今回も、美術家の岡﨑乾二郎さんの批評選集『而今而後(ジコンジゴ) 批評のあとさき(岡﨑乾二郎批評選集 vol.2)』を取り上げます。
芸術に関するさまざまな話題に及ぶこの本ですが、その最後の「Ⅴ アトピーな報せ」という章では、絵画や美術、芸術を論じたエッセイが続きます。その中にホームレスについて」という短いエッセイがあります。これは一般的な社会問題としての「ホームレス」について論じたものではありません。この「ホームレス」という言葉は、アメリカの美術評論家グリーンバーグ(Clement Greenberg、 1909-1994)さんが「抽象表現主義以後」(1962)という有名なエッセイの中で使った言葉「帰する場所なき再現性/ホームレス・リプレゼンテーション(homeless representation)」から採られたタイトルです。ですから、この「ホームレスについて」は、現代絵画を論じたエッセイなのです。
そこで今回は、グリーンバーグさんの「抽象表現主義以後」も参照しつつ、「ホームレスについて」を読んでいきたいと思います。岡﨑さんの文章は、とても難解なので私の誤読があったら申し訳ないです。しかし、私自身がよくわからないのにも関わらず、岡﨑さんのエッセイは現代絵画にとって、とても重要なことを語っているように思います。何とかそれを受け止めたいです。
さて、岡﨑さんはこの「ホームレスについて」のはじめに、写実主義の創始者と言われる画家、ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet、1819 - 1877)さんのことを取り上げています。
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/Courbet/index.html
ちょっと話が長くなりますが、グリーンバーグさんの話に行く前に、クールベさんについて説明しておきます。
クールベさんは「私は天使を見たことがないから描かない」という有名な言葉を残した、徹底した写実主義の画家です。私たちは普通、この言葉の意味を「オレは、モノを見えるとおりに描くぞ!」という宣言のようなものとして受け止めます。しかし、岡﨑さんの読み方は、それとは違います。どういうことなのか、その理屈がわかるように岡﨑さんの文章を抜粋してみましょう。
彼が、天使や聖母やらの見えないものは描かない、と言ったとしても、彼のリアリズムは単純に写実主義を意味しているわけでは、もちろんなかった。彼のリアリズムは、どのみち絵画は見えるものしか描くことはできない、という絵画の限界を冷徹にふまえた認識においてリアルだったのである。けれど彼のリアリズムの核心はさらに先にある。彼は、私たちの視覚はつねに見えるものに拘束されていること、言い換えれば、人の視覚は見えるもの(対象)として統制されずには見ることができない、という条件を担わされていることにもっとも自覚的な画家だったのである。
(『而今而後』「ホームレスについて」岡﨑乾二郎)
岡﨑さんの解釈では、「見えないものは描かない」とクールベさんが言ったとしても、それは現在の私たちがカメラで写真を撮るように描くという意味ではなく、「絵画は見えるものしか描くことはできない」という認識だったのだ、ということになります。さらにそれは「人の視覚は見えるもの(対象)として統制されずには見ることができない」という意味だったのだというのです。
これはわかりにくい理屈のようですが、クールベさんの生きた時代においては、「リアリズム」と言っても現代の「フォトリアリズム」のようなものではなかったのですから、そう考えると合点がいきます。先のリンクでクールベさんの作品を見てもらうとわかるように、『画家のアトリエ』(1854 - 1855)という大作では、「フォトリアリズム」どころか寓意画とも言えるような、モデルを大編成した作品になっています。この光景は現実のものとはかけ離れていて、画家の傍らにヌードモデルがいるというのに画家はそちらを見ていませんし、そもそも彼が描いているのは故郷の風景画です。右端で本を読んでいる人物は詩人、批評家のボードレール. (Charles Baudelaire, 1821-1867)さんで、それ以外にもクールベさんの知人、身近な人たちが何人も描きこまれています。「見えないものは描かない」どころではなくて、一堂に会することのない人たちをスケッチから再構成していることは明らかです。ついでに書いておくと、この作品についてはいつもご紹介している高階秀爾(たかしな・しゅうじ、1932 - 2024)さんの著書『名画を見る眼Ⅰ』に詳しく書かれていますので、よかったら参照してください。
話を戻します。クールベさん自身がつけたタイトルも『現実的な寓意・わが7年間の芸術的生涯の一面を決定するわがアトリエの内部』というものです。つまり、これは写実画というよりは寓意画なのです。それならば、クールベさんの「見えないものは描かない」という言葉の真意はどこにあるのでしょうか?
岡﨑さんはさらに掘り下げて、次のように説明しています。
視覚は見える対象に対して、つねに受動的に応えるほかない。しかし、この自覚によって逆に、クールベははじめて見えるもの(対象)から、視覚それ自体を切り離す可能性を見出しえたと言えるのではないか。私たちはつねに対象を見てしまうし、あるいは視覚はつねに対象によって見出されてしまう。このように先験的に疑うすべもないかのように与えられてしまう対象と私たちをつなぐ視線を切断すること、彼のリアリズムの核心はこの切断にあった。
(『而今而後』「ホームレスについて」岡﨑乾二郎)
難しい文章ですが、私なりに解釈してみましょう。
私たちは、ふだん、見ることと見られることをとくに意識することなく、自分の視覚で見たものをそのまま見ていると思っています。そして絵画においては、クールベさんの時代のことで言えば、肖像画であれ、歴史画であれ、宗教画であれ、絵を見る私たちと、絵に描かれた人、モノ、風景などは何の違和感もなく調和していると思っていました。現代で言えば、カメラマンとモデルとの関係のように、撮ることと撮られることに慣れ切った関係と言えばよいでしょうか。
クールベさんが「見えないものは描かない」と言ったのは、この調和した関係、慣れ切った関係を「切断すること」であった、と岡﨑さんは言っているのだと思います。岡﨑さんはクールベさんの『まどろむ糸つむぎ女』(1853)という作品を取り上げ、そこでクールベさんは居眠りしている女性を不意打ちのように描いている、とか『傷ついた男』(1844 - 1854頃)では目を閉じた自画像をどうやって描いたのか、などとツッコミを入れて、「ともかく、そこで視線は所在すべき場所を持ちえない」とまとめています。つまり見ることと見られることが調和せず、私たちの視線は「これ、見ていいの?」という感じで戸惑いつつ、かといって描かれたモノに受け止められることもなく、空を漂ってしまうのです。
このように「所在すべき場所を持ちえない」視線は、いったいどこへ行くのでしょうか。そして私たちは自分の視覚をどのようなものとして捉えればよいのでしょうか。岡﨑さんは次のように解説しています。
クールベの例外性は、クールベが、零度の視覚など決して存在しえず、人の視覚は、再現表象(リプレゼンテーション)に媒介され、はじめて存在しうるということを深く自覚していたことにあった。例のデュシャンの「絵画は網膜的であるにすぎない」という批判はたぶん誤解されている。私たちは、あらかじめ与えられた表象によって受動的に組成される視覚しかもたず、つまり網膜が、すでにレディ・メイドであったというテーゼが補足され、再考しなおされる必要があるだろう。そしてモダニズムの視覚というものが可能だとするならば、この網膜への抵抗においてほかはない。
(『而今而後』「ホームレスについて」岡﨑乾二郎)
これも難しいですね。
私なりに読み解くと、クールベさんは見えるがままに自然に描く、などということはあり得ないとわかっていた、ということになります。それゆえに、『画家のアトリエ』のような不自然な大編成のモデル群を絵に描くことで、その自分の認識を意図的に表象したということなのでしょう。私たちの視線は、一瞬の違和感を抱きつつ、クールベさんがリプレゼンテーションした画像へと受け止められるのです。
そしてマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887 - 1968)さんの「絵画は網膜的であるにすぎない」という言葉は、たんに絵画は視覚的な表現に過ぎない、という意味ではなくて、絵画を見るということは「再現表象(リプレゼンテーション)に媒介され」たものを見る行為に過ぎない、と言っていることになります。え、デュシャンさんはそこまで穿った意味で言ったのかな、と思わないではないのですが、この解釈がこのエッセイにおいて現代絵画を考える手がかりになるので、この解釈をそのまま受け止めましょう。
デュシャンさんもクールベさんのように、一般的な絵画における視線の馴れ合いに一石を投じた、ということなのです。
さて、以上のことを予備知識として、グリーンバーグさんの「抽象表現主義以後」を読んでみましょう。
グリーンバーグさんには「モダニズムの絵画」(1960)という高名なエッセイがあります。これはモダニズムの概念が現代の絵画にどのように反映しているのかを語った内容であり、その趣旨に沿って考えれば、ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)さんに代表されるアメリカの現代画家たちの成果を世界に問う、というふうに読める内容となっていました。
ところが「抽象表現主義以後」になると、抽象表現主義の画家たちの成功に追随するような動向に対して、本当に評価すべき絵画は何か、ということを語らなければならない事態になっていたようです。
これにはグリーンバーグさん自身の難しい絵画理論にも原因があったと私は考えます。
このblogでもたびたび書いているように、グリーンバーグさんは「モダニズムの絵画」の中で「モダニズムの絵画は、他には何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである」と書いていました。しかし、これを突き詰めれば絵画はまったくの平面的な絵画になってしまいます。そこでグリーンバーグさんは、同じエッセイの中で「モダニズムの絵画が自己の立場を見定めた平面性とは、決して全くの平面になることではあり得ない」とも書いているのです。
そこで問題となるのは、絵画空間の奥行き、つまり絵画のイリュージョンを画家はどのように考えたらよいのか、ということです。
絵を描く立場で言えば、「平面性へと向かう」ことと、「全くの平面になることではあり得ない」ということは矛盾しますし、それならば絵画のイリュージョンについてグリーンバーグさんはどのように考えるのか、と問いたくなるのです。グリーンバーグさんは同エッセイの中で「古大家たちは、人がその中へと歩いて入っていく自分自身を想像し得るような空間のイリュージョンを作り出したが、モダニストが作り出すイリュージョンは、人がその中を覗き見ることしかできない、つまり眼によってのみ通過することができるような空間のイリュージョンなのである」と説明しています。
これは、現代の絵画の空間は、遠近法(透視図法)的な図法としてのイリュージョンではなく、例えば線や色によって視線が導かれる深みのような空間なのだという意味だと私は解釈します。
例えばそれは、ポロックさんのドリッピング技法による線の重なりによって表象される絵画のような空間です。
https://www.metmuseum.org/ja/art/collection/search/488978
この深みのような空間を指向すれば、そこに描かれたものが具象的なモノであれ、抽象的なモノであれ、何か絵画らしいものが描けるはずです。しかし、それでは何か物足りない絵画になってしまうことが多いように思います。それはなぜか、といえば先に見た「零度の視覚など決して存在しえず、人の視覚は、再現表象(リプレゼンテーション)に媒介され、はじめて存在しうる」という岡﨑さんの分析に関わります。
人の視覚は、そこに何かが「リプレゼンテーション」されていなければ、空を漂ってしまって行き場を失うのです。例えばポロックさんにおいては、ドリッピング技法によって錯綜した複雑な空間がそこにあり、さらにそれを支えるポロックさんの緊張感の伴った描画行為があったので、私たちの視線はポロックさんの画面にくぎ付けになるのです。もしもそれらがなかったなら、ただの弛緩したくぼみのような空間がそこにあるだけで、私たちの視線は行き場を失うでしょう。
おそらく、グリーンバーグさんが「抽象表現主義以後」を書いた時には、そういう絵画に対する危機感があったのだと思います。次に引用するグリーンバーグさんの文章は、岡﨑さんが「ホームレスについて」の中で引用している部分を含みますので、読んでみてください。
後に、1950年代が経過するにつれて、抽象表現主義の絵画の多くが、より一貫した三次元空間のイリュージョンを実に声高に要求し始めた。そしてそうであるからには、それは再現性を求めたのである。というのも、そのような一貫性は原則としてただ三次元の対象の蝕知できる再現性を通じてのみ創出され得るからである。それゆえニューヨークの絵画的な抽象がついに特定の方法へと結晶した時、それが一連のあからさまに再現的な作品、すなわちデ・クーニングの1952年から55年の『女』の絵においてであったというのは、かなり論理にかなっていた。この方法は、デ・クーニング自身と彼が影響を与えた無数の芸術家たちによって再び抽象芸術へと戻されていったが、私はそれを「帰する場所ない再現性(ホームレス・リプレゼンテーション)」と呼んでいる。私がこの語で意味しているのは、抽象的な目的のために適用されはするが、再現的な目的をも示唆し続けるような、彫塑的かつ描写的な絵画的なるもののことである。それ自体としては「帰する場所なく再現性」は良くも悪くもないし、おそらく抽象表現主義の最良の成果のいくつかは、早くから再現性と戯れることによって得られたものであろう。悪しき場合とは、後にそれがマンネリズムに陥ってしまった時だけのことで、ある手法に特有のものになってしまう場合である。
(『グリーンバーグ批評選集』「抽象表現主義以後」グリーンバーグ著 藤枝晃雄編訳)
ちなみに、デ・クーニング(Willem DE KOONING, 1904 - 1997)さんの有名な『女Ⅰ/Woman I』(1950–52)は次の作品です。
https://www.moma.org/collection/works/79810
岡﨑さんはこのエッセイの中で、これらの『女』シリーズが描かれたときに、「抽象画家デ・クーニングの裏切りとして”芸術界”をずいぶんと賑わしたようだ」と書いています。クーニングさん自身にとっては、それはどうでもいいことで、とにかく画面上に何か手ごたえのあるものが描かれていればよい、ということなのだと思います。
そして岡﨑さんは「帰する場所なき再現性」について、次のようにまとめています。
「帰する場所なき再現性」とは、具体的には、それ自体抽象的な筆触や色面が、何かの抵抗物に出合ったかのように不意に抑制されたり中断したりする、その変更によって形態が暗示され、具体的な何か対象が描写されているかのように匂わされるということだ。つまり「対象の描写」という構図から「対象」を括弧に入れ、手ごたえのある「描写」だけを取り出そうとした手法をいう。
(『而今而後』「ホームレスについて」岡﨑乾二郎)
つまり、先ほど書いたポロックさんのように、手ごたえのある「描写」を取り出すためには、ドリッピング技法による錯綜した複雑な空間や、それを支える緊張感の伴った描画行為が必要となります。それを維持するには超人的な精神力が必要ですし、たとえポロックさんのアクション・ペインティングの絵画がいかに素晴らしくても、同じことを数年も繰り返せば、真摯な表現者であればあるほどマンネリズムに陥ります。グリーンバーグさんの言葉によれば「悪しき場合とは、後にそれがマンネリズムに陥ってしまった時だけのこと」と書いていますが、ポロックさんにおいては、彼が亡くなる前の時期にそういう状況に陥っていたのように見えます。
さて、このような現代絵画の困難に対し、評論家は「ポロックの凋落」などと書いていればいいわけですが、表現者にとってはそういうわけにはいきません。そこでポロックさんが活躍し、グリーンバーグさんがこれらのエッセイを書いた時期から60年以上が経ちますが、現在の絵画の状況はどうなっているのか、気になります。
岡﨑さんは、現在の絵画の状況について、次のように書いています。
まわりを見渡せば、現在の(現代美術の!)絵画状況は相変わらずこの「ホームレスさ」にとどまっていると言えるだろう。
(『而今而後』「ホームレスについて」岡﨑乾二郎)
ここでは詳しく語れないが、この事態の貧困さは、表象形式(メディア)として固有性を持つとされる「絵画」と呼ばれるカテゴリーが、先験的に(つまり無条件に)措定された上で、その内部での自己画定作業が行われなければならないという論理的な誤謬から、もたらされたものにすぎない。
(『而今而後』「ホームレスについて」岡﨑乾二郎)
これはどういうことかと言えば、私の解釈が正しければ、現代美術の絵画はあらかじめ外形の定まった弁当箱のようなもので、その中にどう敷居を置いて、何をつめるのかという作業を延々とやっているようなものだということでしょう。何か新しい様式が生まれたと思ったら、それはちょっと変わったおかずが入っただけ、あるいは敷居の位置がかわってご飯の量が増えただけ、という事態に陥っているのではないでしょうか。
それではどうしたら良いのでしょうか?
私にはよくわかりませんが、少なくとも絵画において新しい様式、新しい〇〇主義といったものを追い求めるのは、もうやめた方がよいと思います。絵画というのは、平面上に視覚的なイリュージョンを作り出すことで何かを表現するものだ、ということは、もうわかっているのです。その中で、目新しいものを様式化しようという競争は、もう出尽くした、とも言えると思います。岡﨑さんの言い方で言えば「受動的であること」、「レディ・メイドであること」はクールベさんのころからわかっているのです。「それならば、絵画を描いても意味がない」と思う人は、絵画を描く必然性がありませんし、描く必要もないと思います。
私は、それでも絵画を描きたい、と思う方に、ぜひ絵を描き続けていただきたいと思います。そして、あなたがなぜ絵画を描きたいと思うのか、どんなところが楽しいのか、何に興味を持っているのか、そんなことを絵画という表現媒体の中で、十分に訴えていただきたいと思います。具象的なものを描いてもいいし、抽象画でもいいし、ときに緻密に、ときに荒っぽく、あなたの思考や興味、感覚が十分に伝わるように絵を描いてほしいと思っています。私はその創造行為の時間の蓄積が、「ホームレス」になった視線を受け止める糸口になると思います。
難しい話の後で、私の結論は単純すぎるでしょうか?
岡﨑さんは、次のようにこのエッセイを結んでいます。
知覚を含めて、私たちの判断はいずれにせよ、このような先験的な概念ないし対象にあらかじめ媒介されているがゆえに、デュシャン的な意味でこの先験性を事後的(能動的)に転位してしまう可能性は、私たちにはまだ残されている(しかし、もちろん、それは一つの概念の内部ではなく他の概念との分節をともなう緊張関係による転位だが)。ホームレスに定住してしまえば、もはやそれをホームレスということはできない。定住先を自ら決定できない(境界画定は内在的にできない)という、強いられた受動性を積極的に活用することによって、道は開かれる(つまり、クールベ的な意味での切断も可能になる)。
(『而今而後』「ホームレスについて」岡﨑乾二郎)
読み比べて、いかがですか?
岡﨑さんの難解なエッセイをどこまで読み取れたのか、自信はありませんが、最後に一つだけ、エッセイのあとに「文責 編集部」とある部分の最後のところが気になります。
従来信じられていた「抽象絵画」の概念(「抽象/具象」の区分)を転倒させた点において、本論は認識論上の一つのスキャンダルたりえた、と言えるだろう。
(『而今而後』「ホームレスについて」文責 編集部)
うーん、これは「ホームレス・リプレゼンテーション」というグリーンバーグさんの重要な概念を取り上げた、このエッセイの価値に見合わない一言ではないでしょうか。例えば、フォーマリズムの批評家の藤枝 晃雄(ふじえだ てるお、1936 -2018)さんでさえ、1973年に書いた「最後の絵」というエッセイで次のように書いています。
問題は人物が描かれているか、抽象的な図形が描かれているか、という形体上の差異に由来するのではない。それらを存在させ、住まわせる空間なのである。
(『モダニズム以後の芸術』「最後の絵」藤枝晃雄)
このように書いた藤枝さんが、いかに絵画を狭い領域へと導いてしまったことか・・・、岡﨑さんのこのエッセイは、その状況を打破する手がかりとなる点で、貴重なのだと私は思います。だからこそ、この難解なエッセイは読み解く価値があるのです。
おせっかいですが、念のため。