平らな深み、緩やかな時間

228.100分de名著『砂の女』から連想して

友人がNHKの『100分de名著』という番組で「6月は安部公房(あべ こうぼう、1924 - 1993)を取り上げるよ」と教えてくれました。調べてみたら、彼の小説『砂の女』を4回にわたって放送することがわかりました。指南役は漫画家、文筆家のヤマザキマリさんです。

そんな話をしていたら、職場の友人が偶然にもヤマザキマリさんの『壁とともに生きる: わたしと「安部公房」』を持っていました。どうやら、いまの時代は安部公房という作家にたどり着くタイミングにきているのかもしれません。ヤマザキマリさんは大活躍ですね。

しかし、なぜいま、30年近く前に亡くなった安部公房なのでしょうか。そう思って『100分de名著』の番組案内を開いてみると、次のように書かれていました。

 

漫画家・文筆家のヤマザキマリさんによれば、この小説には、過酷な現実から逃れようともがく主人公の模索を通して、絶えず自由を求めながらも不自由さに陥ってしまう私たち人間の問題が描かれているといいます。それだけではありません。安部が戦後社会の中で苦渋をもって見つめざるを得なかった「自由という言葉のまやかし」が「砂の女」という作品に照らし出されるようにみえてきます。この作品は、私たちにとって「本当の自由とは何か」を深く見つめるための大きなヒントを与えてくれるのです。パンデミックによって、移動や交流の自由が著しく制限されている私たち現代人にも示唆することが多いといいます。

(「100分de名著」の番組案内ホームページより)

 

なるほど、この新型コロナウィルスの感染状況下において、『砂の女』の発するメッセージが特別な意味を持つことになった、ということのようです。そうは言っても、この物語を知らない方には、何のことやらさっぱりわかりませんよね。何しろ発行されてから、60年が経つ小説です。そのあらすじを、かんたんに説明しましょう。

この物語は、休暇を利用して昆虫採集に出かけた学校教師の仁木が、女が一人で住む砂丘の穴の家に、宿を借りるところから始まります。ところが翌朝起きてみると、外へ出るための縄梯子が何者かに取り外されています。仁木は女とともに、幽閉状態になってしまったのです。実はこれは、砂を掻き出す仕事を仁木にさせるために、村の人たちが企んだ策略だったのです。この蟻地獄のような環境から、何とか脱出を試みる仁木ですが、いつしか仁木自身の心に変化が・・・、というちょっと怖い話です。

小説の内容については、この『100分de名著』の講義が終了したところで、あらためて詳しく考えてみたいと思っています。ここでは、なぜいま『砂の女』を読み直すのか、ということについて考えてみましょう。

 

先ほどのあらすじからもわかるように、新型コロナウイルスの感染状況が私たちにもたらしたものは、まさに『砂の女』とも共通する「移動することの不自由さ」だったのではないでしょうか?

私たちは感染のピーク時には、外出の制限を呼びかけられ、かれこれ二年以上も移動の自由を妨げられてしまいました。つい最近も、上海で2ヶ月間のロックダウンがあって、私たちはそのニュースを聞いて身につまされる思いをしました。上海のロックダウンは、あまりにも極端な政策だったと思います。そして私たちの国は、さいわいにもあれほど極端な政策をとりませんでしたが、日本国内における精神的な圧力もなかなかのものだったと思います。とくにワクチン接種に出遅れた初期の頃にウィルスに罹患した方は、相当に辛い思いをされたのではないでしょうか。

その当時のことですが、このblogでも取り上げたドイツの元首相のメルケルさんのスピーチは、日本のふがいない政治家の言葉とは比べものにならないほどの説得力を持っていました。それは次のような発言でした。

 

今でもすでに制限が劇的であることは承知しています。イベント、見本市、コンサートは中止、とりあえず学校も大学も保育所も閉鎖され、遊び場でのお遊びも禁止です。

連邦政府と各州が合意した閉鎖措置が、私たちの生活に、そして民主主義的な自己認識にどれだけ厳しく介入するか、私は承知しています。わが連邦共和国ではこうした制限はいまだかつてありませんでした。

私は保証します。旅行および移動の自由が苦労して勝ち取った権利であるという私のようなものにとっては、このような制限は絶対的に必要な場合のみ正当化されるものです。そうしたことは民主主義社会において決して軽々しく、一時的であっても決められるべきではありません。しかし、それは今、命を救うために不可欠なのです。

http://www.labornetjp.org/news/2020/0327german

 

この発言に対し、哲学者の國分功一郎さんは、東ドイツの行動制限を経験したメルケルさんだからこそ、「移動が制限されること」の痛みがよくわかっているはずだ。だからこそ、これは心打たれるスピーチになっている。そういう趣旨のことを語っていました。

 

メルケル首相は東独の出身です。だから自分たちに、或いは人間にとって「移動の自由」っていうのがどれだけ重要なことか、価値あることだっていうのを判っている世代であり、人なんですよね。で、そのメルケルは、今回このコロナに対抗する為に、それを制限しなきゃいけない、けれども、この「移動の自由の制限」っていうのは絶対的に必要な場合のみ正当化されるんだ、と。このことを自分達は分かってなきゃいけないし、自分はとってもそれがよくわかってる世代である。しかし、にもかかわらず今回はそれはどうしてもやらなければなりません。皆さん理解して下さい、っていう、そういうスピーチをしたんですよね。これ非常に心を打たれましたし、さすがだなと思いました。

http://www.cminc.ne.jp/pub/Agamben202005.html

 

國分功一郎さんは、この発言以外にも、当時の先が見通せない、重たい状況の中でつねに冷静なコメントを寄せていたと思います。その時に彼が言っていたのが、「移動の自由」の大切さです。例えば刑務所という場所がなぜ刑罰に値するのか、それは「移動の自由」が奪われているからだ、と実にしっくりとくる解説をしていました。

そう考えると、『砂の女』は人間にとってきわめて普遍的なモチーフを扱った小説だという事ができます。この新型コロナウィルスの感染状況下で、私たちはそのことを再認識させられたのです。

 

しかし今回は、繰り返しになりますがその内容について深入りをせず、安部公房と『砂の女』から連想されるものを、少々気軽に並べてみたいと思います。そして私の若い頃には、それらの文学作品や作家、表現者たちが、意外と身近な存在であったことを紹介しておきましょう。

 

まず、安部公房という作家ですが、生前はノーベル賞候補とも言われていました。現在の村上春樹ほどではありませんが、彼が新しい小説を発表すると、テレビで取り上げられたりもしたのです。

私は安部公房さんが、自身の小説の構想を練るためのクリップ・ボードのようなものを公開して、それについて説明する様子をテレビで見たことがありました。核となるアイデアが生まれたら、そこから連想することを次々とメモ書きにしてボードにとめていき、それを線で結びながらプロットを構成していったのです。安部公房さんは東大医学部を卒業した人ですから、そのプロットを組み立てる手つきが、何となくですが「理系的な思考方法だなあ」と思った覚えがあります。

また、安部公房さんは私が学生の頃の若者向け番組『若いこだま』の中の本を紹介するコーナー、『マイブック』に出演したことがありました。一人の紹介者が3回連続で出演し、1回に一冊ずつ、計三冊を紹介したのです。そこで彼が紹介したのは、F.オブライエン(Flann O'Brien, 1911 – 1966)の『ドーキー古文書』、ボリス・ヴィアン(Boris Paul Vian, 1920 - 1959)の『赤い草』、ガルシア・マルケス(Gabriel José de la Concordia García Márquez, 1928 - 2014)の『百年の孤独』でした。それを見て、私もマルケスとヴィアンを追いかけて、何冊か彼らの本を読みました。

今回、ヤマザキマリさんの著書『壁とともに生きる』を覗いてみてびっくりしたのですが、彼女は若い頃にイタリアに留学していて、その時の老齢の友人からイタリア語に翻訳された『砂の女』(須賀敦子訳)を勧められたと言うのです。さらにその友人の同性の愛人から、マルケスの『百年の孤独』を勧められたのだそうです。はるかイタリアの土地で、安部公房とマルケスの本が続けて彼女に推奨されたというのは、偶然ではないでしょう。

ヤマザキマリさんは、その後、安部公房がマルケスを称賛していることを知って、そのことを次のように述べています。

 

ついでに述べると、実は安部公房も、マルケスの作品を機会あるごとに取り上げては、称賛し推薦している。一九八二年にマルケスがノーベル文学賞を受賞したとき、自身も同賞の有力候補と目されていた安部公房は、「地球儀に住むガルシア・マルケス」(一九八三年/『死に急ぐ鯨たち』一九八六年所収)という講演を行なった。そこで彼は、マルケスはどこの国の作家であるかに関係なく、時代あるいは世界に属する作家であり、「とにかくマルケスを読む前と読んでからで自分が変ってしまう」と述べている。

それはとりも直さず、そのまま安部公房本人にもあてはまる言葉だと思う。彼らの文学はボーダーレスで、世界に通じる普遍的な力が、繊細かつ強靭に宿っているのだ。

(『壁とともに生きる: わたしと「安部公房」』ヤマザキマリ)

 

マルケスも安部公房も、世界に通じる「ボーダーレス」な文学だ、というヤマザキマリさんの的確な評価が素晴らしいですね。

マルケスの『百年の孤独』は架空の土地の壮大な、そして幻想的な物語です。一方の安部公房さんの『砂の女』は、極端に限定された場所の男と女の話です。もちろん、安部公房さんにもスケールの大きな作品がたくさんありますが、その小説の設定がマクロな視点から書かれたものであっても、ミクロな世界を描いたものであっても、「世界に通じる普遍的な力が、繊細かつ強靭に宿っている」という点では共通しているのです。

何かを表現するときに、どのようなモチーフを選ぶのか、ということはとても重要なことだと思います。しかしその一方で、それがどのようなモチーフであっても、作家の心の在り様が普遍的なものを希求していれば、その作品も普遍的な表現となりえるのです。

このことについては、最後にもう一度触れることにしましょう。

 

さらに『砂の女』からつながる、当時の表現者たちのことを連想してみましょう。

 

『砂の女』は映画化されました。安部公房自身が脚本を書いていて、1964年に公開され、カンヌ映画祭審査員特別賞等を受賞しています。監督は 勅使河原 宏で、音楽は 武満 徹です。

https://www.dailymotion.com/video/x7ooopn

監督の勅使河原 宏 (てしがはら ひろし、1927 - 2001) さんは、生花の草月流三代目家元で、テレビでよく見かける假屋崎省吾さんの師匠にあたる人です。しかし勅使河原 宏 自身は、まず映画監督として世に出た人であり、その生花作品は現代美術のインスタレーションのようなダイナミックなものでした。弟子の假屋崎さんが、生花にこだわらずに美術や映画などについて、あたかも一流の文化人のようにテレビでコメントするのは、師匠が生花に止まらない活躍をした人だったからなのかもしれません。

それから、この映画で「砂の女」を演じたのが、岸田 今日子(きしだ きょうこ、1930 - 2006)さんでした。岸田今日子さんといえば、私たちの世代では、『砂の女』の俳優ではなくて、テレビのアニメ番組『ムーミン』の声優として親しまれていました。

https://youtu.be/GusYao5IBZ4

女性としてはちょっとハスキーで低めの声色が、無垢な少年(?)であるムーミンのイメージにぴったりでしたが、何よりもやはり、声優としての表現力が素晴らしかったと思います。

岸田今日子さんは、父親が劇作家の岸田國士、母は翻訳家の岸田秋子、姉は詩人で童話作家の岸田衿子、従弟には俳優の岸田森がいて、さらに夫だった人に俳優の仲谷昇がいました。その中でも今日子さんの姉の岸田 衿子(きしだ えりこ、1929 - 2011)さんは、詩人の谷川俊太郎さんや田村隆一さんと結婚したことがあって、才人同士は惹かれあうものなのかなぁ、と少々唖然としてしまいます。ちょっとゴシップみたいな話ですみません。でも、あくまで文化的なつながりの話です。

話を戻しますが、岸田今日子さんは不思議な雰囲気を持った人でしたから、北欧の童話「ムーミン」の世界を形成するのに、大きな役割を果たしていたと思います。そんなふうに考えてみると、『砂の女』のキャスティングもぴったりでしたね。

 

さて、最後に『砂の女』について、どうしてこういう不思議な話が書かれたのか、そのことについて考えておきましょう。

幻想的で、ナンセンスな物語であることは、安部公房さんが『マイブック』で推薦した本のすべてについても同様のことが言えます。『ドーキー古文書』は残念ながら私は未読なのでなんとも言えませんが、ボリス・ヴィアンの『赤い草』も、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』も、同じように不思議な小説です。これはどうなっているのだろう?とか、これはどう考えたら良いのだろうか?などと一つ一つにこだわっていると、なかなか読み進むことができません。それなら、もっとわかりやすくて、誰もが頷けるような設定にしたほうが、読者も増えるのではないでしょうか?

そのことについて、安部公房さんは『マイブック』のなかで、このように言っています。

 

こういう方法でしかとらえられない世界があるってことね。単におもしろがったり奇をてらったりしているわけじゃないんだ。こういうおもしろさがつかめないような感受性では、現代文学のすぐれた部分をそっくり見逃してしまうことになる。

とくにこの『百年の孤独』は、一世紀に何冊かしか出ないレベルの作品だからね。これだけの作品が、日本では専門家の間ではやっと話題になり始めたけど、まだまだ一般的に読まれているとはいえないし、評判にもならない。日本は世界的な翻訳国なんだから、おかしいと思うな。やはり付和雷同して、有名になったものばかり追いかけるんじゃないかな。

 

ーそういう傾向がありますね。

 

もっと自分で発見するよろこびを知ってほしい。

 

ーはい。今度の三冊で、なんかこう見方が広がるっていうか、世界が広がっていくような感じがします。

 

この三冊を読んで、つまらないと思った人は、たぶんその人の人生もつまらないんだよ。そして、そのつまらなさに満足している人なんだ。

(『マイブック』より)

 

ちなみに「ー」の部分は、聞き手の新進俳優だった斉藤とも子さんのセリフです。17歳で『マイブック』のインタヴューの仕事を引き受けて2年後ですから、まだ19歳でしょうか、すばらしい勉強家でしたね。

この『マイブック』は、先ほども書いたようにNHKの『若いこだま』という番組のなかのひとつのコーナーのようになっていて、毎週毎週一冊分づつ放映されたのです。そうすると、インタヴューアーの斉藤さんも、毎週一冊の本を読まなくてはなりません。「よく毎回、課題の本を読んでいるなあ」と当時から感心したものでした。私よりも年下だったし、俳優の仕事の傍らの読書だったから、さぞかし忙しかったことでしょう。彼女はいま、社会福祉の仕事もされているようですね、相変わらず立派な方です。

それはともかく、安部公房のインタヴューに話を戻すと、「この三冊を読んで、つまらないと思った人は、たぶんその人の人生もつまらないんだよ」と言い切るところが、すごいですね。こういう力強い確信がないと、表現者として大成しないのでしょう。

それから、「こういう方法でしかとらえられない世界がある」という部分も、とても参考になります。幻想やナンセンスな方法をとるのは、そうせざるを得ない表現上の必然性があるということですね。これがたんに、奇をてらったものではだめです。

これはまったく現代美術も同じです。必然性もなく、スタイルだけで作品を制作している人は、作品からその姿勢が透けて見えてしまいます。私自身も、現代美術の方法論を安易に前提にしてしまっていないかどうか、絶えず自問しながら制作しています。奇をてらっているつもりもないし、ましてや私のような三流の表現者ではカッコつけても仕方ないのですが、それでも表現が自分とジャスト・フィットしている、という感覚にはなかなかなれないものです。

そう考えると、マルケスの構築した世界というのは、実に奇跡的なものです。スケールが大きくて荒々しくて、それでいて繊細で知的な企みに満ちている、というのは彼が南米社会の困難な状況で生き延びてきたことと関係があるのかもしれません。

そして、安部公房さんの場合は、『砂の女』のような、ある種ミニマルで行き詰まった世界の方がフィットしていたのでしょうか。そんなことを断定できるほど、彼の作品を読んでいないので私には偉そうなことが言えませんけれど、これは彼が生きてきた戦後の日本社会と関わりがあるのかもしれません。そんなことも、今回のヤマザキマリさんの『100分de名著』のなかで明らかになると面白いですね。

 

それでは、今回はこの辺にしておきます。

『100分de名著』が終わったら、また『砂の女』にチャレンジしてみたいと思います。お楽しみに。

 

そうそう、最後になりますが、山下達郎さんの新作CDのカバー画が、ヤマザキマリさんの、古典技法による肖像画だそうです。今風のイラストを見慣れた目で見ると、ちょっと不思議な雰囲気ですね。

https://tatsurosoftly.com/

山下達郎さんは、ラジオ番組でこの絵をたいへんに気に入っている、と言っていました。本物の作品も見たいですね。レコード屋さんのポスターが、ほぼ実物大だそうです。

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