平らな深み、緩やかな時間

315.『戸谷成雄 彫刻』、『中西 晴世 展』について

大型連休になりましたが、いかがお過ごしですか?

私は二日目(五日目?)の午後になって、やっと自由に動ける時間ができました。そこで埼玉から東京・神宮前へと大きく移動して展覧会を鑑賞しました。その感想と展覧会のご紹介です。

 

埼玉県立近代美術館で、『戸谷成雄 彫刻』展が開催されています。この展覧会は2月から始まっていましたが、私は自分の展覧会があり、また年度初めの慌ただしさがあり、結局、会期の終盤になって、やっと見ることができました。とはいえ、5月14日(日)まで続いていますから、興味がある方はお見逃しなく。

https://pref.spec.ed.jp/momas/2022toya-shigeo

https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/shigeo-toya-sculpture-report-202303

戸谷成雄(1947 〜 )さんは、1970年代から活躍している、日本を代表する彫刻家です。実は戸谷さんは、私と同じ愛知県立芸術大学の出身で、私が大学に入って現代美術を見始めた頃には、若手の作家として注目を浴びていました。戸谷さんとは面識もなく、私から見ると雲の上の存在でしたが、その一方で戸谷さんも私と同じ大学(とは言っても、私は絵画科で、戸谷さんは彫刻科でしたが・・・)で学んだんだなあ、と勝手に親しみを感じていました。

その戸谷さんがキャリアを積む過程で、いくつかのポイントがあったのですが、今回の展覧会ではそのことがわかるように展示されていました。

戸谷さんは大学時代に具象彫刻を作っていましたが、その作品が展覧会の入り口近くに置かれていました。戸谷さんの大学の卒業制作は、『器Ⅲ』という日本の昔話の「鉢かづき姫」のように頭に器を被った人物像です。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/247864

http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=37

私は学生の頃に大学の資料館でこの作品を見ましたが、その時は妙な作品だなあ、と思いました。しかし今見ると、その後の戸谷さんの作品のイメージ性と、どこかで繋がっているように感じます。

それから戸谷さんが初個展で制作した、イタリアの古代都市ポンペイの出土品をイメージしたようなコンクリートの作品が展示されていました。ポンペイは西暦79年のヴェスヴィオ山の大噴火で地中に埋もれた都市です。大量の火砕流で埋もれたことによって、雨風から守られた建築物や壁画が色鮮やかな状態で発見され、日本でも何回かその発掘物が展示されました。その中でも強烈な印象を残したのは、火砕流で覆われて燃え尽きたものの、人物の型が火山灰となって残された遺跡物です。その型に石膏を流し込んで再現された人物は、遺跡というよりは彫像の原点のような、どこか不思議な印象をもたらします。おそらく戸谷さんも、似たような感情を持たれたのでしょう。それを初個展でコンクリートを使って表現したのだと思います。

これらの作品は、戸谷さんの内面で具体的な形のイメージが豊穣に存在していたことを示しています。それも普通の人物像ではなく、人間の存在の原型のようなイメージだったのだと思います。

その後の戸谷さんは、日本の「もの派」、アメリカの「ミニマル・アート」、イタリアの「アルテ・ポーヴェラ」などのストイックな表現の時代と遭遇します。戸谷さんも材木や石膏や鉄釘などの素材をそのまま表現した作品を制作していましたが、そういった作品においても、戸谷さんは石膏をノミで彫るなど、彫刻家らしい行為性を見せていました。その作品のクオリティーの高さから、「もの派」以降の世代のホープと目されたのだと思います。私が戸谷さんの作品を知ったのは、その頃でした。しかし戸谷さんは、それらの作品を海岸で燃やすというパフォーマンスを行うことで、次の展開へと踏み出したのです。

その後に発表したのが、植物の根茎を思わせるような有機的な形をした『地下へ』というシリーズでした。根茎のような、あるいは火星人のような不思議な立像は、それまでの素材重視の表現から大きく転換する強烈な作品でした。私は多少のご縁があって、この頃の戸谷さんの作品と同じ展覧会に作品を並べたことがあるのですが、この頃の戸谷さんはとにかく個性的でした。今回もそのうちの一点が展示されていましたが、やはりこの時期の戸谷さんの作品が最も好きです。今回展示されていた作品ですが、初めてギャラリーで見た時のことをよく憶えています。ギャラリーの壁に、地下に根を張る植物のような形がドローイングされている中で、一点だけ重力から解放されたように立っていた作品です。彫刻作品というと、がっしりとした力強さが強調されがちですが、ひょろひょろとした出立ちでかろうじて立っているこの作品は、どこかで『器Ⅲ』に通じるものがありました。しかし、残念ながら戸谷さんは、このシリーズをあまり長くは作りませんでした。

 

そして、戸谷さんの評価を一気に高めたのが、チェーンソーで木の表面を荒々しく削りつつ、全体としては有機的な形状を表現した「森」シリーズでしょう。この後の戸谷さんの作品は、展覧会のホームページでもふんだんに紹介されていますし、私が語るまでもないのでここではとくに説明しません。チェーンソーでくり抜かれた木の箱の上にガラスを被せ、地下世界を覗き込むように工夫された作品など、私はすでに発表された時に見てしまっていますが、初めてご覧になった方はびっくりされたのではないでしょうか。この当時の戸谷さんは、つねに次はどのような作品を作るのか、期待されていたのだと思います。

 

さて、こうして戸谷さんの制作の流れを見ていくと、「森」シリーズ以降は、常に大掛かりで、日本の現代美術における彫刻表現そのものを背負っているような、そんな気概を感じます。それもそのはずで、戸谷さんはいつも困難な時代の先端を歩いてきた作家だったのです。

戸谷さんのデビューの頃はミニマルな表現の時代でした。戸谷さんが大学で学んできた人物像はおろか、有機的なイメージの像でさえ発表できる時代ではありませんでした。その中で戸谷さんがミニマルな作品から「地下」シリーズへと模索を始めたのは、極めて大胆な試みだったはずです。しかし時代は「ポスト・モダン」の時代に差し掛かり、美術作品の流行も大きく変わりました。美術における「ポスト・モダン」は、不幸にして安っぽいイメージの折衷的な作品が流行した時代だったのです。ですから戸谷さんの作品の展開は、その時代に歩調を合わせたものと見られたのかもしれません。ミニマルな表現をしていた作家たちが、いきなり唐草模様や空想の動物を型どった作品を作り始めたのですから、真面目に現代美術に取り組んできた人たちは呆れるほかありませんでした。その中で戸谷さんは、自分の表現がそんな一過性のものではないことをアピールし続ける必要があったのだと思います。

戸谷さんは木という素材と深く関わることで、ミニマルな時代の経験をしっかりと表現に取り込むことを考えたのだと思います。それが「ミニマルバロック」と戸谷さんが言っていることの意味なのだと思います。今の若い方から見ると、ちょっと大仰な表現に聞こえるかもしれませんが、ミニマルな時代には「彫刻」という表現そのものが消失してしまいそうな危機的な状況を経験し、ポストモダンの時代にはストイックな表現が馬鹿馬鹿しく思われるような状況を経験したのですから、そのような時代の流れから屹立した彫刻表現を持続するには、相当な覚悟が必要だったのです。旧来の彫刻に戻ってしまうのではなく、かといってミニマルな表現に終始するのでもなく、それらの経験を積み重ねながら前進していく、という不退転の決意を示すことが重要だったのです。

この世界にはさまざまな作家がいますが、その中には時代と対峙して、絵画や彫刻といった表現そのものを背負って立つような作家がいます。戸谷さんは間違いなく、そういう作家の一人だったのだと思います。そのような戸谷さんの心情がうかがわれるインタビュー記事がありましたので、書き写してみます。読んでみてください。

 

「美術では“近代美術の行き着く先はミニマリズム”みたいな考えがひとつの大きな潮流としてあり、物語性、政治性、イリュージョンを排除した造形性のみによって作品を価値判断する傾向がある。ではそれを否定するのか?というと違うんです。昔に戻ってはダメで、あくまでミニマリズムをベースに、概念に皮膚を与えていく行為が彫刻だと考えられないかと思っていた。」

https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/Shigeo_Toya_Interview-2022-09

 

このように「ニマリズムをベースに、概念に皮膚を与えていく行為が彫刻だ」ということを実現しなければならない、という責任が戸谷さんにはあったのだと思います。私のような呑気な人間からすると、戸谷さんのような作家はどんなにリスペクトしても仕切れるものではありません。

しかしその一方で、戸谷さんがたとえば「地下」シリーズのような不思議な作品を飄々と作り続けたら、それはそれで楽しかったのではないか、というふうに想像してしまいます。無重力状態の火星人のように軽やかで、木や鉄といった素材の質感からも解き放たれて、根茎のように無方向にニョロニョロと増殖していくような作品がどんどん展開していったなら・・、などと空想してしまうのです。

そんな作品が続いたなら、評論家も、美術ジャーナリズムも現状ほどには戸谷さんを持ち上げなかったかもしれません。しかし、それはそれで良いのではないか、とはみ出し者の私は考えてしまいます。

 

さて、続けてご紹介するのは東京・神宮前の「トキ・アートスペース」で開催されている中西晴世さんの展覧会です。

http://tokiart.life.coocan.jp/2023/230502.html

こちらも、まだ会期があるので展覧会の情報を書いておきます。この個展は「トキ・アートスペース」の企画シリーズの一つです。いつもながら、トキさんの人選はさすがです。

 

2023年トキ・アートスペース企画シリーズ

“Belong to the Nature" Vol.2

自然からの現象に気づくことは、廻りの現実を直視することとなる。

一年を通して7人の個展。

中西 晴世 展(Haruyo Nakanishi) 

「飛ぶ種」 – Flying Seeds –

 2023年5月2日(火) - 5月14日(日)  12:00-19:00(最終日 17:00)

※8日(月)休廊

 

それから私は、中西さんが2021年に、作家の飯沼千寿子さんが企画している『Chatterbox展』に参加されたときに、その感想を書いていたのでした。よかったら次のリンクを参照してください。

 

181.『Chatterbox展』について

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/37edf573b8863e3a48063d97fec32cd9

 

さらに、中西さんが今回の展覧会についてコメントを書いているので、それも参照しておくことにしましょう。ギャラリーのホームページを見ると、作品写真とともに読むことができるので、できればそちらでご覧いただきたいのですが、一応、書き写しておきます。

 

コロナ禍を経て、現在私たちが直面している世界では、戦争や紛争、弾圧や差別などに苦しむ多くの人々が存在し、核の不安も増幅している。私たちの足もとは、なんと不確かで脆いものなのだろうか。

樹木や草花は、種を増やすため風に乗って飛んだり、中には植物自身が「たね」を飛ばす構造をしており自ら種を弾き飛ばすものもある。自然が作り出した造形である様々な種の形態は、美しく不思議でもあり、実に魅力ある形をしている。

ここで、私は種子に願いを込めた。空想の種は風に乗り、近未来の私たちの愚かな行為の結果、破壊され消えゆく土地に流れ着き、生活の痕跡を覆い隠し、やがて浄化をはじめるかもしれない・・・

(「トキ・アートスペース」ホームページより 作家のコメント)

 

なんと美しくて、そして正直なコメントでしょうか。

この数年のことを思うと、まずは新型コロナウィルスの蔓延ということが私たちの頭を占めてしまうのですが、しかしそうでなくとも、さまざまな問題が噴出している時代に私たちは生きています。戦争、紛争、弾圧、差別は遠い異国の問題ではなくて、私たちの足元を揺るがす身近な出来事でもあります。

ちなみに日本は、世界「男女平等ランキング2022」では116位でした。これは史上ワースト3だそうです。そしてこの順位は、G7の国の中で飛び抜けて低いようです。それなのに、今月の中旬には広島でG7サミットが開催されます。開催国の国民として、愛国心を大切にする(?)保守系の政治家は、このことをもっと恥じるべきだし、男女平等の社会を実現するために、もっと努力すべきだと思うのですが、いかがでしょうか。

https://sustainablejapan.jp/2022/07/13/gender-gap-index-2022/75161

このような現実に対して、一つ一つの目の前の問題に対処していくことも大切ですが、私たちがどういう世界観を持てば、誰もが生き生きと暮らしていける社会が築けるのか、その内面的な世界を形成していくのも、芸術の果たす役割ではないかと私は考えます。中西さんは、そのようなことを大上段に構えて説明することはしていませんが、彼女が実践していることはまさにそういうことではないかと思います。中西さんの表現した芸術の種子が、やがて破壊行為に疲れた人たちのところに届き、その心を浄化していくのだとしたら、そんな素晴らしいことはありません。こんなことは夢物語に過ぎないのでしょうか?

でも、そういえばジョン(レノン)もこう歌っていましたね。

 

僕を夢想家だって言うのかい

僕はぜんぜん、そう思わないよ

君もいつか僕に賛同してくれることを願っている

そして世界は一つになるんだ

 

勝手に訳してみたので、間違っていたらごめんなさい。ベタな歌だから今さら引用するのも恥ずかしくなりますが、でも彼の歌ったことの意味が日々、重要さを増しているように感じられるのが今の現実です。とにかく、どんなに現実が絶望的であっても、私たちは生きていかなくてはなりませんし、若い方により良い世界を残していかなくてはなりません。絶望している暇はないのです。ですから、希望を持って生きていきましょう。

 

さて、それでは中西さんの作品を見てみましょう。

例えばギャラリーのホームページで使用された写真の作品があります。この作品に、展覧会のコンセプトが込められています。そして、この作品に込められたイメージは結構リアルです。例えば百合の花が種子を飛ばしているような絵が描かれていますが、実際の百合はこんな感じのようです。

https://www.shuminoengei.jp/?m=pc&a=page_mo_diary_detail&target_c_diary_id=422727

あるいは、植物が種子を飛ばす時は、こんな感じのようです。

https://karapaia.com/archives/52194717.html

羽で種子を飛ばす植物はこんな感じです。

https://karapaia.com/archives/52304768.html

https://www.jugemusha.com/onep-kazesanpu.htm

もちろん、何の予備知識もなく中西さんの展覧会を見に行っても楽しめるのですが、これらのイメージを持って見てみると、中西さんの伝えたいものがよりわかりやすいのかもしれません。私は中西さんの作品に、ある種のリアリティーを感じました。できればその感触を多くの方と共有したいので、そのきっかけとなりそうな資料を探してみたのです。

 

実は中西さんが具体的なものをイメージして描写した作品は、この写真の作品だけのようです。残りの作品は彼女が自由に空想した植物の種子や枝、植物の中を流れる水などが、半ば抽象的に表現されています。ギャラリーの奥の部屋の天井からは、羽を持った種子のような形の立体作品が軽やかにぶら下がっています。いずれの作品も、手探りで形を探した痕跡がありありと残っていて、植物の種や枝の有機的な形状と、そのイメージをなんとか表現しようとする中西さんの手の動きとがリンクして、生命感の溢れる作品群となっています。

繰り返しになりますが、展覧会をご覧になる方は何の予備知識もなく、中西さんの作品をそのまま受け止めれば良いのですが、ここで私が気づいた技術的なことについて、少しだけ触れておきます。

一つ目は、中西さんの平面作品が全て版画であることによるものです。中西さんは、リトグラフなどの平版の技術を使って制作しているのですが、平版の特徴は平面上に乗っているインクを刷り取るというものです。直接、紙に描画してしまえば、インクや絵の具はたちまちのうちに支持体である紙に吸い取られてしまいます。しかし平版の場合は、インクが版の上にしばし滞留することになります。その結果、平面上を微妙に漂ったり、弾かれたりするインクの痕跡が、そのまま紙の上に定着することになるのです。今回の作品で言えば、それが独特の水のイメージを生んでいるように思います。その弾けた水のようなインクの痕跡が、植物の中を流れる水分をイメージさせるのです。

二つ目は、ギャラリーの奥の左の壁面に飾られた、植物の枝ぶりを描いたような作品に関することです。それらの作品をよく見ると、二つの版から作られた色違いの作品であることがわかります。そしてそれらには、あらかじめインクが乗らないように画面の上から下へといく本かの白地の筋が残るように作られているのです。中西さんは、なんとなく感覚的に白い筋を残してしまった、と言っていましたが、この紙の白地が筋として残っていることで、作品に平面としての客観性をもたらしているのです。というのは、この紙の白地がなければ、枝を描写した普通の絵になってしまうからです。紙の白地が絵に侵食していることによって、絵画の平面性と奥行きのある空間とが共存する作品になっています。そしてさらに中西さんは大胆なことに、その版を薄い紙の上に刷りとって、その紙を和凧のように竹ひごで膨らませて展示してもいるのです。これも絵画としてのイリュージョンを軽やかに超えてしまう面白い方法だと思います。こういう大胆なことが、ひょいとできてしまうところに中西さんの素晴らしさがあります。何ともうらやましい限りです。

 

ここで少しだけ、同じ日に見た二つの展覧会を比較してみましょう。

私はこのような中西さんの軽やかさが、戸谷さんの「地下」シリーズでは確かに存在していたように思います。しかしその後の戸谷さんの作品では、そのシリアスな重厚さが増すにつれて、その軽やかさが失われてしまったような気がします。戸谷さんの業績やその重みを十分に分かってはいるものの、私のような者の見方からすると、それがちょっと残念です。おそらく戸谷さんは、自分の仕事の成果を積み上げて前進しようというタイプの芸術家なのだと思います。一方の中西さんは、常に原初的な自分に立ち戻って表現するタイプの芸術家なのだと思います。中西さんは、重たい業績や高等なテクニックを追い求めるつもりはなく、つねに生き生きと、プリミティブに表現したい作家なのでしょう。

今回、意外だったのは、このまったくタイプの異なる二人の作家が、植物をイメージした作品においてだけ、一瞬交差して見えたことです。これは私にとっても予想外の驚きでした。おそらくこれは、植物の持つイメージ喚起力の強さによるものでしょう。それも植物の「樹」、「葉」、「花」などの一般的に植物から連想する部位ではなく、今回は「根茎」や「種子」、「胞子」といった普段はあまり意識しない部分がクローズアップされていたのが印象的でした。そういえば、すでにジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)とフェリックス・ガタリ(Pierre-Félix Guattari、1930 - 1992)という二人の偉大な思想家が、「リゾーム(rhizome)」=「地下茎」、「根茎(こんけい)」というイメージを打ち出して、自分たちの思想を語っていたことを思い出しました。今後も芸術的に、あるいは思想的に、植物のイメージが持つ秘めた可能性に注目していくことにしましょう。

 

さて、連休はまだ残っていますし、この二つの展覧会はもうしばらく開催しています。私の文章がきっかけになって、いずれかの展覧会にお出かけになる方がいらっしゃったら、これ以上のよろこびはありません。コロナ禍も一段落したようですし、本物の作品と出会うことをお勧めします。

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