もそれにつれて変わってしまった。翻訳を頼まれて、契約をかわしても、その後はナシのつぶてで、私はあのモランドの、無関心なような、少し眠たそうな、それでいて妙に人なつっこい声で電話をかけてきては仕事の進展ぶりをたずねてくれた「緊密な関係」がなつかしかった。週刊誌などで経営の安定しているいわゆる大手の出版社では、契約の期限に翻訳の原稿を持って行くと、すでに編集者が代わっていて、契約があるから翻訳料は支払うけれど、出版の責任は負えないなどと言われて、まるでもの乞いにでも行ったみたいに惨めな気持ちになったこともあった。

(『ミラノ 霧の風景』「セルジョ・モランドの友人たち」須賀敦子)

 

どこの国でも、文化的なよい時期というのは儚いもののようです。須賀さんの原稿が、出版されずにそのまま埋もれてしまうなんて、なんてもったいない!と思いますが、これも時代の流れなのでしょう。

パオロとモランドの二人は、須賀さんが日本に帰国する前に食事に招いてくれたそうです。別離のさみしさのせいでしょうか、二人ともどこか元気がなかったそうです。日本に帰ってしばらくしてから二人の消息を尋ねると、パオロは引退し、モランドはつまらない仕事を請け負ったすえに、失意のうちに亡くなったのだそうです。一方の須賀さんは、イタリアでの経験が彼女の中で熟成するを待っていたかのように、数年後に次々とエッセイを発表することになります。彼女と会ったことのある多くの方が、彼女の気丈さ、快活さについて語っています。彼女だけが、過酷な時代の流れを乗り越えたのかもしれません。

 

さて最後に、須賀さんのイタリア語の翻訳の水準について考えておきましょう。といっても、英語もままならない私にそんなことがわかるはずもありません。

しかし、例えばアメリカの小説を好んで翻訳している村上春樹さんでさえ、自分の小説の英訳を外国の方に任せていますから、日本人が外国語で日本文学を翻訳するということがいかに大変なことなのか、ということぐらいの予想はつきます。

そんな私の手がかりは、須賀さんの翻訳を評価した文章ですが、なにせイタリア語の話ですから、なかなか見つけることができません。ところがそのことについて書かれた文章が、『須賀敦子全集 第2巻』の解説という意外と身近なところにありました。矢島 翠(やじま みどり、1932 - 2011])さんという評論家、翻訳家が書いた文章です。この人は、加藤周一の奥様だった人で、ネットで調べると東大が女性に門戸を開いたときの初期の卒業生だそうです。イタリアの滞在も長くて、語学ばかりではなくて、たいへんに知的な方のようです。それでは、その解説を読んでみましょう。

 

須賀敦子の伊→日、日→伊の双方向の翻訳のしごとのうち、日本ではどうしてもイタリア語の作品を美しい日本語に訳した手腕だけに目が行きがちで、イタリア語への翻訳の評価がおろそかになっていると思う。谷崎、川端、庄野潤三など、彼女の日本現代文学のイタリア語訳は十冊刊行されていて、ギンズブルグやダブッキ等のイタリア現代文学の日本語訳に、数の上でも匹敵するというのに。そしてその訳文のよさについて、私はある証言を知っている。

故人となったローマの作家、ゴッフレド・パリーゼが1980年秋に来日したとき、会いたい作家としてまず石川淳の名をあげて、日本側の関係者を驚かせた。海外の日本文学研究者たちが夷斎先生における日本語のはたらきの滑脱さに注目するには、まだ早すぎた時期だった(あるいは、現在でもそうかもしれない)。日本文学の専門家ではないパリーゼが石川淳に興味を持ったのは、須賀訳の『紫苑物語』を読んだからだった。イタリア語の訳文そのものについてたずねると、彼は言下に、高く評価したのである。

日本語を母語とするひとが、日本の小説を外国語に翻訳して、その言語を使う作家のめがねにかなった例は、須賀敦子のほかにあるだろうか。稀有の素質と、稀有の努力。双方向の翻訳のしごとのなかで、ことばに対する感覚はますます研ぎすまされる。イタリア語の音の魅力に対して、漢字とかなのまじる日本語の表記の視覚的効果をいかす方法を、彼女はみにつけて行った。

(『須賀敦子全集 第2巻解説』「均質なパースペクティブ」矢島翠)

 

矢島さんはご自身もたくさんの翻訳をされているので、信頼のおける文章だと思います。やはり外国文学を日本語に訳すよりも、日本文学を外国語に訳すことのほうが、優秀な人たちにとっても並外れて大変なことのようですね、私には想像するしかありませんが・・・。

それに恥ずかしながら、ここで話題になっている石川 淳(1899 - 1987)ですけど、私は名前を聞くばかりで読んだことがありません。エッセイでは夷斎と号していたそうです。加えて、ゴッフレード・パリーゼ(Goffredo Parise, 1929 - 1986)の著作も読んだことがありません。やれやれ、これだけ知らないことだらけだと、話になりませんね。

それにしても、須賀さんのイタリア語の文章の美しさはどのようなものだったのでしょうか。ここで須賀さんの文章を読んでいない方のために、彼女のデビュー作『ミラノ 霧の風景』の最初の章「遠い霧の匂い」の1ページめに書かれた文章を書き写しておきます。ミラノは霧の日が多い、というそれだけのことを書いた文章です。彼女の活躍したエッセイという分野は、詩や小説に比べると文章の表現力がそれほど必要ないかのように思われるかもしれませんが、それは誤解です。この美しい日本語を書く人が、どのようなイタリア語を駆使したのか、読みながら想像してみましょう。

 

もう二十年もまえのことになるが、私がミラノに住んでいたころの霧は、ロンドンの霧など、ミラノのにくらべたら影がうすくなる、とミラノ人も自負し、ロンドンに詳しいイタリアの友人たちも認めていた。年にもよるが、大体は十一月にもなると、あの灰色に濡れた、重たい、なつかしい霧がやってきた。朝、目がさめて、戸外の車の音がなんとなく、くぐもって聞こえると、あ、霧かな、と思う。それは雪の日の静かさとも違った。霧に濡れた煤煙が、朝になると自動車の車体にベットリとついていて、それがほとんど毎日だから、冬のあいだは車を洗っても無駄である。ミラノの車は汚いから、どこに行ってもすぐにわかる、とミラノ人はそんなことにまで霧を自慢した。

夕方、窓から外を眺めていると、ふいに霧が立ちこめてくることがあった。あっという間に窓から五メートルと離れていないプラタナスの並木の、まず最初に梢が見えなくなり、ついには太い幹までが、濃い霧の中に消えてしまう。街灯の明かりの下を、霧が生き物のように走るのを見たこともあった。そんな日には、何度も窓のところに走って行って、霧の濃さを透かして見るのだった。

(『ミラノ 霧の風景』「遠い霧の匂い」須賀敦子)

 

じっくりと読むと、視覚、聴覚、触覚、それに体感温度まで、あらゆる感覚を駆使して書かれた文章だということがわかります。なつかしさの感情も押し付けがましくなく、街の煤煙の汚さまでちゃんと書いてあります。だから異国の霧深い土地が、どこか身近なことのように感じられるのでしょう。

この文章を読みながら考えてみると、イタリアでの夫との死別や、翻訳を取り上げてもらえないもどかしさなど、当時の須賀さんにとっては不幸な出来事が重なって、それで彼女は帰国を決意したのだと思います。ということは、そういう不幸な出来事がなければ、私たちは彼女のこの美しい日本語のエッセイを味わうことができなかったのかもしれません。前回の話になりますが、「時代は変わる」と歌ったボブ・ディランは、時の流れの過酷さを表現しました。その残酷さがめぐりめぐって、このような美しい文章に結実するというのも、また現実なのです。

 

話は最初に戻ります。このようにして須賀さんの書いたイタリア語の日本文学が、その後、イタリアに留学した日本人のヤマザキマリさんのもとに届けられるなんて、だれが想像できたでしょうか?そして若かったヤマザキさんが、その後漫画家として大成して、日本の教養番組で安部公房を論じるなかで須賀さんのことを話すことになるなんて、時間というものはどこまでも奔放に流れていくものです。その奔放さを一緒に味わっていただこうと思って駄文を連ねましたが、いかがだったでしょうか。

 

そして最後に見えてくるのは、そんな時代の奔放さに負けない須賀敦子さんと、ヤマザキマリさんという二人の女性の背筋の伸びた姿でした。私は、とても彼女たちのようには生きていけそうもありませんが、すでに丸くなってしまった背中を少しでも伸ばしながら生きていかなくてはならないなあと、あらためて思う次第でした。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事