平らな深み、緩やかな時間

318.『絵画の二十世紀』前田英樹を読む ①

はじめに、お知らせです。

2023年6月3日(土)ー7月9日(日)に三浦市の諸磯青少年センターでの『HAKOBUNE』という展覧会に参加します。展覧会を企画された勝又さんと倉重さんの紹介文をお読みください。

 

三浦市の諸磯という地区に諸磯青少年センターという古い建物があります。

目の前に海が広がり、築50年経過した建物は古くて、所々傷んでいます。

ここに作品を展示したらどうなるだろう、という発想の元に展覧会の準備が進められ、実現に漕ぎ着けました。

遠いところですが、どうぞご覧くださいますようご案内いたします。

勝又豊子 倉重光則 

 

『HAKOBUNE  放射されるアート』

2023年6月3日(土)ー7月9日(日)

土日のみ開場 11:00 - 18:00

⬛︎パフォーマンス 6月3日(土)15:00~

   「いわば」ホワイトダイス(相良ゆみ・万城目純)音(増田直行)

⬛︎朗読 6月3日(土)16:30~

   「HAKOBUNE 企画」R.D.レイン「好き 好き 大好き」を読む

    読み手:渡辺 梓(女優・似て非 works)   

⬛︎パフォーマンス 6月4日(日)15:00~

    山田有浩

<会場> 諸磯青少年センター 三浦市三崎町諸磯1870 - 1

HAKOBUNE事務局

勝又 090-4670-1194・倉重 090-1432-6227・山岡 090-5691-6494

 

*この展覧会のパンフレットのpdfファイルは、私のHPからご覧いただけます。ぜひ、ご一読ください。

http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html




次に訃報のニュースです。

ロック歌手のティナ・ターナー(Tina Turner、1939 - 2023)さんが亡くなりました。私は、ティナさんの熱心なファンではありませんが、不屈の精神で人生を歩んだであろう彼女のことを、歌手としてだけでなく人としてリスペクトしています。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2023/05/post-101726.php

 

ティナさんは1950年代から音楽活動をしていたようですが、有名になったのは、1960年代に入ってアイク・アンド・ティナ・ターナーとして活動を始めた頃からです。このグループは夫婦のデュオとしてヒットを連発しましたが、そのなかでも「リヴァー・ディープ-マウンテン・ハイ」(1966)、「プラウド・メアリー」(1971)あたりが有名でしょうか。

その後、ティナさんはアイクの家庭内暴力によって苦しめられ、離婚してソロ活動を始めました。しかし順風満帆とはいかず、その後も苦労の連続だったそうです。それでもみごとにカムバックを果たし、1980年代には「ロックの女王」などとも呼ばれるようになりました。そのタフでワイルドなイメージとは裏腹に、女性としての苦労を乗り越えた人として、尊敬に値する実力派の歌手だと思います。人種差別、女性差別、という二重の差別を受けることがどれほどたいへんなことなのか、私には想像もつきませんが、とにかくそのパフォーマンスを見ただけでも彼女をリスペクトする気持ちが湧いてきます。

その迫力あふれる動画をご紹介しておきます。

https://youtu.be/uj0wPrN_Y_4

https://youtu.be/TTfYnRQgKgY





さて、今回から二回に分けて『セザンヌ 画家のメチエ』を書いた前田英樹さんの本で、セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)以降の現代美術家たちを扱った『絵画の二十世紀』をご紹介します。この本の副題は「マチスからジャコメッティまで」ですが、取り上げている美術家はマチス( Henri Matisse, 1869 - 1954)、ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)、ジャコメッティ(Alberto Giacometti、1901 - 1966)、ルオー(Georges Rouault, 1871 - 1958)の四人です。しかし、その主役はやはりセザンヌだということになるのでしょう。この本のテーマとして、セザンヌの芸術がいかに引き継がれていったのか、ということが通奏低音のように流れているからです。そしてセザンヌと比較対照される画家は、その後の四人ではなくて、同時代のモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)になります。

セザンヌとモネについて前田さんがどのように考えていたのか、前に読んだ『セザンヌ 画家のメチエ』でも十分に論じていたはずですが、前田さんはこの本のはじめの部分でわかりやすくまとめていて、それがとても興味深い内容になっています。それで私は、この『絵画の二十世紀』を二回に分けて読み込むことにしました。今回は、モネを比較の対象としながら、セザンヌが成し得たことについて前田さんの解釈を再確認します。

それでは、まず前田さんがモネについて説明している部分を参照してみましょう。

 

それではモネのしたことは、一体何だったのか。モネは、眼を写真機のように独立した器官、あるいは機械と考え、制作において実際そんなふうに眼を使い切ろうとした。たぶん彼を襲った強い視覚障害は、狂おしいようなこの意志と無関係ではなかろう。行動する身体からもぎ離された眼で見ようとする彼の意志が、眼を破壊してどこかへ進んでいった。彼が望んだのは、ついに眼のない視覚というものだったかも知れない。けれども、それは写真とは違う。写真には、言ってみれば写真機という非中枢的な器官がある。みずからの意思によって眼を破壊した画家は、では何によって見、世界のなかの何に達するのだろうか。モネの晩年の絵は、それを示しているだろうか。

モネが実現したカンヴァスは、たとえば、最晩年の『睡蓮』の連作にあるように細分された絵具の配置による幻惑的なほどの色の連続推移だけで成り立っていて、それはもうそれだけでひとつの抽象絵画のように美しい。この眼のくらむような色の幻想に、多くの二十世紀人が感嘆するようになる。ところが明らかに、こうした効果は、彼が眼を破壊してまで求め続けたリアリズムとは異なるものを実現している。あるいは、それと無関係になっている、と言うほかない。モネは、ただ自然に対する視覚の事実というものを、極限まで示したかったのであり、色彩の魔術などを振りまきたかったのではない。

(『絵画の二十世紀』<第一章「感覚の絵画」の誕生>前田英樹)

 

この文章と併せて、次の『セザンヌ 画家のメチエ』に書かれたモネに関する文章をお読みください。

 

与えられているものは光と、光を無限の色調に分散させる何ものかである。その何ものかの正体は、画家が捉える色調の変化によってしか知ることはできない。それは、海でもない、空でもない、しかし、私たちの経験に確かに与えられていると言える実在であり、色調の変化の知覚こそ、まさにその実在からやって来る直接の第一の経験なのだ。レアリスムに関するモネの懐疑はここまで行き、彼の方法はここから始まった。

(『セザンヌ 画家のメチエ』「3 第一回印象派展」前田英樹)

 

これ以外に、モネについてはセザンヌの次の有名な言葉があります。「モネは眼に過ぎない、しかし何という眼だろう!」この言葉を前田さんも引用していて、その解説として「この言葉は後の世で大変有名になったが、だからといって誰にもわかりやすくなったとは思えない」と書いています。

さて、これらのことをまとめると、どうなるのでしょうか?

まず、モネという画家についてですが、彼は自分の眼を独立した器官であると捉え、眼で見ることのできる世界に対して、自分自身の安易な主観を交えずに描こうとしました。しかしそのことは、写真の画像のようなレアリスムの絵を描くことではありません。写真のようなレアリスムは、さまざまな絵の約束事の上に成り立っている描写方法の一つであって、そのような作品が画家の眼に忠実であるわけではないのです。モネはそのことをよくわかっていて、レアリスムよりも眼に忠実な絵を追求した結果、「色調の変化の知覚」を表現する絵画を目指すことになります。つまりモネは、レアリスムよりも真に迫った絵を描いたが故に、私たちが当たり前だと思っている「視覚」の世界を乗り越えた独自の色彩の作品を描いたのです。モネの晩年の絵はその豊潤な色彩のゆえに、象徴主義や表現主義と関連づけて読み解かれることが多いのですが、前田さんの解釈によればそれは的外れです。モネは眼に忠実な世界を表現しようとするあまり、一般的な視覚世界を破壊し、それとは平行(パラレル)な色彩表現を用いるようになったのです。

ここまで理解すると、セザンヌの言葉の意味が少しわかってきます。一般的にこの言葉は、セザンヌがモネの眼を「写真機のような高性能な器官」であることに感嘆して言った言葉であると思われています。しかしセザンヌは、モネの表現した世界が視覚とはパラレルな関係にあったことを知っていました。そのことを理解した上で、セザンヌはそれでも「モネは眼に過ぎない」と言ったのです。

 

それではそのセザンヌは、絵画をどういうものとして考えていたのでしょうか?

これから前田さんの解釈を読んでみるのですが、話はなぜかフランスの哲学者、アンリ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson 、1859 - 1941)に及びますので、驚かないでください。その話の過程では、「知覚」と「感覚」という言葉が区別され、モネが一般的な「知覚」の世界に疑問を投げかけた画家だとするなら、セザンヌはそれをさらに推し進めて「感覚」の世界を表現した画家だと解釈されています。そのことをおおまかな理解して読んでいただくと、わかりやすいかもしれません。

それでは前田さんの文章を読んでみてください。

 

セザンヌは絵画が感覚の所産だという考えに強い疑いを抱いていた。確かに、画家は眼を使う。しかし、画家が用いるものは、視覚というよりは、眼の「感覚」である。「知覚」と「感覚」とは、それぞれの性質において異なっている。視覚とは、眼による知覚のことにほかならないが、<見ること>についてすでに述べたように、視覚を含め、あらゆる知覚は身体の行動の一部分を成している。カブトムシの知覚は、その身体が世界のなかで可能な動きをカブトムシ自身に知らせる。だからコップで水を飲めないカブトムシには、コップはひとつの個体などではない。平面を這って行けば立ち塞がるツルツルした隆起のようなものだろう。

<中略>

すると、こういうことになる。知覚するとは、身体が行動に必要なもの、行動にとって可能なものを世界から引き出してくることである。引き出されたものは、この世界の一部分であり、それはまぎれもなく物質に属する。したがって、人間が見るコップも、カブトムシの足が知覚するツルツルした隆起も、同じ世界から引き出された共通の物質だが、ただそれらは、それらを引き出す身体に応じて異なる諸「部分」となっているに過ぎない。アンリ・ベルクソンはこうした「部分」のことを「知覚のイマージュ」と呼んだ。

「知覚のイマージュ」は、身体が行動しようとして生み出すものだが、このイマージュは身体を取り巻く世界の一部分であり、物質そのものである。人間が見るコップは、人間の身体だけが見るものだが、だからと言ってコップは身体のどこかに(たとえば脳のなかに)在るのではない。コップが在るその場所にちゃんと在る。身体によって知覚されるものは、身体の外に在って、身体がそれに働きかけうる範囲や条件を、身体に対して表している。これが、知覚の本質についてのベルクソンの考え方である。

(『絵画の二十世紀』<第一章「感覚の絵画」の誕生>前田英樹)

 

なんだか当たり前のことが書かれているようですが、注意深く読みましょう。まずはじめに「知覚」と「感覚」が異なるものだと語られていました。「知覚」とは、我々の外部に在る世界を感受するものですが、同じ外部の世界であっても私たちとカブトムシでは「知覚」しているものが異なっています。それぞれの生命が知覚し得ている外部世界の「部分」について、ベルクソンは「知覚のイマージュ」と呼んだのです。

この説明をモネの絵画に応用してみましょう。この後で前田さんはモネについてもう一度語っているのですが、それは決してわかりやすいものではありません。ですから、私なりの噛み砕いた解釈を書いてみたいと思います。

モネは、視覚が感受する世界が外部世界の「部分」であることを知っていました。私たち人間は、あらゆる知覚と知識を動員して、外部世界の有り様を客観的に捉えようとしますが、それは「視覚」という知覚が感受する「部分」に対して、さまざまな知識によって捕捉されたものが加わった、言わば視覚にとっては平行的な世界です。この世界を写真のように正確に描こうとする写実絵画は、この客観的な外部世界の像を画面上に描き出そうとするもので、透視図法と呼ばれる遠近法はそのために生み出された方法論の一つだと言えます。

モネももちろん、その方法論を学んだ優秀な画家でしたが、彼は晩年に近づくにつれて「視覚」で実感できるものにさまざまな方法論や知識を補って絵を描くことに疑問を感じたのです。一般的には「写実絵画」と、私たちの「視覚」が感受する世界との間には差異はなく、視覚によって見える通りに描くことが「写実絵画」を極めることになるのです。しかしモネは、そのような一般的な意味での「視覚」に対して疑問を持ったのです。そして彼は、私たちが客観的だと思っている視覚の世界から、年齢を重ねるにつれて彼の「視覚」が感受している世界のリアリティを表現しようとし、独自の「色調の変化による絵画」を描くことになったのです。

そのモネの絵画の変化は、一般的には20世紀以降の表現主義絵画や抽象絵画に近いものだと思われていますが、前田さんはそのモネの晩年の絵画に「写実絵画」とは異なるリアリティがあると指摘し、その点に関してはセザンヌの絵画とも共通していると考えています。彼らの絵画を凡庸な20世紀絵画の先駆けとして見るのではなく、彼らが追究したリアリティを軸として考察するなら、現代絵画史に新たな幹を見出すことになります。そこには抽象絵画などとは一線を画する「絵画のモチーフ」の問題があるのですが、その問題を唯一を引き継いだ芸術家がジャコメッティでした・・・、ということになるのですが、少し先走りました。前田さんの説明に戻って、ここから「知覚」と「感覚」の相違について学んでいきましょう。

 

ところが、感覚となれば、事情は異なってくる。ベルクソンは『物質と記憶』のなかで、「知覚と感覚との性質の差異」について、非常に詳細な論証を行なっている。彼が述べるところに従えば、知覚の対象は身体の外に在るが、感覚の対象は身体のなかに在る。言い換えれば、感覚の対象は、身体それ自身である。身体は、感覚すると同時に感覚されるものであるだろう。たとえば、匂いであるが、私が嗅ぐコーヒーの香りは、鼻の粘膜から入って私の身体のうちに流入する。香りは身体を満たして、身体のなかに起こる諸変化と同じものになる。私が嗅いでいるものは、コーヒーの香りに違いないが、感じられるその香りは鼻の粘膜から一定の強度で拡がっていき、私の身体と区別しがたいものになる。私が感じているものは、コーヒーの香りであると同時に私自身の身体である。

感覚の対象となっている身体は、感覚される匂い、味、肌触り、音のリズムといったものの強度に満たされて振動する。一本の弦に加えられる振動が、弦の全体を揺るがすほかないように、コーヒーの香り、肉の味、樹木の肌触りは、それぞれの強度に従って、私の身体のすみずみを揺るがす。こういう場合の私の身体は、行動するための骨や神経や筋肉の組織、諸器官の分岐などを必要としていない。感覚の強度は、その内容で私の身体を一挙に満たし、振動させる。まずいものを口に入れた時の私の身体は、そのまずさでいっぱいになり、まずさの感覚は逃れようもなく私の身体のすべてである。

だから感覚する身体は、知覚する身体とその存在の仕方において異なっている。身体には、二つの存在の位相があると言ってもよい。

(『絵画の二十世紀』<第一章「感覚の絵画」の誕生>前田英樹)

 

この前田さんの説明で、「知覚」と「感覚」の違いについて明確にご理解いただけたでしょうか?私はものわかりの悪い人間なので、前田さんの説明から言いたいことは何となくわかるものの、それでは私自身が「知覚」と「感覚」とを明確に説明できるのか、というと自信がありません。前田さんはこの後の部分でも、もう少し「知覚」と「感覚」の違いについて、それぞれが感受した後の人間の行動にどのように作用するのかということを中心にして説明しているのですが、言葉で説明されるほどその差異がわからなくなってしまう、というのが正直なところです。むしろ大雑把に、「知覚」は外部世界と私たちが接する場所であり、「感覚」を私たちが「知覚」から得たものを私たちの中に取り込む場所だというぐらいの理解でちょうど良いのではないか、と思います。前田さんの説明では次の二つの文章がわかりやすいと思います。

「知覚」については「身体によって知覚されるものは、身体の外に在って、身体がそれに働きかけうる範囲や条件を、身体に対して表している」という文章です。

「感覚」については「感覚の強度は、その内容で私の身体を一挙に満たし、振動させる」という文章です。

 

さて、ここからはセザンヌの絵画に関する説明です。モネが「知覚」に関するリアリティを追究した画家だとするなら、セザンヌは「感覚」について深く探究した画家です。そのことを前田さんは次のように説明します。

 

セザンヌは、感覚の役割をとほうもなく大きなところに置いた。色、味、匂いが私たちの身体に流入して響き合い、ひとつのものになる、そのものとは何か。セザンヌはそれを、自然が身体のうちに表現する自然みずからの「本質」だと見なした。感覚は、自然がみずからの本質を私たちの身体のなかに表現するための通路である。表現された「本質」は、身体の全域に流れて積み重なる。それは無意識の記憶となる。

だから、画家は自然が私たちの身体のうちに表現するところを表現するものである。セザンヌは、それを画家による「感覚の実現」と呼んだ。「実現」されるものは、感覚内容だけではなく、諸感覚の無意識の層となった記憶でもあるだろう。疑いなく、彼はこうした思想を、彼が最も傾倒した表現者であるボードレールから受け継いでいる。

<中略>

物の輪郭を目で捉えるのは、知覚(視覚)の働きによる。絵が「感覚の実現」を目指す物であるなら、画家が見るものは輪郭線ではなく、ひたすら色でなくてはならない。ひたすら色を見て、それが画家に備わる感覚の通路のなかで、絵具による「色斑(しきはん/tache)へと転換されていくのを待つ。この「待つ」という受動的な過程のうちにこそ、描く行為が現れてくる。画家の手が動かされ、絵具の斑点がカンヴァスの上に置かれる。セザンヌは、自然を前にしてイーゼルを置き、まず色だけが自分の身体に入り込んでくるのを待つ。入り込んできた色は、たとえばサント・ヴィクトワール山の輝く灰色は、この山を押し上げる大理石の匂いと響き合う、彼はそう言っている。感覚されたものの「万物照応(コレスポンダンス)」は、感覚そのものの本性だと言ってよい。味、匂い、色、音のリズムは、異なる感官を通って流体のようになった身体のなかで共鳴し合う。色には、匂いがあり、匂いには身を響かす音のリズムがある。

<中略>

画家がカンヴァスの上に絵具の斑点を配置していくのは、この行為を導いていく厳然とした「感覚の論理」(セザンヌ)によってである。この「論理」を、言葉による一般観念の展開に置き換えることは、確かにできないだろう。といって、これが記号を超えた表現の発露だ、などと考えることも事実からかけ離れている。

尊敬さるべきモネから、セザンヌが一線を画そうとした点は、二つある。ひとつは、モネが視覚の問題として捉えた「光=色」の在り方を、感覚の問題として根本から立て直すこと。もうひとつは、モネが自然の色を転写するために使った絵具の色、あるいは色の斑点、これを「絵画記号」としてはっきりと自覚し、その使用法を確立することである。セザンヌの言う「感覚の論理」は、絵具の色という、この絵画記号によってこそ展開される。いや、こう言い直した方が正確だろう。彼が「感覚の論理」というような、それ自体ですでに矛盾するかのような言葉を使うのは、自然の「色」という感覚内容を、紙、カンヴァスの平面に転換できる記号の存在を知っているからである。絵画記号による感覚内容のこの転換は、ほとんど論理学的と言えるような厳密さで推し進めることができる。セザンヌの信念は、そこにあった。

(『絵画の二十世紀』<第一章「感覚の絵画」の誕生>前田英樹)

 

前に取り上げた『セザンヌ 画家のメチエ』においても、前田さんは「絵画記号」という言葉を使いました。絵を描くことに「記号」という言葉はそぐわないような気がするかもしれませんが、「記号」というのはもともとあったものから、規則性を持って何かに表現し直したもののことを指す言葉です。セザンヌは、自らの「視覚」が見たものの色を、そのまま画面に移そうとはしませんでした。そこにはセザンヌの身体や感覚を通して変換された独特の色が描かれたのです。しかし、それは単なる気分や感情で変換されたものではありません。それが単なる感情の発露による変換であったなら、セザンヌの絵画は表現主義的なものとなったでしょう。セザンヌが変換した色は、そうでなくてはならない必然性がありましたし、そこには独自の「感覚の論理」による規則性があった、と前田さんは見ているのです。

モネとセザンヌとの違いは、モネは「視覚」が感受した色を、自然と平行しながらも「光=色」というふうにそのまま変換できると考えていたのですが、セザンヌはさらにそれを「感覚の論理」によって変換しなければならない、と考えていたことです。そこには、「視覚」の問題(モネ)から「感覚」の問題(セザンヌ)へ、そして自然からの変換(モネ)から論理による変換(セザンヌ)へ、という二つの相違があったというのが前田さんの解釈です。

 

このようなセザンヌの絵画における特色を理解した上でもうひとつ、二十世紀絵画とセザンヌの絵画を比較検討していく上で、前田さんが提起した興味深い問題について触れておくことにしましょう。それはセザンヌの絵画の「モチーフ」の問題です。

セザンヌの絵画が、「感覚の論理」を駆使することによって「感覚」の世界の「リアリティ」を探究したことについては理解できたところですが、その「リアリティ」を追求するためには、絵画の「モチーフ」の設定が鍵となります。このことについて書かれた部分を読んでみましょう。

 

ただ、ドラクロワの時代には、まだいやでも負わされていた「主題」という絵画上の制約が、セザンヌの時代には消えてしまった。これは写真のおかげだと言える。「主題」から解放された後の絵画には、究極のところ二つの道が残る。抽象絵画のように絵画記号の純粋なコンポジションに集中していくか、セザンヌのように「モチーフ」の実現を目指すかである。むろん、これらの二つの道は互いに排斥し合うわけではない。だが、独立して成り立つ二つの方向であることもまた、事実なのだ。

セザンヌがいう「モチーフ」とは、絵画の外に在って画家の制作を絶えず引き寄せるものである。「モチーフ」には、それがこのものであって、あのものであってはならない理由が常にある。サント・ヴィクトワールは、他の山であってはならない。それは、「モチーフ」として見出されたこの山が、ひとつの事物であることをはるかに超えた自然や物の「本質」を画家の感覚に明かすからだろう。言い換えれば、そのような本質を感覚に明かす事物なら、一個の林檎、ひとつの砂糖壺でさえ「モチーフ」となることができる。セザンヌが抱いたこの「モチーフ」という発想は、反「主題」的であると同時に、純粋な抽象絵画、つまり絵画記号の純然たるコンポジションへの反対を、すでに予め表明していたとも言える。この問題は、後にアルベルト・ジャコメッティの制作を通じて、極めて鋭い形で提起されてくる。そのことは、またあとで見よう。

画家に「モチーフ」を見出させるものは、ひとつには、外に向かって開かれる感覚の通路だが、もうひとつは、在るものについての画家の信仰である。二つのうち、いずれが欠けていても「モチーフ」に出くわすことはできない。セザンヌにとって、カンヴァス上に現れる「物の姿」とは、「モチーフ」が感覚のうちに沈殿していく最後の段階にほかならなかった。

(『絵画の二十世紀』<第一章「感覚の絵画」の誕生>前田英樹)

 

セザンヌの少し前の世代の大スターと言えば、ロマン派のウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 - 1863)ですが、ドラクロワは絵画の主題として何を選ぶのか、というところから古典派の画家たちと対決しなければならなかったのです。彼は古典派の画家たちが歴史画の大作や権力者に擦り寄った作品を制作したのに対し、革命の一場面を主題に選んだりしました。しかしその後、写真技術の発達によって、映像の記録としての側面から絵画が解放されることになりました。セザンヌはちょうどそういう時代に居合わせたのです。

しかし、写実絵画にはまったく興味がなかったセザンヌにとっては、描く対象物である「主題」や「モチーフ」の問題は、ひたすら創作上の問題として現れたのです。それは、彼が追究した「感覚」の「リアリティ」と大いに関係があったのです。

私の見るところ、後の時代でそのことを正しく認識していた芸術家は、唯一ジャコメッティだけだったのではないかと思います。前田さんが「そのことは、またあとで見よう」と書いていますから、そのことは次回に回すことにしましょう。

そして以前にも少し書いたことですが、3月の個展を終えたところで、ある尊敬する方から、私のこれからの絵の展開について、「主題」について考えることが必要なのではないでしょうか、という示唆をいただきました。これはとても参考になる助言でした。私はそのことについて、今も考察している最中にあります。

 

そんな事情もあって、次回はセザンヌの「感覚の実現」について、セザンヌの後を引き継ぐ人たちがどのように考えたのか、そして「モチーフ」の問題も含めて、私たちはセザンヌが実現した芸術上の成果について、どのように考えたら良いのか、検討してみたいと思います。

どうぞご期待ください。

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