平らな深み、緩やかな時間

224.倉重光則展、北川聡展、千葉雅也から現代美術を考える ③

最初に展覧会の紹介です。

5月23日まで、藤沢の「obi gallery」で倉重光則さんの展覧会が開催されています。

https://www.obi-kikaku.com/exhibitions/

閑静な住宅地の中にできたギャラリーで、今回が記念すべき第一回展だそうです。

ホームページで見ることができるのは、ギャラリー・スペースとして新設した三角形の部屋の先端部分です。倉重さんは、そこに赤い金属のバーとネオン管を設置しました。角度の狭い先端部分が、倉重さんの作品によってますます尖って見えるような気がします。写真だけを見て、え、これがギャラリー?と思わないようにしましょう。入り口部分はちゃんとギャラリーらしい引きのあるスペースがあります。今回は、そこに段ボール箱の等身大の作品が置かれています。さすがにスペースを無駄なく使っていますね。

その倉重さんの真骨頂が表れているのが、実は写真に載っていない別室の展示です。ギャラリーにお伺いすると、三角形のギャラリーの手前の母屋?の和室にも、倉重さんの作品が展示してあります。手前のお茶の間のような部屋には倉重さんの過去の資料や平面作品が置かれていて、ちゃぶ台の前に座りながら、パンフレットをめくったり、作品を眺めたりすることができます。

それも楽しいのですが、何といっても奥の十畳の床の間が面白いです。正面には掛軸の代わりに?倉重さんの黒い大きな平面作品が掛かっています。おそらくDMの写真に使われているものです。そして畳の上には大きな鉄の棒の上に設置されたネオン管が、部屋を斜めに横切るように置かれています。手前の先端が少しこちらの部屋にはみ出しているのも意図したことでしょう。そして、部屋の右側の障子から外光が薄く入ってくるのですが、その奥の方の障子の桟にもネオン管が置かれています。

ウロウロと部屋の中を歩いていて気が付いたのですが、これは十畳の部屋全体が倉重さんの「不確定性正方形」と名付けられた作品のようだな、ということです。障子からの光はいつものように正方形の一辺だけを光らせる効果と対応しています。さらにその辺の半分より少し短い長さのネオン管によって、一辺の一部分だけ光の度合いが強調されているのです。そしてこの正方形は、中央の長いネオン管によって隣の部屋とも繋がっています。そのことによって、この床の間は周囲の空間へと開かれ、「不確定」な「正方形」となるのです。

この倉重さんの作品は、通常の画廊のニュートラルな白い空間で作品を値踏みするように見ることに慣れてしまっていると、その面白さを十分に味わうことができません。思いがけない出会いを楽しむことが、実は美術にとってとても大切なんじゃないかな、と気付かされる展示です。

ところで、なぜ倉重さんは「確定性正方形」ではなく、「不確定性正方形」などという作品のシリーズを制作しているのでしょうか?「不確定」なものよりは「確定」しているものの方が、一般的に考えれば良いに決まっているではありませんか?それをなぜ、わざわざ正方形の一辺だけを光らせたり、正方形の枠を一部隠したり、崩したりして、「不確定」なものにしてしまうのでしょうか?

そのことについて、このあとの千葉雅也さんの本の考察を進めながら、いっしょにじっくりと考えてみましょう。

 

もう一つ、ご紹介する展覧会は自由が丘の「gallery21yo-j」で6月5日まで開催されている北川聡さんの展覧会です。

http://gallery21yo-j.com/

ホームページの画像だけを見ていると、写真のネガフィルムかと思われるかもしれませんが、実物は綿布の上に木炭で描かれた大きな絵画作品です。画面上の多層的な構造を支える微妙な木炭のトーンが、そんなシンプルな素材で描かれたものとは思えない効果を生んでいるのです。技術力のない作品が横行するこの時代ですから、まずは北川さんの作品のクオリティーに驚かれる方も多いのかもしれません。実際のところ、この画面の大きさに木炭だけで挑むということは大変なことです。しかし、そんなことに驚いて思考停止してしまっていては、作家の努力が報われません。もう少し深く分け入って作品を見ていくことにしましょう。

まずはその手がかりとして、画廊のホームページを見てみましょう。作家自身のコメントを読むことができます。そのはじめと終わりの部分を引用しておきます。

 

私の絵の動機のひとつとなっている場所は、自宅から数分の神社にある森である。

<中略>

(この森が、このような複雑な)極相に達するまでの遷移で、互いの領域を犯し合い、縺れ、寄生し、光を求めて生死を賭け、熾烈な戦いを行なった形跡が残る。陰樹によって覆われたこの暗い静かな森は、動的平衡状態にある。樹々は相互に浸透し、アウトラインで掴むことのできない不確かさと濃密な気配を伴う空間。この捉え難さが私を捉える。

(「gallery21yo-j」ホームページより)

 

ちなみに、北川さんは今回の作品群に対して、「phytocenosis」というタイトルを付けていますが、これは「一定範囲の場所に生成し互いに連関している植物の個体群全体」(Wikipediaより)のことだそうです。

このタイトルと、作家のコメントを手がかりに作品を見ていくと、これは植物群を写生した作品か、もしくはそれを撮影したネガフィルムを見て描いた作品なのではないか、と早合点してしまうかもしれません。しかし作品をちゃんと見れば、ほつれた糸のような任意の線や、具体的なイメージを伴わない棒状の形、あるいは斑点のような調子の変化が、そこここに見られます。ですから、ここで参照されている植物群というのは、具体的な風景ではなくて「アウトラインで掴むことのできない不確かさと濃密な気配を伴う空間」へと作家を誘う、言わばメタファーのようなものだと思ったほうが良いでしょう。

さまざまな要素の形や調子の変化が画面上でせめぎ合いますが、それらがどう結着するのか、それは作家自身にも不確かなことのようです。「この捉え難さが私を捉える」と作家が書いているのは、そういうことなのです。

しかしこの作品への態度は、よく考えるとちょっと奇妙なものです。というのは、前回、前々回と取り上げてきた千葉雅也さんの本に書いてあったように、近代までの思想というのは、物事を単純化し、確実に再現できるようにする方向で発展してきたからです。「単純化」と「確実性」が、とくに科学技術における近代化を支えてきたのだと言って差し支えないでしょう。芸術の分野においても、何か新しい描き方を提起する画家がいれば、それを美術史上で「〇〇主義」として一括りにすることで、わかりやすく整理してきたのです。それなのに、北川さんのように「捉え難さ」に魅入られてしまったのでは、その表現を分かりやすく解釈することもできなくなってしまい、たいへん困ったことになってしまいます。

しかし私は、この「捉え難さ」に魅入られる感性こそ、いま重要なのだと考えます。そしてこのような作家こそ、注目するべきなのだと思うのです。

それは、なぜなのでしょうか?

ちょうど今回、千葉雅也さんの著書の最重要部分に触れるのですが、それがこの北川聡という作家の方向性とリンクしているように、私には思えます。ということなので、千葉さんの著書について触れながら、具体的な事例として倉重さんや北川さんの作品に触れてみたいと思います。



今回は千葉雅也さんの『現代思想入門』から学ぶシリーズ(?)の3回目です。いよいよ千葉さんが『動きすぎてはいけない』という著書でもテーマとしたジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)について書かれた部分を取り上げます。

そのドゥルーズという人はどんな生涯をおくった人だったのでしょうか。千葉さんが『動きすぎてはいけない』の冒頭で、要領を得た説明をしているので、引用してみます。

 

彼は、二つの主著『差異と反復』と『意味の論理学』を完成させた六八、六九年には、抗生物質耐性の結核のために片肺を切除する手術を受け、しばらくの療養を強いられていた。その後、パリ第八大学(ヴァンセンヌ大学)の哲学教授として定年までを全うするが、晩年に窒息の発作が悪化し、人工呼吸器を付け、外出も研究もできなくなった。ドゥルーズは、生きることを、単純に生きることを楽しめ、「肯定 affirmer」せよというメッセージを発し続けた人である。その彼が、九五年一一月四日、自宅のアパルトマンで、単純に死ぬこともまた等しく肯定するかのように、酸素マスクを自ら外し、傍らの窓から飛び降りたのだった。

(『動きすぎてはいけない』「序ー切断論」千葉雅也)

 

私はドゥルーズの本をちゃんと読んだわけではありませんが、学生時代に浅田彰さんの『構造と力』が爆発的に売れたときに、そこで紹介されていたドゥルーズの思想が気になって、何冊か彼の本を読みかじりました。ドゥルーズが提起する概念は、素人目に見ても斬新だと思いましたが、あまりに斬新すぎて実はよく解りませんでした。しかし、何か生きることを肯定しているなあ、ということだけは感じたのでした。そのドゥルーズが飛び降り自殺をしたというニュースを聞いたときには、ちょっとしたショックを受けました。その頃にたまたま画廊でお会いした年長の作家にそう話すと、「人工呼吸機をつけてたくらいだから、よほど辛かったんじゃないかな」と言われ、自分が何だか青臭い人間のような気がして恥ずかしかったのを覚えています。

今回は、そんなドゥルーズの仕事の中のほんの一部、ほんの一言に触れるだけですが、それでも十分に興味深いメッセージを受け取ることができます。とりあえず進めていきましょう。

 

まずは、前回までの復習です。千葉雅也さんは「はじめに」のところでこんなことを書いていました。

 

現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。

(『現代思想入門』「はじめに 今なぜ現代思想か」千葉雅也)

 

これは前々回も引用した部分で、その復習になりますが、「複雑なことを単純化しないで考える」というところが重要です。これは美術評論の世界のことで言えば、巨匠のクレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)のフォーマリズム理論の再検討をうながすことにもなるからです。この点については、いろいろと異論もあるでしょうが、くわしくは前々回のblogをお読みください。千葉さんは「現代思想を学ぶこと」は「複雑なこと」をそのまま受け入れることであり、それは物事を見ることの「解像度」を高めることでもあると書いています。このあたりですでに、北川さんの作品の方向性と話が噛み合ってきた感触があると思います。

そして前回の復習になりますが、この「複雑なことを単純化しないで考える」ということは、ものごとの「同一性」よりも「差異」を見るということにもなります。これも前回のblogで引用した部分になりますが、再度引用しておきましょう。

 

「差異」は、「同一性」すなわち「アイデンティティ」と対立しています。同一性とは、物事を「これはこういうものである」とする固定的な定義です。逆に、差異の哲学とは、必ずしも定義に当てはまらないようなズレや変化を重視する思考です。とくにこれを強く打ち出したのは、次章で扱うドゥルーズです。ドゥルーズの主著は『差異と反復』(1968)というタイトルで、それはまさに差異の哲学の代表作と言えるものですが、一方でデリダもまた差異の哲学のもう一人の巨人です。

今、同一性と差異が二項対立をなすと言いましたが、その二項対立において差異の方を強調し、ひとつの定まった状態ではなく、ズレや変化が大事だと考えるのが現代思想の大方針なのです。

(『現代思想入門』「第一章 デリダー概念の脱構築」千葉雅也)

 

「アイデンティティ」すなわち「自己同一性」は、デカルトを祖とする西欧哲学の根幹をなすものだ、ということを前回、考察しました。それを相対化してしまって「差異」に注目するというのは、私たちが考える以上に大胆な転換なのだと思うのですが、フランスの現代思想においては50年ほど前にそれらの提言がなされていたのです。

そしてこの「差異」という概念に注目したジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930 - 2004)は、そこにパロール(話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)という言語学上の概念を持ち込み、一般的にはパロールの背後に置かれていたエクリチュールを肯定的に扱ったのです。エクリチュールによる思想の伝達は、ときに「誤配」を生むのですが、それも現実として受け入れることをデリダは実践したようです。そのことによって、硬直しかけていた現代思想に新たな息吹を吹き込んだのだと思います。

そして私は、そのような視点から現代美術史を再検討し、これまでの定説を相対化できないだろうか、ということを問いかけたつもりでした。これはそれまでの現代美術史を否定するということではなく、それが唯一の考え方ではない、ということを再認識するということなのです。

 

さて、このような流れを確認した上で、今回は千葉雅也さんによるドゥルーズの解読を追いかけてみます。ドゥルーズがデリダと同様に「差異」に注目したことは、先に見た通りです。それでは、ドゥルーズのいうところの「差異」というのは、どういうイメージなのでしょうか。

千葉雅也さんはそれをこう書いています。

 

一般的に差異というと、Aというひとつの同一性が固まったものと、Bというまた別の同一性が固まったもののあいだの差異、つまり「二つの同一性のあいだの差異」を意味することが多いと思いますが、ドゥルーズはそうではなく、そもそもA、Bという同一性よりも手前に置いてさまざまな方向に多種多様なシーソーが揺れ動いている、とでも言うか、いたるところにバランスの変動がある、という微細で多様なダイナミズムのことを差異と呼んでいるのです。世界は、無数の多種多様なシーソーである。

(『現代思想入門』「第ニ章 ドゥルーズー存在の脱構築」千葉雅也)

 

このように、ドゥルーズの「差異」の概念には、「揺れ動いている」というイメージがあるようです。ちなみにドゥルーズにおいては、「同一性」という概念も永遠に固まったものではなくて、千葉さんの解釈で言えば「仮固定」とでもいうべき一時的に固定したものとして捉えられます。ドゥルーズ自身はそれを「準安定状態」と呼んでいたのだそうです。

しかしこう言われると、デリダの「差異」の概念を考えたときと同様に、例えば近代哲学が基準とした「我思う、ゆえに我あり」という自己同一性をどう考えたら良いのか、という疑問が湧いてきます。

この疑問に対して、千葉さんは生物の状態を例にあげて答えています。例えば私という人間は今日も明日も同じ人間ですが、細かく見れば体内で新陳代謝を繰り返し、絶えず体の状態を変化させています。変化を続けなければ、生命体としての私は死んでしまうからです。しかしその一方で、変化を続けることには健康な体を損なうリスクもつきまといます。そんなふうに、私たちは自己のアイデンティティを保ちながらも常に変化を続け、生と死の入り混じった「仮固定」の状態の中で生きているのです。

このようにドゥルーズは「同一性」を仮固定されたもの、さらに「差異」はその仮固定された「同一性」の間でシーソーのように揺れ動くものだと考えました。そこから導かれる世界観は、すべてが時間の経過にともないダイナミックに動いているイメージになります。このことについて千葉さんが書いている部分があるのですが、私にとってその部分が最も興味深いところです。

 

 重要な前提は、世界は時間的であって、すべては運動のただなかにあるということです。ものを概念的に、抽象的に、まるで永遠に存在するかのように取り扱うことはおかしいというか、リアルではありません。リアルにものを考えるというのは、すべては運動のなかに、そして変化のなかにあると考えることです。  

こうしてまたキーワードが出てきます。「生成変化」と「出来事」です。  

生成変化は、英語ではビカミング(becoming)、フランス語ではドゥヴニール(devenir)です。この動詞は、何かに「なる」という意味です。ドゥルーズによれば、あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。事物は、多方向の差異「化」のプロセスそのものとして存在しているのです。事物は時間的であり、だから変化していくのであり、その意味で一人の人間もエジプトのピラミッドも「出来事」なのです。プロセスはつねに途中であって、決定的な始まりも終わりもありません。

世界をこのように捉えるとどうなるか。たとえば、我々は仕事を始めるのがダルいなあとか、仕事を終わらせるのが大変だというようなことを日々思うわけですが、すべては途中だし、本当の始まりや本当の終わりはないのだと考えることができます。

(『現代思想入門』「第ニ章 ドゥルーズー存在の脱構築」千葉雅也)

 

いかがでしょうか?この千葉さんの本の素晴らしいところは、例えば「ものを概念的に、抽象的に、まるで永遠に存在するかのように取り扱うことはおかしいというか、リアルではありません」という一節です。この「リアルではありません」という言葉に、私たちが生活していく上での実感のようなものがにじみでています。

私たちは日々の生活の中で、安定を求めるあまり、変化を嫌う傾向があります。しかしそのことが、私たちの暮らしを硬直的なものにしてしまう危険性があるのです。そのことを実感しながらも、うまく折り合いをつけられずに悶々としてしまうのが、私たちが一般的に生活の中で抱く心情なのではないでしょうか。

そしてその悶々とした状態を克服するためには、「安定」=「同一性」=「変化がない状態」、という既成概念を切り崩さなければなりません。「同一性」のなかにも、微細に見れば「動き」や「変化」がある、ということを認識しなければならないのです。「永遠に変化しない安定した生活」というものこそが、幻想でしかないのです。

 

さて、このように生きていく上での「リアル」さを実感するということ、「リアル」さを意識しながら生活していくこと、これは私たちにとって身近なことでありながら、時にとても困難なことでもあります。なぜなら、私たちは知らず知らずのうちに既成概念にとらわれて生きているからです。自分の身近で起こっていることなのに、まるでガラス窓の外の風景のように見てしまう、ということはよくあることです。そして先ほどから書いているように、生活に「安定」性を求めるあまり、その「安定」をおびやかすような「変化」に対しては、目を背けたくなるのです。

そういう囚われたものの見方から解放されて、自由にものごとを見ることを率先して行うのが、芸術家の本来の役割であるはずです。しかしその芸術家も、しばしば一般的な生活者以上に既成概念にとらわれ、あるいは不完全な芸術理論に縛られ、そして人によっては世俗的な名声や成功に目がくらんで、意識することなく硬直した作品を作ってしまうのです。

そういうことに敏感な感性をもった作家は、「確定性」よりも「不確定性」を求め、あるいはものごとの「捉え難さ」に魅入られてしまうのです。私は有名、無名を問わず、そういう「揺れ動き」を表現している作家が大好きです。

ここまで読んでいただくと、倉重さんの作品がなぜ「確定性正方形」ではなくて、「不確定性正方形」とならなければならないのか、お分かりいただけたことと思います。倉重さんの作品の興味深いところは、「正方形」を参照した上で、それを「不確定性」へと変貌させているところです。そこには視覚的な仕掛けがあるのですが、私たちは眼の動きだけではなく、倉重さんの思考の動きをも同時に感受することになるのです。

千葉さんがしばしば書いているように、デリダにしても、ドゥルーズにしても、「同一性」によって成立してきたこれまでの世界観を全否定しているわけではありません。構築された世界観を認識しつつも、それを脱構築すること、それがデリダのテーマであり、ドゥルーズの方法論でもあったのですが、倉重さんの作品も同じだと思います。「不確定性正方形」とは、脱構築された「正方形」であり、倉重さんの作品に登場するネオン管の光は、その脱構築への「動き」を誘う光なのです。発光する物質というのは、常に内部で何かが動き、衝突しているわけですから、発光現象が倉重さんの作品の表現素材として欠かせないものとなっている理由もわかる気がします。「光」は「動き」を誘発するものだから、なのです。

 

一方の北川さんの作品とドゥルーズの思想とを並べて考えるときに、さらに興味深い関連性があることに気が付きます。

ドゥルーズの思想が提示する重要な概念として、「リゾーム」という言葉があるのですが、北川さんの作品はその「リゾーム」を体現したものだと見ることもできます。

順序立てて説明しましょう。

ドゥルーズは、近代までの思想家が人間社会を植物の「ツリー(樹枝)」のような構造をしていると考えたのに対し、彼はそれを「リゾーム(根茎)」のような構造をしていると考えました。中心となる幹があり、そこから枝葉が秩序を持って分かれていて、それらが光の射す方向へと伸びていくのが「ツリー」状の社会モデルだとすれば、ドゥルーズの考えるリゾーム(根茎)状のモデルは、多方向に人やものごとの関係性が広がっていく、つまり中心のない構造をしているのです。「リゾーム」型のモデルは、あちこちへと広がっていくと同時に、突然に途切れることがあります。これを「非意味的切断」というのだそうです。つまり、すべてのものがつながり合っていると同時に、突然の断絶によって無関係にもなりうる、というのです。

北川さんの作品は、まさにこの「リゾーム」状の世界を表現していないでしょうか?

木の枝のような形がネガのように表現されていると同時に、根のような紐状の形が自由に動き回り、それらが画面上の手前にきたり、奥に隠れたりしているのです。北川さんは、それらが最も生き生きと動きまわっている様子をなんとか捉えようとしていています。

この取り留めのない制作方法を思うと、「本当の始まりや本当の終わりはないのだ」という千葉さんの書いた言葉がそのまま北川さんの作品にあてはまると思うのですが、いかがでしょうか?北川さんにとっての表現上の課題は、彼が感受している「捉え難い」世界をどのように生き生きと画面上に表現するのか、ということであり、そこには一般的な意味での「完成」=「終わり」はないのです。

こんなふうに、絵画表現になぞらえてこの『現代思想入門』を読んでいくと、これは絵を描く上での極意を語ったものではないか、と思える部分があります。例えば次のところはどうでしょうか?

 

ドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリでは、ひとつの求心的な全体性から逃れる自由な関係を言う場面がいろいろあって、自由な関係が増殖するのがクリエイティブであると言うのと同時に、その関係は自由であるからこそ全体化されず、つねに断片的でつくり替え可能であるということが強調されます。もしそれが全体化されてしまうと、新たな「内」をつくり出すことになってしまうからです。

(『現代思想入門』「第ニ章 ドゥルーズー存在の脱構築」千葉雅也)

 

ちなみに「ドゥルーズ+ガタリ」というのは、ドゥルーズが精神科医のフェリックス・ガタリ(Pierre-Félix Guattari、1930 - 1992)と数冊の重要な共著を書いたので、その著者チーム?を「ドゥルーズ+ガタリ」と言うのです。

それはともかく、この部分だけを読むと、いかに硬直せずに自由に絵を描くのか、ということの極意を語っているような気がしてきます。ここで語られている「求心的な全体性」は、絵にまとまりを与える画面構成のようなものだと思ってください。そのような構成は、作品をまとめるのに一役買ってくれますが、それと同時に作品全体を硬直化させる要因にもなってしまいます。そこから逃れるには、いかに自由な断片を画面上に増殖させ続けられるのか、ということになります。油断していると、その断片が全体へと吸収されてしまい、硬直した内部と外部を画面上に形成してしまうことになるからです。

こういうことは、絵を真剣に描いている人なら、実は日常的に感じていることです。残念ながら、絵を硬直化させないような便利な方法論はありません。それぞれの作家が、それぞれの方法で自由な表現を模索するしかないのです。著名な画家であっても、自分のスタイルや様式を誇示することに躍起になって仕舞えば、その作品はあっという間に硬直してしまいます。評論家はなかなかそういうことを指摘しませんが、そういう作家の作品は退屈であるだけでなく、息苦しくて見るに耐えないものです。

そんな中で北川さんの作品について言えることは、北川さんの作品の方法論が、ここで千葉さんが、あるいはドゥルーズが課題として提起していることと、正面から向き合うようなものだということです。北川さんの作品は、画面上の各部分がつながり合って全体像を形成するように描き進められているのですが、その各部分の関係性が弛緩してしまえば硬直した、緊張感のない作品になってしまいます。増殖していく各部分がつながり合うのか、それとも断絶したままの方が良いのか、木炭という失敗の許されない素材を使って、緊張感のある中で制作されたことが画面から伝わってきます。

私は入り口から見て、正面の作品が白と黒のコントラストという点でもっとも見栄えの良い作品だと思いましたが、やはり見応えがあるのはその右側の、ホームページに掲載されている作品(私の記憶に間違いがなければ・・・)です。画面の層の重なりが複雑で、「全体性」よりも各部分の「クリエイティブ」な自由さが優先されているように見えるのです。

でも、これは私の個人的な感想であり、ただの好みの問題なのかもしれません。ですから、この作品の実物を見て、皆さんがどう感じたのか、ぜひ作家と直に語り合っていただきたいと思います。

 

さて、3回にわたって『現代思想入門』を取り上げてみました。具体的な言葉の数々が、芸術表現との関わりを感じさせて、とても面白く読めました。こういう、自分の実感に基づいた美術評論がどれくらいあるのだろうか、と考えるとちょっと複雑な気分になりますが、私が見逃しているだけで、多分たくさんあるのでしょう。もっと知見を広げて、皆さんにご紹介できれば、と考えています。

 

そして繰り返しになりますが、皆さんもぜひ、倉重光則展、北川聡展に足を運んでください。足で稼いだものは、必ず後で豊かな実りをもたらします。千葉さんが、そしてドゥルーズが言うように、物事は絶えず動いていますから、彼らの作品をこの状態で見ることができるのは今しかないのです。仮に後で同じ作品を見たとしても、それは決して同じではありません。芸術作品を見ることは、今を生きることと同じことなのです。

そのリアルな体験の素晴らしさを、多くの方と分かち合いたくて、このblogを書き綴っています。その気持ちをお伝えできれば、こんなにうれしいことはありません!

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