私は二つ前のblogで隈研吾さんの『新・建築入門』から、建築と思想との関わりについて学びました。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/33d331b2ba4cde30de60c7bc8e23f943
この『新・建築入門』は、ただの入門書ではなくて、建築がそれぞれの時代の思想や人々の考え方とどう関わって変わってきたのか、ということを解き明かす興味深い著書でした。
そして、現代がいかに危うい時代なのか、ということを告発する警告の書でもあり、隈研吾さん自身が自らの仕事を見直して新たな出発へと向かう、再出発の書でもあったのです。
この『新・建築入門』を読んで感銘を受けた私は、建築全般のことではなくて、隈研吾さんという建築家に焦点を当てた本も読んでみたいと思いました。それに隈研吾さんの再出発の頃が、私の大学卒業の時期にも当たっていたので、その後の彼の動向をもう少し探ってみたいと思ったのです。
それは世間的にはバブルの到来とその崩壊にあたる時期であり、思想的にはポストモダニズムの盛り上がりとニューアカデミズムの出現が同時にあり、それがやがて雲散霧消していくという時期でした。
私個人の目に見えたのは、美術館や企業が気前よく現代美術の作品を買い上げ、街の画廊に正体不明の活気が溢れた時期であり、やがて作品が売れなくなって、手を広げすぎた画廊が消えていき、多くの作品を抱えた画廊主が首を吊って亡くなってしまう、という苦い事件も起こってしまった時期でした。
そんな景気の良さとは縁のなかった売れない美術家たちは、世間の流れとは無縁だったかというとそうではなくて、派遣の仕事やアルバイトで生活をしのいでいた彼らは職を失い、細々と貸し画廊で自分の作品を発表していた彼らが画廊街から消えてしまったのです。当然、画廊の方もやりくりが難しくなり、銀座の中心から散っていくことになりました。一頃は現代美術の画廊をいくつもハシゴして見て歩いていた私も、自分の仕事が忙しくなったこともあって、いつの間にか見にいく画廊を絞って、ピンポイントで出かけるようになってしまいました。
このような状況で、若い作家たちは希望を抱いて画廊で作品を発表する、ということができるのでしょうか?大学の先生に目をかけてもらい、知り合いの画廊を紹介してもらい、そこで作品を売ってもらう・・、という恵まれた作家は良いとして、独自の力で知名度を上げ、作品を広く知ってもらう、ということは作品のレベルとは関係なく、なかなか難しいことだと思います。
このような先の見えない状況は、美術以外の分野ではどうなっていたのでしょうか?
そういう興味が私にはあったのです。前にも書いたのですが、建築にまったく疎い私は、建築の状況はもちろんのこと、隈研吾さんについても東京オリンピックの国立競技場の仕事で話題になるまで、よく知りませんでした。この『ひとの住処』という著書は、そのあたりの情報についても話が及んでいて、とても面白く読むことができました。
それでは、この本について、私の興味本位に語る前に、どんな本なのかを紹介した文章を書き写しておきましょう。
1964年、横浜・大倉山の“ボロい家”に育ち、田園調布に通いながら丹下健三に目を剥き、建築家を志す。無事にその道を進みニューヨークへ。帰国後のバブル崩壊で大借金を背負い、10年間東京で干される間に地方各地で培ったのは、工業化社会の後に来るべき「緑」と共生する次の建築だった。そして2020年、集大成とも言える国立競技場で五輪が開催される―自分史を軸に人間と建築の関係を巨視的に捉えた圧巻の一冊。
(『ひとの住処―1964-2020―』書店の紹介文より)
上の紹介文の中で、隈研吾さんの暮らした木造家屋のことや、大建築家の丹下健三(1913 - 2005)さんの建てた国立競技場、彼の主導した1970年の万博のこと、丹下さんの門下生でその後離れていった磯崎新(1931 - 2022)さんや黒川 紀章(くろかわ きしょう、1934 - 2007)さんのことなど、『新・建築入門』とも重なる部分がありますのでそのあたりことは軽く触れるにとどめましょう。今回はその後の話を中心に読んでいくことにします。
『新・建築入門』では、隈研吾さんは田舎巡りをして仕事をする決心するところで終わりました。その中で、現場の大工さんや職人さんから学ぶことが多かった、と書いています。
この田舎巡りは、突然に隈研吾さんの頭に浮かんだ訳ではなくて、実は彼は学生時代にフィールドワークをして、さまざまな集落の成り立ちを調査する、ということをしていました。それは建築家の原広司(1936 - )さんの研究室に入ってからのことでした。
その悶々とした状況の中で、唯一、シンパシーを感じたのが、原広司という建築家であった。原広司は、時代に背を向けた、変わり者の建築家と見られていた。当時の原広司は、作品をあまり作らず、黙々と集落の調査を続けていたのである。集落といっても日本の集落を訪ねたわけではない。世界の辺境の集落、中東、南米、インドといった場所の集落を訪ね歩き、そこから未来の建築のあり方を見付けるというのが、原の基本的なスタンスであった。夢ばかり見ているような、不思議な建築家であった。
(『ひとの住処―1964-2020―』隈研吾)
原広司さんという建築家については、実は私はずいぶん前から知っていました。それは原さんの著作『集落の教え100』が、作家の大江 健三郎(1935 - 2023)さんの著書『新しい文学のために』(1988)の中で取り上げられていたからです。
おぼろげな記憶ですが、大江さんと原さんが、大江さんのテレビ番組での講座の中で対談していたのを見た気がします。この原広司さんの集落に関する仕事については、また日をあらためて書くことにしましょう。
隈研吾さんは、この集落の調査で人々の暮らしがその土地と結びついていることを知りました。そういう暮らしの中では建築も、その土地の気候や風土に合わせたものになります。もちろん、建築資材はその土地の周辺でまかなうことになります。その学びが、現在の隈研吾さんの建築に結びついているようです。中国・北京郊外の地元の竹を使った建築や、日本の木材を使った国立競技場などを見ればわかります。
少し話がさかのぼりますが、原広司さんの前に隈研吾さんが影響を受けた建築家は、言うまでもなく丹下健三さんです。彼の建てた1964年の東京オリンピックの国立競技場は、高く垂直に吊り上げた建物の構造で隈研吾さんの度肝を抜きました。しかし丹下さんの常にポピュラリティーを意識した建築家としての姿勢は、やがて反面教師のような存在となっていきます。
続いて隈研吾さんが影響を受けたのは、颯爽と現れてスマートに自分の建築について語った黒川紀章さんでした。しかし丹下さんと黒川さんの二人が深く関わった1970年の万博会場で、隈研吾さんは彼らに失望することになります。
その後、隈研吾さんは作家であり、文芸評論家で翻訳家でもあった吉田 健一(1912 - 1977)さんの著書『ヨオロッパの世紀末』に出会い、深く影響されることになります。その本には、次のようなことが書かれていました。
『ヨオロッパの世紀末』では、「作る」時代のヨーロッパ、すなわち産業革命と植民地での搾取によって、がむしゃらに豊かになったヨーロッパと、その後にやってきた退屈と退廃のヨーロッパ、すなわち「世紀末」とが対比されている。一般に世紀末とは、生産性のない、退廃的で不健康な時代と捉えられているが、吉田健一はその見方を反転し、世紀末を物質主義、拡張主義からの卒業と捉え、人間が人間を発見した最も豊かで美しい時代、その意味で最も健康な時代と再定義したのである。
(『ひとの住処―1964-2020―』隈研吾)
吉田健一さんは、内閣総理大臣だった吉田茂さんの息子であり、やはり総理大臣だった麻生太郎さんが甥にあたるという血筋の人です。吉田健一さんは文化人として高く評価され、英文学者としても一流だったということは知っていましたが、どうもその生い立ちから、私は彼の本を深く読もうという気になれなかったのです。しかし隈研吾さんは「生涯読んだ本の中で一冊を選べと言われたらば、僕はためらいなく、この本をあげる」と『ヨオロッパの世紀末』を高く評価しています。これはすごいですね、直ちに読まなくてはなりません。
話が前後しましたが、隈研吾さんは丹下健三さん、黒川紀章さんに影響され、やがて失望し、その後に吉田健一さんの著書に出会い、吉田さんの語る世紀末の価値観が高度成長期の日本に疑問を持つ彼の気持ちと深く響き合い、しばらく悶々としたのちに、原広司さんの研究室を選ぶことになったのです。
さて、大学を卒業した隈研吾さんは、日本の建築の現状にいたたまれず、ニューヨークにわたる決心をしてコロンビア大学の客員研究員になります。隈研吾さんはご自身のことを控えめに語りますが、なんだかんだ言ってすごい経歴ですね。
この1980年代前半の日本を代表する建築家といえば、「研ぎすまされた日本刀」と隈研吾さんが比喩する安藤忠雄(1941 - )さんだったようですが、彼はその対極にあるような中筋修(1939 - 2001)さんという建築家とニューヨークで出会います。そして日本に戻ってから、彼を頼って自分の事務所を開くことになりますが、ちょうどバブルがはじけてしまって大変な苦労を背負うことになります。中筋さんも亡くなってしまい、困っていた時にもう一人、ニューヨークで出会った友人、小谷匡宏さんという建築家から四国の檮原(ゆすはら)での仕事をもらうことになります。こうして、隈研吾さんは地方での仕事に積極的に携わることになるのです。
その経過について、隈研吾さんは次のように書いています。
バブルがはじけたタイミングで、檮原に出会えたことは、僕のその後の人生に大きな意味を持った。きっと、山にいる神様が、僕を呼んでくれたのだと思う。
僕がニューヨークででくわした85年のプラザ合意をきっかけにして、20世紀をまわしていた産業資本主義から、金融資本主義へという大きな転換が起こった。金融資本主義とは、地面と切り離された経済学である。地面と切断されているがゆえに、値段は糸の切れた風船のように、限りなく高騰する。その高騰を人々は経済成長であり、繁栄であると錯覚する。そしてバブルの崩壊のように、突然に風船は破裂する。
檮原の人達は、そんなものと無関係に生き、生活している。彼らと寄り添い、その場所と併走することによって、建築は再び大地とつながることができるかもしれないという希望を手に入れた。檮原の職人達が、そのやり方を教えてくれた。バブルがはじけようと、どんな災害がやってこようと、そんなことはおかまいなしに、大地を耕して作物を作るように、黙々と、ゆっくりと、建築を作り続けていけばいいのである。
バブルがはじけた後の90年代の日本を、「失われた10年」と呼ぶことがある。実際その10年間、東京では、ひとつの設計の依頼も来なかった。それでも、90年代はとても懐かしいし、楽しかった。それは、檮原という場所と、檮原という方法と出会えたからである。
(『ひとの住処―1964-2020―』隈研吾)
このような出会いがいくつかあり、隈研吾さんは現在の建築方法を身につけていきました。その一つ一つが興味深い話なのですが、全部取り上げているとキリがないのでこの辺りにしておきます。具体的なことを勉強したい方は、ぜひこの本をお読みください。
さて、ここからは隈研吾さんの手がけた新国立競技場のことに話を移しましょう。
隈研吾さんが新国立競技場を手がける前に、この建物の国際コンペで一位に選ばれたのが、イラク出身の建築家でロンドンに事務所を構えていたザハ・ハディッド( Zaha Hadid、1950 - 2016)さんです。隈研吾さんは彼女に何回も国際的なコンペで苦杯を喫してきたのだそうです。ザハさんのデザインは、宇宙船が代々木に降りてきたような近未来的な作品でした。建築費がかかり過ぎる、というあまりに残念な理由でデザインが実現しなかったのですが、それがその対極にあるような隈研吾さんのデザインを呼び寄せることになったのですから、何が幸いするのかわからないものです。
この辺りの事情についてご存知ない方は、次の二つのリンクを開いて二人のデザインを比較してみてください。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1602H_W4A610C1000000/
https://kkaa.co.jp/project/japan-national-stadium/
このザハさんのデザインですが、隈研吾さんと対極にあるように見えますが、実は二人には共通するところがあった、と隈研吾さんはこの本で書いています。
ザハの方法は、形態の作り方においても、材料の使い方においても、僕の方法の対極にあると感じていた。しかし、彼女の軌跡は、僕の辿った軌跡と重なるところがひとつある。ザハも僕も、アール・デコ建築に興味を持ったことである。1929年のニューヨーク株式市場のブラック・サーズデーに端を発して世界史の流れを変えた、あの世界大恐慌以前のイケイケの時代の建築をアール・デコ建築と呼ぶ。ザハも僕も、アール・デコ建築に特別に興味があった。
21世紀の建築界で、最も影響力を持つ建築家といってもいいレム・コールハースは、前衛建築家を数多く輩出していることで知られるロンドンの名門、AAスクールで、ザハと共に学んだ。レムとザハが中心となって1975年にOMA(Office for Metropolitan Architecture)という事務所を立ち上げ、ザハはすぐに独立し、自身の事務所を設立した。メトロポリタン・アーキテクチャーという事務所名は、大恐慌直前の過激なデザイン、すなわち通称アール・デコ建築に対するレムとザハの関心に由来している。レムは1978年、その時代の建築群について論じた『デリリアス・ニューヨーク』(邦題は『錯乱のニューヨーク』、ちくま学芸文庫)という著作を出版し、建築界の話題をさらった。
<中略>
レムとザハは、大恐慌以前のデリリアス(錯乱)な建築を評価した最初の建築家であった。この一群の建築は、建築史の中では、クレージーな建築として扱われ、20世紀建築史の中の鬼っ子であった。20世紀の本流は、コルビュジエや、ミースらが中心となったモダニズムの建築だったのである。そしてモダニズム建築とは、工業化社会の建築スタイルであり、制服であった。コルビュジエはコンクリート、ミースは鉄骨を主要な材料に選んだが、コンクリートと鉄こそ、工業化社会、産業資本主義の主役であった。
(『ひとの住処―1964-2020―』隈研吾)
このようなモダニズム批判という点で、ザハさんの建築と隈研吾さんは共通する点があったのです。しかし磯崎新さんなどに強く推されてポストモダンの時代のスターとなったザハさんと隈研吾さんとは表現においては対極にあり、それまでのコンペでは時流を読み取ったザハさんに苦杯を舐めてきました。その隈研吾さんが、不運な運命から新国立競技場をデザインすることになった、というのは先ほども書いたように何が幸いするのかわからないものです。この新国立競技場建設に関するエピソードについて、意外と詳しく書かれているので、これも知りたい方は原著をお読みください。
さて、この本では先に紹介したように吉田健一さんの『ヨオロッパの世紀末』や原広司さんの集落論など、興味深い宿題をいくつかもらいましたが、本の終盤になってもうひとつ重たい宿題をもらいました。
それは人類学者のレヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908 - 2009)さんに関することです。ご存知のように、レヴィ=ストロースさんはポストモダニズム以降の思想の構造主義の始祖であり、彼の手仕事(ブリコラージュ)に関する理論は、現代美術にも深く影響していました。しかし、その「ブリコラージュ」もポストモダニズム理論の退潮とともに、美術界では忘れ去られたようになっていましたが、隈研吾さんの建築には、この「ブリコラージュ」という概念が影響しているというのです。
このように身近にある日常的な材料をだましだまし使う方法を、人類学者のレヴィ=ストロースは、ブリコラージュと呼んでいる。語源はフランス語の「繕う」「ごまかす」の意味を持つbricoierであり、レヴィ=ストロースは『野性の思考』(1976、みすず書房)の中で、設計図に基づいて物を作る「設計」とは対照的な行為として、ブリコラージュという柔軟な手法を取り上げた。新しい国立競技場は、現代のブリコラージュの産物である。
(『ひとの住処―1964-2020―』隈研吾)
レヴィ=ストロースさんは、ポストモダニズムとか、構造主義とかいうような思想の流行に流されることのない、射程の広い思想家だという感触を、私は持っていたのですが、彼の翻訳書は難しい上に価格が高いので、ちゃんと考察してこなかったのです。でも、私の作品の手法は「ブリコラージュ」そのものですし、この辺りでちゃんと向き合うべき思想家なのかもしれません。これも宿題として、とりあえず入門書から探ってみたいと思います。
最後になりますが、隈研吾さんは、自身の設計した新国立競技場が、モダニズムの建築のようにガラスを安易に使わずに、「庇(ひさし)」を作ることによって自然と人が、あるいは人と人とがつながっているのだ、と解説して、この本を次のように結んでいます。
21世紀とは、人々が庇でつながる時代である。人々と自然が庇でつながる時代である。様々な自然、様々な場所と、様々な人々とが、様々な仕方でつながる時代である。小さな部材を水平に組み合わせて作った庇の中に、産業資本主義でも、金融資本主義でもない新しい経済が見える。工業化とITの先にある新しい生活、ネーションステートとポピュリズムの先にある新しい国家のヒントが見える。
(『ひとの住処―1964-2020―』隈研吾)
こんなふうに、自分の作品が新しい時代を示唆するものである、と自信を持って語ることができると良いですね。
実は私もつねにそうしているつもりです。そして、身近にいる作家の作品の中にも、美術の世界にこだわらない、人間全体の明るい未来を見出そうとしているつもりです。こういう表現に対する姿勢が正しいものだと、この隈研吾さんの著書から教えてもらったような気がして、とてもうれしく思います。
それから、この本からいくつかの宿題をもらいましたね。こういうふうに、楽しい課題をもらえる本は貴重です。皆さんもお読みになれば、きっと自分なりの宿題をもらえると思いますよ。