平らな深み、緩やかな時間

287.『嵯峨野明月記/辻邦夫』から俵屋宗達を思う

『京都・智積院の名宝/サントリー美術館』をご覧になりましたか?

1月22日(日)まで開催されていますので、未見の方はそろそろ急ぎましょう。

https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2022_5/index.html

ご覧になる前に、よかったら私のblogをご覧ください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/ab6e13cf002e345967e93e657925c97c

そのblogでは、同じ時期にご覧になれるクリストの展示もご紹介しているので、そちらも立ち寄ると良いと思います。六本木で芸術三昧の休日を過ごせますよ。

 

さて、智積院の障壁画は長谷川 等伯(はせがわ とうはく、1539 - 1610)とその工房が制作したものですが、等伯よりも少し後の世代になる俵屋 宗達(たわらや そうたつ、生没年不明1570頃 - 1640頃)という江戸時代初期の画家がいます。前にも書きましたが、私は学生時代に、京都の国立博物館で見たい展示があると、博物館を見たついでに智積院の等伯の障壁画を見て、さらに養源院の宗達の杉戸絵を見て帰る、というルートで養源院の宗達作品を何回か鑑賞しました。

https://www.kyoto-museums.jp/museum/east/719/

また、醍醐寺で宗達の『舞楽図屏風』が展示されると聞いて、醍醐寺まで見に行ったこともありました。ちょっと暗かったけれども、とても感動しました。

https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NP023/NP023.html

舞楽図の一つ一つの形は、当時の様式化された図柄の引用だそうです。しかし、空間の使い方に何とも言えない面白さがあって、宗達のオリジナリティーが十分に発揮されています。この空間の間合いは、一体何なのでしょうか?見れば見るほど、謎が深まります。こういう感覚は他の画家の作品にはなかなか見られなくて、強いて言えばマチス(Henri Matisse, 1869 - 1954)の良質の作品に似た感覚があります。

https://intojapanwaraku.com/art/1349/

https://cosmusica.net/?p=13706

しかし、一般の方には宗達といえば何と言っても『風神雷神屏風』の絵で知られているでしょう。筆使いに勢いがあって、完璧な図柄なのに豪快なタッチで一気に描いているところが素晴らしいです。

https://www.kyohaku.go.jp/jp/collection/meihin/kinsei/item10/

宗達が亡くなった頃に生まれた後輩の尾形光琳(おがた こうりん、1658 - 1716)が宗達の絵の模写をしています。見比べてみましょう。光琳はやはり優れたデザイナーだったと思います。宗達の絵の描写の勢いよりも、フォルムの面白さが気になっているようですね。この二人の作家を見比べてみると、画家とデザイナーの感覚的な違いが見えてきて、興味が尽きません。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/538828

それにしても、等伯と宗達は親子ほどの世代の違いがあって、宗達と光琳は曽祖父とひ孫ほどの世代の違いがありますが、わずか200年弱の間に日本美術史上の偉大な作家が入れ替わるように登場したわけで、日本の絵画芸術の成熟を感じます。

 

その中でも宗達は、生没年もわからない謎の多い画家です。一体どんな人だったのでしょうか、興味が湧きます。私は、彼の描いた「風神雷神」のようにおおらかで、ちょっとこわい人だったのかなあ、と勝手に想像してしまいます。

もしも、私のように思った人がいらっしゃったら、おすすめの本があります。小説家でフランス文学者の辻 邦生(つじ くにお、1925 - 1999)さんが書いた『嵯峨野明月記』(1971)という歴史小説です。私自身、この本を読んだのは学生の頃ですので、内容はうる覚えです。さっと読み返すこともできない密度の濃い本なので、とりあえず、書店の紹介を書き写しておきます。

 

〈嵯峨本〉は、開版者角倉素庵の創意により、琳派の能書家本阿弥光悦と名高い絵師俵屋宗達の工夫が凝らされた、わが国の書巻史上燦然と輝く豪華本である。17世紀、豊臣氏の壊滅から徳川幕府が政権をかためる慶長・元和の時代。変転きわまりない戦国の世の対極として、永遠の美を求めて〈嵯峨本〉作成にかけた光悦・宗達・素庵の献身と情熱と執念。芸術の永遠性を描く、壮大な歴史長篇。

(『嵯峨野明月記』書店紹介)



この本の主役とも言える「嵯峨本」とは何でしょうか?「Wikipedia」には、次のように書いてあります。

 

嵯峨本(さがぼん)とは、日本の近世初期に行われた古活字本である。慶長年間の後半、本阿弥光悦およびその門流が京都の嵯峨で出版した書物を指す。「光悦本」とも呼ばれるが、光悦の関与を疑問視する意見もある。角倉素庵が出版に関与したことから「角倉本」とも呼ばれる。

(Wikipediaより)

 

その「嵯峨本」の画像はこちらからご覧になれます。

https://www.printing-museum.org/collection/looking/70474.php

流れるような文字が活字であるとは信じられませんが、それだけ手間がかかったようです。結局、ヨーロッパのアルファベット表記の活字ほどの利便性がなく、それよりも木版で刷った方が便利だ、ということになったようで、日本では長らく木版印刷が栄えたようです。

しかしそのことによって、かえって辻邦夫さんは「嵯峨本」にロマンを感じたのかもしれません。

 

さて、『嵯峨野明月記』の内容ですが、小説の主人公は三人います。それが「一の声」「二の声」「三の声」というふうに入れ替わり立ち替わり、独白で登場するのです。それがわからずに小説を読み出すと、あまりに難解で投げ出したくなるかもしれません。一つ一つの声の出だしの部分を紹介した上で、その人に関するちょっとした解説を付けておきましょう。

 

「一の声」

私はもうすでに十分生きながらえてきたように思う。いまは残る歳月をお前たちのために役立てたいと思うばかりだ。私にはかつてのような体力もなく、お前たちや職人一統をを率いてゆく気力もない。私がここを経営してすでに二十年。はじめて家の土台が置かれた日、村の入り口に植えた松と梅が、いまでは見事な枝ぶりで私たちの往還を飾っている。この二十年のあいだですら、私は家業に励み、多くの手すさびをたのしみ、お前たち一族が行く末ながく安泰に暮らしうるだけの家屋敷も保ちえたように思う。家父より譲られたものに、それは何ほどの寄与もしなかったであろうが、しかし私らが我執を去り、家業を専一と心がけ、簡易清貧を旨とすれば、それだけでも心豊かに寛いだ生活が十分にできるはずである。だからいま私がお前らに残しうるものといっては、ながい生涯のあいだに見聞きしたさまざまな物語、珍しい出来事、心ひかれる人物、移りかわる世のさまを、ありのままに語ってゆき、お前たちがそこから自らの思慮と行いの指針となるべきものを引きだしうるようにしてやることくらいである。

(『嵯峨野明月記』「第一部」辻邦夫)

 

「一の声」は本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ、1558 - 1637)です。

江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人です。通称は次郎三郎。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる、ということですが、光悦の作品として私たちが見る機会が多いのは陶芸と書の作品でしょう。ただ、美術好きには彼がプロデュースした蒔絵の工芸品の方が親しみがあると思います。あるいは、宗達との共作の絵和歌巻が、とにかく素晴らしいです。私はこれが日本の巻物文化の頂点の一つだと思っています。それらの作品のリンクを貼っておきます。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/158938

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/159475

https://www.tokugawa-art-museum.jp/en/exhibits/planned/2017/0415/post-7/

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/537842

https://www.suntory.co.jp/sma/collection/gallery/detail?id=704

 

「二の声」

おれから何を求めようというのだ。無理だ、無理だよ。おれは何も持ってはおらぬ。おれにあるのは、ただ絵筆を握ることだけだ。それに、だいいち、おれにはまたやることが多すぎる。おれはあれもやり、これもやり、その次に控えているものをやり、こうしていくらでもやることが残っているのだ。なんだって?年のことを考える?そんなことは一度もないな。おれはおれのやりたいようにやる。そうだ。お前たちが何を言おうと、そんなことはおれにはまるで無関係だ。お前たちが何を言おうと、おれはまるで何も感じないのだ。それほどにも、おれは、こうして夜の闇が深々とおれを包むのさえ、にがにがしく思えてならんのだ。これは年のせいもあるが、宵闇が這いよるようになると、おれの眼は少し霞むようになってきた。それに燈心のあかりでは、色の輝きが狂うのだ。昼のあの輝かしさ生まれないのだ。だから、おれは夜がくると、その濃いねっとりとした闇が、まるで肉体をそなえた何者かの化身のごとく、おれの手から絵筆をもぎとるような気がしてくるのだ。おれが、こうしてまんじりともせず、床のうえでうずくまっているのを見たら、さぞかし手をうってよろこぶ奴らも多いことだろう。狩野一族にせよ、陰鬱な岩佐にせよ、まっさきに手をうつだろうことだけは受けあいだ。

(中略)

おれは狩野一族が何を言おうと構わぬ。岩佐の弟子どもや等伯の亜流が何をほざこうと、いっこうに痛痒を感じない。お前らのように、他人の言葉にびくびくし、土佐が何と評したか、雲谷が何と讃めたかと、ただそれだけを目あてに絵をかいているのとはわけが違う。

(『嵯峨野明月記』「第一部」辻邦夫)

 

二の声はもちろん、俵屋宗達です。

同時代の画家の名前が出てきます。正確にはわかりませんが、ちょっと調べてみました。

「狩野一族」の中でも、同時代の画家といえば、狩野 探幽(かのう たんゆう、1602 - 1674)でしょうか・・。

http://lempicka7art.blog.fc2.com/blog-entry-157.html

「岩佐」といえば岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、 1578 - 1650)のことでしょうか・・。

https://bijutsutecho.com/exhibitions/7515

「土佐」とは、土佐光起(とさ みつおき、1617 - 1691)だと、ちょっと若いか・・

https://www.kyohaku.go.jp/old/jp/theme/floor2_4/f2_4_koremade/kinse_20160614.html

「雲谷」とは、年齢的に雲谷等爾 (うんこくとうじ、1615-1671)ぐらいでしょうか、やはりちょっと若いか・・。

https://www.yma-web.jp/exhibition/special/archive/sesshutounkokuha/theme/

 

「三の声」

あれは波の音だろうか。いや、波の音ではない。竹叢(たかむら)を鳴らし過ぎる風の音ではないか。それにしてもまるで波のように鳴っている風だ。どこか呂宋(ルソン)か天川(マカオ)の岸辺を洗っている南国の碧い波のように、ながく汀(なぎさ)に崩れながら、遠くまで音をひびかせてゆく。そうだ。まるでわたしの心を青い南国の海へ誘うように、白い波を砕いて、その音はごうごうと鳴りつづける。わたしの心に呼びおこされるこの痛みに似た思いは悔恨であろうか。わたしもその決心さえつけば、潮風に肌をやくこともできたのだ。帆に鳴る風音を終日聞くことができたのだ。角倉船(すみのくらぶね)が境を出帆するたびに、船頭の弥平次が来て言ったものだ。「与一さま。呂宋にお渡りになれるのも、お父さまが御存命のうちですよ。ポルトガルやエスパニアの紅毛碧眼がいるばかりではありません。唐人、東京(トンキン)人、安南人、広東人、シャム人など珍奇な風俗、風習もごらんになれますよ。それに羅紗、鹿皮、象牙、白糸、水牛角、蜜蝋、麝香猫(じゃこうねこ)、珊瑚など、呂宋、天川、安南の港の倉庫をみたしているさまをごらんになったら、こんな小さな国内で、やれ豊臣だ徳川だと騒いでいることが、それはばかげて見えるようになりますよ。与一さま、どうですか。一度だけお出かけなさいませんか」弥平次は顔をみるたびにそう言った。しかしわたしはその言葉を聞くと、かならず自分がやりかけた仕事を口実にして、いずれいつか、一切が片づいたら出かけよう、と答えたものだった。しかしただ一度、わたしは父に安南ゆきを相談したことがあった。わたしは安南の風物を見たかったが、帰途、広東か江州に廻って、祖父が話してくれた大明国の生活、風俗を知り、達徳録に加える明朝詩文の諸書を渉猟したくもあったのだ。

(『嵯峨野明月記』「第一部」辻邦夫)

 

「三の声」は角倉 素庵(すみのくら そあん、1571 - 1632)です。

「嵯峨本」はこの人によって出版されました。素庵は、江戸時代初期の土木事業家、儒学者、書家、貿易商です。父親の角倉 了以(すみのくら りょうい、1554 - 1614)は戦国時代から江戸初期にかけて活躍した有名な豪商です。素庵は書を光悦に学び、書道の角倉流を創設した能書家としても知られているそうです。

そして、この出だしの文章から、交易によって海外にも開かれた感性を持った文化人であったことがわかります。それから、書物に対する愛着も仄めかされています。おそらく、小説家から見れば、当時の豪商の子でありながら文化に特別な興味を持っていたこの素庵という人物こそが、物語を書く上で最も魅力的な人だったのではないでしょうか。素庵が当時見聞きしたであろうもの、素庵が触れたであろう文化的なもの、それらを想像するだけでも楽しくなるのだと思います。

この小説の中で、光悦は素庵について、次のような感想を持ったことになっています。

 

背の低い、いくらか肥り気味の、色白の青年で、その話し方、態度は落着き、自分で言うような内気らしいところなど微塵もなかった。老成し、考え深く、ゆっくりと話した。話題はおどろくほど豊かで、経学に関する知識から、本朝の草子物語類、能狂言、さらに検地や、地子銭、朱印船など学問外のことにも及んだ。そしてしきりとわたしの書や能舞について聞きたがった。能書たるにはどのような心掛けが必要であるとか、わたしは早朝筆をとるのか、それとも夜晩くなって筆をとるのかとか、どのような気持ちで書けばあのような見事な筆蹟が得られるのかとか、そうした単純な問い方をしたが、そうした問いのなかに、わたしは与一の素朴な、飾り気のない、真面目な態度を感じた。

(『嵯峨野明月記』「第ニ部」辻邦夫)

 

このような歴史小説を書くときに、辻邦夫のような真面目な作家ならば、相当に史実を調べ上げて、その上で作中の人物に肉付けし、描写していくのでしょう。素庵に関しては、肖像画からの印象でしょうか、かなり具体的にその容姿を描いています。また、著名な文化人同士のことですから、書簡などからそのやりとりがわかるのかもしれません。

ところが宗達となると、宗達の評価が定まってきたのは意外と最近のことらしく、調べてもわかることが少ないのでしょう。「おれ」という一人称の中にも辻邦夫さんがイメージした宗達像が込められていますが、まるで闇の中から響いてくる音声のような印象があります。

その中でも、宗達と光悦の共作である絵和歌巻の創作はこうであったか、という描写があります。そこには辻邦夫さんの批評的なものも含まれていると思いますので、少し引用してみましょう。

まずは光悦が宗達の絵に出会った時の描写です。

 

しかしこんどの金泥刷下絵は全く別だった。その色紙に刷られた蔦、梅の出来栄えの見事さはともかくとして、それに筆を走らせることによって、それまで、料紙のなかに眼に見えずひそんでいた幽艶な美しさが、突然、なまなましく浮かびあがって、それが逆に、私の書のなかに同じように隠されていた、類似の憂鬱な美しさを呼びさましてゆく、といった趣があった。私はそれまで自分の書を豪華なもの、強いねばりのあるものにしようとして、筆の肥痩を大胆に対照させ、ある種の文字を極端に引きのばしたり、縮めたりして、何よりその律動の生命感に気を配っていた。しかしその結果、そのなかに夕月のような﨟たけた、寂しげな美がうみだされようとは、夢にも考えたことはなかったのである。その後、宗二の家と俵屋とから、宗達料紙として売りに出されることになった。

(『嵯峨野明月記』「第ニ部」辻邦夫)

 

次に、宗達が光悦の書に対する思いを語った時の描写です。

 

本阿弥は角倉与一からおれの四季花木の漁師を贈られ、和歌集からえらんだ歌をそれに揮毫

していて、それが公家や富裕な町衆のあいだで大そうな評判をとったことは、すでにおれのところに聞こえていた。たしかに宗二が本阿弥に呼ばれて、本阿弥好みの意匠をあれこれ聞かされ、それをおれに相談することがよくあった。それはたとえば秋草と半月、叢菊、胡蝶、蜻蛉と流水など本阿弥がのちまで好んだ図柄であって、そういった思いつきの面白さにひかれて。おれもそうした図柄の下絵を何度となく描いてみた。だが、おれがその頃驚かされたのは、本阿弥が好みの色紙に筆をおろすと、下絵のなかに漠然と漂っていた優艶な趣が、不思議と、それだけが引きだされたように、くっきりした輪郭をとって現れてくることだった。

(『嵯峨野明月記』「第ニ部」辻邦夫)

 

今ならば、画家と書家とのコラボレーションというところでしょうが、このように互いの隠された魅力が合わさることで表面化してくる、というのは、まさにコラボの醍醐味でしょう。辻邦夫さんは、その理想系を彼らの合作に見出したのだと思います。

そしてこの二つの声は、「私」と「おれ」という別人格でありながら、同じことを言っている、とも言えるのかもしれません。私は辻邦夫さんの小説を云々できるような文学的な素養がありませんが、この小説について、次のような批評もあります。

 

『嵯峨野明月記』のひとつの読みどころは、この宿命の声の三重奏の差異を聞きわけることであると私は思う。「私」、「おれ」、「わたし」と一人称を使いわける見やすい標識がかえって禍したせいか、三人の内面の声調や気息が似通いすぎているというたぐいの批評は、かつて何度か眼にしたような記憶があるが、それは『嵯峨野明月記』の急所を突いているだろうか。三つの声はそれぞれ固有の声部を明瞭に示しながら、たがいに活発に交響しあうまでに至っていないだろうか。この微妙な差異を書きわける作業のまわりに、障害がいくつも取りまいているという事実は承認するけれども、しかし小説の動脈は、そこで変質したり行方不明になったりはしていない。障害はなんとか迂回して、三つの内面の旅は最後まで微妙な差異を保ちつづけるのである。

(『嵯峨野明月記』「解説」菅野昭正)

 

私には、「嵯峨本」というモチーフを軸として、三人の芸術家や文化人が交錯する様を、三人の独白で表現しよう、という大胆な試みに、ただ気が遠くなるだけで、それが似通っているというような批評にまでは頭が回りません。それよりも五百年ほど前に制作された巻物が、どのような過程で共作されたのか、ということがおぼろげにわかるだけでもありがたいものです。そして光悦も、宗達も、ここに書かれていたような互いに相乗効果を実感していただろう、ということは想像できます。それ以上の何かを感じていたのかどうか、ということは今となっては神のみぞ知る、ということでしょう。

 

今回は、宗達に迫りたい一心で、門外漢である日本画と歴史文学についてご紹介しました。こういう古い作家や作品について書くのなら、歴史について、もう少しちゃんと勉強しないといけませんね。

この時代の絵画について、もっとよくわかったら、また書いてみたいと思います。とにかく、等伯、宗達、光悦は素晴らしいです。

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