平らな深み、緩やかな時間

360.キュビスムとバートランド・ラッセル『哲学入門』について

はじめに、私に関する連絡です。

2月12日(月・祝)から17日(土)まで、東京・京橋の「ギャラリー檜e・F」で個展を開催します。ギャラリーのスケジュール表は次のリンクを開いてください。

https://hinoki.main.jp/img2024-2/exhibition.html

なお、私のホームページから、案内のDMと展覧会に向けて作成したパンフレットをPDFファイルの形式で見ることができます。

http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html

もしもDMとパンフレットの現物をご覧になりたい場合は、私に直接メールで連絡してください。ご住所とお名前をいただけましたら、送料等を含めて、すべてこちらの負担で送らせていただきます。

harvestone1@gmail.com



さて、今回は少し前のblogの考察の続きになります。よかったら、先に次のblogをお読みください。

 

357.『パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展』について

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/93ced0c865e25b241b1c33e3b4e4fbde

 

このblogの後半で、私は松浦寿夫さんが書いた「セザンヌの教え」というエッセイを取り上げました。エッセイの終盤で、松浦さんはジャック・リヴィエール(Jacques Rivière, 1886 - 1925)さんという、キュビスムの同時代の批評家について書いていました。それがとても興味深いものだったのです。

そのリヴィエールさんが絵画の問題として取り上げたのは、絵を描くときに画家は対象の「実在性」をどのように捉えるのか、ということでした。その問題に対して、19世紀の印象派の画家たちは、その対象の実在性よりも「画家の知覚」、つまり目に見えるままを描こうとしたのでした。それ故に、印象派の絵画には限界があった、というのがリヴィエールさんの意見でした。そこでリヴィエールさんは、キュビスムの画家たちの新しい手法に、その「実在性」の表現を期待したのです。

しかし、残念ながらキュビスムの画家たちはこの課題に対して、三つの過ちを犯してしまった、というのです。その過ちを整理してみます。

「分析的キュビスム」の絵画においては、①事物(対象/モチーフ)は多視点から見た展開図として図形化され、②それが事物の置かれている実際の位置関係から切り離されて恣意的に構成され、③さらにそれぞれの「事物」、あるいはその間の「空間」の区別がなく連続体として描かれるようになる、という事態が一気に現れました。その無秩序な恣意性が、やがて「事物の実在性を表現する」というリヴィエールさんが期待した命題から遊離してしまったのです。

20世紀の絵画は、リヴィエールさんの失望した通り、後期印象派のポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)さんが追究した対象の「実在性」の問題からどんどん離れていって、「分析的キュビスム」以降、対象を必要としない抽象的な絵画の方向へと突き進んでいきました。これは私にとっても、とても気になる問題でした。なぜなら、セザンヌさんの絵画には、人間が自然(対象)とどのように向き合うのか、という人として生きていく上での根本的な問題が含まれていたからです。絵画がその根本的な問題と関わることは、真摯な画家にとって必然的な流れであったはずなのですが、モダニズム思想が加速していく中でその流れが置き去りにされてしまったのです。

それでは、その流れを辿り直す手がかりはないものか・・・、私はいつしかその方法論を探究していくようになりました。その探究の中で、私は絵画の「触覚性」に注目してきました。その実践がいかなるものであるのか、は私の制作活動を見ていただくとわかると思います。

それはそれとして、ここでは「セザンヌの教え」の中で松浦さんが書いた次の一節について考えてみることにしましょう。松浦さんは、このリヴィエールさんの問題意識を、あるイギリスの哲学者の中にも見出せるのだと書いているのです。

それでは、その部分を読んでみましょう。

 

さらにリヴィエールの論拠は、哲学的な文脈で、同型の問題群の出現をイギリスに見出すことができるはずだ。分析的キュビスムの形成期の1911年に執筆され、翌年に刊行されたバートランド・ラッセルの『哲学の諸問題』は、実在と現れとの弁別から開始し、さらに、1914年の『外部世界はいかにして知られうるか』の第3章ではパースペクティヴという概念の導入によって、我々の空間認識が個人的なパースペクティヴによって成立する空間であり、他者のパースペクティヴのもとに現れる空間とは共約不可能であることを指摘し、知覚主体を前提としない状況のもとでテーブルの実在を議論する試みは、リヴィエールの議論と呼応しうるだろう。

(『キュビスム展』カタログ「セザンヌの教え」松浦寿夫)

 

なんと興味深いことが、たったの数行の中に書き込まれていることでしょうか。100年以上前の美術批評にも哲学にも詳しくない私からすると、めまいがする思いです。ここは一つ一つ、順を追って押さえておきましょう。

まずはバートランド・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 3rd Earl Russell、1872 - 1970)さんという哲学者について調べておきましょう。

バートランド・ラッセルさんはイギリスの貴族の出身で、祖父は首相を務めた政界の大物だそうです。そのラッセルさんの『哲学の諸問題』ですが、原題は『The Problems of Philosophy』といって、日本では『哲学入門』というタイトルで広く知られています。世界で最も読まれている哲学入門書だという宣伝文句も目にしますが、一方で通常の哲学の入門書ではない、という書評も目につきます。それはその通りだと思います。

この本を書いた当時、ラッセルさんは数学者、哲学者のホワイトヘッド ( Alfred North Whitehead, 1861 - 1947)さんと共同で、『数学原理(Principia Mathematica)』という、「現代数理論理学」の基礎となる本も書かれたそうです。これはその分野の業績としてはたいへん大きなものだそうです。

そしてラッセルさんの周辺には、ホワイトヘッドさんをはじめとして、現代の思想や哲学にとって、とても重要な人たちが集まっていました。例えば『論理哲学論考』を書いた哲学者のウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889 - 1951)さんは、ラッセルさんがケンブリッジ大学で教えていた時の教え子だそうです。ラッセルさんは、この変わり者の学生の才能を見抜いて、積極的に援助をしたのだそうです。

 

さて、予備知識はこれぐらいにして、松浦さんが指摘した「バートランド・ラッセルの『哲学の諸問題』は、実在と現れとの弁別から開始し」という文章にあたるところを、『哲学入門』から抜き出して読んでみましょう。

 

理性的な人なら誰にも疑えない、それほど確実な知識などあるのだろうか。この問いは、一見難しくなさそうに思えるが、実は最も難しい問題の一つである。自信をもってきっぱりと答えようとしても、何かがそれを妨げている。そのことをはっきり認識するとき、私たちはすでに哲学を始めているのである。なぜなら、哲学とはこのような根本的な問題に答える試みに他ならないからだ。

<中略>

日常生活で、確実なものとして受け入れている多くのものも、吟味してみれば明らかな矛盾に満ちているのが分かる。あまりにもたくさん見つかるので、本当に信じてよいのはどれかを知るためには、かなり考えなければならないほどである。確実なものを求めるときには、私たちは現にしている経験から始めるのが自然であり、またある意味で、確かに知識はそういう経験から生み出されるものである。

(『哲学入門』「第1章 現象と実在」バートランド・ラッセル著、髙村夏輝訳)

 

何だかとりとめのないことから書き始めているなあ、と思って読み進めると「確実なものを求めるときには、私たちは現にしている経験から始めるのが自然であり」というところで、ガツンと頭を打たれます。偉大な哲学者が、こんな普通の、当たり前のことを書いていいのだろうか?と読んでいるこちらが心配になります。

私の知っている偉い哲学者の言っていることといえば、例えば私たちの見ているのは洞窟の火に照らされた影だけで、ものごとの真理を見るのは火を見るように困難なのだ、とか、疑い得ないものは何もなく、唯一私という存在だけが疑い得ないものだ、とか、真理が何だかわからなかったら判断停止をするしかない、とか、とにかく哲学者が「確実なもの」、つまり真理について語りだすと、一旦は煙に巻かれたような思いをしなくてはならない、という思いが私にはあるのです。それが「現にしている経験から始めるのが自然」だなどと、私たちの実感に近いことを言われると、ラッセルさんに対する親近感が一気に上がってしまいます。

しかしラッセルさんのこの本が面白いのは、ここから後の部分です。ラッセルさんは、目の前にあるテーブルを例にして語り始めます。

 

問題を明らかにするため、テーブルに注目しよう。目には長方形で茶色く光沢があるように映り、触ればなめらかで、冷たく硬い。たたけば鈍い音がする。このテーブルを見、触り、その音を聴く人なら、誰でもこの記述に同意するはずだから、何の問題も起こらないと思われるかもしれない。だがもっと正確であろうとすると、とたんに面倒なことになる。テーブルは全面にわたって「本当にreally」同じ色をしていると私は信じている。しかし明かりを反射している部分は他の部分よりも明るく、そのため白く見えるところすらある。自分が動けば明かりを反射する場所が変わるため、テーブル上の色の分布も変わることも、私は知っている。ここから、人々が同じテーブルを同時に見るなら、まったく同じ色の分布を見る人はいないことになる。正確に同じ視点からテーブルを見ることができず、どんなにわずかであれ視点が変わるなら、明かりの反射の仕方も少し変わってしまうからだ。

(『哲学入門』「第1章 現象と実在」バートランド・ラッセル著、髙村夏輝訳)

 

このように具体的な事例を挙げてもらえると、ちょっと考えやすくなります。それにラッセルさんの書いていることについて注意深く読んでみると、まるで絵の先生が生徒に語るようではないですか?

テーブルの質感に留意し、とりわけ光の具合に注意して見なさい。ほら、一人一人、見る位置によって色が違って見えるでしょう?明かりの反射の仕方は、ちょっとした視点の違いで変わってしまうのだから・・・、という感じです。

そんなことを考えて読んでいくと、本当にラッセルさんは絵の話を始めました。

 

こうした色の違いが実生活で重要になることはほとんどないが、画家にとってはなによりも重要である。常識的に物の「本当の」色だと言われる色を、物を持つように見える、そう考える習慣を私たちは持っている。しかし画家はこの習慣を脱ぎ捨て、見えるがままに物を見る習慣を身につけなければならない。ここで私たちは、最大の哲学的問題の一つの原因になる、ある区別をし始めている。「現象 appearance 」と「実在 reality」の区別、つまり物がどのように見えるかと、どのようであるかの区別である。画家が知りたいのは物がどのように見えるかだが、いわゆる現実的な人や哲学者は、物がどのようであるかを知りたいと思う。しかし哲学者は現実的な人よりもはるかに強くそれを望み、また問題に答える難しさを知っているだけに、より深く悩まされることになる。

テーブルに話を戻そう。いままで分かったことから、テーブルはその色(the coluor)をしていると言えるような、他から抜きん出て見える色は存在せず、テーブルのどの部分についても同じことが成り立つのは明らかである。

<中略>

つまり色は、テーブルそのものに属するのではなく、テーブルと観察者、そしてテーブルへの光の当たり方に依存するのである。テーブルのその色についてふだん話しているときには、正常な観察者が普通の視点から、通常の光の条件下で見る色を意味しているにすぎない。しかし他の条件下で見える色にも何もおかしなところはなく、本当だとみなされる資格がある。それゆえ、えこひいきを避けるためには、テーブルが、それ自体としてある特定の色をしていることを否定しなければならなくなる。

(『哲学入門』「第1章 現象と実在」バートランド・ラッセル著、髙村夏輝訳)

 

このラッセルさんの文章を読んでいると、絵画において印象派の画家たちが巻き起こした光と色の表現の改革を思い起こします。物の固有色にこだわらず、光による色の変化を大胆に表現した結果、印象派の画家たちは古典的な絵を愛好する人たちから非難されたのでした。しかし彼らの色彩表現は、単に感覚的なものではなく、科学的な知見による表現だったので、やがて広く認められるようになったのです。

しかし、ラッセルさんは近代美術史をなぞりながら色彩について言及しているのではありませんでした。ラッセルさんが問題にしているのは、私たちがどのように世界を認識しているのか、という大きな問題でしたので、彼は次に物の「形」について語り出します。

 

テーブルの形にしても、事態はよくならない。私たちはみな、物の「実在の」形について判断する習慣を身につけている。しかも、あまりにも無反省にそう判断するので、自分は本当の形を実際に見ていると考えてしまう。しかし絵を描くときには習わなければならないことだが、一つの物も、異なる視点から異なる形に見える。テーブルが「実在としては」長方形であれば、それはほとんどの視点から、鋭角と鈍角を二つずつ持つように見えるだろう。向かい合った辺が平行なら、観察者から遠ざかる方向へ収束するように、また辺の長さが等しいなら、近い方の辺が長く見えるだろう。テーブルを見るときには、普通こうしたことには気づかないが、それは、見えている形から「実在の」形を作り上げるよう経験が教えてきたからであり、生活のなかで関心が持たれるのも「実在の」形のほうだからである。しかし「実在の」形は見えるものではない。見えるものから推論されたものだ。そして見えるものは、見ている人が部屋の中を動き回るにつれ、その姿を変え続ける。すると、ここでもまた感覚はテーブルそのものではなく、その現象についての真理しか与えてくれないようだ。

(『哲学入門』「第1章 現象と実在」バートランド・ラッセル著、髙村夏輝訳)

 

この文章において、松浦さんが書いていた「リヴィエールの論拠は、哲学的な文脈で、同型の問題群の出現をイギリスに見出すことができるはずだ」という指摘が正しかったことがわかります。先ほどの色に関する文章が、美術史で言えば印象派の項目に当てはまるのだとすれば、この文章はまさにセザンヌさんから「分析的キュビスム」へと至る項目に当てはまるものでしょう。リヴィエールさんは、ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)さんやブラック(Georges Braque, 1882 - 1963)さんの絵画の探究から、「実在の」形へと迫る表現を期待したのです。しかしこのラッセルさんの文章においても、画家が「事物の実在性を表現する」のはいかに困難なことであるのか、ということが書かれているのです。

 

さて、このように哲学者と画家の歩みを見比べながら論じることは、なかなか興味深いものです。私たちが、画家の果敢な試みから正当に読み取れなかったことについて、もしかしたら哲学者の言葉をヒントにして、より的確な言葉を紡ぎ出すことができるかもしれない、という期待も持てます。あるいはそうでなくても、分野の異なる学者と表現者が同じ時期に共通した問題意識を持っていた、ということがわかるだけでも勉強になります。

 

というわけで、私は次回以降もラッセルさんや、その時期の哲学者たちについて考察を進めていきたいと思うのですが、一つだけお断りをしておくと、キュビスム以降の絵画が「事物の実在性を表現する」ところに至らなかったように、哲学においても「事物の実在性」をすっきりと解き明かすような学説は存在しないようです。さまざまな学説があり、その学説に関する批判があり、その中でラッセルさんもしかるべき地点に位置付けられるのです。

はじめのところで見たように、ラッセルさんは「私たちは現にしている経験から始めるのが自然であり」という立場を取るのですが、これは「経験論」という立ち位置にあたるようです。これに対して、経験よりも合理的な論理を重んじる立場を「合理論」と言うそうなのですが、ラッセルさんは数学者でもあったわけですから、彼の論理は「合理論」の立ち位置にもあたっているようなのです。

この『哲学入門』を翻訳した高村夏輝さんは「訳者解説」でラッセルさんの哲学について、次のように書いています。

 

こうしたラッセルの哲学的探求方法は、現在でも重要な意義を持つものであると思われる。合理論にせよ、経験論にせよ、この解説で説明した哲学的立場は、常識や科学を高所から裁断するという立場をとる。合理論は内在する矛盾を指摘することによって、経験論は徹底した懐疑を持ち出すことによって。そうして常識や科学によって描き出された世界像をいったん無化し、一から世界像を立て直そうと言う野望を持っている。一方、現在、科学によって描き出された世界像だけを優先し、それになじまないもの(たとえば意識など)を消去しようとする哲学者は少なくない。どちらも野心的な試みであり、そうした著作を読んでいると興奮させられる。哲学として重要なものであるのは否定できない。しかし、やはりどこか不健全なものを感じなくもない。

ラッセルの場合、論理とは想像力の解放者であり、それまで考えつくことができなかったような仮説を可能にするものである。そうした仮説を利用することによって、常識や科学を統一して新たな世界像を築き上げることが哲学の仕事である。しかもそこで哲学が果たす役割は、常識や科学が含む「概念の分析」と言う下働き的なものだけではなく、センスデータや普遍といった存在者を立てるように、積極的な探求をも含む。つまり哲学とは、科学を裁くのではなく、科学にかしずくのでもなく、科学とともに世界を探求する、きわめて創造力に満ちた試みなのである。科学とのこうした関係、あるいは探求方法の柔軟さこそ、経験論の伝統に連ねることによって見失われてしまう、ラッセル哲学の魅力的な側面である。

(『哲学入門』「訳者解説」髙村夏輝)

 

私のような哲学の素人がこの『哲学入門』を読んでも、ラッセルさんの言うことがすっきりとわかるわけではありません。それは私の理解力のなさもあると思うのですが、それだけではなく、ラッセルさんの考察が、ときに常識を重んじ、ときに経験を重んじ、そしてときに合理的な論理を重んじているからなのではないか、とこの解説を読むと思い当たります。

そして、そんな割り切れなさよりも重要なのは、この本の一部の記述が画家が絵を描くときの試行錯誤を言い当てているように読めることです。考えてみると画家は、それまでの常識や経験、そして新しい理論の中で、さまよいながら制作するものです。そのいずれかに割り切ってすっきりと描くことが良いことかといえば、そうでもありません。もしかしたらラッセルさんは、画家のそういう想像の営みと近いことを、哲学の世界で展開しているのかもしれません。

不勉強な私に、いま書けるのはこれぐらいでしょうか・・・。ラッセルさんの本は面白そうなので、もう少し続けて読んでみたいと思います。

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