平らな深み、緩やかな時間

342.『平根 淳也 展』トキ・アートスペースについて

東京の神宮前の「トキ・アートスペース」で『平根淳也 展』が開催されています。

会期は今日までです。紹介がギリギリになりましたが、間に合う方は、ぜひご覧下さい。

http://tokiart.life.coocan.jp/2023/230919.html

 

それでは、ギャラリーのホームページに掲載された作家のコメントを参照してみましょう。

 

色彩はにじみ、ひろがり、すいこまれていく。

それはあたかも記憶の中の風景。

今、そこにある風景と相まって、新たな風景へと変容していく。

(2023年 個展のコメント)

 

実際に展覧会を見てみると、このコメントがとても正直で、誠意のあるものだとわかります。と言っても、ホームページの作品一点だけの写真では、よくわからないかもしれません。

それでは例えば、「トキ・アートスペース」の2015年の個展と比較してみましょう。

 

 淡い記憶をたどるときの漠然とした幸福感を色にのせた。ときに大胆に、ときに繊細に。色を選び重ねることで生まれる、僕の心の軌跡を表現したい。

(2015年 個展コメント)

 

さらに、2008年の個展のコメントも見てみてください。

 

和紙ににじませながらアクリル絵の具を染み込ませる作品を制作してきた。 濡らした和紙に薄く溶いた絵の具を染み込ませることで、意図的なにじみを作品に取り入れたいと考えている。 にじみにはコントロールし難く偶然性の強い要素でもあるが、 その「偶然」と「自分自身」とのせめぎ合いの中から生まれ出るイメージを大切にしながら表現したいと考えて いる。 今回はすべてを包括していく、また拡散していく円や球をイメージしながら制作した作品を展示する。 

(2008年 個展コメント)

 

2008年の時点では、主に素材と技法について語られています。素材としての和紙と、水溶性のアクリル絵の具によって作られる染みの表現が、平根さんの制作方法なのです。そして、その手法によって導入された「偶然」性との向き合い方についても語られています。これらは極めて現代美術的な課題です。これについては、後で詳しく見ていくことにしましょう。

それが2015年には、自分の「記憶」を表現することに焦点が移っています。しかしその「記憶」は「漠然とした幸福感」というような、抽象的な言葉で語られています。

そして今回の個展では、「記憶の中の風景」という具体的なイメージについて語られています。その「記憶の中の風景」が、平根さんの偶然性を孕んだ手法と相まって、「新たな風景へと変容していく」のです。現代美術的な手法に主眼が置かれていた15年前から、画面上の具体的な内容へと興味が移っていく、誠実な作家の軌跡を見ることができます。

私は、平根さんに限らず、真剣に現代美術に取り組んでいる作家ならば、当然、このような変遷となるのだろう、と思います。素材の物質的な特徴を引き出す手法にしても、偶然性を孕んだ表現方法にしても、20世紀の現代美術の流れの中で盛んに行われてきたことです。私たちはそれを繰り返すのではなく、かといってそれを忘却するのでもなく、ここまでの現代美術で成し遂げられてきた表現をさらに超えていかなくてはなりません。

それは新奇なテクノロジーによってなされるのではなく、また「ポスト・モダニズム」というキャッチーなフレーズで語られるものでもないはずです。そうではなくて、継続的に作品と取り組んでいる作家の内面から、湧き出るようにして現れる表現であるはずです。

平根さんの作品は、その途上にあるものだと私は感じたのですが、ちょっと話の先を急ぎ過ぎたのかもしれません。まずは、平根さんの作品の歩みを、「トキ・アートスペース」のアーカイブから遡ってご覧ください。時には墨絵のように変化する興味深い作品の変遷を見ることができます。



個展『まだよいながら2019』〈トキ・アートスペース,渋谷〉

http://tokiart.life.coocan.jp/2019/190819.html

 

個展『まだよいながら2017』〈トキ・アートスペース,渋谷〉

http://tokiart.life.coocan.jp/2017/170828.html

 

個展『虚構の彷徨2015』〈トキ・アートスペース,渋谷〉

http://tokiart.life.coocan.jp/2015/150727.html

 

個展『虚構の彷徨2013』〈トキ・アートスペース,渋谷〉

http://tokiart.life.coocan.jp/2013/130805.html

 

個展『虚構の彷徨2011』〈トキ・アートスペース,渋谷〉

http://tokiart.life.coocan.jp/2011/110912.html

 

個展『虚構の彷徨2010』〈トキ・アートスペース,渋谷〉

http://tokiart.life.coocan.jp/2010/100809.html

 

個展『虚構の彷徨2009』〈トキ・アートスペース,渋谷〉

http://tokiart.life.coocan.jp/2009/090706.html

 

個展『僕の領分 2008』〈トキ・アートスペース,渋谷〉

http://tokiart.life.coocan.jp/2008/080804.html



これらの作品の写真や作家のコメント、あるいは山内舞子(キュレーター)さんによる批評(2017年)を読むと、おおむね私が指摘した作品の変容がご理解いただけると思います。特に山内さんの「彼の仕事を正しく理解するためにはこの比率をz軸として加えた三次元の座標を採用すべき」というのは鋭い指摘で、これは平根さんの表現のイメージが「記憶の中の風景」にあることを予見したものです。

例えば遠くに地平線を望む田園風景で、その水田から靄が立ち上る早朝の時間帯を想像してみましょう。地平線はx軸で、垂直に立ち上がる靄がy軸で、自分の足元から地平線へと続く畦道がz軸にあたるのです。2017年の作品写真を見た限りでは、そのような画面の構造を読み取りにくいのですが、山内さんにはそれが見えていたのでしょう。今回の展覧会の作品を見ると、まさにそのような構造をしたものに出会うことができます。明確な形象が何もない、染みだけで出来た画面なのに、そこに構造的なものを感受できるのです。

この構造的なものが、平根さんの作品を、凡庸な現代絵画や、表面的な美しさを狙った作品と明確に一線を画するのです。

 

それにしても、「記憶の中の風景」を表現するのに、なぜ平根さんはこのような困難な手法を選ぶのでしょうか?

今の若い作家には、「記憶の中の風景」を何の衒いもなく、素直に描く人たちがたくさんいます。私はそういう作家たちの絵を好ましいものとして受け止めていますが、一方で彼らには私たちの世代の作家が葛藤した現代絵画の表現と向き合う姿勢が希薄です。そのことを問題とせずに、やたらと持ち上げる批評やコンクール展には、少し疑問を抱きます。先ほども書きましたが、基本的に私たちは20世紀までの現代絵画を超える表現を目指すべきだと考えます。才能のある若い作家の方たちが、いつか自分の表現とこれまでの美術表現の遺産とを見比べて、そこに意味のある答えを見出すことを願っています。

少し、話が逸れました。

平根さんの作品を考える上で、2008年の作家コメントにあったように、大きく二つの要素があると私は思います。

一つは和紙という素材です。現代の作家が、なぜ日本の伝統的な素材である和紙を用いるのか、これは平根さん以外にも多くの作家が試みていることで、実は私は以前にもそのことについて考察しています。次のblogで取り上げていますので、ぜひご参照ください。我ながらなかなかの力作です。

 

211.何に絵を描きますか?

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/ab8cfc28c4f7de13160120712e29dd97

 

次に、平根さんが和紙の特性を活かす中で用いている染みのような表現です。これは、表現のかなりの部分を偶然性に委ねる手法となっています。この「偶然」性を表現に取り入れることに関しては、シュルレアリスムを端緒として現代美術で広く用いられていることですが、美術だけでなく音楽でも重要な試みとなっています。そのことについて、これも私は以前にblogで書いたことがあって、こちらもなかなかの力作です。ぜひ、お読みいただきたいと思います。

 

87.芸術の意図、ジョン・ケージと細野晴臣から

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/b8caf7ec178316fc4acd61002482ad45

 

お読みいただけましたか?

これを平根さんの作品の変遷に即して解釈すると、平根さんが和紙に染みのような表現をされているのは、その素材の美しさもさることながら、やはり既成の表現から逸脱して、新たな表現の領域を開拓したい、という願望があったのだと思います。それは一般的な現代美術の手法として、珍しいことではありません。

しかし、平根さんの個性的であった点は、その手法の初期の段階から、自分の作品を「『偶然』と『自分自身』とのせめぎ合い」として位置付けていた点です。

「偶然」に作品を委ねて、それをある程度うまくコントロールして、美しい作品を作っている作家ならば、たくさんいます。私はそのような作品と出会うと、もちろん、「ああ、きれいだな」とため息をつきますが、しばらく眺めると、「だから、どうなのだろう?」と考えてしまいます。美しいというだけの偶然なら、世界中に溢れていて、もしもそれに出会いたければ夕暮れ時に沈む夕日を眺めていれば済むことです。どんなに味気ない都会に住んでいても、夕日にあたる街を見れば、その美しさにため息が出ることでしょう。

しかし、私が作品に求めるものは、そのような美しさではありません。その作家が、偶然性についてどのように考えて、それをどのように自分の作品に取り込んでいるのか、ということが重要なのです。ちょっと言い方が理屈っぽくなりましたが、「どのように考えて」と言っても、具体的に言葉で考えなくても良いのです。作家は感覚的に作品について考えるものです。私の尊敬する美学者の持田 季未子(もちだ きみこ、1947 - 2018)さんは、作家が言葉にできないことを言葉にするのが批評の役割だと書いています。だから平根さんの「偶然』と『自分自身』とのせめぎ合い」という言葉は、作家として十分な批評性を持った発言だと言って良いでしょう。

しかし、ここからが問題です。「せめぎ合い」だと言った以上、その「せめぎ合い」が表現として画面に現れなければなりません。そして、その「せめぎ合い」の結果、作家はどのように表現を変えていったのか、作品から読み取ることができなければなりません。

ここでも、平根さん自身の言葉が重要です。平根さんの2015年のコメントの「ときに大胆に、ときに繊細に。色を選び重ねることで生まれる、僕の心の軌跡を表現したい」、あるいは今回の「(記憶の中の風景は)そこにある風景と相まって、新たな風景へと変容していく」という言葉が、やはり作家としては十分な批評性を持っていると言えるのです。

平根さんは、現代芸術が自己変革の方法として生み出した「偶然」という手法を、自分自身も見たことがない「新たな風景」を生み出すための方法として用いているのです。この平根さんの手法が、今ではステレオタイプ化した現代美術の手法に新しい生命を吹き込む突破口となるはずです。

現代芸術における自己変革というのは、このように作家の内面の、止むに止まれぬ欲求から生まれてくるものではないでしょうか?以前の表現に物足りなくなり、自然と自分の位置を変えていく、そういう継続した試みこそが新しい芸術を切り開いていくはずなのです。

 

さて、それでは次の平根さんの作品の変容を楽しみにしつつ、今回の作品を鑑賞してみましょう。

今回の作品では、作品に何種類かの構造的な特徴がありました。水面を眺めるような茫漠として広がりのある作品、水平方向への広がりを感じさせる作品、垂直方向へと上昇していく作品、いずれの作品にも実際の画面以上の広がりがありました。これらの作品は、平根さんの欲求の赴くままに構造を変えていったようです。平根さんの中では、すでに一つの構造だけで作品を作り続けていくことでは、満たされない何かがあるようです。

これは今後、どのように発展していくのでしょうか?いくつかの構造を併せ持つような未知の画面が現れるのか、それともこのような複数の構造の作品を並行して進めていくのか、いずれにしても興味深いところです。

そして、色彩については、今回は一つ一つの作品については、やや抑制的な使い方をしていたようです。展覧会全体として見れば、平根さんの多彩な色合いが堪能できるのですが、一つの作品の中では基調になる色合いが決まっていました。これも、今後どのように変わっていくのか、楽しみなところです。平根さんは、表面的な彩りの美しさに囚われるような作家ではないので、より深い色合いの表現になるのではないか、と期待してしまいます。

そして、欲を言えば、もっとうまくいかない作品も見せていただきたいです。私は失敗した作品にこそ、その作家の特徴が現れると思っています。自分ではただの駄作だと思っていても、他の人から見ると意外な可能性が見つけられることがあります。本当なら、エスキースとかスケッチとかといった作品に、そういう作家の片鱗が垣間見られることがありますが、平根さんはエスキースも必要としない方のようです。そのこと自体、私のような者からすると驚きです。(失敗しない方なのでしょうか?)もしも迷ったり、悩んだり、という過程の作品があれば、ぜひ見せていただきたいです。

作品の完成度の高い作家を見ると、つい私は無いものねだりをしてしまいます。失礼なことだったら、申し訳ないです。

 

以上、取り急ぎ感想を書いてみました。

展覧会は今日までです。ご紹介が遅くなりましたが、もしも東京に出られる機会がありましたら、ぜひご覧いただきたい展覧会です。

コメント一覧

平根淳也
返信ありがとうございます。
早速、Facebookにリンクを貼らせていただきました。
これからも真摯に制作に取り組んでいきたいと思います。
ありがとうございました。
tairanahukami
平根様、ご丁寧な連絡をありがとうございます。
もちろん、リンクも印刷物も、それから文章の引用も、使っていただけるものなら何なりとご利用ください。
今回は、平根さんのお仕事を時系列で確認させていただき、その誠実な変容を記録しておかなければ、という思いで書かせていただきました。ありのままに書いたので、特に苦心もしていません。平根さんの作品の素晴らしさについて、あまり言及できませんでしたが、何かの参考になったのなら、うれしい限りです。
誠実な仕事がなかなか認められない時代ですが、お互いに頑張りましょう。
平根淳也
先日は個展会場に足をお運びいただきありがとうございました。
そして、このようなtextを書いていただけたことを非常に光栄に思います。
過去から今回までの私のコメントや作品から、包括的に解釈し論理的に考察していただくことで、自分自身の作品を振り返るきっかけとなり、また作品に対する心の動きを客観的に捉えることができました。
何より、今までやってきたことに自信をもつことができました。
本当にありがとうございました。
SNSはFacebookでしか発信をしていません。
そこで、もし可能であればこちらのブログのリンクを貼らせていただければと考えています。
また、個展会場などにtextとしてプリントアウトしたものを置かせていただけたらと思っています。
不躾なお願いで恐縮ですが、ご一考のほど、よろしくお願いいたします。
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