平らな深み、緩やかな時間

397.『グランパの戦争』、世界哲学の視点で『荘子』を考える

台風、地震、猛暑と大変な夏休みとなりました。
防災関係の情報から目が離せない日が続きますが、くれぐれも確かな情報に接するように注意していきましょう。私もおっちょこちょいなので、慎重に行動するようにしています。
このblogでも、何かお気づきの点がありましたら、ご指摘ください。できるだけ確度の高い情報を選んでリンク等を貼るようにしていますが、何分にも一人でやっていることです。何か間違いがあったら、すぐに訂正しますのでご連絡ください。

そんな災害情報が飛び交う中ですが、8月16日の夜にNHKが『グランパの戦争〜従軍写真家が遺した1千枚〜』というドキュメンタリー番組を放送しました。
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/N3N2Z4X618/

放送後、1週間は番組を見られるようです。そして、番組の概要は上記のサイトに書いてある通りです。一応、以下に書き写しておきます。

オランダに暮らす写真家のマリアンは、家族の“忌まわしい”過去を発見した。マリアンの祖父、ブルース・エルカスが撮影した太平洋戦争の写真だ。激戦地・硫黄島に並べられたアメリカ兵の遺体や頭髪が残ったままさらされた日本兵の頭蓋骨。さらに、占領下にあった進駐兵向け「慰安施設」の内部とみられる、極めて珍しい写真も含まれていた。残された1000枚の写真は、79年の時を超え、私たちに何を問いかけているのか辿る。
(NHK番組サイトより)

番組は、マリアンさんが祖父であるブルースさんの足取りをたどり、日本国内を調査する様子を映していきます。当時のアメリカで報道された華々しい勝利の写真の裏で、アメリカにおいても多くの若者が理不尽な指示によって命を落としていったことが、ブルースさんの写真と生き残りのアメリカ兵の証言からわかってきます。
それだけでも貴重な記録写真ですが、ブルースさんが進駐兵向けの「慰安施設」で撮影したと思われる写真が番組後半の核となり、これが「家族の“忌まわしい“過去」を暴き出すことになります。
その写真には、上半身裸の日本の女性二人と着衣のアメリカ兵二人がカメラの方を向いて写っているのです。マリアンさんが、さまざまな分野の専門家に集まってもらってその写真を見せたところ、どうやら照明器具も使っているらしく、その写真はたまたま撮影されたものではなく、周到に準備して撮られたものだとわかるのです。女性のみを裸にした、明らかに女性を蔑む視点を持って撮られた写真に、不快感を表す専門家もいました。
番組の前半では、記録係の一兵卒として戦争の真実を残そうとしたブルースさんの姿勢に共感が持てるのですが、後半ではどのような意図を持ってブルースさんが慰安施設を撮ったのか、どうして多くの写真とともにその写真を孫のマリアンさんに託したのか、大きな謎となって残りました。マリアンさんにとって、ブルースさんは優しい祖父でしたが、心に何か空洞のようなものを抱えていたことも感じ取っていたようです。
戦争の悲惨さとともに、戦後も続く女性差別、あるいは日本やアジアの人たちへの差別意識も混ざっていたのかもしれない、と考えると一層重たい気持ちになりました。
ちなみにその「慰安施設」は日本政府が設置したもので、日本がアジアの国々でやってきたことをかえりみて、アメリカにそうさせないようにと必死で作ったものだということが、番組内で語られていました。
戦争というものは、どこから切り取ってみても忌まわしいものです。しかし、目を背けるわけにはいきません。たった一本のドキュメンタリー番組を見て、それでどうなるものでもありませんが、とりあえずご紹介させていただきます。


さて、今回は少し前に読んだ『全体主義の克服』(マルクス・ガブリエル、中島隆博)が指摘していた、西欧以外の哲学の重要性について考えてみたいと思います。以前の私のblogを読んでいただける方は、次を参照してください。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/a1776d529fffa93a1d6b19c5954c7eca

上のblogを書いている時から、気になっていた問題です。
哲学といえばギリシャが発生の地で、そこからすべてが始まる、という認識で私たちは物事を考えてきました。現在のモダニズム芸術の行き詰まりも、もとを正せばそこから、ということになります。
しかし、もしもそれがただの思い込みだとしたらどうでしょうか?
そうすると、私たちの考え方の前提がガラッと変わってしまいます。私が今、悩んでいることも、そもそもの認識が違っている、ということになります。そうだとしたら、とても面白いことになりそうですし、そんな新しい世界を見てみたい気がします。
その一方で、これはとても大変なことです。どこから勉強を始めて良いのかも分かりません。そう言えば、ちくま新書から『世界哲学史』という八冊に及ぶ全集が出ているようですが、おそらく西欧哲学以外にも目配せをして、すべての思想を探究する、ということは、そういう大掛かりなことなのでしょう。
そういう勉強もおいおい始めるとして、とりあえず出来ることから始めましょう。

まずは、とっかかりとなった『全体主義の克服』です。
それではガブリエルさんと中島さんの二人の対談の中から、「第五章 東アジア哲学に秘められたヒント」という、主に中国の哲学について語っているところをピックアップしてみましたので、読んでみてください。会話なので、本当はもっと長いのですが、ところどころ大胆にカットしています。ご了承ください。

中島
ガブリエルさんとお会いするのは二回目で、最初に東京でお目にかかったのは2018年6月の東京でしたよね。そのときお話ししたことを覚えていますか。学生時代に何を研究しようとしていたのかという話になり、若き日のガブリエルさんが中国哲学の研究もしていたと聞いて、私はとても嬉しく思いました。とくにガブリエルさんが関心を持っていたのは、王弼(おうひつ)の『老子道徳経注』でした。
王弼は3世紀の魏(ぎ)の学者で、「玄学」と呼ばれる新しい学問を作り上げた人です。「玄学」は主に『老子』『荘子』『易』の三つの経典を解釈して、「玄」という神秘的な根元を探究するものです。王弼はそこで「無」を概念化して、いわば無の形而上学を作り上げようとしました。
<中略>
MG
わたしは王弼というレンズを通じて、『老子』は別の読み方ができることに気づきました。ヴァーグナーは老子を言語哲学者として読んでいましたが、それと同時に『老子』から存在論を引き出せるのではないかと思ったのです。
<中略>
具体的に言えば、わたしが哲学史上、最も気に入っているシェリングの「無底(Ungrund)」という概念に近いものが、王弼の解釈にも、そしておそらく原典の『老子』にも見出すことができるのです。
ある意味で、わたしが哲学者となったのは、無底という概念を知ったときでした。実際、わたしは多くの論文で無底の概念を取り上げています。
では無底とは何か。それは「現実=実在は、統一的な法則に支配された存在者(物)の体系ではない」ということです。
<中略 だいぶとばします>
中島
中国の哲学の歴史を見ると、人と天との連続性を考えた哲学者と、この連続性を否定した哲学者との間に、大きな対立があります。
王弼は『荘子』についても論じていますが、『荘子』はとても複雑なテキストです。それは主に、人に対する天の優位を説いています。しかし、最終的には、『荘子』は人の天からの解放を考えています。それは人間の自由に関わるからです。どうすれば天とのつながりを解くことができるか。これが『荘子』の最終的な問題です。王弼もこの問題を非常に強く意識しています。超越としての天に訴えればすむというわけではないのです。
王弼と否定神学との間にはある程度の類似性があるのは確かです。しかしその一方で、王弼は世界をヒエラルキー的に見る見方を乗り越えようとして、「無底」という問題に入っていったのです。正確に言えば、彼はこの無底の意味を洗練しようとする際、「-ing」を強調したのです。それは「無底化」というプロセスなのです。
MG
そう、まさに無底は動態的なプロセスです。無底は、それを理論化するなかで反復されていくプロセスなのです。このプロセスは二元論とは別のものです。プロセスは思考の対象ではなく、思考そのものです。無底は物と結びつけるプロセスなのです。いわばそれは何かが生じていることで、それについて理論化しているわけではありません。
中島
王弼のすぐ後に郭象(かくしょう)という哲学者が現れました。彼は非常にラディカルな思想家でした。彼は、王弼の言うような無の概念はないと主張したんです。無はない。これは本当に素晴らしい考えです。
MG
もちろんそのとおりです!それが次のステップになります。わたしは論理学者グレアム・プリーストと共著でEverything and Nothingという本を今書いています。そのなかでわたしは、すべてが存在するわけでも、無が存在するわけでもないと論じました。これが「世界は存在しない」ということですね。同時に、無というものも存在しないのです。
中島
だから、「ing」という動態的なプロセスに注意を向けなくてはいけないわけです。そうしないと、無底のような理論は容易に二元論に結晶化してしまいます。つまり、一方に無があり、他方に無がないというものです。これではうまくいかないのです。
(『全体主義の克服』「第五章 東アジア哲学に秘められたヒント」)

さて、少しまとめてみましょう。まずは名前の出てくる3人の学者について、インターネットで調べてみました。

王 弼(おう ひつ、226 - 249)は、中国三国時代の魏の学者・政治家。

郭 象(かく しょう、252 - 312)は、西晋の思想家。『荘子』注釈者の筆頭。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling、1775 - 1854)は、ドイツの哲学者である。フィヒテ、ヘーゲルなどとともにドイツ観念論を代表する哲学者のひとり。

そして、二人の話の内容です。
その前半は、中国の思想に「存在」、「無」といった哲学の重要な概念を論じたものがあった、ということが語られています。そしてガブリエルさんがシェリングさんの思想に見出した「無底」という概念について、中国の学者、王弼さんの思想の中に、あるいはその原典である『老子』の中に見ることができる、と語られています。
後半は『荘子』について語られています。そして「無底」についても、さらに詳しく語られています。『荘子』の注釈者であった郭象という学者が、「無はない」ということまで語っていて、それはガブリエルさんの「世界は存在しない」という考え方につながるのだと語られています。ここまで読むと、「無」に関する議論が少しだけ腑に落ちた感じがします。

それでは『荘子』の話が出てきたところで、『荘子』について見ていきましょう。
恥ずかしながら、私は『荘子』を読んだことがありません。以前に『老子』に関する本を読みましたが、その時はガブリエルさんの言っているとおり、「老子を言語哲学者として」読んでいました。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/2c94aa03126254d7476f30ecdc73bd75

そして私には、「『老子』から存在論を引き出せる」というような深い読みはできませんでした。現象学に言及したところが、わずかにそれにあたるのでしょうか?いずれにしても、反省して、次の機会に読み直してみたいと思います。
ところで皆さんは、孔子、老子、荘子という人たちがどういう人なのか、把握していますか?そして、それぞれの教えが書かれた本は、どのように成立したのでしょうか?インターネットで調べて、予習しておきましょう。

孔子(こうし、紀元前552年または紀元前551 - 紀元前479)は、中国春秋時代の思想家、哲学者。儒家の始祖孔子の死後約400年かけて孔子の教えをまとめ、弟子達が編纂したのが『論語』である。

老子(ろうし、紀元前571 - 紀元前470)は、中国春秋時代の哲学者。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされる。

荘子(そうし、紀元前369頃 - 紀元前286頃)は、中国戦国時代の思想家で、『荘子』(そうじ)の著者とされ、また道教の始祖の一人とされる人物である。

こうして見ると、孔子さんと老子さんは時代が重なっていますが、荘子さんは200年ぐらい後の人です。生没年も曖昧だと思いますが、3人ともなかなかの長寿です。王弼さんが若くして亡くなったのとは対照的です。そして、この時代の流れから必然的に、荘子さんは孔子さんや老子さんについてしばしば言及し、彼らの思想の上に自分の思想を熟成させていった形になっています。

さて、『荘子』を読んでみる、と言っても、いきなり難しい本は読めませんから、ここは無理をしないで『100分de名著』に頼ってみましょう。講師は臨済宗妙心寺派福聚寺住職で、作家でもある玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)さんです。
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/43_soji/index.html

玄侑宗久さんは、この『荘子』という本の記述の仕方が、他の思想書に比べて独特であることについて説明しています。その部分をまず読んでみましょう。

『荘子』のテキストの特徴は、何と言っても小説的な創意に満ちた突飛な物語性にあります。『荘子』雑篇の寓言(ぐうげん)篇には、『荘子』に書かれていることのうち九割は寓言(ぐうげん;他事にことよせて書かれた物語)、七割は重言(じゅうげん;古人の言葉を借りて重みをつけた話)、残りはみな巵言(しげん;巵[底の丸い盃]が注がれた酒の量に従って自在に傾くように、相手の出方次第で臨機応変に対応していく言葉)だと書かれています。
九割と七割とその残り、これは単純に足せば十割を超えてしまいますから、「寓言であり重言でもある」というように重なっているものも多くあるということでしょう。しかし、そのような数字や分類よりも気になるのは、『荘子』はなぜこのような語りの方法論を採ったのかということです。寓言篇に書いてあるので読んでみましょう。
まず、寓言という間接的な表現方法を用いた理由についてです。「人間は誰でも、自分と同じ考えに対しては賛成して正しいと考えるが、自分と違った考えはすぐに間違いだと決めつけるものだから、そんな人間を相手にするには、直言という形をとらず、自分と関係寓話として聞かせた方が賢明だし、効果的だからだ」と述べています。
(『荘子 100分de名著』「第1章 人為は空しい」玄侑宗久)

この後で玄侑さんは、「重言」で語る理由について「尊敬できる古老の言葉」として語ることで「論争をやめさせるため」だと説明しています。次に「巵言」で語る理由について「自然なバランス感覚のなかで和を指向する直感的な言葉」で語ることで「天寿を全う」するためだ、というふうに説明しています。「天寿を全うする」というのは、当時の中国においては最高の賛辞だったそうです。医療技術が今とは異なる時代において、病気にかからずに寿命を全うすることは、それほど大変なことだったのでしょう。要するに、臨機応変な言葉で「和を志向する」、つまり丸く収めるためだ、ということでしょう。
この一連の説明から、玄侑さんは『荘子』の表現方法について、次のように分析しています。

こうして見てみると、荘子が論争など望んでいないということがわかります。重言の説明として「言を已(や)むる所以(ゆえん)なり」とあるように、言葉そのものが議論や論争の素ととらえられている。「言わざれば則(すなわ)ち斉(ひと)し」いのに、ひとたび「斉しい」と言葉で説明されると斉しくなくなってしまう。つまり、言葉そのものに斉しさを離れる性質があるのです。寓言や重言や巵言とは、言葉がもつそのような本質的欠陥を、なんとか最小限にするための方法論だと言えるでしょう。
(『荘子 100分de名著』「第1章 人為は空しい」玄侑宗久)

これを読むと、中国のこの時代の思想家が、言葉の危うさに気づいていたことがわかります。これは以前に『老子』を読んだ時にも、同じことを感じました。

一方、西欧の哲学のことを考えてみましょう。
古代ギリシャの哲学者、ソクラテス(Socrates、紀元前470頃 – 紀元前399)さんは、孔子さんや老子さんと荘子さんの間くらいの世代の人です。その時代のギリシャでは、ソフィスト(Sophist)と呼ばれた弁論家が大活躍していました。いかに言葉巧みに他を圧するのか、ということに当時の人たちは価値を見出していたのです。西欧哲学が言葉の危うい本質に気がつくには、近代言語学の祖、フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)さんの登場を待たなければなりませんでした。
ギリシャと中国と、当時の思想のどちらが優れていたのか、ということを軽々しく言うことはできませんが、このように思想を表現する方法の根本的なところで、両者は違っていたのです。

さて、玄侑さんの『荘子 100分de名著』は、『荘子』の思想を噛み砕いて語っていて、とてもわかりやすいのですが、それにしても、ここでその全容を考察するのは無理です。そこで、『全体主義の克服』のなかで中島さんが『荘子』について語っていた気になる部分をもう一度見ておきましょう。

王弼は『荘子』についても論じていますが、『荘子』はとても複雑なテキストです。それは主に、人に対する天の優位を説いています。しかし、最終的には、『荘子』は人の天からの解放を考えています。それは人間の自由に関わるからです。どうすれば天とのつながりを解くことができるか。これが『荘子』の最終的な問題です。
(『全体主義の克服』「第五章 東アジア哲学に秘められたヒント」)

うまくいくかどうかわかりませんが、この中島さんの問題提起に関わる部分を『荘子 100分de名著』から探して読んでみましょう。これ以外の、大きな問題である「無」に関する解釈は今後の課題としておきます。

それではまず、「人に対する天の優位」について考えてみましょう。
それについて玄侑さんは次のように説明しています。

(『荘子』の)則陽(そくよう)篇には、対立する者同士を宇宙的な視点から見ようとする「蝸牛角上(かぎゅうかくじょう=カタツムリのツノの上)の争い」の逸話があります。概略はこうです。

恵施(けいし)が魏の恵王(けいおう)に支えていた頃、恵王は盟約を結んでいた斉の威王に裏切られた。これに対し、家臣には討伐論を唱える者もいれば、和平論を唱える者もいて、恵王は混乱してしまった。そこで恵施は、賢者の誉れ高い戴晋人(たいしんじん)を呼び寄せた。戴晋人は恵王に言う。
「蝸牛(かたつむり)というのを、王さまはご存知ですか?」
「そりゃあ知っとるわい」と恵王。
「その蝸牛の左の角には触氏(しょくし)という者が国を構え、右の角には蛮氏(ばんし)が国を構えておるのですが、領土の争いになりまして死者数万、逃げる者は半月も追って戻ってくるような激しい戦いだったのですよ」
「おいおい、出鱈目(でたらめ)もいい加減にせい」
「それなら出鱈目でない話にしましょう。王さまは一体この宇宙の四方上下に際限があるとお思いですか」
「際限はなかろうなぁ」
「ならば心をその際限なき世界に遊ばせてから実際の地上の国々を見渡せば、いずれもあるかなきかわからぬほどではございませんか」
「まぁそうじゃな」
「その実際の国のなかに魏の国があり、都があり、都のなかに王さまがおいでです。王さまとあの蝸牛角上の蛮氏と何か違いはありますか」
「・・・うん、違わないなぁ」
そう呟いた王は、戴晋人の退出後なにかを失ったように悄気(しょげ)てしまったのである。

左の角の触氏と、右の角の蛮氏。宇宙的な視点から見れば、いかにちっぽけなことで争っているか。これはまさに、天鈞(てんきん;天から見れば全てのものはつりあっている)、天倪(てんげい;天の高さから眺めれば、区別や対立などというものはおよそちっぽけでつまらないものになる)という価値観を具体的に示しているエピソードです。
(『荘子 100分de名著』「第4章 万物はみなひとしい」玄侑宗久)

この賢者である戴晋人と魏の恵王とのやりとりを見聞きしたであろう恵施(けい し、紀元前370 - 紀元前310)さんという人は、政治家・思想家であり、魏の宰相でもあった人です。「荘周(荘子さんの名前)の友人」であったということですから、友人から聞いた話を荘子さんが教訓として書き留めた、というところでしょうか。
このように、「天」という高いところから見れば、全てのものは釣り合いが取れていて、区別や対立などはちっぽけなものだ、というのが『荘子』の考え方です。それを説明するのにカタツムリのツノの上に争う二人がいたとしたら・・・、というかなり突飛な話ですが、なかなか面白いです。
この話が、中島さんが提起した「人に対する天の優位」を表していると私は思います。「天」は神様ではないようですし、人を圧するような怖いものでもありません。しかし、何か広大な視野を持った存在があって、それは人間をちっぽけなものにしてしまうらしい、ということは理解できます。明らかに「人に対する」優位な存在なのです。

それでは、中島さんが語っていた「天からの解放」と「人間の自由に」について考察してみましょう。
先ほどの話の続きになりますが、「天」という高くて大きな存在から見れば、人間はちっぽけなものです。もしも「天」が決めた命運の通りに「人間」が動かなければならないとしたら、そこにはなんの「自由」も、そして人としての「主体性」もないことになります。
これは困りましたね。
どう考えても、私たちは「天」に対して優位に立つことはできません。『荘子』の考え方からすれば、私たちは「天から解放」されて、「自由」になることなどできそうもないのです。
しかしここで、「自由」と「主体性」という概念について考えてみましょう。
西欧の哲学の考え方で言えば、人間の「自由」と「主体性」は、切り離せないものです。人としての「主体性」がなければ、「自由」もないはずだからです。
しかし、このように考える時の、私たちの「主体性」とはなんでしょうか?
どんなことでも自分で判断し、自分で決めることができる状態をイメージして、私たちはそれを「主体性」と呼ぶのではないでしょうか。そして、その状況下でなんの障害もなく、自分で判断し、決断できると思った時に、私たちは自分を「自由」だと思うのではないでしょうか。
しかし、深く考えてみると、私たちは本当に物事を自分だけで考えて判断し、決めているのでしょうか?誰かに相談したり、あるいは相談しないまでも、何かを参照して物事を判断することの方が多いのではないでしょうか?あるいは、過去の事例に従って・・、ということもあるかもしれません。突き詰めて考えてみると、それでも私たちは「主体性」を持って「自由」に行動している、と言えるのでしょうか?

このことに関する『荘子』の中の答えは、私たちの常識を超えるものです。
玄侑さんは、このことを次のように説明しています。

天道(てんどう)篇に、「天道は運(めぐ)りて積む所なし、故に万物成る」という言葉があります。「運りて積む所なし」とはどういうことかと言うと、たとえば、コンピュータには膨大な量のデータを保管することができます。使えば使うほどデータがどんどん積もっていき、そのデータを分析やシミュレーションに使ったりするわけですが、そういうことを一切しないということです。「運りて」とは変化し続けるということですから、そこに物は積もりません。人間に置き換えて言えば、記憶しない、意志をもたないということでしょうか。自然が淀むことなく変化していく時に、完全に我を無くしてその変化に身を任せきる。仏教の言葉で言えば、世界は諸行無常に移り変わるから、こちらも無常になって変わっていく。荘子はそういう完全な受け身の生き方を推奨しているわけです。
<中略>
感じて而(しか)る後に応じ、迫られて而る後に動き、已(や)むを得ずして而る後に起(た)ち、知と故とを去りて、天の理に循(したが)う。

つまり、自らの意志で動いたり変化したりするのではなく、周りが変化したので私も変化した、というのがよいというのです。まさに受け身です。現代の日本語でも使われる「やむをえず」という言葉の出典はまさにここなのですが、今ではネガティブな意味で使われるこの言葉が、完全に肯定的な意味で使われています。とにかく他からのはたらきかけを受けて初めてそれに応じ、迫られて初めて動き、已むを得ない状況になって初めて起ち上がる。こざかしい知恵や意志(人為)を捨てて、ただ天道自然の理に従うべきだ、とー。
(『荘子 100分de名著』「第2章 受け身こそ最強の主体性」玄侑宗久)

これを読むと、人間の「主体性」に関する考え方が、私たちの常識、もしくは西欧の哲学とはまるで異なることがわかります。「天道自然の理」に従うことが究極の「主体性」だということです。
さらに「自由」という概念について、『荘子』の中では「遊」という言葉を使って、とてもユニークな考え方をします。
次の玄侑さんの説明を読んでみてください。

前章の結びで、「不測に立ちて無有(むう)に遊ぶ」という言葉を紹介しましたが、荘子の思想の面白さが最も鮮やかに表れるのが、ここに含まれる「遊」というコンセプトです。
外物(がいぶつ)篇に「至人(しじん)は乃(すなわ)ち能(よ)く世に遊びて僻(へき)せず、人に順(したが)いて己(おの)れを失わず」という言葉があります。「遊ぶ」はもともと「神」しか主語になれない動詞だったようですが、荘子は「人間だって遊ぼうよ、人間も遊に復帰しよう」と考えました。ちなみにこの「遊」という発想は、老子にはないものです。
「遊」とは端的に言うと、時間と空間に縛られない世界のことです。『荘子』では、たとえば、何物にもとらわれることのない無意識の境地であったり、役立たずだと思っていたものがじつは大きな価値を持っているという「無用の用」であったり、変えようのない互いの「もちまえ」を認めあうあり方であったりします。
(『荘子 100分de名著』「第3章 自在の境地『遊』」玄侑宗久)

この「無意識の境地」の例として、『荘子』では牛を料理する人の包丁さばきが挙げられています。料理人は、包丁さばきが上達するほど無意識に包丁を動かせるようになります。一頭一頭の牛の違いはあっても、牛の体の必然に従って作業ができるようになるのです。自然の摂理に従うことが料理人にとっての「主体性」であり、そこでは包丁を「遊ばせる」ことができるほどの大いなる「自由」を手にするのです。
ここまで読んでいただけると、もしもあなたが絵を描いたり、ものを作ったりしている人なら、ピンとくるものがあるのではないでしょうか?
絵を描いていて、最も「自由」だと感じる瞬間は、自分が自ら意識して筆を動かしている時ではなくて、無意識のうちに、何かの必然性に導かれて線を引いたり、色を置いたりしている時ではないでしょうか。『荘子』に書かれているような「時間と空間に縛られない」というほどの「自由」であるかどうかはわかりませんが、少なくともその境地に近づいている感じがします。
それに荘子さんの時代には、「遊ぶ」のは神様だけだった、というのも面白い話です。「人間だって遊ぼうよ、人間も遊に復帰しよう」というのは、最高の一節ですね。これはもう少し探究してみなくてはなりません。

『荘子 100分de名著』を読んでいると、このように納得できるところが度々出てきます。
たとえば西欧哲学的な「主体性」や「自由」を制作に求めようとすると、相当の苦しみや悩みが予想されて、ああ、芸術作品というのは苦しみの涯に生まれるものなのだなあ、というステレオタイプの感慨が訪れます。しかし『荘子』が示唆するものは、もっと日々の制作活動に寄り添ったものです。もちろん、ここで書かれているような「天道自然の理」に従うような境地に至るのは、大変なことだとは思います。でも、少なくとも孤独な中で「主体性」を発揮することを考えるよりは、何倍も健康的で気持ちよさそうです。

さて、今回は西欧哲学の外の世界に目を向けることで、現代芸術に対する考え方も広げてみよう、という試みの第一歩です。
ここから先に進むには、西欧哲学そのものについても理解を深めなければならないし、日本や東洋の哲学についても、その初歩から学ばなければなりません。最終的に、それが制作活動にどう結びついていくのか、ということは未知数ですが、今までとは違った窓が開かれたような、そんな予感はしています。
あらゆることに閉塞感の漂う世界の中で、この予感だけでも貴重なものだと私は思っています。でも、それに満足せずに、一歩一歩進んでいきましょう。
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