平らな深み、緩やかな時間

227.『ラバー・ソウル』をめぐって、村上さんと佐藤さんのこと

先月の村上RADIOで「ラバー・ソウルの包み方」という特集をやっていました。ビートルズの名盤『ラバー・ソウル』を、他の演奏者のカバー曲でやってしまおう、という特集です。カバー曲だから「包み方」なのですが、このタイトルはアメリカ文学の研究者である佐藤良明さんの『ラバー・ソウルの弾みかた』という本をもじったものではないか、と思ったのですが、そのことについてはラジオで何も言っていませんでした。

https://www.tfm.co.jp/murakamiradio/

ですが、ここは「ラバー・ソウルの包み方」から『ラバーソウルの弾みかた』を想起してしまった私が、思いついたことを書いてみようと思います。

とはいえ、若い人たちにとってはビートルズの『ラバー・ソウル』は古過ぎてなじみがないかもしれません。まずは村上さんの解説を聞いてみましょう。

 

LP『ラバー・ソウル』(Rubber Soul)は、1965年12月に発売されました。僕はそのとき16歳でしたが、このレコードが出たときのことをよく覚えています。そして、その音楽はすごく新鮮に耳に響きました。なんていうのかな、それは、それ以前には存在しなかった種類の音楽だったんです。そして今聴いても、まったく古びていません。同じように新鮮です。今日はいろんな人のカバーで、この素晴らしいアルバムを楽しんでください。

今日は英国盤LP『ラバー・ソウル』の曲順に従ってかけていきます。というのは、オリジナルの英国盤は14曲入りなんですが、アメリカのキャピトル・レコードはそこから4曲を削除して、別の2曲を付け加えて発売するという暴挙に及んだからです。だからアメリカ盤と英国盤とでは内容が違っています。そのことは、またあとでちょっと話しますけど。

(村上RADIO「ラバー・ソウルの包み方」より)

 

村上春樹さんは1949年生まれです。したがって、高校生の時にリアル・タイムで『ラバー・ソウル』を聞いているのです。私は1960年生まれですから、『ラバー・ソウル』が発売された時には5歳になったばかりで、当然のことながら後追いでビートルズを聴いた世代です。それでは佐藤良明さんはどうかと言えば、佐藤さんは1950年生まれです。ですから『ラバー・ソウル』をリアル・タイムで聴くことができた世代ですが、彼はこのアルバムをそのときには聴いていないようです。のちに英語の先生にもなる人ですから、洋楽が大好きな少年だったようですが、佐藤さんはこんなことを書いています。

 

「ドライブ・マイ・カー」と一緒に「ノルウェーの森」を収めたEP盤(4曲入り500円の「エクステンディッド・プレイ」)を手にしたのは、もうしばらくしてからのことである。「ノルウェーの森」!あの全然インド的でないシタールの音は、レイト・シックスティーズへ向けて、ほんのわずかにほころびかけた<フラワー>のつぼみのようだ。ローリング・ストーンズが「黒くぬれ!」で、今度は激しいビートにシタールを乗せた。本をめくると、ジョージがラビ・シャンカールにシタールを習いにインドへ出向いたのはその年の10月とある。11月にはもう、ジョンとヨーコが出会っている。アメリカでも、サンフランシスコ周辺で、グレイトフル・デッドとか、ヘルズ・エンジェルズとか、すでに相当にざわつき始めていたころだ。ただ僕の中で《時》は、ほんのわずかにカタカタ震えだしたという感じだった。1966年。つい目を細めてしまうほどのまぶしさだけれど、そのまぶしさは、どこまでも清楚である。

(『ラバーソウルの弾みかた』「1 ハロー・ポップス 1966」佐藤良明)

 

佐藤さんはヒット・チャートを中心に洋楽を聞いていたようで、その体験がこの『ラバー・ソウルの弾みかた』を書く上での基本となっています。

この『ラバー・ソウルの弾みかた』は、この本が書かれた1988年という時点から『ラバー・ソウル』が発売された1960年代という時代を、つまりポップ・カルチャーを手がかりにして「時」そのものを洞察する、という試みなのです。

村上春樹さんがきわめて音楽的に『ラバー・ソウル』というアルバムを聴いていたのに対し、佐藤良明さんはその中の数曲を聴いたに過ぎません。だからと言って、その聞き方が浅いというわけではなくて、例えば『ノルウェーの森』からシタールというインドの民族楽器の音色に触れ、ストーンズの『黒くぬれ!』について言及していきます。そしてさらにはシタールの(民族楽器らしからぬ)使い方に触れ、60年代終わりの「フラワー・ムーヴメント」の雰囲気を読み取っているのです。だから『ラバーソウルの弾みかた』という本のタイトルとは裏腹に、その後は『ラバー・ソウル』の話が出てきません。その代わりに、ビートルズというバンドではなくて、その後のポップ・カルチャーに大きな影響を与えたジョン・レノンという一人の人間に対して、主に焦点が当たるのです。

さて、あまりていねいに固有名詞にこだわると先に進めなくなってしまいますが、もしも『ノルウェーの森』も『黒くぬれ!』も、ラヴィ・シャンカールもシタールという楽器もピンとこない方がいらしたら、念のため次の動画の触りだけでも視聴してください。

  • ノルウェーの森

https://youtu.be/Y_V6y1ZCg_8

  • 黒くぬれ!

https://youtu.be/OAzbEFmNO2M

  • ラヴィ・シャンカールとシタール

※たぶん、ラヴィの隣でシタールを弾いているのが、ノラ・ジョーンズの異母妹のアヌーシュカ・シャンカールだと思います。

https://youtu.be/lIQrUZLyATo

  • ついでに、グレイトフル・デッドの有名な曲もどうぞ!

https://youtu.be/5yJmBC7cMTM

 

それでは、先に進みましょう。

このビートルズの『ラバー・ソウル』には、佐藤良明さんが奇しくも取り上げていた『ドライブ・マイ・カー』と『ノルウェーの森』が入っています。両方とも村上春樹さんが小説のタイトルとしたものです。村上さんは、これらの曲にどれほどのこだわりがあったのでしょうか?彼はラジオでこう言っています。

 

A面の1曲目は「ドライブ・マイ・カー」(Drive My Car)です。作曲したのはポール。この曲を最初に耳にしたとき、ずいぶん変わった曲だなと思いました。それまでのビートルズの曲とは雰囲気ががらっと違っていて、とても印象深かったです。しかしまさか将来、この曲のタイトルを拝借して短編小説を書くことになるだろうなんて、もちろん16歳のときには考えもしませんでした。

(村上RADIO「ラバー・ソウルの包み方」より)

 

「ドライブ・マイ・カー」の次、A面2曲目が「Norwegian Wood(ノルウェイの森)」。よくできているというか、まあ、たまたまなんですが。

ずっと昔のことですが、旅行でノルウェイに行ったとき、僕の本を出しているノルウェイの出版社の編集者が、車で僕をオスロ郊外の山の中に連れて行って、「ハルキ、ほら、これがノルウェイの森だ」と言いました。べつに普通の、なんでもない森だったですけどね。「はあ……」みたいな感じでした。

(村上RADIO「ラバー・ソウルの包み方」より)

 

いかがですか?とくにこだわりがないところが、村上春樹さんらしくていいですね。ここでそれらしい物語を聞かされてしまうと、つい「本当?」と疑ってしまいます。それと、『ドライブ・マイ・カー』のカバーとして選ばれているのが、ジャズ・ボーカリストのボビー・マクファーリンです。ビートルズのカバーだから、ロック系のカバーも沢山あるのでしょうが、あえてボビー・マクファーリンのボーカルだというのも、良いセンスです。

ボビー・マクファーリンを知らない方がこの音だけを聞くと、「これは何?」となりそうですね。ボビーさんの『ドライブ・マイ・カー』と、ライブ映像の『ドライブ』(だと思います)をセットで視聴してみてください、楽しいですよ。

ボビーさんは低音のベースから高音の女性コーラス的な音まで、すべて自分でやってしまう稀有なボーカリストです。それに体を叩いてパーカッションの音を出すなど、とにかく一人で何でもやってしまう人なのです。レコードの多重録音を聴いても驚きますが、ライブで本当に一人ぼっちでやっているのを見ると、まるで曲芸を見ているような面白さがあります。たぶん、頭の中でいろんな音が同時に進行していて、プレーヤーであると同時に指揮者のような才能があるのでしょう。

  • ドライブ・マイ・カー/ボビー・マクファーリン

https://youtu.be/e4Vw4i7Y10w

  • ドライブ/ボビー・マクファーリン

https://youtu.be/5c4oQhkNuq0

 

このように、村上RADIOの『ラバー・ソウルの包み方』は番組の公式ホームページを読んで、彼が取り上げたカバー曲を探して聴いてみれば、ほぼ内容がわかりますが、佐藤良明さんの『ラバーソウルの弾みかた』は、いまは古本でしか入手できないみたいで、とても残念です。こういう本こそ、電子本にして継続的に読めるようにするべきだと思いますが、とりあえずどんな内容なのか、覗いてみましょう。

まず、「プロローグ」の章でこの本が6つの面からできている、と書かれています。その概要はどうなっているのでしょうか?

 

SIDE1(夢とウソのロックンロール)

「1967年」を、今に呼びさましながら、《時》を言葉やシンボルや行動の意味を変えていくコンテクストの流れとしてイメージする。

SIDE2(時の生態学)

《時》の本流のできるだけ大きな部分を、想像の中につかみとる。ここで展開する「時の階層意識」は、本書全体の理論的な枠組になるものだ。

SIDE3(重工業人間の終焉)

テクノロジーの進化とあいまって、《僕ら》のあこがれ、おそれ、のり、うとましさ、等々が変化していくようすを、ハリウッド映画とポピュラー音楽を資料として感じとる。

SIDE4(シックスティーズの引き潮)

この面はぐっとパーソナルになる。《レイト・シックスティーズ》が個々の人生に落とした重みに感応しながら、時代のシンボルとしての「ジョン・レノン」の意味を抽出していく。

SIDE5(資本主義の弾みかた)

「ヒッピーイズム」が意識的に押し出した快楽原理が、新しい資本主義のエートスとなっていくようすを観察する。

SIDE6(ラバーソウルの文学)

世界に対峙する強い自我の文学が崩れて、その場その場で弾みを変える、もっとミュージカルな心をうまく吸引する、新しい物語空間が浮上してくるようすを検証する。

(『ラバーソウルの弾みかた』「プロローグ」佐藤良明)

 

これらの項目を読んで、どのように感じますか?そもそも、このような研究が存在するとして、学問的にどのような分野として位置付けられているのでしょうか?私は不勉強なので、まったく見当がつきませんが、「文化人類学」あたりが近いのかもしれません。

というのも、この「プロローグ」の最後に重要な人物を何人か列挙していますが、その中にアメリカの人類学者、社会学者のグレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson, 1904 - 1980)の名前が見えるのです。そして、この本の思想的なベースになっている人だという趣旨のことが書かれています。佐藤良明さんはベイトソンを次のように紹介しています。

 

グレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson, 1904 - 1980)

この本の《思想》を担当する、ジェネラル・ディレクター。人類学、分裂症研究、動物のコミュニケーション研究、学習と進化の理論を統合して「エコロジー・オブ・マインド」という思想体系を完成した。この本の《時》とは、彼が大文字のMで表記した惑星の唯一心

《Mind》と異なるものではない。

(『ラバーソウルの弾みかた』「プロローグ」佐藤良明)

 

グレゴリー・ベイトソンについては、恥ずかしながらその著作を読んだことがありません。興味深い研究者であるとはわかっていたのですが、この紹介にもあるように、なんとなく理系的な雰囲気があって、本屋さんで本を開くと「あ、難しそうで無理!」と思って買わずに帰ったことが何回もあります。

でも、ここは覚悟を決めて、さっき電子書籍で『精神と自然―生きた世界の認識論』というベイトソンの主著のうちの一冊を買いました。もちろん翻訳は佐藤良明さんです。そのうちに感想をblogに書きますね。いま、ちょっと中を覗いてみたら、面白いエピソードがありました。ベイトソンが「サンフランシスコにあるカリフォルニア美術学校の若いビート族風の学生のクラス」に講義をすることになったのだそうです。その時の様子を、彼は次のように書いています。

 

クラスは十人か十五人ほどの小さなもので、敵意からくる白けた雰囲気を漂わせているだろうと、教室に入る前から察しがついていた。実際ドアを開けると、こちらが悪魔の生まれ変わりで、原子力兵器や殺虫剤を常識として推進しようとする人間であるかのような視線が私に投げかけられた。当時(あるいは今日でもそうだろうか?)科学というものは〝価値〟とも〝感情〟ともまったく無縁のものと見られていたのである。

(『精神と自然』「生きた世界の認識論」ベイトソン著 佐藤良明訳)

 

美術系の学生がベイトソンのことを「何だ、こいつ!」みたいな気持ちで迎えたことがよくわかります。私の、彼の著作への反応と似たり寄ったりです。このベイトソンという人は、お父さんが遺伝子学者で、奥さんが文化人類学者で、という人でした。そして自分自身は、その両方の要素を取り入れて人間の心の構造を解明しようとしたのです。佐藤良明さんは、そのベイトソンの方法論を自分自身の「文学の素養」や「ポップ・カルチャーへの興味」に応用しようと考え、その結果生まれたのがこの『ラバーソウルの弾みかた』という本なのです。

佐藤さんはさらにそこにカルロス・カスタネダ(Carlos Castaneda、1925/31? - 1998)という当時話題の、そして少し怪しげな文化人類学者への考察を加えます。佐藤さん自身は、カスタネダを次のように紹介しています。

 

カルロス・カスタネダ

生まれた年も場所もアメリカへの入国年度も、調べはついているのだが、幻覚植物に通じたヤキ族インディオの呪師ドン・ファンのもとで修行にはげんだ結果、履歴などない「ナワール人間」になってしまった。「修行」の「フィールド・ノート」である彼の著作の最初の四冊は、ドラッグ・カルチャーと現代思想を結ぶ貴重な接点になっている。

(『ラバーソウルの弾みかた』「プロローグ」佐藤良明)

 

1970年代から80年代にかけて、私が学生だった頃にカスタネダの『ドンファンの教え』という本が流行りました。平たく言えば、「麻薬を使った心の修行」というようなものです。(不正確だったら、すみません。)もしかしたら、映画『スター・ウォーズ』で主人公がフォースという超能力を身につけるために修行している感じと、似ているかもしれません。そこには何か深遠なもの、ロマンチックなものを感じますが、その一方でやはり怪しげな、いかがわしさも感じてしまいます。

しかし1960年代の状況を振り返った時、カルチャーもサブカルチャーも、聖も俗も、一緒くたに混じり合いながら何か新しいものが生まれるような、そんな熱気を感じます。1960年代の後の1970年代は逆に穏やかな時代で、1980年代の後半から1990年ぐらいまでのバブルの時代に振り返ってみると、1970年代よりも1960年代後半の方が、何か可能性を帯びていたような、そんな気がしたものでした。この『ラバーソウルの弾みかた』がそんな浮わついた気分で書かれたとは思いませんが、何かしら肯定的なパワーがあったことは確かだろうと思います。

そのような知的な盛り上がりをこの本から感じるのですが、中を読むとけっこう難しいです。とくに今の若い方が読むとなると、ポップ・カルチャーに関することであっても、いちいち調べないとなんのことやらピンとこないかもしれません。それに加えて、おそらくはベイトソンから継承したであろう、次のような考察の文章がそこここに書かれていて、ちょっと理屈っぽいのです。

 

ここでもう一度、視点を宇宙の彼方に飛ばしてみる。このところ、およそ一万年ほどの間、《時》はどのような変態を遂げてきたか。

地球を一個の巨大な精神として考えた場合、それがプロセスしていく情報に、「シンボリック」なレベルのものが加わったのは、少なく見積もっても鳥類や哺乳類が現れてからそれほどの後のことではないだろう。ただ、個々の生命体が単位となって、意識された「目的」の成就のために「思考」するという体制ができあがったのは、「歴史」の誕生まで降りくだる。それまで《時》は、「ストカスティック」な過程を進むほかなかったはずだ。「ストカスティック」というのは、ランダムな出来事が無数に放たれる中から、「適した」ものが自ずと生き残っていく自然選択の過程である。これは変化を得る方法として、じつに気の長い、間違いのない方法だった。そこに「意識的思考」というものが発生して、まったく新しい変化の方式が呼び込まれた。「ねらい」を定め、そちらを「めざし」、結果を「自覚」する・・・。それまでストカスティックな流れに任せて、悠々とした律動の中にあった《時》が、こうしてガ然せわしい蠕動(ぜんどう)を始めるようになった。《時》の表皮に生えた、欲動する繊毛が細かくふるえ、その動きが《時》のボディを運んで進む・・・。

<中略>

20世紀後半、変化は個人の心のハードウェアも巻き込むようになってきている。僕らの中枢神経網がメディアのネットワークと結ばれるなかで、外界の経験と、欲望のあり方に構造的な変化が現れてきている。その変化の、具体的なあらわれをキャッチすることこそ、僕たちの時代研究に課せられた任務だ。いま僕らは、さまざまなメディアと連結し、さまざまな思考ツールによりかかることで、どんな生世界へ突入しつつあるのか、どんな新しい心へと変身しつつあるのか。そういうことをどうやって知ることができるのか。

(『ラバーソウルの弾みかた』「SIDE2 時の生態学」佐藤良明)

 

まるで映画『2001年宇宙の旅』の始まりのシーンを見るような、あるいは時間的な広がりで言えばもっとスケールの大きな話ですが、「時間」というものが「意識」の芽生えによって変化してきたのだ、という考え方を佐藤さんは取っています。それは物理的な時間の刻み方と異なっているのですが、私たちはその《時》をどういう方法で捉えることができるのか、と佐藤さんは問いかけているのです。つまり、人が生まれて、「意識」が芽生えて、それから後の「時間」を、私たちはどのように考察したら良いのか、ということです。

実は、その答えらしきことを佐藤さんはこの本の「エピローグ」のなかでこう書いています。

 

目の前に、生きた人間の《行動》がある、その《行動》から《文化》を透かしみようというのが人類学だ。しかし《文化》とは、結局のところ人と人との関係の形式である。《関係》はいつも個々の人間より大きい。それを生け捕るには、中に入っていかないといけない。中にはいって足を動かし、目を動かし、ハートを動かす。そうやってはじめて、見るものと見られるものの間に、《関係》が生起する。《時》が動き出す。観察者と観察対象が《存在》の根っこの方でつながって、はじめてコミュニケーションの生きた回路が形成され、カメラに《意味》のこもった映像が入ってくる。

こう書くと、なにか難解で秘儀的に響くかもしれないが、実はこれも、誰でもハートでなら知っていることではないだろうか。「人を知る」とき、僕らはみんなそうやっている。外国語を上達するときも、実はみんな(無意識のうちに)このやりかたで上手くなっている。

(『ラバーソウルの弾みかた』「 エピローグ」佐藤良明)

 

佐藤さんの言いたいことは、たぶんこういうことです。

「時」というものは、人間の外側にあって機械的に刻まれているものではなくて、人間が生きて行動することによって、はじめて動き出すものです。そうではない「時」について、考えをめぐらせても意味はないでしょう。それでは人間が生きて行動することによって動き出す「時」というものは、どういうものでしょうか?それは人間と人間が関係を持ち、一人ひとりの人間よりも大きな「文化」の中に入った時に、はじめて「意味」を持った「時」というものを観察することができる、というのです。

ということは、私たちがいま生きている「文化」について、一緒に生きている人たちを観察し、自分自身についても「意識的」に見てみれば、そこに私たちの「文化」における「時」が見えてくることでしょう。しかし、それはあまりに自然なことなので、私たちは「意識的」にそこに含まれる「時」を見ることができないのかもしれません。

そこで最後に事例としてあげているのが、「外国語を上達するとき」ということなのです。「外国語」を上達するときに、おそらく私たちはその国の「文化」について意識し、その国の人たちの気持ちの動き方について目を凝らすことでしょう。そうして、外国の人たちの間に入って、人と人との関係を見つめるときに、その「文化」の中の「時」を認識できるのでしょう。

佐藤さんにとっては1960年代後半のアメリカの「文化」が、まるで人と人とのつながりが沸騰している極限状態に見えたにちがいありません。自分にとってそう遠くない時代の、それも自分が研究している異国の「時」を考察することが、彼にとってとても興味深いことだったのでしょう。それで彼は、その時代の「文化」に入り込み、その沸騰した「時」を記述することが、人類にとってとても意義深いことだという使命感を持ったのだと思います。

 

さて、私はこのような『ラバーソウルの弾みかた』という本に大いに刺激を受けました。この本で取り上げられている作家の中で、ジャック・ケルアック(Jack Kerouac、1922 - 1969)に興味を持ちましたし、とりわけリチャード・ブローティガン(Richard Brautigan、1935 - 1984)については、自分なりに少し追いかけてみました。

しかし、ベイトソンの方法論を応用したはずの「時」の観察方法が、「足を動かし、目を動かし、ハートを動かす」というのでは、少々拍子抜けではないでしょうか?言っていることに間違いはないと思いますが、この本を読みはじめた感触はベイトソンの理論に引っ張られたちょっと難解な、そして硬質なものでした。佐藤さんもこの本を書いた当初は、もっと難しくて、そして誰も行ったことのないユニークな場所に辿り着こうとしていたのではないでしょうか?私には、そんなふうに思えてなりません。

その後の佐藤さんは『J-POP進化論』のような日本の歌の研究や、『これが東大の授業ですか。』、『英文法を哲学する』、あるいは同僚の東大の英語の先生である翻訳家の柴田元幸さんと『佐藤君と柴田君』を出版して話題になるなど、主に語学の先生として活躍されているようです。私も、彼の英語学習のテレビ番組を見ていたことがありました。しかしその著書については、ちょっと私の興味のあるフィールドから変わってしまったのかな、と思って読んでいません、すみません。

佐藤さんには、もっと硬軟、聖俗、をひっくるめた大きな文化の考察や、「時間」や「心」に関する誰も辿り着いたことのない研究をしていただきたい、と思っているのが正直なところです。

しかし、そんなことを他人任せにしていてはいけませんね。私自身がベイトソンを読んで、そしてもう一度この『ラバーソウルの弾みかた』を読み返してみて、その思考の可能性について考えてみなくてはなりません。荷が重いけれども、がんばります。

 

ところで、皆さんはこのビートルズのアルバムタイトルの『ラバー・ソウル(Rubber Soul)』の語源を知っていますか?

ラバーソウル(rubber sole)というのは、もともとゴム底の靴のことです。でも、ここではsoleではなくてsoul、つまり「ソウル・ミュージック」の「soul」の綴りになっています。これは、ピーター・バラカンさんもラジオで言っていたことですが、あるブルース奏者がミック・ジャガーの音楽を「プラスティック・ソウルだ」と言ったのだそうです。この「プラスティック」には「インチキの」という意味があって、それを知ったビートルズが、自分たちの新しいアルバムを「プラスチック」よりもさらにヤワな「rubber(ゴム)なソウル」にしようぜ、ということで、このタイトルにしたのだそうです。

いいですね、このユーモアと知性と、ストーンズとの連帯感と、それから反骨精神と!

そのrubber(ゴム)に引っ掛けて、佐藤さんは「弾みかた」という言葉をこの本のタイトルにしたのですね。

さらにそれをもじって、村上さんはラジオ番組のカバー曲集を「包み方」というふうに名付けたのだと思ったのですが、繰り返しになりますが、そのことについてラジオではなにも言っていませんでした。私の早とちり、もしくは勘違いかもしれません。

その勘違いをきっかけに、今回はblogを書いてみました。

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