平らな深み、緩やかな時間

343.『新・建築入門』隈研吾から表現と思想について考える

はじめに、ザ・バンド (The Band) のギタリスト、ロビー・ロバートソン(Jaime Royal "Robbie" Robertson、 1943 - 2023)さんが少し前になりますが、亡くなりました。

私は、ザ・バンドのレコードをよく聴きましたし、1974年のボブ・ディランさんとザ・バンドのツアーを記録した『偉大なる復活』(Before the Flood)は、高校生の頃に友だちから借りて、カセット・テープに入れて繰り返し聴きました。ディランさんの名曲『ライク・ア・ローリング・ストーン』(Like a Rolling Stone)は、この時のザ・バンドとの演奏が最高の名演だったと私は思っています。

ただし、ザ・バンドを解散した後のロビー・ロバートソンさんを熱心に追いかけて聴く、というほどのファンではありません。それに、私自身が音楽の新譜をあまり聴かなくなった、ということもあります。それでも、このように一つの時代を作ったミュージシャンの死は、自分の生きた時間が確実に歴史化されていることを告げられているようで、寂しい気持ちになります。

私のような、中途半端なファンが見てもわかりやすいロビーさんの追悼サイトをご紹介しておきます。遅ればせながら、ご冥福をお祈りします。

 

https://www.udiscovermusic.jp/news/the-band-robbie-robertson-dies-at-80?amp=1



さて、今回は建築家の隈研吾(1954 - )さんが1994年に書いた『新・建築入門』という本を取り上げます。

隈研吾さんと言えば、2020年の東京オリンピックで一度は計画が頓挫しかけた国立競技場の建て替えを、日本全国の木材を使ったデザインで新たにコンペで選ばれて、完成させたことがまだ記憶に新しいところです。

この『新・建築入門』という本ですが、「入門」というと建築の初心者向けの本だと思ってしまいます。実際に、私のような素人でもわかりやすく書かれていますから、それで間違いないのですが、隈研吾さんの真意はそんなことではなかったようです。

隈研吾さんは、「まえがき」で次のように書いています。

 

20世紀の末にいたって、とうとう建築家は気が狂ってしまったのではないか。そう思われても仕方がないほどに、20世紀末の建築状況は混乱をきわめた。18世紀末、19世紀末にも確かに、似たようなデザインの混乱状態が、建築の世界をおそったが、それらの時代とは比較にならないほどの混乱が、建築の世界をおそった。

モダニズム、ポストモダニズム、ディスコンストラクティビズム、ハイパーモダンなどと呼ばれる諸建築スタイルが驚くべきショートスパンで、あらわれては消えていくその速度は、「様式の交替」という建築史上の概念の枠をすでに逸脱してしまっているといっていい。しかもそれぞれの様式は連続的にとか段階的にとかいった形容詞で記述できるような変化、交替の形をとらない。思ってもみなかったような姿、形を伴って、全く唐突に新しいスタイルが出現するのである。いっそのこと「狂乱の世紀末」という言葉ひとつでくくって、それぞれの様式の特徴やディテール、その様式の下部にある思想や背景などは無視してしまった方がいい。そう考える人が出てきても不思議ではないほどに、この混乱を整理することはむずかしい。また事実、建築の世界に身を置いている人の中においても、そのような思考停止の波が拡がりつつある。しかし、いつの時代においても、混乱はいたずらに存在するわけではない。混乱の背後には必ずひとつの明確な問題がひそんでおり、その問題に到達しえない人々が、狂乱とか病とかいう名前でくくることで混乱をやりすごそうとするだけの話である。

20世紀末の建築の混乱の背後にあるのは建築というひとつの制度自体を否定し、解体しようとする、抗いがたい時代のムーヴメントである。すなわち建築そのものがひとつ決定的な危機をむかえ、その危機がこのかつて誰も見たことがないような建築様式上の混乱を生んでいるわけである。

ではいかなるムーヴメントが、なにゆえに建築を否定しようとするのか。建築という制度のどの部分、どの特質が否定されようとしているのか。それを明らかにする糸口をつかもうというのが、本書の目的である。

(『新・建築入門』「まえがき」隈研吾)

 

少し長めの引用になってしまいましたが、これは感動的な「まえがき」ではないでしょうか。ここに書かれていることは、まったく他人事とは思えません。「建築」という言葉を「美術」や「絵画」に置き換えても、まったく問題なく読み通せるでしょう。

建築が危機の状況にあることは分かりましたが、それでもこのような警告を発する人がいるだけでも希望が持てます。美術の世界で、このような危機意識を持って本を書く人が、いったいどこかにいるのでしょうか?このblogでも確認してきましたが、評論家の立場にある人が、自分自身は何の傷も負わずに「芸術の終焉」とか「絵画の終焉」を唱えるということはありました。そういう人たちは、話題作りのための批判をするだけで、時が経てば「あの時に言ったことは、そういう意味ではなかったんだけど・・・」などと言い出すのです。

しかし隈研吾さんの場合は、自分自身が実作者であり、その意味では退路は絶たれているのです。さらに隈研吾さんは「混乱の背後には必ずひとつの明確な問題がひそんでおり、その問題に到達しえない人々が、狂乱とか病とかいう名前でくくることで混乱をやりすごそうとするだけの話である」と、ある種の人たちを批判することで、自分のやるべきことを明確にしているのです。

そして、「いかなるムーヴメントが、なにゆえに建築を否定しようとするのか」ということを明らかにすることが本書の目的だというのですが、一つだけ文句を言わせてもらえれば、これが「入門」書の内容でしょうか?私はたまたま、建築について初歩から知りたいなあ、と思って本を探してみたら、このような金塊を掘り当ててしまったのですが、そういう偶然がなければこの本をやり過ごしていたでしょう。もっとこの本の重要性を訴えられるようなタイトルの方が良いのではないでしょうか?

 

ということで、ここから先は、この本の「入門」の部分に当たる地道な建築初歩の勉強は私自身の宿題として、この本が指し示している現代建築の問題について、もっと言えば芸術全般にわたる問題について、取り上げていこうと思います。

 

さて、それではどのあたりから始めましょうか?

やはり現代の芸術の問題につながるところから・・・、と考えるとイマヌエル・カント(Immanuel Kant 、1724 - 1804)さんあたりから、ということになります。なぜなら、芸術を語るにしろ、あるいは世界を語るにしろ、その中心に神様がいた時代は、明らかに現代とは異なるからです。カントさんが活躍したのは、神様が不在となり、人間が世界と向き合わなければならなくなった時代です。その頃から、あらゆる分野で、そして特に思想的な分野で問題が顕在化し、私たちはいまだにそこからの明確な解答を見出せないでいるのです。

そのことについて、隈研吾さんは次のように書いています。

 

17世紀はガリレオ(1564 - 1642)とデカルト(1596 - 1650)とニュートン(1642 - 1727)の世紀である。彼らによって発見された透明な幾何学は、中世の神にかわる新しい普遍性として、人々にうけいれられ、人々を興奮させた。しかし18世紀、これらの透明なシステムに微妙なかげりがさしはじめた。すなわち、透明なシステムの外部に、これらのシステムだけでは説明しきれないほどに深く広い、自然という領域がひろがっていることに、人々は気づきはじめたのである。その自然を解明するために、人々の関心は博物学と化学へと向かった。17世紀が幾何学と物理学の時代だとしたら、18世紀は博物学と化学の時代となったのである。

哲学においてもまた、17世紀と18世紀の間では、そのニュアンスに微妙な差異がある。17世紀哲学はスピノザ(1632 - 1677)にしろ、ライプニッツ(1646 - 1716)にしろ、世界を単一で透明なシステムで説明しつくそうとする哲学であった。神という唯一の実体から、この世界のすべては演繹的に説明できるとスピノザは考えた。モナドという単位ですべてを説明しようとしたのが、ライプニッツである。

十八世紀の哲学者はそのようには考えなかった。理性によって組み立てられた透明なシステムの外部を、彼らは問題にしはじめた。十八世紀を代表する哲学者はイマヌエル・カント(1724 - 1804)である。彼は『純粋理性批判』(1781)の中で物自体(ディング・アン・ジッヒ)という概念を提出した。人間がいかに理性を用いて何かを認識しようとも、その物自体とその認識とは決して一致しないと、カントは考えた。すなわち、物自体は、人間が理性によって構築した透明なシステムの、絶えず外部にあるということを、カントは主張したのである。カントは自然もまた、透明なシステムの外部にあるものと考えた。彼は『判断力批判』(1790)の中で、「美なるもの」と「崇高なるもの」を対峙させて論じている。「美なるもの」とは認識システムの内部にあるものに対して感じる美であり、「崇高なるもの」とは認識システムの外部にあるものに感じる美のことであり、雄大な自然に感じる美が、その代表的なものであると、カントは定義する。

(『新・建築入門』「第9章 普遍の終焉」隈研吾)

 

このように「外部にあるもの」と自己との関係は、18世紀からの哲学にとって大きな問題であったのです。建築のように外部空間と物質によって形作られる芸術にとっては、それはなおさら重要な問題であったはずです。

そして、これは美術にとっても同様です。「外部にあるもの」を見たり、触ったりすることで成立するのが美術という表現ですから、「もの」と「自分」との関係をどう考えるのか、ということは避けて通れない問題なのです。

カントさん以降、「外部にあるもの」をどのように考えるのか、という問題をめぐって、哲学においても建築においても、さまざまな試みがありました。隈研吾さんはそれをうまく整理しているのですが、それをさらに端折って見ていくことにしましょう。

カントさんの次に隈研吾さんが取り上げた思想家は、哲学者のヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770 - 1831)さんです。ヘーゲルさんはカントさんが「外部にあるもの」を「自然の美しさ」として捉え、それを人間の内部にある「美」と区別して、「崇高なもの」として捉えたのに対し、ヘーゲルさんはそのように主観的なもの(自己)と客観的なもの(外部)を分ける考え方そのものが、人間の思想の中にあるのだ、と考えました。自己と自然を対峙するものとして捉えるのではなく、それらをすべて含む「社会」という概念を考えたのです。

隈研吾さんの説明を読んでみましょう。

 

一方ヘーゲルは、主観と客観という区別は決して本質的な区別ではなく、どちらも人間の概念の中で設定された区別にすぎないと主張した。そして認識が深まるということは、自己の概念の中にある、主観と客観という二つの契機が相互に運動しあって、現実を確かめていくことだとした。この概念の運動が彼のいう弁証法であり、客観とはその運動を通じて主観が知りえるに到ったものの総体であって、主観と無関係に、その外部に存在するものではないというのである。  そして認識が深まり、現実を確かめていくということは、自己と社会との関係を確認するプロセス、すなわち自己を社会に対して接続するプロセスに他ならないと、ヘーゲルは考えた。このようにしてヘーゲルは社会を発見したわけである。カントによって切断された主観と客観(普遍)とを、ヘーゲルは社会という概念を媒介にして再び合体したのである。主観と客観の切断を解消するために、そして構築とその外部との切断を解消するために、十九世紀は社会という媒介を発見したのであった。

(『新・建築入門』「第10章 建築のモダニズム」隈研吾)

 

ヘーゲルさんは、カントさんの哲学を深く理解し、継承し、そして発展させた人として一般的には考えられていると思います。上の文章を読んでも、「主観と客観」についてどのように考えるのか、これはヘーゲルさんがカントさんから引き継いだ問題でした。

しかし結果的に、二人の哲学を建築として実践しようとすると、ずいぶん違った形になるようです。

カントさんの哲学から導かれた建築は、崇高な自然とともにあるような建築です。それは「自然へ帰れ」というテーマで展開した、その後の「アーツ・アンド・クラフト運動」や「二十世紀を代表する建築家であるフランク・ロイド・ライトの提唱した有機的建築(オルガニック・アーキテクチュア)」にもつながるものだ、と隈研吾さんは考えています。

一方のヘーゲルさんの哲学は、人間の外部にある環境すらも思想的に取り込んでいこうとするもので、その後の「理想都市」を作る試みと繋がっているようです。日本にも「学術都市」と呼ばれるところがありますし、最近では企業が理想的な街を作ると宣伝しているコマーシャルをよく見かけます。しかしそれらが理想通りにうまくいったという話はあまり聞きません。それに、仮にその都市だけがうまくいったとしても、その周囲の地域はどういう状況になるのでしょうか?

そしてヘーゲルさんの後に取り上げられている哲学者は、カール・マルクス(Karl Marx、1818 - 1883)さんです。マルクスさんは、ヘーゲルさんが労働者階級(プロレタリア)のことを考慮していない、と批判しました。そしてマルクスさんは、プロレタリアを取り込んだ「社会主義」を実現しようとしたのです。しかし、現在の世界では、それは民主的な動きを弾圧する歪な形の国家としてしか実現していないようです。

その結果はともかく、この流れを見ると、マルクスさんはヘーゲルさんの思想を批判的に継承したのだと言えるようです。つまり、すべての物事を思想的に構築しよう、ということを、マルクスさんはヘーゲルさんとは違った形で実現しようとしたのです。

このような構築的な思想の流れを徹底的に否定した思想家がいました。それが現象学の始祖となったフッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl 、1859 - 1938)さんです。

フッサールさんのことも、隈研吾さんは取り上げていて、次のように説明しています。

 

もちろんのこと、マルキシズムの限界は、20世紀末に突然に明らかになったわけではない。マルキシズムに代表される構築的な方法論の限界は、19世紀末に、すでにあらゆる領域において明らかであった。理想都市の挫折は、そのほんの一例にすぎない。哲学においては、キルケゴールやニーチェがそれぞれ独特の手法で、構築的な方法論を批判した。なかでもその後の一連の構築批判に対して、最も大きな影響力をもったのは、現象学や実存主義哲学の創始者と呼ばれるフッサールの方法論である。フッサールの構築批判はそれほどに徹底的であり、明快であった。彼は普遍的なるものの存在を一切否定してしまったのである。普遍性の存在自体を否定するフッサールの態度は、西欧の精神史の中で、全く画期的であった。より普遍的なるものを求めて、すでに普遍的とされているものを否定するという態度は、一般的であったが、普遍的=客観的なるものが、どこにも存在しないし存在する可能性すらない、といい切ることは、西欧の全哲学の歴史を否定することである。そして普遍の否定とは、とりも直さず構築的な方法論を完全に否定することであった。

では構築批判は、建築においてはどのような形をとっただろうか。19世紀から、20世紀初頭にかけて、近代建築運動(あるいはモダニズム)と呼ばれるムーブメントが、建築の世界を揺るがした。モダニズムとは、一言でいえば、マルキシズムとフッサールの実存主義の間に宙づりにされた建築運動であった。

(『新・建築入門』「第10章 建築のモダニズム」隈研吾)

 

フッサールさんの思想は、現代美術においても大きな影響がありました。特に、日本の「もの派」の基盤には、それまでの美術の概念を忘却した上で世界を見つめ直そう、という現象学的な態度がありました。

そして、この引用部分の最後にある建築における「モダニズム」ですが、これは日本の大都市の高層ビルを見れば一目でわかります。装飾を廃して機能を重視した無機的で四角い形に加え、素材の物質感を否定する透明なガラスの重用、といったところに特徴があります。

このモダニズムの建築は、20世紀になってミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe、1886 – 1969)さんという建築家によって、より思想的に発展していきます。彼は「非求心性な構成と透明性」を徹底的に探究したのです。「非求心性」とは、普遍的なものが「求心性」を求めるのに対し、フッサールに影響を受けたその否定が背後にあるのです。

機能主義と非求心性、透明性を追究していくと、ガラス張りの四角い大きな箱のようなスペースだけになり、それを仕切るガラスの壁がその時々の仕事によって自由に動くというような、建築家の構築意志をほぼ無にしたような建築に至ります。それは「ユニバーサル・スペース」と呼ばれるもので、ミースさんがその概念を提出したということです。

 

さて、ここまで読んでいただいて、はたして私たちはそのような建築を望んでいるのかどうか、ちょっと考えてみてください。そのようなピカピカの職場があれば、一目見た時は歓声を上げるかもしれませんが、そんな空間で働くことが幸せでしょうか?それに、そんな建物を建築家はつくりたいものでしょうか?

隈研吾さんは、そうではない、と言っています。彼はユニバーサル・スペースについて次のように書いています。

 

しかし、はたしてユニバーサル・スペースは本当に構築ではないのだろうか。本当に自由なスペースなのだろうか。何らかの特定の普遍性を提示してはいないのだろうか。あるいはガラスの箱は、本当に形のない透明な箱なのだろうか。この問いに対しては、当のミースが一番正確な答えを持っていたはずである。ミースは自信をもってノーと答えたであろう。もちろんユニバーサル・スペースはまぎれもなくひとつの構築であり、それはひとつの普遍性=客観性の提示に他ならず、そしてガラスは当然透明ではない。彼はそう答えたに違いない。

(『新・建築入門』「第10章 建築のモダニズム」隈研吾)

 

実際にミースさんは、「ユニバーサル・スペース」の可動間仕切りも照明も、すべて細かく自らがデザインし、決定して、それを他人が勝手に操作することを嫌がったのだそうです。

 

ガラスの箱に関しても、彼は徹底して、古典主義的な姿勢で、すなわち構築的な姿勢でデザインを行なった。ガラスの箱はギリシャの神殿のように、堂々としておごそかに、白く輝く大理石の台座の上におかれる。輝く列柱が、神殿にひとつの形態的な統合をもたらしたように、スチールの輝く列柱がガラスの箱の前に立ち並ぶ。まさに、彼のガラスの箱は構築そのものであり、そしてひとつの普遍性=客観性の、臆面もない提示そのものであった。

(『新・建築入門』「第10章 建築のモダニズム」隈研吾)

 

このように思想の純粋性を求めることと、現実の表現とは齟齬をきたすことが多く、それは表現者が優れた感性をもっている場合にありがちなことです。

 

しかし、これでここまでの思想と建築が随伴して、発展してきたように見えた流れの行方がわからなくなりました。ここで私たちは冒頭の「まえがき」を思い出してみましょう。どうして「まえがき」のような状態になってしまったのか、根は深いのです。

ピカピカに見えたモダニズムが行き詰まり、あれほど装飾性を否定していた建築家たちが一斉に一昔前の歴史的な装飾を取り込んだ、ポストモダニズムの時代がありました。この隈研吾さんの本の面白いところは、これらの時代を経験した隈研吾さん自身の感情的な思いを正直に書いているところです。

横浜の木造家屋で育った隈研吾さんは、周囲の建物がモダニズム建築に変わっていくところをどこか気後れするような思いで眺めていたのだそうです。大学に入ってからも、明るいモダニズム建築で盛り上がる周囲に馴染めず、暗い気持ちでいたそうです。そして時代がポストモダニズムに変わり、ファッションとしてのポストモダニズムをまとった装飾的な高層ビルがデザインされるようになると、今度はそれを「恥ずかしい」と感じてしまうのです。さらにそのポストモダニズムのデザインがバブル経済の象徴のように見られ、バブル崩壊後はまるで悪玉扱いをされてしまうのですが、彼はそんな流れに一喜一憂することなく、歴史主義が悪玉扱いされていた時期にこのような歴史的な考察の著書を書こうとしたのです。

「あとがき」の中で彼はこう書いています。

 

まさに「反歴史」「歴史嫌い」という空気が、バブル崩壊後の1990年代を支配したのである。その状況は、残念ながら今も確実に継続している。この本を書きおろした1994年は、そのような「反歴史」的状況がピークに達していた。

その逆風の状況の中で、僕はあえて、歴史について考え、歴史についての本を書こうとしたのである。なぜなら、歴史について考えないということは、思考の停止であり、思考を停止した人間に、建築を作る資格などないと思ったからである。

しかし、そこで僕がとり扱った歴史は、80年代のポストモダニズムの時代にさかんに論じられた、様式(建築スタイル)としての歴史ではない。人間という破壊的で強欲な生き物が残してきた「建築」という名の犯罪の歴史、この生き物が行なってきた環境破壊の歴史であった。

当然この本の中には、モダニズムは善で、ポストモダニズムは悪であるという、単純な二項対立、勧善懲悪のかけらもない。20世紀初頭にモダニズムが登場した時から、様式的な伝統建築は悪で、装飾を排したモダニズムは善だという図式的な勧善懲悪は、モダニズムのオハコであり、僕は昔から建築界のそのエセ正義感に一番なじめなかったのである。20世紀の建築界を支配していたこの幼稚な正義感から、僕は徹底して遠ざかりたいと感じて、この本を書き始めた。

ここで僕が一番書きたかったことは、モダニズムもポストモダニズムも共に、自己中心的な破壊行為だということである。構築という概念を使い、人間の考え方の歴史を遡りながら、その破壊行為の本質に迫りたいと思った。そして同時に、脱構築という概念を駆使して、自己の建築スタイルを正当化しようとする、90年代のスター建築家ーアイゼンマンや磯崎新ーの方法も、同じまな板の上にのせて批判したいと考えた。彼らはデリダを始めとする脱構築の思想家を海外から招き、まだまだゼネコンが文化イベントのスポンサーをする余裕があった90年代、さかんに知的雑談、知的イベントで盛り上がっていた。僕はその罪悪感のかけらもないエリート的なはしゃぎようと自己弁護を、鼻もちならなく感じたのである。彼らの、もちろん僕も含めてすべての建築家の「罪」にせまろうと試みたのである。それが、当時の僕の気分であった。

(『新・建築入門』「文庫版あとがき」隈研吾)

 

この「あとがき」を読むと冷や汗が出るのは、私ぐらいの年代より上の人たちではないでしょうか?

大学生の頃にポストモダニズムの流れが押し寄せ、まだ翻訳もされていないような海外の思想家の名前がさかんに聞こえてきました。「自分は何て何も知らないんだろう?」と反省するものの、就職したばかりで何かを勉強する余裕すらありません。その中で磯崎 新(いそざき あらた、1931 - 2022)さんを囲んで、ポストモダン思想について当然のことのように語り合う若い哲学者や芸術家がいて、これはまったく太刀打ちできない・・・、どころか理解もできないという思いに絶望を感じました。今、隈研吾さんのこの「あとがき」を読むと、「さかんに知的雑談、知的イベントで盛り上がっていた」という彼らを支えていたのは、私のように訳もわからずに彼らを羨望していた愚かな人たちなのだとわかります。私は思想家としての彼らの仕事を批判できるほど賢くはありませんが、芸術家としての彼らの作品に関しては、今では批判的な見方もできますし、その限界も見えています。

しかし、本当に現在の状況で必要なことは、そういう過去の出来事をあげつらうことではないでしょう。そんな過去を批判的に乗り越えて、望ましい未来を作ることが重要です。

隈研吾さんは、この『新・建築入門』を書いて、これまでの建築について自分なりの整理をつけた後、日本の田舎を巡り歩いたのだそうです。田舎の職人さんたちと一緒にものづくりをすると、図面上のことだけでなく、いろいろなことを学ぶことができたのだそうです。「田舎で、職人さん達から物とのつき合い方を学んだ」、「物ってこんなにおもしろい世界だったんだ」ということを発見し、自分のデザインが変わっていったということです。

今後の世界がどうあるべきなのか、建築はその中でどういう役割を果たすべきなのか、もちろん隈研吾さんにも、明確な答えがあるわけではありません。しかし、こういう誠実な一歩一歩を積み上げていくことが、今必要なことなのだと私は思います。

隈研吾さんが書いているように、いまだにモダニズムを正当化する人たちが、美術の世界にも少なからずいます。その一方で、ポストモダニズム時代に名前が売れたことを利用して、今でも巨匠のような顔をして、子供のような絵を描いている年寄りもいます。

そのどちらのケースにも陥ることなく、あるいは加担することもなく、未来に向けて着実に歩いていくにはどうした良いのでしょうか?それは簡単に書けることではないので、このblogの中で、少しずつ書き進めていきたいと思います。このblogを継続して読んでいただいている方なら、私の考え方のおおよそのことを、すでにわかっていらっしゃることでしょう。

 

さて、隈研吾さんの建築を、私はよく知らないままに過ごしてきてしまいましたが、例えばあの国立競技場は、彼が田舎巡りをしてきたひとつの成果なのでしょうか。うる覚えですが、国立競技場の最初のデザインが頓挫したのは、いかにも近未来的なデザインにコストがかかってしまうということが原因でした。その隈研吾さんのデザインと、頓挫してしまったザハ・ハディッド( Zaha Hadid、1950 - 2016)さんのデザインと、いずれが優れているのか、私にはよくわかりませんが、建築というものが抱える社会性(見栄えから費用まで)が注目された出来事であったことは確かです。

最後になりますが、「モダニズムもポストモダニズムも共に、自己中心的な破壊行為だということである」という厳しい隈研吾さんの言葉を胸に刻んでおきましょう。これは建築が後世に残る公共的な営みだから、という面もありますが、思想や表現の本質はどれも同じです。絵画だって人々を扇動し、盛り上げることで経済的な価値を高め、自分の地位を安泰にする、という面があります。実際に私はそのような地位にありませんが、ポストモダニズムの時代のように、そういう人たちの応援団になってしまうことだってあったのです。

しかし、そもそもそういうことに加担しているということが、楽しいことではありません。自分の実感に基づかないところにいても、何も生まれないのです。私たちは、自分の知性と感覚を常に研ぎ澄ませて、着実に前を向いて歩いていきましょう。

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