現代美術家の田中恭子さんの展覧会が、東京・神宮前のトキ・アートスペースで開催されています。
http://tokiart.life.coocan.jp/2023/230516.html
ギャラリーのホームページをご覧になればわかりますが、一応、日程を書き写しておきます。
2023年5月16日(火)- 5月21日(日)12:00-19:00 (最終日17:00まで)
本日が最終日となりますので、お近くにお住まいの方は、ぜひギャラリーをのぞいてみてください。(このタイミングでのご紹介になったことが悔やまれます。)
また、私がこれまで田中さんの作品や展覧会に寄せたコメントについてリンクを貼っておきますので、よかったら参照してください。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/f1fc0c2fa3c44868ef272e18eea2428d
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/db07d0e1357c71ffbd69f9d5b6c82d38
そして田中さんご自身は、この展覧会にあたって次のようなコメントを寄せています。これがとても興味深いです。
<Artist's Comment>
フランスの詩人ポール・ヴァレリーが残した詩を作るにあたっての沢山の芸術哲学ノートを研究した著書を読んでいる。*
そこ ここ に絵画制作にも通じる考え方に出会う。
デッサンに於いては ダンスの動きのように 時間と身体について。
表現の中の動詞の役割。
拍子とリズムについて。
又その全体にかかる精神について。
私は制作をしながら遠く宇宙にまで広がっていくような広い広がりを覚える。
* 伊藤亜紗 「ヴァレリーの芸術哲学あるいは身体の解剖」
(「Artist's Comment」トキ・アートスペースHPより 田中恭子)
ここで田中さんが言及している伊藤亜紗さんの本ですが、残念ながら私は読んだことがありません。その代わり、同じく伊藤亜紗さんが書いて二年前に出版された『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』という本についてならば、拙い感想を書いたことがあります。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/207fa3fb341ace110f52a648a4dba187
私はこの感想を書いたときに、ヴァレリー( Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871 - 1945)の詩作と私の好きなロック・バンド、Talking Headsの『Remain in Light』 (1980)というレコードとを比較してみました。それほどヴァレリーの創作の方法論は、現在のアヴァンギャルド芸術と合致していたのです。
そして田中恭子さんは、ご自身の創作がヴァレリーの詩作と、あるいはそれを研究した伊藤亜紗さんの著作と、どこかで響き合っていることを感じているようです。そこで今回は、ヴァレリーの方法論と田中さんの創作活動について考えてみたいと思います。この試みは、田中さんが現代絵画について深く思考しながら創作している作家であることを考えると、ヴァレリーの詩作理論と現代絵画との関係を探る試みでもある、と言えるでしょう。
それでは、まず基本的なことを押さえておきましょう。なぜ言葉による芸術であるヴァレリーの「詩」と、田中さんの絵画とが響き合うのでしょうか?それはヴァレリーの詩が、具体的な情景やイメージから自由であろうとする「純粋詩」であるからです。そのことが、田中さんの絵画のあらゆる説明的な描写を排した抽象的な方法論とリンクしているのです。そのヴァレリーの「純粋詩」とはどのようなものなのか、伊藤亜紗さんの次の解説を読んでみましょう。
純粋詩が純粋詩たるゆえんは、それが「純粋」というそれ自体として名指すことの可能な性質を持っているからではなく、「純粋」という方法によって探究され、語られる理想だからであること。それは求める対象の名ではなく、対象を求める方法の名であること。これが「純粋」の語に関する最初の注釈である。
本章の議論も、この方法にならう。具体的にヴァレリーが「散文的」とみなす要素は、たとえば「描写」「イメージ」「登場人物」といったものであるが、こうした要素をひとつひとつ蒸留していくかたちで進行する。もちろん、その追訴の手続きはたんに排除すべき要素を列挙するのであってはならない。散文的要素のいくつかは相互に関連しあっている。われわれの議論は、こうした要素間の関連に注目しながら、それらを結びつけているより本質的な問題意識に向かってすすんでいく。
注釈の二点目は、すでに明らかである。すなわち、この語の使用にあたっての、ヴァレリーの政治性の欠如である。「純粋詩」はたとえば「純粋詩運動」のような文学上のムーヴメントを起こす意図をもって「宣言」されたのではない。その言葉づかいが強調するのは、すでに見たように「到達することの不可能性」であり、それは「理想」「絶対」と言い換えられ、道行きの困難さが強調される。「純粋」はしたがうべき規範ではない。たとえば美術史家・批評家のクレメント・グリーンバーグは純粋性を規範として提示しているが、その際に彼が強調するのは、到達することの困難さではなく歴史的な必然性である。
(『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』「Ⅰ 作品 第一章 装置としての作品」伊藤亜紗)
思いがけずグリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)の名前が出てきました。グリーンバーグはアメリカのモダニズム絵画を世界的な芸術へと押し上げた批評家ですが、彼は絵画のあらゆる要素を蒸留して、純粋な平面性へと向かうことを示唆しました。グリーンバーグは、自らが提唱した絵画の方向性はカント(Immanuel Kant 、1724 - 1804)以来の批判哲学を継承するものであると主張し、またアメリカの現代画家たちの創作は、それまでの美術史の流れを正当に汲むものだと宣伝しました。このグリーンバーグの主張は、文字通りに受け止めることもできますし、あるいは新興国家であるアメリカの絵画の正当性を強調するものであるとも言えるのです。
いずれにしろ、ここでグリーンバーグの名前が出てきたことから、「純粋詩」がモダニズムの絵画と親和性が高いことがお分かりいただけたと思います。ただし、この親和性には留保が付きます。次の伊藤亜紗さんの解説を付け加えておきましょう。
たしかに、潔癖なまでに散文から詩を区別しようとするヴァレリーの態度は、グリーンバーグの述べる近代芸術の流れに従うものである。音楽を理想とした、という点でも符合するものがあるといえる。とはいえ、ヴァレリーの芸術観にグリーンバーグの説明とは明らかに相容れない部分があるのも事実である。というのもヴァレリーは、詩と散文の対比をダンスと歩行の対比に重ねたり、建築に音楽を見たりと、個々の芸術ジャンルの個別性・固有性というよりは、それらのアナロジカルな関係にこそ関心を抱いていたからである。個々の表現形式の分析=ジャンルの分別という等式は、ヴァレリーにおいては成立しない。ヴァレリーがこだわっていたのは、詩と散文の区別というより「詩的なもの」と「散文的なもの」の区別であり、ヴァレリーの芸術観において「詩的なもの」はジャンルの垣根を超えてすべての芸術作品が持ちうる特質なのである。
(『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』「Ⅰ 作品 第一章 装置としての作品」伊藤亜紗)
この伊藤さんの解説によれば、ヴァレリーの「芸術観」は芸術表現のジャンルにこだわらない視野の広いものだということになります。それに比べると、グリーンバーグは絵画表現の特質である「平面性」に徹底的にこだわった批評を展開しました。このどちらが優れている、とか、いずれかが正しい、ということではありませんが、現代絵画の表現者である田中恭子さんが、「詩作」というジャンルの異なるヴァレリーの芸術観に惹かれたというのは、それだけヴァレリーの方法論の射程が広い、ということに関わるのでしょう。
このような基本的なことを押さえた上で、田中恭子さんという現代美術の表現者がヴァレリーに惹かれた理由をさらに考えてみると、ヴァレリーが芸術表現の「身体性」について考察したことがその原因としてあげられるでしょう。田中さんご自身も芸術表現の「身体性」について深く考えてきた人で、とくに米国のダンサー、振付師であるマース・カニングハム(Mercier "Merce" Philip Cunningham,1919 - 2009)について注目すべき発言をしていたことは、以前のblogで私が書いたとおりです。その田中さんが、より広い視野で芸術表現の「身体性」について考えたヴァレリー、あるいはそれを解説した伊藤亜紗さんの著作に惹かれたのは、ごく自然な流れだったのかもしれません。
ここで、伊藤さんが「身体」という大きな章立ての始まりの部分で、ヴァレリーの「身体論」についてどのように語っているのか、読んでみることにしましょう。
ヴァレリーはどのようなモデルを用いて身体を捉えようとし、どのような点において同時代の身体について議論を更新しようとしていたのだろうか。
ここでひとつ断っておきたいのは、本書では「身体論」の対象領域を、ヴァレリーが必ずしも「身体」という言葉を使って論じていない問題にまで広げて考察する、ということである。ヴァレリーには(本書からすれば狭義の)身体論と言えるテクストが存在するが、本書の身体論はこのテクストのみを扱うものではない。ヴァレリーは、意識や思考といった精神的な働きも、歩くことや食べること、あるいは性交することといった身体を物理的に動かす働きと同様、人間がもつ「機能」ないし「能力」のひとつとして捉える。つまり人間が為しうることは、精神的なものにせよ、物理的な作用を及ぼすものにせよ、本能に関わるものにせよ、すべて一元化して「機能」「能力」という語で同列に扱うのである。
(『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』「Ⅲ 身体」伊藤亜紗)
このように芸術表現における「身体性」について、ヴァレリーはここでも広い視野をもっていたようです。「意識や思考といった精神的な働きも、歩くことや食べること、あるいは性交することといった身体を物理的に動かす働きと同様」に捉えられるということですから、「意識や思考」も広い意味で「身体性」に関わることだとヴァレリーは考えていたのでしょう。
しかし、ここに一つ問題があります。「身体を物理的に動かす」というのなら、実際に何かが動いているのですから、そのことを意識するのは比較的容易です。それに比べて「意識や思考といった精神的な働き」を見てとることは容易ではありません。考えてみると私たちはふだんの生活の中で、ものごとを「見る」ともなく見て、「聞く」ともなく聞いています。それが日常的なことであればあるほど、私たちの「意識や思考といった精神の働き」は自動化されていて、そのことに気づく機会がないのです。そのことについてヴァレリーは、あるいは伊藤亜紗さんはどのように考えているのでしょうか。伊藤さんはヴァレリーの言葉を引用し、そのことについて考察しています。
《事物の自然な流れ》は、この《身体》に、特有の無感覚を要求するーこれは正常な行為の大部分における無感覚と比較しうる。この無感覚は、行為のある部分を、行為がそれに適合し従っている思考や感覚と混同し、別のある部分は、私たちが触れているものと混同することを可能にしているものである。
(・・・・)
要するに、すべての認識に要求される感性とは、通常無感覚である。生きる器官が認識されず、その働きが、感覚や知覚や思考や(たいした努力も特別な調節も必要としないような)単純な運動行為の産物のうちにさえ吸収されるような仕方で。
そういうわけで、目は、通常の視覚のうちに自身を感じさせない。見られたものは、目について語らない。同様に、精神的なやりとりも、その対象である組み合わせや置換がそのまま精神であるかのようである。機能が、その産物と即座に混同されるということがある。認識すること、考えること等は、機能作用であり、その結果についてはー部分的にはこの組織に依存しなければならない。
「事物の自然な流れ」に従った「正常」な知覚では、感覚器官はみずからを感じさせない。感覚器官の機能はその産物と混同されて、それじたいは感覚の対象とならない。ヴァレリーはそのように諸器官の機能が感じられないものとなっている身体をここで「精神の身体」と呼び、私たちの思考や認識といった働きもすべて「機能作用」に一元化して論じながら、身体が「精神の身体」となることのうえに、私たちの正常な生の営みが成り立っているのだと主張する。
確かに、私たちにとって視覚といえば「対象を見ること」であり、聴覚といえば「対象を聞くこと」であり、思考といえば「対象について考えること」である。目や耳、あるいは脳といった諸器官はあくまで知覚や思考が成立するための「媒体」ないし「条件」であって、そうである以上いわば「透明」でなければならない。それは決して「わたしの身体」として感じられてはならない。目や耳、脳の機能作用の結果に、機能じたいについての知覚が混入してはならないのである。もちろん、より厳密にいえば、「見る」ことひとつとっても、それを成立させるために関わる機能は必ずしも目という器官のそれのみには限定されないだろう。たとえば物体の運動を知覚する際には、私たちの運動に関わる機能が目に参与する必要がある。こうした補足的な働きをふくめ、自身の身体の透明化、無感覚こそ、私たちの正常な活動の秩序を成立させているものである。もし「疲れているために視野が白くぼやけて見える」としたら、そのとき見えるものは視覚の完全な産物とはいえないだろう。「視覚のもたらす完全な産物とは条件の感覚がゼロになっていることであると言えるだろう。目は排除される」。
ヴァレリーが私たちにうながすのは、このように「透明」と思われている私たちの身体的諸器官が、実は「不透明」であることへの気づきである。
<中略>
このようにヴァレリーの身体論は、身体の正常な働きが破れるような事態において、器官がいわば不透明化し、器官の機能それじたいが知覚の対象となる、そのさまに注目するものである。
(『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』「Ⅲ 身体 第一章《主観的》な感覚」伊藤亜紗)
このように日常生活において、意識されずに私たちが感受しているさまざまなことについて、ヴァレリーはそれを身体的諸器官の「透明化」と言っています。しかし、その「身体の正常な働きが破れるような事態において」、つまり何か異常なことが起こった時に「器官がいわば不透明化」する、すなわち私たちが無意識のうちにやり過ごしていたことが、その時、意識の上にのぼってくるのです。
このような身体的諸器官の「不透明化」は、私たちが私たち自身の諸機能の可能性を広げていく上で、とても重要なことです。私たちは日常生活を生きていく上では、正常に流れていくものごとをいちいち意識していくわけにはいきません。それらの「透明化」は、私たちにとって必要なことでしょう。しかしそれだけに埋没していたのでは、私たちの可能性は閉ざされてしまいます。ヴァレリーにとっての「詩作」は、言葉によって意識を覚醒させ、身体的諸器官の「不透明化」の状態を作り出すことだったのでしょう。ヴァレリーにとっての「詩」は、美辞麗句を並べて読者を陶酔させるものではありません。むしろその逆に、読者を陶酔から覚醒させて「身体の正常な働きが破れるような事態」を作り出すことにあったのでしょう。
このような芸術観のゆえに、ヴァレリーの創作論は「詩」というジャンルを超えて多くの(創作への意識の高い)芸術家に影響したのだと思います。田中恭子さんも、その中の一人なのです。それでは、田中さんの今回の作品について、ここまでの考察を踏まえてその内容を見ていきましょう。
田中さんの絵画は、モダニズムの絵画の流れを汲むもので、そのことは数年前までの彼女の作品を見た方がわかりやすいかもしれません。ギャラリーに置いてある資料を見ればすぐにわかることですから、ギャラリーに立ち寄られた方はぜひご覧になってください。田中さんはグリーンバーグが提唱した「絵画の平面性」や絵画空間の「均質的な強度」などの重要性をしっかりと踏まえて表現活動を続けています。そのことを強調するあまり、少し前までの彼女の作品には明確なグリッド(十字型のしるし)が具体的に描かれていました。そのことによって絵画空間の平面性や均質性が担保された代わりに、それが作品の自由度を阻むものにもなっていました。
しかし、絵画における「平面性」や「均質性」は描き手の意識に宿るものです。そのような意識を持って創作活動を行えば、画面上にグリッドが描かれていなくても、同様の絵画空間を創作することができるのです。私はそのことを、田中さんの作品の変遷を通じて実感し、学ぶことができました。現在の田中さんの作品には「平面性」や「均質性」を担保するようなグリッドは見られません。しかしそれらのことは、画面上の一つ一つの筆致を見れば感じることができるのです。一見すると、自由気ままに描かれたように見える筆致ですが、そこには壁に触れるような一定の抵抗感があるのです。
さらに今回の作品では、グレーから濃紺系の色と茶系の褐色との対比的な大きな流れが表現されていました。しかし、それらの対比は画面の「平面性」を損なうものではありません。画面上に感じられる流れは、絵画空間を限定的に構成するものではなく、むしろ構成を壊すもの、画面の周囲の空間を取り込んで絵画を大きく躍動させるもののように見えました。このような作品の方向性は、これからもさらに作品の自由度が上がっていくのではないか、という期待を抱かせるものです。
このように気ままな筆致のなかに平面への一定の抵抗感が感じられ、対比的な色を使いながらも硬直した構成的な画面とはかけ離れた自由な空間を得るという、このような矛盾した表現を田中さんはどのようにして手に入れたのでしょうか?それは、おそらく彼女が表現の「身体性」に興味をもってきたことと関係があるのでしょう。伊藤亜紗さんのヴァレリー論に倣って言えば、田中さんは通常の作家が陥りがちな自己表現の「透明化」に抗って、常に自分を覚醒した状態に置き、自分の表現を「不透明」な状態で見ようとしてきた作家です。そのことが、彼女の表現に緩やかな変化をもたらしたに違いありません。その変化は観念的なものではなく、「身体性」をともなっているからこそ、理論上は矛盾した表現が実践として可能となっているのです。
今回、田中さんに直接お話を聞くと、一点の作品を仕上げるのに、エスキースからタブローまで一連の流れで制作しているとのことです。複数のエスキースやタブローを同時に手がけたり、大量のエスキースの中から順番にピックアップしてタブロー化していくというのではなく、一つの作品の大きな流れが頭を占めると、それがタブローとして仕上がるまで次の作品には移れないのだと彼女は言っていました。これも伊藤亜紗さんのヴァレリー論に倣って言えば、「意識や思考の働き」を含めた「身体性」が田中さんの中で息づいていることの証明であると思います。「思考」だけが別に働いているのなら、いくつかの作品を同時に手がけることも可能でしょうし、作品をいっぺんに量産することだって可能でしょう。しかし、「意識や思考の働き」と「身体性」が一体となっているとしたら、そういうわけにはいかないのです。それらは互いに限定し合い、勝手な都合で移り変わっていくことを許さないでしょう。
さて、ここまでのことを読んで、たとえば若い方々はどのように感じるのでしょうか?AIが短時間で何でも考えてくれて、あっという間に処理をしてくれるこの時代に、何とも効率の悪いことだな、と思われるかもしれません。田中さんの創作方法について知ってみると、「もう、そんなアナログな考え方は古いよ!」と感じるかもしれませんね。
でも、ちょっと待ってください。私は教育に携わる仕事をしている人間ですが、少し前までは「AIにできないような複雑な思考力を生徒に身に付けさせないと、将来、その生徒は仕事を失ってしまう」と大仰に言われたものでした。その言い分の中には、「思考力のあるエリートはAIに負けないから大丈夫、そうでない生徒はAIに仕事を奪われてもしょうがない」という差別意識を感じたものでした。私はその時に「人間の仕事を奪うようなAIならば、開発しなければ良いのに!」と思ったのですが、そういう論調はまったくありませんでした。
ところが、A Iの目覚ましい発達によって「エリートの仕事でさえAIに奪われるかもしれない」という事態になって、ようやく「AIをどのように開発していったら良いのか、真剣に議論しなければならない」という雰囲気に変わってきました。芸術に関する創作活動も例外ではありません。映画の脚本なども、パターン通りのストーリーならAIが書いてしまいます。「米ハリウッドではAIに仕事を奪われかねないとして、映画脚本家らが大規模なストライキを実施」という記事を読むと、すでにそういう時代が来てしまっている、と思わざるを得ません。
https://www.yomiuri.co.jp/economy/20230513-OYT1T50332/
このようなAIの開発に関する議論について、何が正しくて何が間違っているのか、私にはよくわかりません。ただ、私が関わっている子供たちが将来、不幸なことにならないように、と願うばかりです。人間は科学の発達に信をおきすぎたために、核兵器の開発をはじめとして、これまでも多くの失敗をしてきました。このAIに関する問題は、あまりにも私たちの生活に密着しているために、今度こそ手遅れにならないことを祈っています。
しかし、芸術に関することについては、私はまったく絶望していません。たとえば今回着目した芸術表現と「身体性」の問題は、AIの開発が取り沙汰されている今だからこそ、誰もが真剣に考えなくてはならない問題になっていると私は思います。というのは、AIが絶対に身に付けられないものの一つが、ヴァレリーが、あるいは伊藤亜紗さんが示唆している「身体性」をともなう「意識や思考といった精神的な働き」であることに間違いないからです。「意識や思考といった精神的な働きも、歩くことや食べること、あるいは性交することといった身体を物理的に動かす働きと同様」に捉えられるという考え方、すなわち「身体性」が分断されていない「精神的な働き」というものは、そもそもAIとは縁がないものです。もしもあなたが芸術表現に携わる方であるなら、あるいは芸術表現に興味をもっている方であるなら、田中さんの実践にぜひ注目してください。田中さんの作品の画面上に施されている筆致の一つ一つが、「身体性」をともなった「意識や思考といった精神的な働き」そのものであり、コンピュータでは絶対にできないものだからです。
私はAIによる思考やオンラインによる情報伝達が発展している今だからこそ、「身体性」を重視した田中さんのような表現や、ギャラリーで実物の、それも良質の作品に触れることが重要なのだと考えています。
今回は、田中恭子さんの作品ばかりでなく、そのコメントからも芸術表現における「身体性」の問題について、あらためて考えることができました。こういう不意の出会いというものは、大掛かりな美術館での展覧会よりも、ふと覗いてみた街のギャラリーの展示の方に大きな可能性があると思います。やっとコロナ禍から解放され、街が賑わってるようですが、その際にはぜひギャラリーにも立ち寄って、本当の精神的な自由を享受してみてはいかがでしょうか?
ちょっと話しが飛びますが、そう言えば、1967年に『書を捨てよ、町へ出よう』という本を寺山修司(てらやま しゅうじ、1935 - 1983)さんという詩人・劇作家が書いて話題になりました。その本は、学問の閉域にとどまることのない、若者の実践的な活動を大いに鼓舞したのです。(本を読まなくていい、という意味ではありません。寺山修司さんは、たいへんな勉強家でもあったそうです、念のため。)その言葉の元になっているのが、ジッド(André Paul Guillaume Gide, 1869 - 1951)の『地の糧』(1897)というエッセイ集だったのですが、その本が意外なことにテレビドラマの主題歌として取り上げられて、話題になっているそうですね。
今の若い方は、良い感性をもっています!等身大の軽めの曲調も、とても自然な心の動きを表現しているようで、好感が持てます。
コロナ禍でいろいろなことがあった今だからこそ、「街へ出よう」という言葉についてあらためて考えてみるのも面白いかもしれません。思い出してみると、寺山修司さんのちょっとくどくて、土着的な野暮ったさのある表現が、今となっては懐かしくもあります。今時のヒットソングとはかけ離れた雰囲気があって、それが当時の若者を惹きつけたことを、今の若い方にも知っていて欲しい気がします・・・。