平らな深み、緩やかな時間

310.『河合悦子 展』について

今、このblogを書いていて、音楽家の坂本龍一さんが亡くなったというニュースが入ってきました。同じYMOの高橋幸宏さんが亡くなった記憶も生々しいところですが、こうした知らせが続くと言葉もありません。坂本さんは知識人としても責任ある発信をしていた方なので、その点でもショックです。最後まで、しっかりと音楽と向き合っていて、本当にみごとでした。

まだ頭が整理できず、何かを発信できる状態ではありませんが、長い闘病生活を経てのご逝去なので、ご冥福をお祈りするばかりです。



それでは、本題に入ります。

河合悦子さんの個展が開催されています。

 2023年4月9日(日)まで会期があります。くわしくは次のギャラリーのホームページをご覧ください。

http://tokiart.life.coocan.jp/2023/230328.html

そこに、次のような作家のコメントが書かれています。

 

人は五感に触れると記憶を呼び醒ます。

色彩もその一例だと思う

年と共に好きな色が変わり好きだった事さえ忘れて画箱にも無くなっていた。

「Recollection 」

初個展から20年以上過ぎ、今まで描いてきた作品を見直した事によって以前の色がまた戻ってきました。

巾広キャンバスも含め大小の油彩画をご高覧ください。

(トキ・アートスペースのホームページより)

 

また、作家のホームページもありますので、リンクを貼っておきます。

https://bitter-etsukokawai.ssl-lolipop.jp/

そこには、作家の基本的な制作の意志が書かれています。

 

油彩画 の質感、手触りを生かし、時間、物質の 堆積 を表現している。

素地には、内なる聲を聞くように、風景、草木や心情などを抽象的に捉えて、色彩豊かに描いている。

作品を見ていただく人に、画面(テクスチャー)の向こう側を感じてほしい。

(河合悦子のホームページより)

 

それから、2021年に河合さんはやはりトキ・アートスペースで個展を開催されました。これも、たいへん興味深い展覧会でした。その時のギャラリーのページのリンクも貼っておきます。

http://tokiart.life.coocan.jp/2021/210907.html

そしてその時に私はこのblogで、その展覧会について書きました。河合さんの作品が現代絵画の重要な問題に立ち向かうものであることを、私なりに解説したつもりです。拙い文章ですが、ぜひお読みください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/a2efb9164e0c25290eb3ac47762f8f39



さて、これらを確認していただくと、河合さんの作品がこれまでの現代絵画の文脈をしっかりと把握した上で、これからの絵画の方向性について、ご自身の表現を通じてある提案をしていることがわかります。その作品を鑑賞している私たちは、彼女の表現を自分なりに受け止めなくてはなりませんし、私のように文章を書いている人間ならば、そのことを明確な言葉として発する責任があるでしょう。

私は以前のblogで彼女の作品について、イタリアの画家でアルプスの風景などを題材として神秘的な絵画を残した画家、ジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini、1858 - 1899)を引き合いに出して、印象派的であると同時に象徴主義的でもあるこの画家の色の使い方と似ているのではないか、と書きました。それが次の文章です。

 

セガンティーニの作品は、モティーフそのものが象徴主義的な作品もありますが、事例として挙げた大原美術館の傑作は、一見すると普通の牧場の風景です。しかしよくみると、点描風の色使いの中に現実ではありえない色が混じっています。それはおそらく、印象派の光学的な理論では説明できないと思います。ですが彼のその色使いが、写実表現では描ききれないアルプスの澄んだ空気や高地の日差しを感じさせるのです。

現実にはありえない色を使うということに関しては、ゴーギャンの方が先進的だとも言えます。しかし、ゴーギャンの平滑な色使いでは、河合さんやセガンティーニのような「狂気」は表出しません。細かな筆致によって目の中でハレーションが起こっているような表現が、河合さんやセガンティーニに独特の力を与えているのです。

(私のblog『183.河合悦子 展』より)

 

ここで例示しているのは、大原美術館の『アルプスの真昼』という有名な作品です。

https://www.ohara.or.jp/collection_detail/?product_id=52

今回の展示では、河合さんはますますその色の使い方を先鋭化させているので、そのことについて考えてみましょう。その前にちょっとだけ、現代絵画の美術史的な流れについて復習しておきます。

 

以前のblogで私が書いた通り、現代絵画においては「絵画の平面性」が強調される傾向にありました。そのことをはっきりと指摘したのがアメリカの美術評論家クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)です。彼の言う通り、モダニズム絵画の巨匠と言われるパブロ・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)もアンリ・マティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)も絵画の平面性を追究しました。

そしてその傾向がエスカレートすれば、絵画は何もないただの平滑な色面になってしまいます。その傾向のことを「ミニマル・アート」と言いますが、これは同時期に芸術全般的に見られた傾向で、それを「ミニマリズム」と言ったのです。

次の解説をお読みください。

 

ミニマリズムは、1950年代後期〜60年代前半に出現し、美術、デザイン、音楽の領域で、非本質的なフォルム、特徴、概念を排して、欠くことのできない本質的なものを表現する傾向である。音楽では、フィリップ・グラス、スティーヴ・ライヒや、振付のイヴォンヌ・レイナーなどが挙げられる。ただしミニマリズムは、どの分野でも、共通して定義されたものではなく、近似の表現傾向と考えられる。

 美術では、「ミニマル・アート」として、表現がはらむメタファーを排したり、抽象性の極限化を通して、シンプルな幾何形体や物質性に注目した表現である。美術運動ではなく、60年代を通して行われた新しい抽象性を巡る論争であったとも言われる。フランク・ステラ、カール・アンドレ、ドナルド・ジャッド、ダン・フレヴィン、ロバート・モリス、ソル・ルウィットなどが代表的な作家である。

(『美術手帖/ミニマリズム』のページより)

https://bijutsutecho.com/artwiki/106

 

このblogを読んでいる方なら、私がこのような現代絵画の傾向に対して、言いたいことがいろいろとあることをご理解いただけるでしょう。この美術手帖の説明文にもありますが、「抽象性の極限化を通して、シンプルな幾何形体や物質性に注目した表現」を探求した作品が存在することについて、つまりミニマル・アートの作品について、私はその価値を否定するものではありません。しかし、現代絵画を志す作家がすべてそのような作品を制作しなければならない、というわけでもないでしょう。ところが私の若い頃には、そのような強迫観念のようなものがあって、現代美術の画廊に行くと、絵画といえばことごとくミニマルな作品ばかりが並んでいました。

その後、時代が変わって、突然そういう真面目な芸術的な探究など、どうでもいいと言うような「ポスト・モダン」と称する落書きのようなアートが美術市場に現れました。実際に「落書きアート」という言葉が世間的に流布されて、「ストリート・アート」出身の若いペインターが急に巨匠扱いされたのでした。私は彼らの作品が街角の壁にあれば、「お、迫力あるなあ」と足を止めて見惚れてしまうかもしれませんが、彼らの作品が美術館の壁にかけられてしまうと違和感を覚えてしまうものです。

現代絵画はそういう厳しい状況にあったのですが、その中でも誠実に絵画の可能性を探究した人たちがいました。河合さんの作品もその中の一人ということになりますが、河合さんと似たアプローチをされている作家に、佐川晃司さんという方がいます。私は昨年、佐川晃司さんが久々に東京のギャラリーで個展をされた際に、その感想をこのblogに書きました。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/2c6268e32c3b943dd23100319a391846

その中で、佐川さんのインタビュー記事について、次のように紹介しました。

 

佐川さんについて、とても興味深いホームページを見つけました。絵の具会社のホルベインが作っているページのようです。ぜひ、ご一読ください。

https://www.holbein.co.jp/dcms_media/other/bt_0901.pdf

このページの中で、ここまで私が書いてきたように、佐川さんが絵画を描き続けてきたことがいかに稀有なことであったのか、佐川さんの言葉も引用しながら書かれています。

(私のblog『214.佐川晃司 《絵画意識》から考えたこと』より)

 

さて、佐川さんと河合さんのアプローチですが、どのような点が共通しているのでしょうか?

それは二人とも、油絵の具の透明性と堅牢性を生かして、絵の具の下の層から上の層へと画像を変化させる多層的な表現をしていることです。佐川さんの絵画には、ミニマルな表層の画像の中に、奥行きのある豊かな風景が下層に隠されているのです。河合さんの絵画も、下層には奥行きのある画像が潜んでいることが感じられます。前回の展覧会で河合さんにお会いした時には、そこに具象的なモチーフが描かれていることを明かしてくれました。今回の作品では、その画像が何なのか容易にはわかりませんが、私は特にギャラリーの奥の左の壁の作品に注目しました。表面的には赤からオレンジ色に覆われた作品ですが、近寄ってみると毛羽だったマチエールの奥に青や黄色の絵の具の層が見えます。それが抽象的(?)で有機的な形象を生んでいて、見ていて飽きないのです。その隠された形象が、私には九州地方の古代装飾古墳のようにも見えて、想像が膨らんでいきます。

https://kofunkan.pref.kumamoto.jp/about/

おそらく、河合さんのような経験豊富な作家であっても、最終的にこのような見栄えにしようと思って出来た画像ではないでしょう。試行錯誤を重ねて、結果的にこのような生き生きとした画面にたどり着いたのだと思います。そうだとするなら、何かそこには人として表現する上での必然性のようなものを感じてしまいます。

私はこの作品が、現在の河合さんの探究成果の一つの頂点を示す、素晴らしい表現だと思うのです。

そして、この作品に限らず、河合さんの色彩表現が見る者の感情をざわめかせるのは、前回とも共通しています。この神秘的な色彩表現に関しても、河合さんは自覚的に表現を深めているようです。

特にギャラリーの入り口近くの左側の壁にかけられた小品の作品群には、その色彩表現を試すようなバリエーションを感じました。同じ色合いの作品は一点もありません。しかしそれらの作品が表現する神秘的な味わいは、共通しているのです。その中でも、中央右側の白っぽい緑色の作品は、河合さんならではの色彩表現だと思います。

 

そしてこの神秘的な色彩表現においては、河合さんの作品は佐川さんの表現と決定的に違ってきます。二人とも細かな色のタッチによって画面に重層性を持たせていることは共通しているのですが、その色彩がもたらす印象は対照的です。佐川さんの作品が、印象派から新印象派あたりの正統的な絵画を彷彿とさせるのに対し、河合さんの作品は先ほどから論じているようにセガンティーニに例えられるような、象徴主義的な心の闇を感じさせるのです。

おそらく佐川さんの作品は、モダニズムの絵画を正面から克服した正当性のあるものとして、美術史の上でしっかりと位置づけられることでしょう。現在でもそのような佐川さんへの批評を読むことができますが、将来的にはもっと大きくそのことが論じられるはずです。一方の河合さんの作品は、そのような美術史上の位置付けが難しい作品なのかもしれません。彼女の絵を見た時の不思議な感触を、言葉にすることがそれほど困難なのです。しかし、だからこそ河合さんの作品は絵画として表現されるだけの必然性があるのです。容易に言葉で表現できないからこそ、人は絵画を描くものだからです。そのような河合さんの作品に対して、それ相応の言葉で書き表すのは評論家の仕事でしょう。何とかうまく書き残したいものです。

 

さて、さらに今回、河合さんが意識的に試みている絵画の厚みについて、最後に考えておきましょう。河合さんはいくつかの作品で、箱のような厚みのある作品を展示しています。その作品の側面、上面、下面には、表面と同様のペイントが施されているのです。

今回のコメントで河合さんは次のように書いていました。

 

巾広キャンバスも含め大小の油彩画をご高覧ください。

(トキ・アートスペースのホームページより)

 

また、河合さんはご自身のホームページに次のように書かれていました。

 

作品を見ていただく人に、画面(テクスチャー)の向こう側を感じてほしい。

(河合悦子のホームページより)

 

河合さんは、絵画を表面上のものとしてだけではなく、その物質的な厚みについても意識して見て欲しいのだと思います。それで彼女は今回、「巾広キャンバス」という箱のような厚みのあるキャンバスを使って、絵画の表面以外にも描くことを試みたのだと思います。

このような試みについて、私たちはミニマル・アートの代表的な作家、ドナルド・ジャッド(Donald Clarence Judd 1928 - 1994)が書いた論文『SPECIFIC OBJECTS』を思い出巣ことができるでしょう。

その冒頭部分は次のとおりです。

 

Half or more of the best new work in the last few years has been neither painting nor sculpture. Usually it has been related, closely or distantly, to one or the other. The work is diverse, and much in it that is not in painting and sculpture is also diverse. But there are some things that occur nearly in common.

https://theoria.art-zoo.com/specific-objects-donald-judd/

 

ここ数年の最高の新作の半数以上は、絵画でも彫刻でもない。通常、それはどちらか一方と密接または距離をとって関連しています。作品は多岐にわたり、絵画や彫刻にはないものも多い。しかし、ほとんど共通していることがいくつかあります。

(『SPECIFIC OBJECTS』Donald Clarence Judd)

 

ドナルド・ジャッドは、1965年にこの論文を書きました。この時に彼は、絵画でも彫刻でもない、工業的な箱のような自分の作品が、これからの美術表現の新たなスタイルとなることを確信していたのだと思います。

https://www.artpedia.asia/donald-judd/

しかし、芸術作品の様式は、彼が思っていたものとは違っていました。「絵画」や「彫刻」は、実際の作品の形状やスタイルの問題ではなく、それは「絵画」を「絵画」として見なす私たちの内面的な制度の問題だったのです。

河合さんの今回の試みが興味深いのは、彼女が自分の作品をあくまで「絵画」であると見なしていることです。だからそれは「オブジェ」ではなくて、「巾広のキャンバス」という言い方になるのです。

彼女がこのような考え方に至ったのは、彼女の作品のマチエールの物質性と関わりがあるのだと思います。河合さんの作品のマチエールは、見方によっては絵画を逸脱したオブジェのようなものだとも言えるでしょう。しかし、それでも彼女の作品が「絵画」として見えるのは、表面に施されたペイントがしっかりとした内容のあるものだからです。河合さんの作品が重層的な画像をはらんでいるのは、まさにそのペイントの質によるものです。作品の形状から表面の処理まで、すべてを無機的な工業製品で覆ったドナルド・ジャッドの作品とは、根本的に構造が異なるのです。

河合さんの作品には独特の構造があって、あれほどの物質的なマチエールがありながら、それが絵画の一部として見えているのです。そしてそれならば、作品の表面のマチエールばかりでなく、支持体であるキャンバスの物質性はどうなるのか、と考えてみるのは自然なことなのかもしれません。普通に絵画を見る時には意識することのない絵画の側面をどう考えたら良いのか、いったん考え出すと気になってしまいます。そこで彼女は厚みのある、幅広のキャンバスを試みることにしたのでしょう。

このような厚みのある作品が、彼女の作品の構造として必要なものなのかどうか、私にはよくわかりません。しかし、側面にもペイントを施された作品に特に違和感もありませんでした。ところが一点だけ、表面、側面、上面、下面にそれぞれ別な色合いのペイントが施された作品がありましたが、この作品にはやや違和感がありました。それは箱型のオブジェと見做すべきなのか、絵画と見做すべきなのか、曖昧な感じがしたのです。絵画と見做すとすると、側面に表面とは異なる色が施されていると、白いペイントの形状が連続しているとはいえ、やはりそれは別の絵画を貼り合わせたものに見えてしまいます。絵画が立体的なオブジェに見えてしまったり、別々の絵画を立体的に貼り合わせたものとして見えてしまうことは、河合さんがやってみたいことと少し異なるのではないか、と感じました。

ただし、美術作品の形状から受ける印象は、作品の大きさや色合いとも密接に関係があります。例えば彼女の濃紺の作品は、イヴ・クライン(Yves Klein, 1928 - 1962)の「インターナショナル・クライン・ブルー」(International Klein Blue, IKB)を彷彿とさせました。青の独特の吸引力が視線を吸い込んでいくようで、何か不思議な感じがしました。

https://www.guggenheim.org/artwork/5638

このように色や形の問題は、ただの数値や割合に置き換えられないところがあって、具体的にどんな形、大きさで、どんな色を施したのかによって、まったく別の作品に見えてしまいます。だからこそ、手を動かしながら思考していくことが重要なことなのです。きっと河合さんは、これからも安易に答えを求めることなく、具体的な制作を通じて自分のしっくりとくる地点を探し続けるのだろう、と思います。

言葉でこう言うのは簡単ですが、河合さんの緻密な作品を見ると、その制作にともなう時間とエネルギーは相当なものだろうと予想がつきます。その意欲と作品との向き合い方には、ただただ頭が下がります。

わかりやすい発想の作品が評価されるこの時代に、このような真摯な姿勢の作家は貴重だと思います。問題なのは、そのことを伝える言葉が圧倒的に不足していることです。本当に頑張らなくてはならないのは、彼女のような作家ではなく、それを評価する人たちなのかもしれません。

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