平らな深み、緩やかな時間

359.『資本主義の次に来る世界』、二つの新聞記事より

今回は、『資本主義の次に来る世界』という本と、それに関わるような二つの新聞記事を見つけたので、それらについて考察します。

 

まずは新聞記事をご紹介します。

1月になって、朝日新聞に印象的な記事が二つ掲載されました。両方ともネット上では有料記事なので、引用はすべて抜粋とさせていただきます。

 

その一つは1月7日の記事で、哲学者の斎藤幸平(1987 〜 )さんと、アメリカの経済社会理論家のジェレミー・リフキン(Jeremy Rifkin,  1945 〜 )さんの対談です。

 

 『(対談)気候危機と人類の今後 斎藤幸平さん×ジェレミー・リフキンさん』

https://www.asahi.com/articles/DA3S15832830.html

<説明> 世界各地で異常気象が頻発する一方で、脱炭素は進まない。地球を壊してしまうのか、それとも技術革新で解決できるのか。脱成長を提案する斎藤幸平さんが、「知の巨人」と評されるジェレミー・リフキンさんと、人類が生き残る道をリモート形式で語り合った。

(『朝日新聞 1月7日』記事より)

 

この説明にあるように、「異常気象」と「脱炭素」という問題意識を共有する、世代の異なる二人の対談です。斎藤幸平さんは2021年に『人新世の「資本論」』が話題になったことで一躍有名になった研究者で、このblogでも何回か取り上げています。ジェレミー・リフキンさんは『レジリエンスの時代』の著書で知られ、国際的な影響力を持つ学者です。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/292155

二人の問題意識が共有されていることを示す発言として、例えば次のようなやりとりがありました。

 

<斎藤> 気候変動がもたらす異常気象や災害により食料や水が不足し、供給力に制約がかかります。そのためインフレも恒常化し、難民も増えるでしょう。

こうした状況を、リフキンさんは著書『レジリエンスの時代』で「進歩の時代」の終わりだと指摘しています。産業革命を起点とする、効率と生産性の追求は限界を迎えたのだと。では、次なる「レジリエンスの時代」とはどういう未来なのか。レジリエンスは一般には「回復力」と捉えられている言葉ですが、それ以上の意味で使っているように読めました。

<リフキン> 回復だけでなく、自然に適応し、共存する能力が私の考えるレジリエンスで、今後の人類に必要な力です。

それが「レジリエンスの時代」なのです。天然資源を収奪し、その上に豊かさを築いてきたのが「進歩の時代」でしたが、そのツケが限界に達しているわけです。

(『朝日新聞 1月7日』記事より)

 

二人は、このような問題意識を共有しているのですが、私にとって印象深かったのは、二人の意見が異なっていた点です。

 

<斎藤> 私は、この危機を乗り越えるには、資本主義からの脱却が必要だと考えています。それでマルクスを研究しているのです。

脱成長と脱資本主義の必要性についてどう考えていますか。

<リフキン> ここは少し意見が異なるようですね。

デジタル技術が駆動する新たなインフラのもと、社会は根本的に変わっていきます。「レジエンスの時代」の移行に必要な準備はもう整っているのです。

<斎藤> そうした未来の技術論は、私には楽観的にすぎるように聞こえます。経済成長にブレーキをかけ、資本主義から距離を置かないと、この危機は解決しないと思います。

(『朝日新聞 1月7日』記事より)

 

このようなやり取りについて、皆さんはどうお考えでしょうか。

斎藤さんはリフキンさんの技術革新に期待する発言を楽観的だと批判していますが、逆にリフキンさんの言っていることが現実的で、斎藤さんの方が楽観的だと考える人もいるかと思います。私ぐらいの年配になると、現実を変革することの困難さと技術革新による世の中の変化を見てきているので、リフキンさんの考え方がいいのではないか、と思いがちです。しかし、今日取り上げる本は、斎藤さんと同様に、もっと根本的な思想変革が必要ではないか、ということを訴えています。

どちらが正解か、ということもわかりませんし、また思った通りに現実が変わっていくとは限りません。むしろ、そうならないことの方が多いのですが、とにかく私たち一人ひとりがしっかりと考えることが重要だと思います。

皆さんも、今日の私のblogを読んだ後で、ゆっくりと考えてみてください。

 

さて、もう一つは1月12日の記事で、医学者、解剖学者の養老孟司(1937  〜 )さんへの「AI(人工知能)」に関するインタビューです。

 

『AIが超えられないバカの壁 養老孟司さん「問題はむしろ人間」』

https://www.asahi.com/articles/ASRDV5RHKRDMUPQJ00Q.html

<説明> 人類への脅威か福音か。AI(人工知能)を巡る議論がかまびすしい。さすがに冷や水を浴びせたくなってきた。だったらこの人しかいない。人の世を快刀乱麻に解剖してきた養老先生には、データに依存する電子頭脳も、それに浮足立つ自然界の脳みそも、「バカの壁」に囲まれているように見えるようで。

(『朝日新聞 1月12日』記事より)

 

このインタビューの中で、養老さんの答えは実に明快で、かつ痛快です。

例えば「人間の知性を越える汎用(はんよう)AIの実現が近づいた、という声もあります」という質問に対して、養老さんの答えは次のようなものです。

 

<養老> 大脳の分野の一部の機能とだけ比べれば、ヒトの能力を超えるのは当然でしょう。囲碁や将棋でAIが人間に勝ったとか負けたとか言ってるけど、オートバイと100メートル競争してどうするんだって話ですよ。

(『朝日新聞 1月12日』記事より)

 

とてもわかりやすい答えで納得がいきますが、私にとって興味深かったのは、次の質問への答えです。

 

<質問> ・・・

それにしても、AIが人間の知能を超える「シンギュラリティー」が本当に訪れるのか。

<養老> AIが自律的にものを考え判断するには、ヒトの五感に相当する「外受容」と、空腹感など「内受容」を伴う必要があると考えられているけど、どちらもまだ持っていない。仮にAIが感覚器官を備え、そこから得たデータやメモリー内の知識などを、人間のように一括処理して出力できるようになったとしても、それはプログラムによる予測と統御に過ぎません。

一方、ヒトにも感覚という入力系と、運動という出力系がある。出力とはつまり筋肉の動き。この運動系の働きを、感覚系は理解も解説もできないんです。

「自然知能」の脳と人工知能は、ハナから別もの。どうして比べるのかな。

(『朝日新聞 1月12日』記事より)

 

質問にある「シンギュラリティー」とは、インターネットで調べると「シンギュラリティー(技術的特異点)とは、自律的な人工知能が自己フィードバックによる改良を繰り返すことによって、人間を上回る知性が誕生するという仮説です。 人工知能研究の世界的権威であるレイ・カーツワイル氏が2045年にシンギュラリティーに到達すると予測していることから、2045年問題とも呼ばれています。」ということです。このことについて養老さんは人間という存在の根本的な構造について、明快に答えています。人間の「知性」と「感性」の関係について、それらを含めた人間の「身体性」について、そういった抽象的な概念を一切使わずに、平易に語っているのです。

さらに養老さんは、インタビューの最後にこう言っています。

 

<養老> 意識は身体を決して統御、把握しきれない。身体という思うに任せぬ「自然」を、意識の力でねじ伏せようとすれば、必ず問題が生じます。コロナ禍で足をすくわれたばかりなのに、皆それを忘れている。

AI騒ぎがあらためて浮き彫りにしたのは、ヒトとは何か、生きるとはどういうことなのか、という問題。

(『朝日新聞 1月12日』記事より)

 

ここでも養老さんは、人間の自然との向き合い方という思想的な問題や、心身の二元論という哲学的な問題を、難しい言葉を使わずに、身近な語彙で語っているのです。インタビューの全体を読んでみると、養老さんらしいユーモアに溢れていて、養老さんの著書がよく売れている理由がわかります。

そして、最後の「AI騒ぎがあらためて浮き彫りにしたのは・・・」という一節がとくに印象的です。先の斎藤さんとリスキンさんは主に地球の環境危機から人間の思想やそのあり方の根本的な見直しを提言しているのですが、養老さんは最先端のテクノロジーを語りながら同じような結論に至っているのです。これは、現代社会のどちらを見ても、私たちの考え方を変革していかないとダメだ、というところに私たちは立たされていることを示しているのです。

 

そして今回取り上げる『資本主義の次に来る世界』という本は、斎藤さんとリスキンさんの会話を、分厚い著作としてより綿密に考察したものです。その結論は、斎藤さんや養老さんが語ったことに近いのですが、私が興味を持ったのは、この本の一部が本格的な哲学の考察になっているところです。

それではこの『資本主義の次に来る世界』の概要について、インターネット上の紹介文から拾ってみましょう。

 

「少ないほうが豊か」である!

「アニミズム対二元論」というかつてない視点で文明を読み解き、成長を必要としない次なる社会を描く希望の書!ケイト・ラワース(『ドーナツ経済学が世界を救う』著者)、ダニー・ドーリング(『Slowdown 減速する素晴らしき世界』著者)ほか、世界の知識人が大絶賛!

デカルトの二元論は「人間」と「自然」を分離した。そして資本主義により、自然や身体は「外部化」され、「ニーズ」や「欲求」が人為的に創出されるようになった。資本主義の成長志向のシステムは、人間のニーズを満たすのではなく、「満たさないようにすること」が目的なのだ。それでは、人類や地球に不幸と破滅をもたらさない、「成長に依存しない次なるシステム」とは何か?経済人類学者が描く、かつてない文明論と未来論。

本書が語るのは破滅ではない。語りたいのは希望だ。どうすれば、支配と採取を軸とする経済から生物界との互恵に根差した経済へ移行できるかを語ろう。

(『資本主義の次に来る世界』の紹介文より)

 

これでだいたい、本の内容がつかめたでしょうか?そして本の著者と日本語のタイトルについて確認しておきましょう。

著者のジェイソン・ヒッケル(Jason Edward Hickel, 1982〜 )さんは、アフリカ南部のエスワティニという国の出身の方で、バルセロナ自治大学で教鞭をとっている経済人類学者だそうです。そして今回取り上げる『資本主義の次に来る世界』は、原題が『LESS IS MORE』ですから、日本の翻訳書の副題『「少ない方が豊か」である。』の方が、原題に近いものだと言えます。しかし、内容的には科学的なデータが満載なので、学術書の雰囲気のある日本語のタイトルがつけられたのでしょう。

そしてもう一つ、「経済人類学」という学問についても確認しておきましょう。

 

経済人類学(けいざいじんるいがく:economic anthropology)とは、経済現象を研究する文化人類学の一分野。文化人類学は一般に非西欧社会を対象にしてきたが、そうした社会における経済システムは市場メカニズムに基づく資本主義社会のものとは異なる原理によって動かされている。経済人類学は、農村経済、狩猟採集社会の経済、贈与交換といった非市場経済のシステムを人類学的なフィールドワークを用いて研究してきた。

(Wikipediaより)

 

この学問は比較的新しい分野だと思いますが、私は学生時代に栗本 慎一郎(くりもと しんいちろう、1941 - )さんという学者の本を読んで、その存在を知りました。1980年頃の栗本さんはマスコミにもしばしば登場し、大活躍でしたが現在はどのような活動をされているのでしょうか?

それはともかく、文化人類学的な知見に経済システムを加味するのが経済人類学ですから、人間社会における広範囲な考察が可能な学問であることは間違いないようです。この『資本主義の次に来る世界』も自然科学的なデータを駆使しつつ、人間社会がいかに環境を破壊していて、そのことに資本主義経済がどのように関わっているのか、を解き明かしていきます。そして斎藤さんとリフキンさんの対談にあったように、その危機をテクノロジーによって乗り越えることができるのか、ということも考えていきます。

私は自然科学的なデータの価値も、環境問題の深刻さも、テクノロジーの発展も、どれもよくわからないので、端的に結論部分のみを見ていきます。こういうことに詳しい方は、『資本主義の次に来る世界』に直接当たっていただいて、その妥当性について吟味してみてください。

それでは、資本主義社会と自然資源の消費との関係について書いている次の部分を読んでみましょう。

 

成長は経済と政治に深く組み込まれており、どちらのシステムも成長なしには存続し得ないほどだ。成長が止まれば、企業は倒産し、政府は社会サービスの資金を失い、人々は失業し、貧困が拡大し、国は政治的に脆弱になる。資本主義のもとでは、成長は社会組織の単なるオプション機能ではない。全員を人質にした要求なのだ。経済が成長しなければ、すべて崩壊する。わたしたちは成長という要求に拘束されている。世界中の政府が自国の総力をあげて蓄積のトレッドミルを回し続けているのも驚くには値しない。

これらすべてが、1945年以降、GDPの成長を異常なまでに加速させた。生態学的観点から見ると、ここから物事は間違った方向に進み始める。

(『資本主義の次に来る世界』「第2章 ジャガノート(圧倒的破壊力)の台頭」ジェイソン・ヒッケル著、野中香方子訳)

 

もしもこのような成長経済が不可欠とするなら、私たちは環境に負荷をかけないテクノロジーを採用して、現状を維持、もしくは成長を続けるほかありません。例えば電力の確保ですが、太陽光発電、風力発電などによって、資本主義の経済活動を止めなくてもなんとかなりそうな気がします。そのようなテクノロジーなら、私たちはすでに持っています。しかし、その点についてもヒッケルさんは釘を刺します。

 

通常「クリーンエネルギー」という言葉から連想されるのは、暖かな陽光や爽やかな風といった幸福で無垢なイメージだ。太陽光や風は確かにクリーンだが、それらを捕まえるためのインフラはそうではない。クリーンと呼ぶにはかけ離れている。クリーンエネルギーへの移行は莫大な量の金属と希土類(レアアース)を必要とし、それらの採取は生態系と社会にさらなる負荷をかける。

(『資本主義の次に来る世界』「第3章 テクノロジーはわたしたちを救うのか?」ジェイソン・ヒッケル著、野中香方子訳)

 

これと同様のことが、例えば電気自動車についても言えるそうです。ガソリンによる大気汚染は解消できても、電気自動車を作る過程で環境に負荷をかけるのです。さらに発電について、このように環境に対する負荷が避けられないのだとすれば、私たちは現在のようなスピード感で自由に場所を移動する生活を見直さなければなりません。環境負荷に関わる事象の一断面だけ捉えて、その負荷の解消を図ってもあまり意味がないのです。その事象の全体を見て負荷が解消できていなければならないのです。

そう考えると、資本主義の経済活動そのものを見直さなければならない、という結論に至ります。さらに言えば、資本主義経済を当たり前のものだとする私たちの考え方を根本から見直さなければならないのです。

それでは、私たちはどこまで時代を遡って資本主義経済を、あるいはそれを生んだ思想を見直さなければならないのでしょうか?ヒッケルさんは、「アニミズムのエコロジカルな暮らし」に注目しています。

 

アマゾンの熱帯雨林の写真を見たことがあれば、そこがどのような場所か、大まかなイメージをお持ちだろう。緑に覆われ、蒸気が立ちのぼり、つるが絡みあい、生命が満ちあふれている。また、数百もの先住民の居住地でもあり、彼らは何世代にもわたって熱帯雨林に暮らしてきた。

この10年から20年の間、アチュアル族は独特の世界観ゆえに注目の的になってきた。その世界観は人類学者や哲学者を惹きつけ、学者たちの自然に対する考え方を一変させた。アチュアル族にとって「自然」は存在しない。自然というカテゴリーを当然のものと見なしがちな西洋人にとっては、とんでもないことのように思えるかもしれない。私自身、初めてその考え方を知った時には、ばかばかしいと思った。しかし、この考えを長く心に留めておくと、心の奥底で変化が起き始める。

(『資本主義の次に来る世界』「第6章 すべてはつながっている」ジェイソン・ヒッケル著、野中香方子訳)

 

文中のアニミズム(animism)とは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方です。確かにアニミズムはプリミティブな考え方で、現代人がまともに取り合うのに値しないように思えます。しかし、西洋文明が自然を破壊し尽くそうとしている現在でも、アニミズム思想で生きている人たちは自然との間に親和関係を保ちながら、変わらない暮らしをしているのです。ですから、私たちがアニミズムを卑下することは許されません。逆に、私たちはどこで道を誤ってしまったのか、と考える方が自然でしょう。ヒッケルさんはルネ・デカルト( René Descartes、1596  - 1650)さんにまで遡って、私たちの思想を見直します。

 

アニミズムは、その考え方に慣れていない人々には、最初は少し奇妙で、突飛とさえ思えるかもしれない。それも当然だろう。結局のところ、わたしたちは、ルネ・デカルトと啓蒙主義を形づくった二元論哲学の後継者であり、啓蒙主義の前提はアニミズムのそれとはまったく逆なのだ。

前述した通り、デカルトは神と創造物は根本的に異なるという古い一神教の考えからスタートし、それを一歩推し進めた。デカルトは創造物を二つに分けた。一方は精神(あるいは魂)で、もう一方は単なる物質だ。精神は特別で、神の一部であり、通常の物理法則や数学では表現できない。この世のものとは思えない神聖な存在である。そして人間は、精神と魂を持つという点で、あらゆる生物の中で特別な存在であり、神との特別なつながりを持っている。それ以外の創造物はー人間の体も含めー不活発で、思考力のない物質に過ぎない。それが「自然」である。

デカルトの考えに経験的証拠はなかったが、彼の思想は1600年代のヨーロッパのエリートの間で人気を集めた。なぜならそれは教会の権力を強化しただけでなく、資本家による労働と自然からの搾取を正当化し、植民地化に道徳的許可を与えたからだ。「理性」という概念自体、二元論の前提に基づくようになった。「人間だけが魂を持つ。なぜなら人間だけが理性を持つからだ。理性の第一段階は、わたしたちーわたしたちの精神ーが身体とは別のものであり、世界の他の部分とも別のものであることを理解することだ」とデカルトは論じた。

(『資本主義の次に来る世界』「第6章 すべてはつながっている」ジェイソン・ヒッケル著、野中香方子訳)

 

このように見ていくと、デカルトさんの思想が西洋思想の基礎となったのはどういうわけなのか、と疑わしくなります。普通の思想書には、「我思う、ゆえに我あり(Cogito ergo sum)」というデカルトさんの思想が疑う余地のない確かなものだったから・・・、という説明がなされているのですが、ヒッケルさんの説明を読むとその確信が揺らぎます。その後のヨーロッパが、科学的な発展により環境を破壊していったことや、植民地支配によって不平等な世界を作ってしまったことの種子が、デカルトさんの思想によってすでに撒かれていたのです。もちろん、西洋思想を批判するのなら、デカルトさん一人に責任を押し付けるわけにはいきません。こちらもちゃんと勉強して、おそらくはプラトン(Plátōn、紀元前427年 - 紀元前347年)さんあたりまで遡らなくてはならないでしょう。

しかし、ここはとりあえずヒッケルさんの著書の続きを見ていきましょう。ヒッケルさんによれば、デカルトさんの思想が広まった当時から、それに反発した人がいた、ということです。それが、このblogでも取り上げたことのある哲学者のスピノザ(Baruch De Spinoza 、1632 - 1677)さんです。

 

デカルトへの反発は、オランダの勇敢な哲学者バールーフ・デ・スピノザから始まった。スピノザは1600年代にアムステルダムのセファルディ系ユダヤ人の家庭で育った。ちょうどデカルトが有名になりつつあった頃だ。当時のエリートたちはデカルトの二元論を称賛したが、スピノザは納得しなかった。

それどころか、彼の考えはまったく逆だった。彼は、宇宙は一つの究極の原因ー現在で言うビッグバンーから生まれたに違いない、と主張し、それを前提として論を進めたーだとすれば、神と魂と人間と自然は、根本的に異なる種類の存在のように見えるかもしれないが、実は唯一の壮大な「実在」の異なる側面にすぎず、同じ力に支配されているー。スピノザの主張は、当時の人々の世界観を根底から覆すものだった。彼の主張が意味したのは、神は「創造物」と同等の存在であり、人間は自然と同等の存在であり、精神と魂は物質と同じ存在だということ、つまり、すべては物質であり、精神であり、神であるということなのだ。

当時、こうした考えは異端だった。魂は存在しないのか?超越的な神は存在しないのか?スピノザの教えはキリスト教の核となっている考えを否定し、自然と労働の搾取に関して、道徳的難問を浮上させる恐れがあった。もし自然が神と同じなら、人間に自然を支配する権利はないはずだ。

(『資本主義の次に来る世界』「第6章 すべてはつながっている」ジェイソン・ヒッケル著、野中香方子訳)

 

ヒッケルさんによれば、その後の科学や哲学においてスピノザさんの思想が見直されたり、その正しさが証明されたりしているということです。

哲学においては、デカルトさんの思想を根本から疑う現象学が現れました。このblogでも馴染みの話です。

また、生物学では森林の中の木が緊密なネットワークを張り巡らして、お互いに助け合って生きている、という事例がこの本に書かれています。これは最近、テレビ番組でも取り上げていましたので、専門家の間ではすでに周知の話なのでしょう。そして一本の木を周囲の世界から切り離して認識することが困難であるように、一人の人間を完全に世界から切り離すことはできないのです。

ここで私たちは、養老さんの「身体という思うに任せぬ『自然』を、意識の力でねじ伏せようとすれば、必ず問題が生じます」という言葉を思い出しておきましょう。心身は別なものではないのです。

そして、根本的に人間のありようを見直すことが、斎藤さんの言っていた「資本主義から距離を置かないと、この危機は解決しない」という警告に対応することにもなるのだと思います。なぜなら、資本主義の根っこは、少なくともデカルトさんの思想にまで遡ることができるからです。

そして私たちは、ただ単に考え方をあらためるのではなく、もしかしたら一旦来た道を辿り直し、その戻った地点から歩み始めなくてはならないのかもしれません。それは困難な道のりかもしれませんが、それはそれで楽しそうなことでもあります。

 

さて、こんなふうに、心ある専門家の方たちが鳴らす警鐘は、その分野や専門用語は違っても、同じ方向を指しているように思います。

そして私は、絵画表現の分野において、視覚とともに触覚を重視することで、分断された人間性を取り戻す一つのモデルとなることができるのではないか、と考えています。それも彼らと同じ方向を指していると思うのですが、いかがでしょうか?

 

最後に、ヒッケルさんの著書の結びの部分を引用しておきましょう。

 

 この本を書き始めた時、わたしは、脱成長を中心的な枠組みとすることに不安を覚えた。結局、それは最初の一歩にすぎないからだ。しかし、人類が辿ってきた旅を振り返るうちに、そうではないと思えてきた。脱成長は、この困難な問題にアプローチする道筋を示している。脱成長が意味するのは、土地と人々、さらにはわたしたちの心を脱植民地化することだ。また、コモンズの脱・囲い込み、公共財の脱・商品化、労働と生活の脱・強化、人間と自然の脱・モノ化、生態系危機の脱・激化をそれは意味する。脱成長は、より少なく取るというプロセスから始まるが、最終的には、あらゆる可能性の扉を開くことになる。わたしたちを、希少性から豊富さへ、搾取から再生へ、支配から互恵へ、孤独と分断から生命あふれる世界とのつながりへと進ませるのだ。

  結局のところ、わたしたちが「経済」と呼ぶものは、人間どうしの、そして他の生物界との、物質的な関係である。その関係をどのようなものにしたいか、と自問しなければならない。支配と搾取の関係にしたいだろうか。それとも、互恵と思いやりに満ちたものにしたいだろうか?

(『資本主義の次に来る世界』「第6章 すべてはつながっている」ジェイソン・ヒッケル著、野中香方子訳)

 

このヒッケルさんの言葉を芸術の分野で考えてみましょう。

この文章を読んでいると、私たち一人一人の表現活動の見直しも大切ですが、私たちの作品をどのようにしてこの世界で共有していくのか、という問題も気になりますが、いかがでしょうか。

一人の人間が切実な思いから表現した作品が、一部の関係者に注目されて資本主義の流通に乗り、いつの間にか高値で取引されるようになる、というのが現在の世界の成功物語なのですが、私はその物語に違和感を覚えます。そのような成功者の作品を入手したくても、私たちが一般庶民であれば、それは不可能なことでしょう。表現者が精魂込めた作品ならば、それなりに経済的にも報われる必要があると思いますが、そのときには彼らの作品が株券のような取引の対象となるしかない、というのはいかがなものでしょうか?

このように考えるときに、ヒッケルさんの著書の「コモンズの脱・囲い込み、公共財の脱・商品化、労働と生活の脱・強化」という一節が気になります。芸術表現者の生活の手立てを保障しつつ、その表現作品を「脱・商品化」して皆さんで共有できないものでしょうか?

このことも、いずれ深く考えてみることにしましょう。

あなたが誠実な表現者であるなら、これも切実な問題だと思います。いつか答えを見出しましょう。

コメント一覧

Unknown
楽天でこの「資本主義に次に来る次の世界」という本
と色々な本を注文したので届いたら読んでみます
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