平らな深み、緩やかな時間

283.『現象学』木田元著②ハイデガーについて

前回に引き続き、哲学者の木田 元(きだ げん、1928 - 2014)さんが1970年に書かれた岩波新書『現象学』について書きます。できれば、前回の「①フッサールについて」も併せてお読みください。

 

前回は現象学の始祖であるフッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)について木田元さんの解説に導かれて勉強しました。今回は、そのフッサールの思想をハイデガー(Martin Heidegger, 1889 - 1976)がどのように引き継いでいったのか、を見ていきます。この一連の考察の最終回(たぶん、④・・)で、このblogで勉強した國分功一郎さんのスピノザの研究「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」(國分功一郎さんの著作より)について比較検討することを目標としています。もちろん、現象学と美術との関わりについても考察していきます。

 

まずは前回の復習です。

自然(科学)的な学問の積み上げの上で論理学、心理学を探究していた、数学者でもあったフッサールは、その「自然的な学問」に疑問を抱きます。そこでフッサールは、それまでの学問を保留して、世界を根源的に見直してみる、という「現象学」を提唱しました。これをフッサールは、「超越論的還元」というふうに言いました。しかし、世界を根源的に見直すと言っても、それをどのように実践するのか、という点でフッサールには新たな課題が生じてきました。フッサールの現象学は、その思想の深化の過程で揺れ動き、その後の展開はフッサールの後の世代であるハイデガー、サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre 、1905 - 1980)、モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)らへと引き継がれることになりました。

 

ここまでが前回の復習です。

現象学の始祖であるフッサールが、自分の学問の継承と発展の期待を寄せたのがハイデガーでした。ハイデガーについてですが、是非ともその主著『存在と時間』について二回にわたって学習した、私の過去のblogを参照してください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/a21bdd3a67da9a63addbd4977cac48be

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/293427db0917045f97d3c14def20e2f3

 

さて、木田元さんはハイデガーとフッサールの思想の継承を語るにあたって、フッサールの生涯を振り返ります。フッサールの偉大な人生は、はたして恵まれたものだっただろうか、と問いかけているのです。フッサールの周囲には、若い、優秀な学者が集まってきましたが、彼らはフッサールが現象学を深化させるにつれ、それを理解できずに、師に裏切られたと思ってフッサールのもとを去っていったのです。その様を「未踏の地にひとり馬を進めるあの騎士の孤独を、かれもまた噛みしめることが多かったのではないであろうか」木田さんは書いています。

そして木田さんがハイデガーについて書き進めていった、次の文章をお読みください。

 

なかでも心痛む思いがするのは、ハイデガーとの関係である。単なる私生活上の問題にとどまるものではなく、現象学の展開にとっても決定的な意味をもつかれらの出会いと別れについて、ここで少し考えてみよう。

かれらの直接の交渉は1916年にはじまる。その前年ハイデガーはフライブルク大学のリッケルトのもとで私講師の資格を得ているが、16年リッケルトがハイデルブルクに転任し、その後任としてフッサールが招かれる。こうしてハイデガーは、その後23年にマールブルク大学の教授として赴任するまで、フッサールの傍近くいてその指導を受けることになる。

(中略)

ハイデガーのマールブルク赴任以後、二人の関係はいくらか疎遠になったらしいが、それでも、ハイデガーは1927年には、マールブルク時代の総決算ともいうべき『存在と時間』を「尊敬と友情をこめて」フッサールに捧げているし、それに応えるかのようにフッサールは翌28年、フライブルク大学を退き、そのポストをハイデガーに譲っている。名実ともにフッサールの現象学の後継者という恰好だったのである。だが、すでにこの頃、二人の関係には眼に見えない罅(ひび)が入ってきていた。

(『現象学』「Ⅳ 実存の現象学」木田元)

 

前回も書きましたが、フッサールという人は忍耐強く、堅物で、そして仕事に私情を交えまいとした、好ましい頑固親爺に見えます。ハイデガーに距離を感じつつ、彼に大学の席を譲った心情を考えると、どうしても同情してしまいます。

さらにこの間、二人には『大英百科事典(エンサイクロペディア・ブリタニカ)』の「現象学」の項目の執筆という大きな仕事のやり取りがありました。この項目に「現象学」が入るということは、「現象学」が公式に認知されたということです。フッサールはその執筆の協力者としてハイデガーを選んだのですが、結局、ハイデガーの書いたものを採用せず、ほとんど自分で仕上げてしまったようです。そこには二人の学者の「現象学」への解釈の違いがあった、ということです。

この二人の相違点について、わかりやすく簡明に書かれた文章は『現象学』という新書の中にはありません。あるいはそうでなくても、たとえどの本の中であっても、フッサールとハイデガーの相違を簡単に示すことは困難だろうと思います。例えば、次の文章を読んでみてください。内容がスーッとわかる文章でしょうか?

 

フッサールにとって超越論的還元とは、世界の存在を素朴に前提する自然的態度を脱し、主観による超越論的な世界構成の作業を明らかにする方法であったが、ハイデガーによれば、超越論的構成の座としての主観の存在は実存の遂行によってのみ開示されうる。つまり、現象学的還元は決して特殊な方法的操作ではなく、人間的実存の一つの可能性なのである。『存在と時間』の意図がフッサールの構成現象学の思いきった徹底にほかならないゆえんは明らかであろう。

(『現象学』「Ⅳ 実存の現象学」木田元)

 

前回も書いたように、フッサールの「自然的態度」というのは、「自然科学的態度」と思った方が、私たちのイメージに近い言葉になると思います。私たちの近代までに至る知識の積み上げが、かえって世界をあるがままに見ようとするときに邪魔になるので、「世界の存在を素朴に前提する自然的態度を脱し」、その知識を一時的に保留しましょう、というのがフッサールの現象学的な態度です。

それに対して、ハイデガーは以前のblogで確認したように、私たちが世界を見るときに、まず前提となるのが自分という存在だと考えました。それをハイデガーは「実存」と言ったのです。世界をあるがままに見ようとしても、そもそも私たち自身の存在が、本来あるべき生き方をしていないのでは話にならない、とハイデガーは考えました。私たちは、社会生活の中で自分の「本来」あるべき生き方を疎外されてしまって、「非本来」的な生き方しかできていない、だから私たちという存在=「実存」が「本来性」を取り戻すことが重要なのだ、とハイデガーは考えたのです。

ここからは私の解釈ですが、この両者を比べると、フッサールはあるがままの世界、あるがままの存在と出会い、それを認識するのが現象学のあり方だと考えているのに対し、ハイデガーはその世界を認識する自分という存在=「実存」が問題で、その「実存」が「本来性」を取り戻すこと、それを遂行することが現象学であるはずだ、と考えたのだと思います。この差異には、数学や論理学から現象学を生み出したフッサールと、哲学の歴史に深い造詣を持つハイデガーとの資質の違いがあるように思います。卑俗な言い方をすれば、理系のフッサールと文系のハイデガーの違い、と言ったらわかりやすいのかもしれません。

この師弟の食い違いは、学問の領域にとどまらず、社会的な境遇においても悲劇的な隔たりとなってしまいます。

木田さんの次の文章を読んでみてください。

 

しかも、二人の悲劇的な関係はこれで終わるわけではない。その後、1930年代のドイツの政情が分けた二人の運命の明暗は異様なほどに対照的である。33年のヒトラー政権確立後、ユダヤ系であったフッサールは大学教授公認名簿から除名され、大学構内への立入りさえ禁じられた。ドイツ国内での著書の新刊や再版が禁止されたのはもちろん、プラハ(33年)とパリ(37年)の国際哲学会議に派遣されるドイツ代表団への参加はもちろん、個人資格での出席さえも許可されなかった。

(中略)

こうして、33年以降38年4月27日の逝去の日まで、フライブルクにおけるフッサールの生活は次第に孤独の影を深めていった。事実、かれの最後の病床を見舞い、果ては葬儀に参列するのにさえかなりの勇気を要した由である。

一方、ハイデガーは、結局はエピソードにすぎなかったにもせよ、1933年ヒトラー政権確立の直後フライブルク大学の総長に就任し、「ドイツ大学の自己主張」という、いかにもヒトラーへの協調を思わせる就任演説を行なっている。もっとも、総長の職は翌年辞任し、その後はかれも、いわば時代に背を向けて、ヘルダーリンやニイチェの研究に沈潜することになるのだが、ふたたび二人が会う日はついに来なかったのである。

(『現象学』「Ⅳ 実存の現象学」木田元)

 

まるで映画を見るような、ドラマティックな二人の運命です。ハイデガーに関して言えば、教え子で愛人でもあったハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906 - 1975)とも、戦中、戦後の立場の違いがありました。ハンナ・アーレントの映画では、ハイデガーはいかにも独裁政権に擦り寄りそうな、だらしない男として描かれていました。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/dcf20f5daed7e0c55f0e9715d05eb525

木田元さんは、ハイデガーの『存在と時間』を20世紀前半を代表する哲学書として選ぶほど高く評価しているので、ハイデガーのヒトラー政権への加担についても、やや優しい書き方をしていると思います。上記のハイデガーの大学総長就任演説は、学生たちに対して国のために尽くせ、という酷い内容だったようです。ハイデガーはユダヤ系の人たちからすると、許すことのできない存在だったと思います。

 

さて、その『存在と時間』というハイデガーの著書ですが、これについてはこの文章の初めの方で書いたように、その解読のために二つのblogの文章を書いているので、そちらを基本的に参照してください。その上で、木田元さんが『存在と時間』が抱えてる大きな課題について言及しているので、その部分を引用しておきます。

 

それはよいのであるが、(『存在と時間』は)その存在論の実現に、二つの異なった思考動機がからみあっているように思えるのである。その一つは近代の理性主義を真っ向から否定しようとしたキルケゴールに由来するいわゆる実存的な思考動機であり、もう一つは、なんと言っても理性の復権を目ざすフッサールの現象学的動機である。つまり、存在の意味を問うために、存在がみずからを開示する場面としての現存在を浄化するという企図が、一方では非本来的実存から本来的実存へという実存的決断に結びつけて考えられ、他方では自然的態度から現象学的態度へという現象学的還元の思想と結びつけて考えられているわけである。しかも、この両立不可能ではないかと思われる二つの立場が、ハイデガーのたぐいまれな精神的緊張のなかで、渾然と分かちがたく統一されている。たとえば、かれがここで現存在の実存構造の分析と規定に用いている「実存疇(うね)」Existenzialienの相当数、関心、不安、死へ臨む存在、負い目、良心、決意性、想起、反復、瞬間など思いつくままに挙げてみても、その大部分がキルケゴールから借りてこられたものであることは明らかであろう。しかし、そうした概念の内実は、よく見ると意外に現象学的なのである。また、既刊の上巻は二編からなり、第一編が「現存在の予備的基礎分析」、第二編が「現存在と時間性」となっているが、どちらかと言えば第一編は現象学的動機によって、第二編はキルケゴール的動機によって規定されており、しかもそれが緊密な構成によって結び付けられているのである。

しかし、いささか思いきった言い方をすることになるが、わたしはこの二つの契機、キルケゴール的契機と現象学的契機とは元来結びつきえないものであり、そして『存在と時間』の基本的発想、予告されていた後半をもふくめた全体を貫く基本的発想を規定しているのは、現象学的モティーフだったのではないかと考えている。つまりハイデガーの思索にあって、キルケゴール的契機はいわばエピソード的なものだったのであり、それに深入りしたために後半へ筆を継ぐことができなかったのではないか、ということである。

(『現象学』「Ⅳ 実存の現象学」木田元)

 

ここでセーレン・キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard、1813 - 1855)の名前が出てきました。デンマークの哲学者、思想家で『死に至る病』という著作が知られている人です。実存主義の先駆けとも言われている人ですので、ハイデガーが影響を受けていても不思議はありません。ただ、私はちゃんとキルケゴールの本と向き合ったことがなく、このblogで取り上げたこともありません。近日中に、その穴埋めをすることにします。

それはともかく、先ほど私はフッサールとハイデガーとの対比について書きましたが、木田さんがここで書いていることは、その二人の対比がハイデガーの『存在と時間』の中にもあるのだ、ということのようです。そして、それまでの哲学について深い教養を持つハイデガーの中には、キルケゴールに影響された部分が多いのではないか、と木田さんは言っているのです。そのキルケゴール的なものは、決してフッサール的なものとは相入れない、けれどもハイデガーは『存在と時間』を書き継ぐうちに、キルケゴール的なものに深く傾倒してしまいました。両者のギリギリのバランスで書かれた未完の大著である『存在と時間』は、その後完成することはありませんでした。

ハイデガーは存在一般について考察する前に、まずそれを認識する人間=「実存」について考え、その後に『存在と時間』の後半で存在一般と向き合おうと考えていた、という話ですから、それはキルケゴール的なものを超えてフッサール的なものと向き合う、ということになるのでしょう。そのことのあまりの困難さの故に、『存在と時間』の後半は書き継がれることはなかった、という推理が成り立ちそうですが、本当のところはよくわかりません。

 

さて、このようにフッサールから現象学を引き継いだハイデガーは、ハイデガー独自の思想の中で現象学を深化させました。しかしハイデガー自身によって、『存在と時間』を書き継ぐことが困難となり、一方の師のフッサールはヒトラーが台頭する中で、社会から疎外されたままで世を去りました。そして戦争が始まる前のギリギリのタイミングで、フランスの若者であったサルトルが現象学を学ぶために、パリからベルリンへと出発したのです。

これらのことをまとめて、木田元さんは次のように書いています。

 

そこで、さきにふれた『存在と時間』におけるハイデガーの迷誤をこう考えることができよう。かれの考えでは、存在の意味は現存在の存在理解において開示される。ところで、「被投企的企投」と言った統一的な構造連関をもつ現存在の存在を可能ならしめているものは、実は「時間性」Zeitlichkeitである。当然、存在理解も時間的に規定されているわけであり、したがって、存在というものはつねに暗黙のうちに時間から理解されてきた。そこで、アリストテレス以来さまざまに論じられてきた存在の多様な意味のうち、どれが本源的なものであり、どれが派生的なものであるかも、それがどれほど根源的な時間的地平ー時節性(テンポラリーテート)ーに根ざしているかから判定されねばならないであろう。だが、それに先立って、まず現存在の時間性そのもの、つまり、過去ー現在ー未来を発現させてそれを統一的連関に組みこむ仕方、もっと簡単に言いなおせば現存在がおのれの時間を生きる生き方を、その本来性にまで浄化しておかねばならない。ところが、いかなる生き方が本来的であるかは外的基準によって決定さるべきものではなく、実存の遂行そのものによる現存在の自己了解から決せられるべきものである。そして、その現存在とは決して誰であってもかまわない現存在一般といったものではなく、あくまで各自的な現存在、つまりその事実的な世界内存在を生きるハイデガー自身でなければならない。

(中略)

こうして、当時かれの心を捉えていたーとレヴィットなどが伝えているーキルケゴール的な人間観が入りこんできて、当初の存在論の構想にあるべからざる方向を与え、それが『存在と時間』の続稿をむずかしくしたのではないかと思うのである。

しかし、それにしても、哲学の理念の思いきった変更、つまり、フッサールにあってさえある絶対的な主観の業とされてきた哲学的反省を徹頭徹尾自己の実存を生きる人間存在のうちに根づかせようとしたハイデガーの決意が、現象学にまったく新しい展開を約束したことはたしかである。

すでにふれたように、『存在と時間』の出現とともに、ドイツの哲学界においても、いわゆる現象学派の内部においても、主導権はフッサールからハイデガーの手に移る。そして1930年に入り、やがてナチス体制が確立されると、フッサールは完全な沈黙によって取りまかれ、ハイデガーもまた現象学を口にしなくなる。こうして、1930年代のドイツにおいて現象学はまったく過去のものとなってゆくのであるが、ちょうどその頃、アロンやサルトルやメルロ=ポンティといったフランスの若い世代がこの遺産を貪欲に摂取して、自分たちの新しい思考のスタイルにつくりかえてゆくのであある。サルトルが現象学を学ぶためベルリンに出発したのが、1933年、ナチス政権成立の直後であった。

(『現象学』「Ⅳ 実存の現象学」木田元)

 

フッサールが灯した現象学の灯火が、天才的な哲学者であるハイデガーの中で哲学史と連結され、とりわけ北欧の孤高の思想家であったキルケゴールと結びつき、それが国境を越えてドイツからフランスへと移っていきます。この偶然は、ドイツがヒトラー政権に席巻されて、さまざまな思想や芸術が弾圧されていくことを考えると奇跡的なことのようにも思えます。あるいはこれは、現象学という思想が世界から必要とされていたことによる必然でしょうか?

そして、私にとってはこの後、現象学を学んだメルロ=ポンティが、画家セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)の中に現象学的な世界観を見出すことを考えると、この一連の流れは本当に幸運なことだと感じるのです。

しかし、「現象学」とは言ってもフッサールとハイデガーでは見解に相違があったように、サルトルとメルロ=ポンティではジャンルの違う学問のように感じるほどに変わっていきます。学問の深化と発展というのは、本当に不思議なものだと思います。その流れを見ていくだけでも、十分に興味深いと思いませんか?

次回は、フランスに移ってからの現象学を見ていくことにします。

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