アメリカ合衆国の有名なニュース雑誌に『TIME(タイム)』があります。1923年にニューヨークで創刊されたそうで、世界初のニュース雑誌として知られています。その雑誌の赤い縁取りの表紙には、話題の人物の肖像写真が掲載されます。その表紙をわが国の首相が飾ることになるそうです。
米誌タイム(電子版)は、岸田文雄首相を表紙にした5月22、29日号の一部内容を発表した。「日本の選択」と題し、「首相は数十年の平和主義を捨て、自国を真の軍事大国にすることを望む」と防衛費増大などの政策に注目している。
特集記事は、岸田政権の防衛支出増大や米国との同盟強化などの政策に触れ、「世界第3の経済大国を、それに見合う軍事的影響力を持った大国に戻すことに着手した」と指摘。タカ派的だった安倍晋三元首相が安保政策で国論を二分したのと比較し、「岸田氏の持つハト派の顔が大きな抵抗なしに改革を可能にした」と評した。
一方、日本の軍事力強化が周辺の安全保障環境を不安定化させ、中国との摩擦を強める恐れにも言及。「岸田氏の長年の公約である核なき世界への努力と相いれないと考える人々もいる」と指摘した。
(『東京新聞 Tokyo Web』2023年5月11日)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/249361
海外から見た日本の現状がこの記事に映し出されていると思いますが、そのイメージは私たちのイメージよりも客観性があるのではないでしょうか。ご丁寧に「岸田氏の持つハト派の顔が大きな抵抗なしに改革を可能にした」という解説まで付されているようで、何もいうことはありません。この記事に対して、日本政府からの抗議によって一部書き換えられたというニュースもあります。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/481736?display=1
しかし、いずれにしろ、私たちは私たち自身が自国を見る客観的な眼を持たなければなりません。インターネット上をさまざまな情報が飛び交う今だからこそ、どれほど客観的で妥当性のある眼をもっているのかが、問われるのだと思います。心しておきましょう。
さて、前々回に続き、フランス文学者、文芸・映画評論家でもある前田英樹(まえだ ひでき、1951 - )さんの『セザンヌ 画家のメチエ』(2000)について書いてみます。前々回では、話がセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)のことにまで及ばず、第一回印象派展のこと、そして同じ印象派の仲間であるモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)について書いたところで終わってしまいました。今回は、セザンヌについてがっつりと読んでみたいと思います。セザンヌは、人間的にはとても偏りのある人物だったようですが、絵画に関しては独特のよく見える眼をもっていました。そのことについて前田さんはとても興味深いことを書いていますので、よかったら最後まで読んでください。
それでは、本題です。
前田さんは前回も書いたように、「あとがき」に次のように書いています。
意を決して、書き始めてみると、私の書き方は、思いのほか評伝的な形を採ることになった。セザンヌの絵について考える上で、避けられない問題を書き連ねていけば、こんな外観が生まれてきたまでである。私はただ、この人の仕事がこのようである所以について、これをこのものにしている最後の事実について、能力の限り書き通してみたかった。ほかに目はない。これ以上付け加える言葉もない。
(『セザンヌ 画家のメチエ』「あとがき」前田英樹)
私はこのことについて、次のように書きました。
前田さんがこう書いているように、『セザンヌ 画家のメチエ』は評伝風の読み物として読める本です。しかし、困ったことにセザンヌの評伝ならば、すでにたくさんあります。また、直接セザンヌと接した人たちも文章を残しています。だからいまさら日本人の書いたセザンヌの評伝には食指が動かないわけです。それに評伝風の形式をとっているだけに、セザンヌについて前田さんがどのように考えているのか、端的に書かれた文章を探すのが大変です。
しかし、試しに読んでみると、内容がセザンヌの時代の機微に触れるように書かれているので、なかなか興味深く読めました。
このように私は書いたのですが、実はこの『セザンヌ 画家のメチエ』は注意して読むと、はじめから少し奇妙なことに気が付きます。それは、セザンヌを語るにあたって、彼の父親の話から始めていることです。セザンヌの父親はルイ=オーギュスト・セザンヌ(1798 - 1886)という人ですが、帽子屋からのちに銀行家となった成り上がりの成功者であったことで有名です。セザンヌは父親のお金があったから売れない画家として生活できたのですが、その一方で厳しかった父親とはうまくいってなかった、というのが定説です。実際にセザンヌは、妻と子供を父親から隠し続けなければなりませんでした。
前田さんは、父の死後、セザンヌは父親を愛していたことに気付いたであろうし、何よりもセザンヌの気質は父親譲りのものであり、そのことが彼の芸術を支える大きな要因となっている、と指摘しています。
それ(仕事の犬のように働き続けること)が不幸なことであろうと、彼(セザンヌ)はボヘミアンから「仕事の犬」に変わっていった。この変化は、父親からも世間からも、彼の親しい少数の画家仲間からさえ深く隠されたままに為され続けたと言える。ほとんど誰から見ても、彼は落伍したボヘミアンのように見え、彼自身もしばしば自分をそう感じる。だが、そのような外見にもかかわらず、「仕事の犬」は、もはやボヘミアンではまったくないだろう。この犬にはボヘミアンに特有の放縦、任意な空想、気ままな楽しみはない。あるのは、「仕事」が命じる声に従うほかない疲れ切った肉体である。無一文の流れ者だったルイ=オーギュストをボヘミアンの生活から救ったものは、商品の仕入れや販売、あるいは資金の調達、貸し出し、集金に彼を走り回らせた絶え間ない労役だった。ルイ=オーギュストから負わされた「タンペラマン」を、誰もが怖れる不屈の性格へと鍛え上げたものは、この労役に他ならなかったが、こうした労役は、また彼自身がその人生において強いられ、育て上げていったひとつの強大な秘密のようなものだろう。
(『セザンヌ 画家のメチエ』「1 仕事の犬」前田英樹)
このセザンヌの「タンペラマン(気質)」は、ボヘミアンから成り上がった父親ゆずりのものだった、というのが前田さんの見解です。そして、このセザンヌの気質が成し得た「仕事」の価値について、詩人のリルケ(Rainer Maria Rilke、1875 - 1926)が早くから気づいていたと、前田さんは指摘しています。彫刻家の「ロダン論」を書いた若き日のリルケは、そのロダン(François-Auguste-René Rodin、1840 - 1917)の創造の仕事ぶりから、芸術家にとっての「仕事」の意味を学び取ったのでした。
「彼はたえず仕事を続けている。彼の人生は、ただひとつの労働日のようにすごされてゆく」(『オーギュスト・ロダン』星野慎一訳)。この「仕事」はロダンの生活を幸福で、静かで、深く、単純なものにした。彼は、彼自身が、その無名時代に断固として創り出した「仕事」の生涯をとおしての主人であったし、「仕事」は、その主人の風貌にますます強い、豊かな威厳を刻みつけた。少なくとも、若い日のリルケには、ロダンの彫刻をとおして示した「仕事」の意味は、そのようなものとして映ったのである。
(『セザンヌ 画家のメチエ』「1 仕事の犬」前田英樹)
ロダンの「仕事」は、このようにロダンに「威厳を刻みつけ」、ロダンを巨匠に押し上げたものでした。しかし、セザンヌにおける「仕事」はどうだったのでしょうか?セザンヌはむしろ「仕事」に囚われ、「仕事」をすればするほどふさぎ込み、巨匠とはほど遠い風貌になっていきました。だがそれは、セザンヌの「仕事」の質がロダンの「仕事」を凌駕していたからではないか、と前田さんは続けて書いています。
「仕事」は彼に取りつき、鎖につないだ犬のように彼を叩き、引き摺っていった。しかし、この無慈悲な「仕事」が、セザンヌの心身を酷使し抜いて顕わされた人間、砂糖壺、山、湖の沈黙した巨大な充満はどうだろう。セザンヌという「仕事の犬」が実現したものは、ロダンの「仕事」が教えていたものを凌駕しているのではないか、いや、凌駕しているとしか考えようがない。この事実を、おそらくリルケは、強い動揺とともに迎え入れざるを得なかった。金貸しの労役がルイ=オーギュストという流れ者の心を捕らえて放さなかったのと同じように、絵画という無慈悲で理不尽な「仕事」は、その息子を死ぬまで解放しようとはしない。ルイ=オーギュストは、まさしく彼自身の二人といない息子を持たされていたのであり、老いた息子は、やがてそのことを恐ろしいほどの明白さで思い知らされたに違いないのである。最晩年の手紙でセザンヌは書いている。「達すべき目的に誰かを連れて行くことができるものは、最初の力、すなわちタンペラマンあるのみです。」と(1903年2月22日付、シャルル・カモワン宛)確かに、彼のなかに一貫して感じられたこの「最初の力」は、どこか遠いところからやって来て、自分と父とを悲惨なほどの類似と隔たりとをとおして産み落とした。セザンヌを捕らえ、引き摺っていったあの説明しがたいひとつの「仕事」は、彼とルイ=オーギュストとが分け合ったこの<タンペラマン>のなかにこそ、入り込むことのできたものであった。
(『セザンヌ 画家のメチエ』「1 仕事の犬」前田英樹)
セザンヌの独特の「気質」が、彼の芸術と関連しているという考察はたくさんあると思いますが、その「気質(タンペラマン)」が父親譲りものであったことに言及したものは、それほど多くはないでしょう。
このセザンヌの「タンペラマン」ですが、これがはじめて彼の絵画に現れたのは、初期の絵画の厚塗りの表現においてでした。一般には、その厚塗りの絵具は「マチエール」と呼ばれる絵画技法にあたります。しかしセザンヌのそれは単なる表現技術ではなくて、線による古典的な形体表現を否定した、セザンヌ独自の「真実(リアリティ)」へと迫る表現だったのです。このことには後でも触れますが、このように飽くことなく「真実」に迫る表現に取り憑かれてしまうのが、セザンヌの「気質(タンペラマン)」であったのです。
そのセザンヌが、年長のピサロ(Camille Pissarro, 1830 - 1903)から印象派の色彩表現を学んだとき、それがセザンヌの気質によって変質したのだと、前田さんは書いています。
カンヴァス上に並置された色の存在は、ピサロでは、視覚経験のなかの諸々の効果のなかに還元されていく。ピサロにとって、色とは視覚経験の純粋単位であり、その限りにおいて、自然のなかに知覚される色とカンヴァス上の色とは、まったく同じ次元に存在するものだろう。絵具についてのピサロの教えは、セザンヌによって受け取られるやいなや、彼のタンペラマンのなかで変質する。質料的なものの混合は、ピサロの言う「自然」は、色をもって私たちの前に顕れるほかないが、この色の存在と、カンヴァス上に置かれる色の存在との間には、測ることのできない一種の深淵があり、この深淵こそ画家の仕事を仕事とさせる所以のもの、画家のメチエを出現させる根底の条件ではないのか。タンペラマンは、質料的なものの混合のなかにあり、そのなかでしか活動することはない。仕事とは、仕事する者のタンペラマンを、突如としてそうした混合の外に引き出し、苛酷に支配し、従属させる何事かである。1872年のセザンヌが掴み得たのは、そのことであったろう。
(『セザンヌ 画家のメチエ』「1 仕事の犬」前田英樹)
ここで前田さんが書いている「この色の存在と、カンヴァス上に置かれる色の存在との間には、測ることのできない一種の深淵があり、この深淵こそ画家の仕事を仕事とさせる所以のもの、画家のメチエを出現させる根底の条件ではないのか」という一文に惹かれます。
この文章が何を言っているのか、考えてみましょう。
画家は絵を描くときに、まず目前の「自然」と向き合います。そして真面目な画家ならば、その「自然」の「真実(リアリティ)」を画面上に表現したいと考えるものです。
それが印象派以前の画家ならば、遠近法による正確なデッサンによって自分の見ている「真実」に迫ることでしょう。しかし印象派以降の画家なら、「自然」の「真実」を色に求めるものなのです。印象派の画家にとって、「自然」の色をそのまま画面上に写し取る方法が、点描法による視覚混合でした。色の濁りを細かな色点によって表現することで克服し、「色とは視覚経験の純粋単位であり、その限りにおいて、自然のなかに知覚される色とカンヴァス上の色とは、まったく同じ次元に存在するもの」と言える表現が可能となったのです。このことをピサロから教えられたセザンヌでしたが、それについて印象派の画家たちとは違った課題として受け止めます。
セザンヌは、印象派の方法論を学ぶ以前に、「自然」のリアリティーを古典的なデッサンによってではなく、絵具のマチエールによって克服できないか、と試行錯誤していました。普通の画家ならば、絵具の「マチエール」は絵具の質感によって画面上に変化を与える技法に過ぎませんが、セザンヌにとっての絵具の「マチエール」は、絵具が色の塊となって視覚的な「真実」に迫る重要な方法だったのです。そのセザンヌが、印象派の「色」を学んだ時にも、それだけでは「自然」の「真実」に迫りきれないという「深淵」を感じたのです。
前田さんは、この「自然」と「絵画」との差異によって生じる「深淵」を克服する行為において、そこに「画家のメチエ」が出現するのだと書いています。
そしてセザンヌがピサロ(や他の印象派の画家)と違って、なぜそこに「深淵」を見出したのかと言えば、それはセザンヌが父親から譲り受けた「タンペラマン(気質)」によるものなのだ、と分析しているのです。
さて、もしもあなたが、これまでセザンヌの絵を見てきて、その特異性に気づいていたならば、これらの前田さんの言葉をすぐに了解することができるでしょう。前田さんの考察に賛同するかどうかは別にして、絵画の歴史の中でセザンヌだけが成し得たことが確かにあって、そのことについていろいろな考え方があるけれども、それをセザンヌの父親譲りの「タンペラマン(気質)」によるものだ、と言われれば、それも一つの解釈になり得ると了解することができるでしょう。
私にとっては、この本はさまざまな興味深いことが書かれているけれども、本当に重要な興味の対象はこの点に尽きます。そして前田さんにとってもこれは重要な考察であったはずで、彼はこのことについてこの後のところでも繰り返し言い方を変えて書いています。
先ほども書いたように、セザンヌの作品の特異性について気づいていた方にとっては容易に理解できることであっても、そうでない方にはなかなかわかりにくいところだと思います。ですから、前田さんの解説をもう少し追いかけてみますので、ちょっと辛抱してお付き合いください。引用が少し長くなりますが、このような細かい分析にこそこの本の価値があります。とは言え、丸ごと書き写すわけにもいかないので、支障のない範囲で中略を入れます。
モネとともにピサロが見出した<色>は、<光>のなかに内在し、光が事物に当たって実現させる視覚の効果としてあった。
<中略>
光に内在する色が、無数の事物に当たって言わば顕在化し、私たちの網膜の上で混合される、この過程こそ、私たちの視覚経験のすべての内容である。画家が関わるべき現実は、ここだけにあり、ここから先のものは、私たちの頭脳的操作がもたらす極めて雑多な構成物にすぎないだろう。周知のように、この考え方は、やがて現れる印象派の色彩分割という技法が依って立っていたものである。
<中略>
1872年に、ピサロがポントワーズやオーヴェール=シュル=オワーズの田園でセザンヌに語ったことは、むろんまだこうした理論ではなかっただろう。彼が教えたことは、おそらくただ絵具を、マチエールの混合の外に立てられるべき<色>として扱うことだっただろう。なぜなら、光の分散によって顕れてくる色は、そのようなものであり、画家が従うべき現実は、光についての視覚経験以外にはないからだ。こうした考えにあっては、光のなかから顕在化する<自然の色>と、カンヴァスの上に置かれる<絵具の色>とは同じ性質を持ち、同一の存在の仕方をするのでなくてはならない。
<中略>
従って、画家のカンヴァスは、この作用を最も純粋に引き起こす諸関係を絵具によって作り出していればよい。純粋に、とは絵が事物についてのどのような種類にも訴えないという意味である。描かれたものが、「樹」というもの、「家」というものに見えるのは、絵を見ている人間の側の観念や言葉や、あれこれの知識によるのであって、画家はただ画家自身の視覚経験を、絵具の色の諸関係によってカンヴァス上に定着させようと努めているにすぎない。
しかし、セザンヌにとって、絵具の色がマチエールの混合の外に在るとは、決してそうした意味ではなかった。彼のタンペラマンは、ピサロの教えをそうした意味に解することを拒んだ。
<中略>
セザンヌが直覚したところでは、カンヴァス上の色と自然のなかに在る色とは同じ性質のものであってはならない。二つの色は、互いに異なる存在の仕方をしており、これらの間には、一種の深淵と、一種の平行とがある。画家の仕事は、これらの間でこそなされ、タブローによる<表現>は、これらの間でこそ可能となるだろう。
(『セザンヌ 画家のメチエ』「2 オーヴェールの光」前田英樹)
ここで提示されている考え方は、絵画というものの本質をよく表しています。その考え方というのは、自然のなかに在る色と絵画の画面上の色との関係性について、「二つの色は、互いに異なる存在の仕方をしており、これらの間には、一種の深淵と、一種の平行とがある」と指摘している部分です。このことについて、深く考えてみましょう。
私たちは通常、「自然」の色から離れた色彩表現をしている絵画に対して、「表現主義的」であるとか、「抽象的」であるとか、そういう言い方をして「自然」の「真実」から離れたものだと認識してしまいます。確かに一般的にはそういう作品が多いのは確かですし、画家の気まぐれによって恣意的な色彩で彩られた作品も多々あります。20世紀のはじめにおいては、その絵画の恣意性をどこまで高めるのか、が絵画の発展性の尺度になっていた時期がありました。その考え方によれば、セザンヌはピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)に影響を与えた画家にすぎない、ということになってしまいます。つまり晩年のセザンヌの芸術は、キュビズムや抽象絵画の予兆であった、という美術史的な解釈になってしまうのです。
しかし、どんなにレアリズムの絵画を追求したところで、「自然」の色と「絵画」の色とは、そもそも一致しない「平行」関係にあり、そこには埋め難い「深淵」が在るのだとすれば、話は違ってきます。そのことを最も深く認識した画家がセザンヌであって、それはいまだにそうであるのかもしれません。セザンヌはその「平行」関係、その「深淵」を認識した上で、絵画における「真実」を追究した画家として、その後のあらゆる画家を凌駕した存在であったとさえ言えるのです。
さらに前田さんはこう書いています。
セザンヌがオーヴェールでの戸外制作から色彩画家への道を歩き出したというのは、極めて複雑で、深刻な意味においてである。色の発見は、彼には二重の意味でやって来た。ひとつには、色はカンヴァス上の絵画記号そのものとして確立され、機能するのでなくてはならず、もうひとつには、色はまさに自然みずからが事物のもろもろの本質を表現するものとして見出されるのでなくてはならない。色についてのこうした二重の発見は<表現>について彼が抱いていた二重の錯誤を克服させた。第一の錯誤は、すでに述べたように、マチエールをもってマチエールの混合を表現しようと望むことの矛盾にある。表現されるマチエールは、表現する絵具とのあいだに根源的な性質の差異を、深淵を持つのでなければならない。だが、重要なことは、この深淵はどのような原理によって架橋されるのかということである。架橋される二つの項が共に<色>であることは、ここにおいてこそ不可欠の要件となるだろう。絵画記号としての色が表現するものは、それに対応(correspondre)し、平行するものとしての自然の色であり、この色はマチエールの混合それ自体ではない。言い換えれば、絵画記号がカンヴァスの平面に転換しうるものは、物質や魂の諸状態ではなく、自然がみずからの複数の本質について為す表現、つまり色なのでなければならない。こうして、表現についての第二の錯誤が克服される。
(『セザンヌ 画家のメチエ』「2 オーヴェールの光」前田英樹)
これも前田さんの書いている言葉をひとつひとつ解釈しようとするとなかなか困難ですが、セザンヌの晩年の絵を想起してみると、ああ、こういうことだろうな、と理解できます。しかしそうでない方もいらっしゃるでしょうし、下手な解説を試みてみましょう。
晩年のセザンヌの絵画において、セザンヌが画面に置く色、その筆致のひとつ一つをみていくと、それはいわゆるレアリズムの表現にはなっていません。つまり「真実」から離れていくもの、表現主義や抽象絵画に近いものに見えてしまいます。しかし、画面上の色彩相互の関係やその筆致を総合的に感受してみると、それらがまさしくセザンヌが見ている世界を画面上に置き換えたものであり、「自然」と平行した「絵画」の世界としての「真実」を実現しているのです。
例えば、目の前に迫ってくるようなサント=ヴィクトワール山を、あなたは今見ているとします。その威容をリアリティをもって描こうとするならば、それを遠近法的な秩序の中で、整然と描くことが適した方法ではありません。山の形を表す筆致は大きく、荒々しく迫ってくるように描かなければなりません。そしてその筆致は、周囲の空間と地続きでありながらも、そこだけ隔絶したものでなければならないのです。その微妙な位置関係を表現するために、筆致と筆致の間にはわずかな余白が挟まれることになります。
これがセザンヌの絵画の晩年の表現方法であり、その過程でセザンヌの絵画に特徴的な「余白」の表現も生まれてきます。ちょっと話が横道に逸れますが、そのセザンヌの絵の「余白」をただ美しいものだと慨嘆し、「セザンヌの余白」を語ることでセザンヌの絵画をわかったように語る評論が、実はたくさんいます。特に私よりも年配の世代に多いのですが、そんな呑気な人たちの文章を読んでも、何も得ることはありません。そんなことに時間を使うくらいなら、前田さんの指摘する絵画と自然との「平行」関係への理解を深め、その間にある「深淵」についてセザンヌがどう探究したのか、丹念に彼の作品を見てみましょう。
さて、とりあえず今回はこんなところでしょうか。セザンヌに関する本を読むと、ついセザンヌのように描きたくなってしまうので困ります。本当にやらなければならないことは、私自身が「自然」と「絵画」との平行関係、その深淵についてどのように探究していくか、ということです。そして今回は、絵画表現のスタイルが、表現主義的であれ、抽象的であれ、そこには「真実」へと迫る表現があるはずだ、ということを再認識しました。これはセザンヌばかりでなく、モネの晩年の絵画にも感じていたことです。モネも、絵画の抽象化の度合いを深めるほどに、そこには鬼気迫る「真実」が表現されていました。そのことについて、前田さんの分析によってより具体的に考察することができそうです。
そして私は、あらゆる表現において「真実」へと迫るものであるのかどうか、が表現としての価値を決めていくのだろう、と思っています。その切実さが、私たちの眼を射るのです。表現の巧拙は、その次の問題だと私は考えています。皆さんはいかがでしょうか?