平らな深み、緩やかな時間

201.『手の倫理』伊藤亜紗について

今年も、もう終わりになります。
勤務先で生徒配布用のプリントのための今年の漢字を問われたのですが、私は「敬」の文字を選びました。イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンが、死者を弔うこともできないで火葬してしまう現状に警鐘を鳴らしたことが、気になっていたのです。彼は、死者に対して十分な「敬」意を払うことなく、生きることばかりが自己目的化している社会に対し、この現状は人間として生きるに値するのか?と問いかけたのだと思います。彼は当然のことながら、大変な批判にさらされたようですが、今になってみれば、この問いの意味は大きいと思います。
私はこのアガンベンの発言を、哲学者の國分功一郎のテレビ番組でのコメントから知りました。そのときにもblogで取り上げていますので、よかったらお読みください。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/114.html
新型コロナウィルス感染という非常事態になって、人間の価値観をもう一度見直す時がきた、と私は思います。経済一辺倒でグローバル化していく世界は、地球環境という視点から見ても、立ち止まって考えるべき時期でしょう。そのときに、死者、あるいは他者を敬うこともそうですが、芸術や人文科学が大きな鍵を握っている、と感じています。科学技術ももちろん大切ですが、そのどこに力点を置くのか、ということは人文科学も交えて考えないと、判断を誤るでしょう。このblogも、その見直しや再考の手がかりになれば良いなあ、と願っています。

さて、今回は評判の研究者、伊藤亜紗の『手の倫理』という本を取り上げます。伊藤亜紗の本については、このblogでも以前に取り上げました。いずれも、彼女の『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』という著作に関する文章です。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/165.html
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/208.html
彼女は、これまでの哲学の身体論とは違ったアプローチで、人間の身体性について研究している人です。現在、もっとも注目されている学者の一人でしょう。
そしてこの『手の倫理』という本ですが、「手」と「倫理」が結びついたタイトルで、これは何?という思いで読み始めました。
それに私自身が倫理的な人間ではない、という思いがあるので、ちょっと気持ちが引き気味であったことも事実です。
でも、そのタイトルの謎も、倫理に対する私の誤解も、すぐに氷解しました。その両方とも、私の中で「倫理」と「道徳」がごちゃごちゃになっていたことが原因でした。私が苦手なのは、どうやら「倫理」ではなくて、「道徳」の方らしいのです。
そしてさらに、私自身が探究している「触覚性」について、この本から新たに発見できたことがたくさんありました。語り口はとても平明で、内容も明快なのですが、とにかく考えるべきことがたくさんあり過ぎて、とても整理できません。そこでとりあえず、理解できたことだけを書きとめておきましょう。

まずは「倫理」と「道徳」の違いについて確認しておきましょう。
伊藤亜紗は、そのことを説明するために、自分と小学校3年生だった息子との経験を語っています。アメリカの学会に行ったときに、通りで物乞いの女性に出会い、とっさに彼女は息子の手を引いて女性を避けてしまったのです。困った人を助けなくてはならない、と学校で教わっていた息子は混乱し、パニックを起こしてホテルで大泣きをします。その時のことを、彼女は次のように分析します。

 要するに、私と息子は、道徳と倫理のあいだで引き裂かれていたのでした。小学校の道徳の授業で習うような、「○○しなさい」という絶対的で普遍的な規則。これに対し倫理は、現実の具体的な状況で人がどう振る舞うかに関わります。相手が何者か分からず、自分の身を守る必要もあり、時間やお金の余裕が無限にあるわけではない今・ここの状況で、どう振る舞うことがよいのか。あるいは少しでもマシなのか。倫理が関わるのはこういった領域です。
(『手の倫理』「倫理」伊藤亜紗)

私たちは、ふだん「道徳」と「倫理」を同じようなものだと思っています。しかし「道徳」は絶対的な規則のようなもので、異論の余地なく従うべきものです。一方の「倫理」はさまざまな価値観、道徳観がぶつかり合ったときに、どう振舞うべきなのか、どう判断するべきなのかを考えるものなのです。
それで私が合点がいったのは、しばらく前から日本の為政者たちがしきりに学校教育の中で「道徳」教育をおし進めていることです。文部科学省のホームページを見ると「児童生徒が,生命を大切にする心や他人を思いやる心,善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることは,とても重要です」ともっともらしいことが書いてあります。しかし、彼らの振る舞いを見れば、道徳教育の重点が「規範意識」に置かれていることは明らかで、例えばその規範意識は因習的な男女観や家庭観に基づいたものなのです。もっと言いたいことを言って仕舞えば、政府に対して文句を言わない、従順な国民を育成したいのか、などと勘繰ってしまいます。
「道徳」という言葉に罪はないのでしょうが、この為政者たちの行いを見ると「道徳」に不信感を持つのはあたり前です。そして「道徳」と「倫理」を一緒くたにして考えてしまうと、「倫理」という言葉も胡散臭いものだと感じてしまうのです。
それから、さらに話が横道にそれて申し訳ないのですが、この道徳教育が心理学者の河合隼雄(かわい はやお、1928 - 2007)が文化庁長官だったときに中心となって作られた、『こころのノート』から続いている一連の動向だということが、個人的にはとても悲しいです。私は学生時代から河合隼雄のユング心理学に興味があって何冊か彼の著作を持っていたのですが、彼が『こころのノート』を作ったことを知って、それらの本をすべて捨ててしまいました。河合隼雄は日本の神話・民話に大胆、かつ柔軟な解釈を施して魅力的な本を書いた人でしたが、それがこんなにも簡単に政治利用されてしまうということにショックを受けました。これを読んでいる方の中にも、権力や権威に近いポジションの方もいるでしょうが、それらに取り込まれないように注意していただきたいものです。
話を戻して、続けて伊藤の説明を聞いてみましょう。

倫理に「迷い」や「悩み」がつきものである、ということは、倫理が、ある種の創造性を秘めているということを意味しています。なぜなら、人は悩み、迷うなかで、二者択一のように見えていた状況(「女性に施しをするか否か」)にも実は別のさまざまな選択肢がありうること(「慈善団体に寄附をすること」「格差や貧困について研究すること」「子供がアメリカ社会について学ぶ機会をつくること」)に気づき、杓子定規に「~すべし」と命ずる道徳の示す価値を相対化することができるからです。もちろん、それは定まった価値の外部に出ること、明確な答えがない状態に耐える不安定さと隣り合わせです。しかし、この迷いと悩みのなかにこそ、現実の状況に即する倫理の創造性があるといえます。
(『手の倫理』「倫理」伊藤亜紗)

これを読むと、「倫理」がいかに「芸術」と近いものなのか、がわかります。例えば私は絵を描いていると、こうすべきか、ああすべきか、というようなことを常に迷いながら制作します。そしてできれば、より芸術性が豊かになるような方向に進みたいわけですが、それは「倫理」の迷いと似ていると思います。だから「倫理の創造性」という伊藤の言葉が、とてもよくわかる気がします。

さて、それでは『手の倫理』の「手」の方は、いったいどのような意味を持っているのでしょうか。
ここで「手」と言われているものは、「触覚」を象徴するもの、あるいは具体的な場面で触覚を担うもの、というような意味があります。それでは「触覚」と言えばいいようなものですが、やはり「触覚」というよりは「手」と言った方が具体的で良いのです。
例えば伊藤は「触覚」を論じるにあたって、はじめに「ふれる」と「さわる」という言葉の違いを問題にしています。「触覚」という言葉を中心に考えると、そのどちらも同じような意味にしか思えませんが、具体的な「手」を思い浮かべて「ふれる」と「さわる」を考えると、そこには大きな違いがあります。
彼女がこの本の冒頭に書いている部分を見てみましょう。

日本語には、触覚に関する二つの動詞があります。
①さわる
②ふれる  
英語にするとどちらも「touch」ですが、それぞれ微妙にニュアンスが異なっています。  
たとえば、怪我をした場面を考えてみましょう。傷口に「さわる」というと、何だか痛そうな感じがします。さわってほしくなくて、思わず患部を引っ込めたくなる。  
では、「ふれる」だとどうでしょうか。傷口に「ふれる」というと、状態をみたり、薬をつけたり、さすったり、そっと手当てをしてもらえそうなイメージを持ちます。痛いかもしれないけど、ちょっと我慢してみようかなという気になる。
(『手の倫理』「序」伊藤亜紗)

面白いですね。私は触覚性に関してこれまでに幾らかの文章を書いてきましたが、「ふれる」と「さわる」を無造作に使ってきました。でも、確かに「ふれる」と言った方がいいときと「さわる」と言った方がいいときとがあります。
それらはどのように区別できるのでしょうか。

「ふれる」が相互的であるのに対し、「さわる」は一方的である。ひとことで言えば、これが坂部の主張です。
言い換えれば、「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり、ということになるでしょう。そこにいのちをいつくしむような人間的なかかわりがある場合には、それは「ふれる」であり、おのずと「ふれ合い」に通じていきます。逆に、物としての特徴や性質を確認したり、味わったりするときには、そこには相互性は生まれず、ただの「さわる」にとどまります。
(『手の倫理』「序」伊藤亜紗)

ここで「坂部」と言っているのは、哲学者の坂部 恵(さかべ めぐみ、男性、1936 - 2009)のことです。坂部の『「ふれる」ことの哲学――人称的世界とその根底』という著作がところどころで引用されているのですが、私は読んだことがありません。近いうちに読んでみます。
さて、これを読んで考えてみると、私はしばしば「絵にさわる」という言い方をします。絵は視覚的に見るものであり、触覚的にさわるものではありません。それを承知で「さわる」という言い方をするのです。そこには「見る」ことによって「触覚性」を感受するような、そんな感覚的な相互作用が意識の中にあります。それを強調したくて、わざと「さわる」と言うのです。これが「ふれる」と言ってしまうと、「ふれあい」という言葉に通じるような抽象性が含まれてしまうような気がします。例えば、ある画家の作品を見ることで「○○の作品にふれた」と言ってしまえば、その画家の作品を見ることで親しみを感じた、というような、そんな一般的な絵画の鑑賞用語になってしまうのです。そうではなくて、あえて感覚の相互作用や感覚を越境するようなことを言いたくて、「さわる」という即物的な言い方をするのです。これからは、もっと意識的に使うことにしましょう。

伊藤は、触覚について論じる前に、これまでの西洋哲学が視覚中心であり、触覚がいかに劣った感覚として見られてきたのか、ということを書いていますが、その点についてはこのblogでも主に中村 雄二郎(1925 - 2017)の「共通感覚論」を通じて確認済みです。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/101.html
ですから、そこは端折って読み進みましょう。

ところで、伊藤が触覚に関心を持ったきっかけは、彼女が障害を持つ方の身体について研究する際に介護の体験をし、そのときに触覚の重要性に対して多くの気づきがあったからなのです。したがって、具体的に介護に関わっている方がこの本を読むと、多くの点で直接的な示唆を得ることができるでしょう。しかし、介護に関わらない私が読んでも興味深く思いましたし、またここに書かれた身体性の問題は、もっと普遍的な思想全般に及ぶ課題を含んでいると思います。
私はそのうちの美術に関するところを読み取っているに過ぎないのですが、例えば次のコミュニケーションに関する章を読んでみましょう。

伝統的に触覚の特徴として指摘されてきた持続性。常に部分的な認識しか得られず、全体を把握するのに時間がかかるという特徴は、触覚が視覚に比べて劣った感覚であることを示す一つの証拠とされてきました。
しかし、「人の体にふれる」という本書の関心からすれば、時間がかかることは必ずしもネガティブなことではありません。なぜならそれは、ふれる側とふれられる側とのあいだの、触覚的なコミュニケーションの可能性を開くからです。
(『手の倫理』「コミュニケーション」伊藤亜紗)

さっそく重要なことが書かれていました。感覚と時間の問題です。触覚は視覚に比べて遅れて感じられる感覚なのです。だからスピードを求める近代文明の中で、劣ったものとされてきたのでしょう。しかし、その欠点が新たな可能性を持っているのだと伊藤は書いています。持続して触っていることで、じわっと伝わってくるもの、そういうものが今こそ必要なのではないでしょうか。
このコミュニケーションの章は、新たな気づきの連続です。視覚は記号的なコミュニケーションの発達を促し、触覚は物質的な触れ合いとしてそれに対峙することになります。例えばそれらは、次のような特徴を持ちます。

○視覚→「記号的メディア」のキーワードは、「デジタル」「不連続」「コード化」「非接触」です。
○触覚→「物理的メディア」のキーワードは、「アナログ」「連続的」「非コード化」「接触・同期」です。

なるほど、こういうふうに整理してもらえると、わかりやすいですね。私は絵画という表現手段に関わって生きてきたのですが、まさしく「アナログ」な人間です。卑近な例ですが、私はなかなか電子書籍に馴染めず、どうしても紙の本を欲しくなります。でも、本が増えて困る、と連れ合いに叱られて、この『手の倫理』は電子書籍で入手してみました。紙の本だと大体どれくらい読んだのか、とか、印象的な一節は本の厚みのこれくらいのところに書かれていたはず・・・、などと手で感じるのですが、それが×ページのうちの○ページ、とか、×パーセントとかいう数値で表示されています。まさしく「物理的メディア」から「記号的メディア」への変革を迫られている気分です。
それでも私は、絵画だけはどうしても実物の絵を見てみたいし、私の作品もできれば展覧会場に足を運んでいただいて、実物を見ていただきたいと願ってしまいます。それはなぜなのでしょうか?伊藤はこんなことを書いています。

物理的なコミュニケーションの面白さは、記号的なコミュニケーションと違って、連続的であるということです。直接的にせよ間接的にせよ、物理的に接触しているという状況のなかで、じりじりと、あるいは一気に、コミュニケーションがなされる。接続を前提としていますから、コミュニケーションの参加者が同じ時間・空間を共有していることも必要です(触覚を伝送したり再現したりする装置があれば別ですが)。つまり、物理的なコミュニケーションは、参加者の同期を前提にしています。
(『手の倫理』「コミュニケーション」伊藤亜紗)

絵画は視覚的な芸術だと言われますが、私は絵画の物理的なコミュニケーションを併せ持つ側面を見るべきだと考えます。絵画は、決してデジタルな新しいメディアに代替できるものではないからです。
そしてもしも、物理的なコミュニケーションとして絵画を見直すなら、視覚中心で編まれてきた現代美術史が大きく変わるのではないか、と考えています。そのような見直しを実践すると、後期印象派の画家セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)がさらに重要な画家になってくるでしょう。そしてセザンヌの芸術を発展させた、と言われるピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)やマティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)が、実はセザンヌの可能性を視覚的な観点だけに限定してしまうことに一役買ってしまった人たちだということが、明らかになるでしょう。彼ら自身は、きわめて触覚性に敏感な芸術家でしたが、美術史的にはそう見なされてしまうのです。(マティスのことは、後でも触れますね。)
さらに言えば、現代絵画を平面性へと導いたアメリカの評論家グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)のフォーマリズム批評に対し、さまざまな見直しが試みられている昨今ですが、彼が絵画の物理的なコミュニケーションという視点を見落としていたと考えれば、いろいろなことがより明確になってきます。
そして彼が見出した画家、ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)が、フォーマリズム批評では語り尽くせない可能性を持った画家だったことも、いつかきちんと語られなくてはなりません。彼の絵画こそ、現代における物理的コミュニケーションの良き前例とされるべきものです。ポロックの用いたドリッピング技法は、画面と連続的な接触関係を保つための典型的な手法であった、と私は考えます。
こういうふうに絵画について書き出すときりがありませんし、いつか少しずつ、評論として形にしていきたいと思います。

さて、このようなコミュニケーションのメディアによる区別とはべつに、伊藤はコミュニケーションには「伝達モード」と「生成モード」の二つのモードの区別が考えられる、と書いています。
このうちの「伝達モード」は、メッセージの発信者から一方的に伝達されるコミュニケーションのことで、発信者と受信者がはっきりと分かれているという特徴があります。例えば、野球のバッティング・フォームを手取り足取り教える場合を想像してみましょう。それは指導者と生徒がはっきりしていますので、一方向でのコミュニケーション、つまり「伝達モード」であると考えられるのです。
ところが「生成モード」の方は、メッセージそのものが双方向のやり取りの中で形成されるコミュニケーションのことですから、発信者と受信者の区別がきわめて曖昧です。例えば、日常的に対等な立場の友達同士が交わす会話を想像してみましょう。片方が何かを伝達しようとして話し始めたのですが、お互いのやり取りによって次第に内容がずれていき、終わってみれば話し始めた人が予想しなかった結果になることがあります。その過程が人間の創造性とも大きく関わるとも考えられるのです。
このように人間のコミュニケーションには「記号的メディア」と「物理的メディア」というメディアによる区別と、「伝達モード」と「生成モード」という伝達の方向性による区別という位相の異なる二つの考え方が存在します。いずれの場合も、そのどちらか一方が良い、とか悪い、とかいうことではなく、それぞれに適した役割や可能性があることを知っておくことが重要です。私たちはえてして、「物理的メディア」は時代遅れだから必要ない、とか「生成モード」は非効率的で結果が予想できないから役に立たない、などと考えがちです。しかし、一見無駄に思える行動や時間が、実は人間の創造性と深く結びついていることを認識するべきなのです。

実はここまでが『手の倫理』という本の前半部分にあたるものです。これらを基礎知識にして、後半ではより具体的に介護の場面で生じてくる課題や気づきについて書かれています。繰り返しになりますが、実際に介護の経験がない人であっても、面白くて興味深い話がたくさん書かれています。
例えば東京パラリンピックで大活躍したブラインド・マラソンですが、紐でつながった選手と伴走者がいかに深くて微妙な関係にあるのか、私はまったく興味がなくて何も知らなかったのですが、読みだすと興味深いことがたくさん出てきました。
そんな中で、私の「触覚性絵画」との関わりで特に面白かったのが、触覚性はエロティックな感性と容易につながってしまう、と書かれたところです。触覚は直接的な接触によって生じる感覚なので、視覚のように対象から距離を置いて客観的に全体を俯瞰することができません。だから介護の場面で肌と肌がふれたときに、介護とは程遠い性的な妄想が容易に入り込んでしまうというのです。
その時に介護者のために力を発揮するのが、杓子定規な規則を押し付ける「道徳」ではなく、抗い難い誘惑にどのように抵抗したらよいのかを考える「倫理」なのだと伊藤は言います。

自分の中にあった異質なものに導かれていくこうした感覚こそ、実は状況に深く分け入り、伝達的でない仕方で他者と出会い、その中に入り込み、持続的に関わっていく、その導き手になりうるのではないか。触覚は道徳的ではないかもしれない。でもそれは確かに、いやだからこそ、倫理的でありうるのです。
(『手の倫理』「不埒な手」伊藤亜紗)

なるほど、介護においては、このような感情の混乱は困った問題でしょう。しかし芸術にとってエロティックな感性は、否定されるべきものではありません。むしろエロティックな要素が加わることで作品が魅力的になるのであれば、喜んで受け入れるべきものでしょう。ただし、それは単に扇情的な表現であればよい、というものではありません。例えば、画面上に描かれた女性の裸体が男性の妄想を掻き立てるものであったとしても、それは表現上の価値とは関わりがありません。さすがに性的な感情の発露で終わってしまっては、芸術になり得ません。それでは絵画の触覚性におけるエロティックな要素とは、どのようなものでしょうか。
私がすぐに思いつくのが、マティスの晩年のヌード・デッサンです。
https://www.ojha-angel-vancouver.net/2017/12/01/fumio-21/
マティスは相当目が悪かったそうで、彼が舐めるような至近距離からヌード・モデルをデッサンしている写真を見たことがあります。そんなに近くから見たら、女性の全身のプロポーションなどつかめないだろう、と思いますが、そんなことは彼にとってはどうでも良いことだったのでしょう。
彼のデッサンを見ると、具体性の乏しい簡略化された線だけで描かれているのですが、それにも関わらず線に囲われた肉体は肉感的です。ここで例示したデッサンで言えば、女性の肩から下に伸びる腕に、触れることができそうな感触があります。このマティスのデッサンを見るときに、私たちは女性の姿を妄想する必要などありません。このデッサンそのものを、目で触れれば良いのです。
私は女性のヌードを描くことはありませんが、このマティスのデッサンのような直接的な触覚性が自分の作品にもあれば良いのになあ、とは思っています。自分の作品にエロティックなほどの触覚性があるのかどうか、それは作品を制作するときの一つの指針になるのかもしれません。
いずれにしても、視覚に偏った近代以降の思想的な流れは、あらゆる方面で見直されようとしています。
私の考えている絵画の方向性も、その潮流の一つなのだと思います。

最後になりますが、この本を読んでいて、私はレイモンド・カーヴァー(Raymond Clevie Carver Jr.、1938 - 1988)の小説『大聖堂』を思い出しました。村上春樹が訳したアメリカの短編小説ですが、あらすじを読みたい方は次の群馬大学の論文をご覧ください。
https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/11719/1/NO35_2018_18.pdf
目に障害のある客人と、ちょっとへそ曲がりで失礼な男性とがいつしか心を通わせて「大聖堂」の絵を一緒に描く、というところが感動的です。ネットで調べると、この客人にはモデルがいたそうで、そうすると幾分かは本当の話なのかもしれません。
カーヴァーは余計な感想を交えずに小説を書く人なので、この小さな物語もどのように受け止めるのかは読者次第です。
芸術とは、本来そういうものだろう、と思います。
私の描く絵画からも、見た方がさまざまな可能性を見出していただけるとうれしいです。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
どうか、よいお年をお迎えください。

 
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