平らな深み、緩やかな時間

229.ETV特集「ウクライナ侵攻が変える世界」、ベイトソン『精神と自然』

4月2日に放送されたNHKのETV特集「ウクライナ侵攻が変える世界 私たちは何を目撃しているのか 海外の知性に聞く」という番組が、先週末に再放送されました。そしてそれが、6月16日(木)午前0時にさらに再放送されます。午前0時ですから、15日の夜中と言ったほうが、生活時間にしっくりとくるでしょうか。深夜ですが、ご覧になっていなかったら、ぜひ見てください。それ以外に、NHK +やオンデマンド等で視聴する方法があるようです。

https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/2Z83LY76JW/

番組の案内には、次のように書かれています。

 

ウクライナ危機で揺らぐ国際秩序。世界は何に失敗し、どこへ向かうのか?国家に翻弄された旧ソビエト諸国の人を書いてきたノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチ、フランス歴代大統領の政策顧問を務めたジャック・アタリ、新たな冷戦の始まりを警告するアメリカの政治学者イアン・ブレマーらに道傳愛子がインタビュー。いま、私たちは何を目撃しているのか?ソビエト崩壊から30年、過去・現在・未来を深く読み解く。

(上記番組のサイトより)

 

これは4月2日放送ということですから、取材はおそらく3月でしょう。今から考えるなら、まだプーチンが蛮行を始めたばかりの頃です。その時期に三人の文学者や学者の語ったことがいまだに有効であるばかりか、ますます切実に聞こえるという事実が、状況が一向に良くなっていない証拠だと思います。

ここで、簡単に一人ひとりの声を聞いてみましょう。

『戦争は女の顔をしていない』という本の話題でこのblogでも取り上げたアレクシエービッチですが、この三人の中では最も当事者に近い存在だと言えるでしょう。彼女はウクライナで暮らしていた祖母のことを思い出し、「プーチンに勝たせてはいけない」と危機感を募らせます。プーチンが自国の民を特別な存在であるかのように振る舞うことは、まさに「ファシズム」の特質が表れているのだ、と彼女は主張します。そこには、感情的な憎しみを超えた力強さを感じます。彼女は別なところで、もしも今の彼女の祖国であるベラルーシが参戦したなら、自分自身にも戦争責任が生じるという趣旨のことを言っています。その上で彼女が語る「真実を語ることには犠牲をともなう」という言葉には、当事者にしかわからない重たさを感じました。

一方、ソビエトの崩壊の時に重要な立場にあった、今回の出演者の中では最も年長の学者であり政治家でもあったアタリは、当時の状況を回想します。大国が崩壊する混乱の中で、民主主義を守ろうと懸命に尽くしたものの、今回の事態に至ってしまったことの分析と微妙な悔恨が語られていたように思いました。とにかく、ロシアは大きくて、それだけ暗部も大きくて手に負えなかったのです。また、アメリカに対する解釈も鋭いもので、おそらく現在のアメリカにおいても武器産業が潤っているはずで、そういう人たちにとっては政敵が必要ですし、戦争の長期化も悪い話ではないのです。そんな人間の醜さも含めて、あらゆる辛苦を舐めてきたはずのアタリですが、三月に彼が発したメッセージは、ロシアの人々を受け入れよう、そして民主主義の方に導こう、というものだったそうです。今となっては、そのメッセージも遥か遠いところにあるような気がします。当初は戦争に反対していたロシアの若者も、長期化する中で戦争に無関心になってきている、という分析が他のニュース番組で流れていました。

最後に、新たな冷戦を警告するブレマーの分析は、絶望的なものにも思えました。彼はプーチンの蛮行を許せないとしたものの、ソ連崩壊後のロシアを漂流させてしまった責任は、民主的な勢力の側にもあったのだ、と言います。そして彼が語る最悪の事態は、ロシアに対抗して各国が軍備強化に傾斜し、核を保有していない国までも核が必要だと考えて、その保有に走ってしまうことなのです。まるでこの三月の時点で、日本の現在の政治家の動きを予測していたかのようです。核が必要だなんてことがあってはいけない!とブレマーは強く訴えていました。

そして彼らが共通して言っていたことは、楽観視はできないということです。たぶん、このインタヴューの頃は、誰もがロシアへの経済制裁と、西側諸国のウクライナへの武器供与が徐々に効果をあらわして、早期に戦争が終結するはずだ、という希望的な観測を持っていたと思います。それがここにきて、彼らの言葉が重たい意味を持って私たちの不安な心に響いてくるようになってしまいました。

それにもかかわらず、彼らはロシアの人々に民主主義の大切さを知ってもらう他に手立てはない、ロシアに対して憎しみを抱いてはいけない、と言っているようでした。そして、そう思えるだけの冷静さも必要なのだ、とも言っていたと思います。

 

私の下手な要約を読むよりも、できれば皆さんもこの番組を見てください。私たちが関心を失わないこと、為政者の蛮行を忘れないこと、これこそが私たちにできるささやかな抵抗であると思います。私自身は実に無力で、それにくだらない人間ですが、これぐらいのことなら何とかできます。自分自身が歯がゆいけれども、仕方ありません。アレクシエービッチも言っていたことですが、私たちはできることを冷静にやるしかありません。そしてこれ以上、無駄に人が死なないことを願うばかりです。



さて、佐藤良明の『ラバーソウルの弾みかた』を前々回に読んで、その時にこの本の思想的な支えとなっているグレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson, 1904 - 1980)のことを、いずれ探究しましょう、と宣言したのでした。そこで今回はベイトソンの遺作でもある『精神と自然』を取り上げます。

まずは、ベイトソンとはどんな人なのか、外面的な説明から始めましょう。

 

ベイトソンは遺伝学者ウィリアム・ベイトソンの息子です。そして文化人類学者マーガレット・ミードとは、公私にわたるパートナーであり、その娘のメアリー・キャサリン・ベイトソンも文化人類学者です。

そのベイトソンの父親のウィリアムについて、松岡正剛さんが参考になることを書いています。

 

 ベイトソンは遺伝学者の父ウィリアム・ベイトソンの影響を受けた。ウィリアムは反ダーウィン的なといってもよいサミュエル・バトラーに学んだ生物学者であって、学界的にはおそらく異端に入るのだろうが、必ずしもそのようにレッテル化できない思索をしていた。

 その思索というのは、一言でいえば「感じ」(feel)をもとに新たな科学をつくれないのかということだ。これは、かつてデカルトに対してパスカルが投げかけた問題意識、「情感には理知からは見えない独自の合理のようなものがあるのではないか」になんとか答えようとするものだった。それにウィリアムはなんと感覚的なアプローチをもって挑もうとした。それならこの「感じ」とはいったい何かということだ。

(松岡正剛の千夜一冊『精神の生態学/ベイトソン』より)

 

さすがに簡潔で、かつためになる解説です。ウィリアム・ベイトソンは遺伝学者、つまり科学者であったのだと思いますが、この松岡正剛さんの解説を読むと、ほとんど哲学者のようなモチーフについて考えた人です。彼は「感じ」とか「情感」という目に見えないものに関して、科学的な理論でアプローチできないものかと考えたのです。ここにグレゴリー・ベイトソンの思想が既に胎動しています。

そしてグレゴリーは若い頃、妻であり、学者でもあったマーガレット・ミードとともにバリ島で研究を行なっています。この文化人類学の方法は、父親のウィリアムの科学的な方法とは別なアプローチを試みたものでしたが、その貴重な映像が何とネット上で難なく見ることができます。

 

trance and dance in bali

https://youtu.be/Z8YC0dnj4Jw

「バリのトランスとダンス」は、人類学者のマーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンが1930年代にバリを研究しているときに撮影した短編ドキュメンタリー映画です。

(Wikipedia解説より)

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Trance_and_Dance_in_Bali

 

これはバリ島のダンスで、魔女と聖獣をモチーフとした代表的なものだと思いますが、研究フィルムとしては映像的になかなか良くできています。それもそのはずで、ベイトソンは研究者として外側からバリ島のダンスを記録しようとするのではなく、そのダンスの中に入って彼らとの関係性を持とうとしていたのです。「観察者と観察対象が<存在>の根っこの方でつながって、はじめてコミュニケーションの生きた回路が形成されて、カメラに<意味>のこもった映像が入ってくる」(『ラバーソウルの弾みかた』)というふうに佐藤良明は解説していました。だからこの映像は研究フィルムというよりは、短編映画を見るような感触があるのです。そもそも、バリ島のダンスは夕暮れから夜にかけて、暗くなる頃から始まるそうですが、この映画では撮影することに配慮して、明るいうちに演じられたようです。

ベイトソンはこのように、本来ならば相容れないもの(研究素材と、生き生きとした映像美)を別のアプローチから結びつけようとする人です。その先にあるものは、科学的な方法と哲学的な方法が結びついた、人間としてのあるべき姿です。彼はこのように書いています。

 

 本書は、われわれがみな、生きている世界の一部をなすという考えの上に築かれている。本章の冒頭のエピグラフとして私は、聖アウグスティヌスの認識論を明快に示す一節を掲げておいた。今日それはノスタルジーを喚起するばかりだ。生物世界と人間世界との統一感、世界をあまねく満たす美に包まれてみんな結ばれ合っているのだという安らかな感情を、ほとんどの人間は失ってしまっている。われわれの経験する限られた世界で個々の些細な出来事がどうであろうとも、より大きな全体がいつでも美をたたえてそこにあるという信仰を失ってしまっている。

(『精神と自然』「Ⅰ イントロダクション」ベイトソン著 佐藤良明訳)

 

この失われてしまった「生物世界と人間世界との統一感」を取り戻す、というのがベイトソンの思想の壮大な試みです。そのために彼は、いくつかのステップを踏んで論旨を進めていきます。そのことをざっと追いかけてみましょう。

 

まず、「Ⅱ 誰もが学校で習うこと」の章において、ベイトソンは科学的な知見というものが、私たちの予想通りに物事が進んだ場合を仮定したものであって、実は何の証明にもなっていない、ということを初歩的な数学の理論から説明していきます。例えば数学の数列の予想は、そこに規則性があるという思い込みから次の数が予測できるものですが、一方で私たちは予測が常に不確実であるような現実の中で生きています。

だいたいそのようなことが書いてあるのですが、すでにこのあたりで私のような理系が苦手な人間には、理解できそうもないという挫折の予感がしてきます。

次の「Ⅲ 重なりとしての世界」では、ベイトソンは両眼の視覚の違いがもたらす新たな知覚の地平を例にとって、差異というものがいかに重要であるのかを指摘しています。違ったものを無理に統一せずに、違ったままで理解するのです。

そこでいよいよ「Ⅳ 精神世界を見分ける基準」、「Ⅴ 重なりとしての関係性」の章で、精神世界と物質世界の統合、つまり二元論の統一へとベイトソンは進みます。もちろん、それは容易ではありません。ユング心理学が導き出す神秘的な心の話や、パブロフの犬の有名な実験を打破する新たな実験の話などが出てきますが、二元論に立脚した安定した論理を突き崩すために、ベイトソンはそれらの知見を披露しているのです。

このあたりの科学的(?)な話について、ベイトソンの論理にどれほどの妥当性があるのか、私にはわかりません。ところが読者のそんな不安にはお構いなしで、ベイトソンはぐいぐいと進んでいきます。そして、「動物も植物も人間もすべて包み込むより大きな生態学的・生物学的なシステムとをつき合わせて得られた情報」として、文化人類学の「トーテミズム」という概念を持ち出すのです。これが、その部分の文章です。

 

多くの民族は、自分たちの社会を考えるさい、自分たち人間だけで構成しているシステムと、動物も植物も人間もすべて包み込むより大きな生態学的・生物学的なシステムとをつき合わせて得られた情報に頼る。つまり社会についての彼らの思考は、二つのシステムの重なりの中で形成(文字通りインフォーム)されるわけだ。この類比には、実際に似ている部分もあれば、幻想によるこじつけの部分も、また幻想が社会成員にとらせる行動によって、現実に二つのシステムが似てくるという部分もある。社会の形を決定する一要因であるという意味で、これは形態発生的な幻想と言ってよいだろう。  

社会システムと自然界とをこのようなアナロジーで捉えること、これが文化人類学でトーテミズムと呼んでいる宗教にほかならない。われわれにもっと身近な、人間と社会とを十九世紀風の機械になぞらえるアナロジーよりは、的確で健全なものである。  

われわれ西洋文化の人間もトーテミズムと疎遠ではない。楯に紋章を描くというのは、大分世俗化した末期的な姿ではあるが、やはりトーテミズムである。トーテム・ポールであろうと西洋人の楯であろうと、そこに動物の姿を描くことで一家の、父方の家系の、神代からの威厳が主張される。

(『精神と自然』「Ⅴ 重なりとしての関係性」ベイトソン著 佐藤良明訳)

 

ちなみに「トーテミズム」という言葉を辞書で調べてみると、次のようになります。

 

トーテムに対する信仰、およびそれに基づく制度をいい、北アメリカの先住民オジブワのototeman(彼は私の一族のものだ)という語に由来する。初めはアメリカ・インディアンの間にみられる信仰、制度として注目を集めたが、その後、オーストラリア、アフリカ、メラネシア、ポリネシア、インドなどにも類似のものがみられることが報告され、それとともにトーテミズムの概念、その意味について、主として宗教学、社会学、人類学、心理学の間で多くの議論がなされてきた。

(日本大百科全書(ニッポニカ)「トーテミズム」の解説より)

 

さらにベイトソンは「アブダクション」という概念を持ち出して、持論を進めます。この言葉も調べてみると、次のようになります。

 

アブダクションは、関連する証拠を(真である場合に)最もよく説明する仮説を選択する推論法である。アブダクションは観察された事実の集合から出発し、それらの事実についても尤もらしく、ないしは最良の説明へと推論する。またアブダクションという用語は、たんに観察結果や結論を説明する仮説が発生することを意味するためにもときおり使われる。だが哲学やコンピュータ研究においては、前者の定義がより一般的である。心理学や計算機科学などではヒューリスティクスと呼ばれている。

(Wikipedia より)

 

この「アブダクション」という仮説を重ね合わせる方法を用いて、ベイトソンは自分の直面する問題について次のように考えます。

 

すべてのケースにおいてアブダクションとは、事物なり出来事なりシークエンスなりを、二重ないし多重に記述することと考えてよいだろう。例えば私がオーストラリアの一部族の社会組織と、彼らのトーテミズムが前提とする自然界の関係図とを検討するとき、私はこれら二つの知識集体をアブダクティヴな──同じ規則の下に収まる──関係をなすものとして見ていくことができる。一方の形式的特質が、他方の中に、鏡像のように映し出されているだろうという仮定が成り立つわけである。

(『精神と自然』「Ⅴ 重なりとしての関係性」ベイトソン著 佐藤良明訳)

 

ベイトソンがこの本の中で取り上げてきたさまざまなもの、隠喩やたとえ話、夢、寓話、宗教、芸術、科学、詩、比較解剖学など、普通の考え方では相互に結びつかない概念たちが、「アブダクション」という考え方のもとで一つの思考の中に放り込まれ、それらが「関係をなすもの」として見なされていくのです。例えば「事実」と「幻想」、「科学」と「芸術」といった対立する概念が互いに関連づけられていくベイトソンの文章は、私のような部外者から見るととても興味深いし、面白くも感じられます。しかし、学識のある人たちから見ると、一体どうでしょうか。佐藤良明さんは、ベイトソンの著作はなかなかアカデミックな世界では受け入れられなかったのだと解説しています。

しかし、そんなこととはお構いなしに、ベイトソンは生命の「進化」の謎や、人間の「脳の働き」など、科学的に解明しきてれていないグレーな部分に果敢に言及していきます。それが「Ⅵ 大いなるストカスティック・プロセス」と「 Ⅶ 類別からプロセスへ」という終盤の二つの章に書かれていることです。

しかし、ベイトソンのそれらの勇猛果敢な探究にもかかわらず、その相反する概念に関わるすべての謎が解き明かされた、というわけにはいきません。

そうであるならば、この本が書かれた意義というのは、いったいどこにあるのでしょうか?

ベイトソンは、最後に「Ⅷ それで?」という章を設けいます。その章では、娘と父親の会話形式を借りながら、この本の評価について討論させているのです。

例えば、娘が「世界がどうであるのか、読者に想像しろっていうこと?」というふうにこの著作に書ききれなかった部分について、父親に問いかけます。すると父は、「待て待て、想像力の限界について私は話さなかったかな?」と答えます。

思想書としてはあり得ない最終章ですが、その型破りなところが、私のような読者にとっては楽しいものです。

 

さて、このようにベイトソンが二元論の統一を試みてから50年が経ちます。佐藤さんが書いた「訳者あとがき」によれば、ベイトソンのこのような「包括的なヴィジョン」についてはうまく継承されず、その後も発展したとは言えないようです。

しかし「生命の進化」や「精神の構造」など、科学者や哲学者の誰もが部分的にしか解明できなかった分野を、ベイトソンは説明し尽くそうしたのですからその後継者が出てこないのも無理はありません。ベイトソンは戦後まもなく、「サイバネティクス」(生物と機械に共通するシステム特性に対し数学的アプローチをする学問)についての学術会議に加わって、そこで数理、光学的な思考方法を学んで、「心身二元論を超克するマインド一元論への到達」を目指したのですが、この本を著した翌年に亡くなってしまいました。

そのベイトソンの主著は、この『精神と自然』よりも前に書いた『精神の生態学』だと評価する人が多いようです。私も、いずれそちらの本も覗いて見なくてはなりません。

その『精神の生態学』の中でベイトソンが取った学問的な方法について、詩人で評論家の吉本隆明(1924 - 2012)さんは、次のような感想を書いています。たぶん、この本にも共通することだと思うので、少しだけその文章を書き写しておきます。

 

草原のなかで自然なまま動きまわっている獲物を、こちらもまた動きまわりながら狙って射っているようなダイナミックな迫力を感じさせる。何とあらっぽいことをするもんだ、どうして獲物が静止した瞬間を狙わないのか、いったいつづまりがつくものか、ほんとうにマトに当たるんだろうか、この本はそんな危惧とスリルを最後まで発散しつづける。しかし兎に角やってしまおうとして、何も術がなくて途方にくれそうなところから、何とか手がかりや足場を作り、形を整えていって、こういうやり方をすれば何とかなるのだと納得させるところまでもっていってしまう。

(『言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇』「精神の生態学」吉本 隆明)

 

私にはベイトソンの方法論を自分なりに判断できるほどの知識はありませんが、ただそこから感じることは、吉本隆明さんが書いているように動き回りながら考えているということです。この感想は、文頭で紹介したベイトソンの若い頃のバリ島の記録映画の撮影に関することと通じ合っていますね。

考えてみると、私たちが生きている中で自分自身が立ち止まり、考察の対象も静止している状態で十分に考える時間がある、ということはほとんどありません。絶えず私たちは生活に追われ、時間に追われ、動きながら、そして相手(対象)も同様に動きながら、という状態で物事を考える他ないのです。

それに生活の中では、別々に起こった事柄が脳裏によぎり、それがヒントになって新しい考え方が生まれる、ということも頻繁に起こります。それは二元論的な命題が、絶えず混沌とした中で統合してしまっている、ということに近いのかもしれません。

そんなことを思うと、ベイトソンという人は研究者としては破天荒な人だったのかもしれませんが、人間的には私たちの生活実感に近いことを考えた、しっかりとした生活の息遣いを持った人だと言えると思います。

私の教養不足のせいで、だいぶ本の読み込みが浅いと思いますが、この人の思想をもう少し追いかけてみたいと思います。そして、さらにベイトソンの思考内容に踏み込んだ感想を書けるように試みてみましょう。

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