平らな深み、緩やかな時間

255.『手の倫理』「距離マイナス」前回の補足です。

前回のblogでトキ・アートスペースで開催されている『触覚 手触りのかたち』という展覧会を取り上げました。

その展覧会をきっかけとして、『手の倫理』という伊藤亜紗さんの著作を読み直し、そこに書かれている「距離ゼロ」、「距離マイナス」という言葉について言及しました。しかし、展覧会の紹介の後での短い説明であったため、わかりにくかった点は否めません。

実は、これらの言葉のうちの「距離マイナス」という概念は、まさに私が絵を描く中で実現したいと思っている重要な考え方です。そこで今回は前回の補足として、「距離マイナス」という概念について、再度の説明を試みます。このことによって美術表現において「触覚性」を意識することがいかに重要であるのか、が理解していただけることと思います。

そして「触覚性」を意識して作品を鑑賞すれば、今回『触覚 手触りのかたち』という展覧会が試みた「作品に直接さわることができる」という鑑賞方法を経なくても、作品の触感を楽しむことができるはずです。もちろん、『触覚 手触りのかたち』が作品の「触覚性」を鑑賞者に意識してもらうために、作品に直接さわることを試みたことの意義は十分にあったと思います。このような展覧会を経験して、美術表現の「触覚性」について意識を高めた後ならば、視覚的な鑑賞であっても「距離マイナス」を実現することができるという話です。

考えてみると、ふつうの展覧会では作品に直接さわることはできないわけですから、作品にさわることによってだけ、作品の「触覚性」を感受できるという鑑賞のあり方では、せっかくのこの展覧会の意義が活かされません。「触覚」という感覚を意識して、つねに視覚と触覚、あるいはそれ以外の感覚を連動して作品を鑑賞したいものです。

それは難しいことではありません。作品を見るときに頭で考え過ぎずに、自分の中の自然な感覚について、ちょっとだけ敏感になれば良いのです。カッコ良く言えば、「自分の感覚を研ぎ澄ます」という言い方になるのでしょうが、それはむしろ当たり前のことで、「現代美術」というと、とかく理屈っぽく考えがちですので、その偏向を正常な状態に戻せば良いのです。そのことについて、これから説明しますので、ちょっとだけお付き合いください。

 

以前のblogでも取り上げたことですが、伊藤亜紗さんは『手の倫理』の「序」の章の一番最初に、日本語の「さわる」と「ふれる」の違いについて説明しています。伊藤さんの説明はわかりやすいので、全文を紹介したいところですが、そうもいかないので、部分的に抜き書きします。

 

英語にするとどちらも「touch」ですが、それぞれ微妙にニュアンスが異なっています。

たとえば、怪我をした場面を考えてみましょう。傷口に「さわる」というと、何だか痛そうな感じがします。さわってほしくなくて、思わず患部を引っ込めたくなる。

では「ふれる」だとどうでしょうか。傷口に「ふれる」というと、状態をみたり、薬をつけたり、さすったり、そっと手当てをしてもらえそうなイメージを持ちます。

(『手の倫理』「序」伊藤亜紗)

 

とてもわかりやすい説明なので、解釈不要ですね。この「さわる」と「ふれる」の違いに注目した哲学者に坂部 恵(さかべ めぐみ、男性、1936 - 2009)という人がいます。坂部さんの説明を伊藤さんは引用してこのように書いています。

 

哲学の立場からこの違いに注目したのが坂部恵です。坂部は、その違いをこんなふうに論じています。

 

愛する人の体にふれること、単にたとえば電車のなかで痴漢が見ず知らずの異性の体にさわることは、いうまでもなく同じ位相における体験ないし行動ではない。

一言でいえば、ふれるという体験にある相互嵌入(そうごかんにゅう/たがいにはめ込むこと)の契機、ふれることは直ちにふれ合うことに通じるという相互性の契機、あるいはまたふれるということが、いわば自己を超えてあふれ出て、他者のいのちにふれ合い、参入するという契機が、さわるということの場合には抜け落ちて、ここでは内・外、自・他、受動・能動、一言でいってさわるものとさわられるものの区別がはっきりしてくるのである。

 

「ふれる」が相互的であるのに対し、「さわる」は一方的である。ひとことで言えば、これが坂部の主張です。

言い換えれば、「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり、ということになるでしょう。そこにいのちをいつくしむような人間的なかかわりがある場合には、それは「ふれる」であり、おのずと「ふれ合い」に通じていきます。逆に物としての特徴や性質を確認したり、味わったりするときには、そこには相互性は生まれず、ただの「さわる」にとどまります。

(『手の倫理』「序」伊藤亜紗)

 

この説明で、だいたい「さわる」と「ふれる」の微妙な違いについて理解できたと思います。そして私たちが注目したいのは、「相互嵌入」という難しい言葉で坂部さんが、その後に伊藤さんが表現しようとした触覚の不思議な作用です。

 

前回のblogで、私は触覚が視覚に比べて劣った感覚であると、歴史的に認識されてきたことを紹介しました。その理由は、触覚が対象と直接的に接することで感受する感覚で、対象と距離を置くことのできる視覚に比べて、理性的な判断ができなくなるからだということでした。西欧の思想が近代思想にまで発展していくなかで、客観的で理性的な判断力が重視されてきて、対象物を客観的に眺められる視覚が重んじられてきたのは当然の流れでした。対象と直接接することで対象物を感受する触覚は、対象からの影響を受けやすく、重要な判断が必要なときには避けられてしまうのも、これも当然の流れだと言えます。

その触覚の中でも、「さわる」という言葉であらわされる触覚性は、対象物を物として認識して一方的に「さわる」ので、少しだけ客観的な感じがします。しかし「ふれる」という言葉には、対象物との相互性が表現されていて、客観的で理性的な判断から、さらに遠ざかってしまいます。

 

ここで、ちょっと大袈裟な言い方をします。

近代思想が行き詰まりを見せている現在、今まで疎んじられてきた「触覚」を注目すべきだと心ある人たちが言い始めました。その「触覚」の中でも、一方的に「さわる」という感性よりも、相互に影響し合う「ふれる」という感性が重要なのだ、と坂部さんも伊藤さんも言っているのです。特に伊藤さんは介護や福祉という現代的な諸問題から、そのような問題提起をしているのですが、私たちはその提起に共感しつつ、私たちが取り組んでいる芸術表現においても、その考え方が重要性を持っているのではないか、と考えるのです。

 

そしてその重要なキーワードである「相互嵌入」ですが、これはふれ合ったもの同士が、互いに相手のことを感じるだけでなく、その一部になってしまったような、そんな不思議な感覚のことを言い表した言葉なのです。さらに興味深いことには、伊藤さんはこの「相互嵌入」の状態が、直接対象物にふれている時よりも、むしろ間接的にふれているとき、あるいは距離をとってふれているときの方が起こりやすいのではないか、と言っています。

なぜならば、直接対象物にふれているときには、私たちは物理的な表面、人間で言えば「皮膚」という物理的なものの制限を受けています。物理的な影響関係が強いので、それ以上の影響関係に発展しにくいのです。しかし間接的に、例えば道具を介して相手の力を感じるときには、私たちは「皮膚」はもちろんのこと、「筋肉」や「骨格」、それらをつなぐ「神経」、つまり全身の感覚で相手の力を読み取ることになります。そのときに、相手の力だけでなく、相手の意志や感情、それ以外にも相手の疲労度、場合によっては年齢や性別まで感じ取ることがあるかもしれません。その例を後でご紹介します。

伊藤さんは、ここでラグビーのスクラムを例に説明しています。もしも私たちがスクラムの中に入るとすると、私が直接ふれているのは前の味方選手のお尻であり、そのお尻を私の肩や首で受け止めているのです。物理的には、そのような単純なふれ合いですが、実際には私は相手のチームと味方のチームの力関係、味方のチームがどんなふうに相手を押し込もうとしていて、それがどれほどうまくいっているのか、ということと同時に相手のチームがどのように攻めているのか、ということまで感受します。味方と相手の力関係だけでなく、そこに流れる意志や感情を感受し、さらにそれらが相互に影響し合っているのです。このように自分自身がスクラムの一部となるような状態のことを「相互嵌入」と言うのでしょう。

このスクラムの例は人間同士のことなので「相互嵌入」という概念もわかりやすいのですが、相手が人間ではなくて、物だったらどうでしょうか。伊藤さんはセーリングを例にして、次のように書いています。

 

あるいは、「奥にある流れをとらえる」という意味では、触覚がとらえるのは、必ずしも命あるものの動きだけではないように思います。たとえば、同じスポーツでもセーリングは、自然そのものと触覚的に関わる種目であると言えます。

9歳でセーリングを始め、現在は研究者の立場からセーリングに関わっている久保秀明さんによれば、セーラーは体に直接風が当たっていなくても、いま風がどのように動いているかが分かる、と言います。達人レベルになると、船室で寝ていても「いまの風に見合うような加速がないな」などと一瞬で気がつくことができるそう。つまり、セーラーは船室にいながら、海、そして船体を通して、自分を取り囲む大きな風の動きにふれているのです。海や船が透明化する、まさに「奥にある動きを感じる触覚」です。

しかも相手は風ですから、動きはより複雑に、三次元的に感じ取らなくてはなりません。お尻で感じる船の挙動や加速感、さらにはロープから伝わる帆の張り具合などを通じて、風がどこから吹いて来ているのかを感じ取るのです。競技用の船では、帆の表と裏に同じように風が流れていることが重要になります。表と裏のバランスが悪いと帆がバサバサと振動してしまうので、ロープを通じて、そうなっていないかを確認します。

ラグビーと少し違うのは、船の感じを切った瞬間にすぐ効くわけではない、ということです。セーリングには「当て舵」という発想があり、波の動きや傾きを読んで小刻みに舵を当て、船がフラフラと前後左右に傾くのをふせぎます。ところが、この当て舵をするのに、舵を切ってからボディがその操作に従うためのタイムラグを考慮に入れなければなりません。

久保田さんによれば、そのタイムラグは、およそ0.5秒から1秒とのこと(どのくらい敏感に反応するかは、船が走っているスピードや重さによって変わるそうです)。つまり、反応にかかる時間も加味して、風や波の動きを予想しながら、先回りして舵を切らなければならないのです。セーリングはこのように「ディレイを含み込んだ触覚のスポーツ」であると言えます。

(『手の倫理』「第2章 触覚」)

 

この高度な触覚的な感性を読んで、どのように感じますか?触覚は視覚よりも劣っている、などとはとても言えません。しかし、このようなことに気づくには、伊藤さんのていねいなものの見方と説明が必要です。もしかしたら、私たちは日常的にセーラーと似たようなことを感受して、働いたり、生活したりしているのかもしれません。しかしそれがあまりに何気なくて、その割には複雑過ぎて、なかなか言葉にできないのです。だから伊藤さんのような優れた研究者が必要なのです。

たぶん、美術表現を行なっている人なら、このような物とのやり取りを制作のたびにしていることでしょう。素材の声を聞かなれば、良い作品はできません。それにセーラーにとって重要な要素であるボート操作の「タイムラグ」ですが、私たちは制作するときに絵の具をはじめとした素材が、制作後に時間を置くと制作時と変化してしまうことを絶えず意識していますから、これも実は日常的に意識しているのです。

このように、美術表現者は触覚の「相互嵌入」を、実は気づかないうちに日々感じながら制作しているのですが、それでは鑑賞者の場合はどうでしょうか。直接素材とふれることなく、ただ外側から距離をとって眺めている鑑賞者には触覚的な「相互嵌入」は起こり得るのでしょうか。

この「距離」の問題について、伊藤さんはあるイベントでの、振付家・ダンサーの砂連尾理(じゃれおおさむ)さんと小児科医で脳性麻痺の当事者でもある熊谷晋一郎さんの行なったデモンストレーションを取り上げています。熊谷さんは車椅子に乗った方ですが、二人が2メートルほどの木製の棒の端を持って、互いに押したり引いたりする、というデモンストレーションを行いました。そのことについて、伊藤さんはこう書いています。

 

ここで二人は、直接相手の体にふれるのではなく、棒を介して相手に間接的にふれています。しかし、そうすることによって、「手の表面の奥側にあるものが、もっと露わになった」と砂連尾は言います。まさに距離をとることによって、中に入ることができた。もちろん、相手の体に直接ふれることによって得られる情報もあるでしょう。けれども、棒をあいだに挟むことでやりとりの自由度が限定され、かつ肌ざわりなど表面についての情報が入ってこなくなります。その結果、逆説的にも、その奥にあるものに到達しやすくなっているのです。

(『手の倫理』「第2章 触覚」)

 

この文章の「自由度が限定」されることで、「逆説的にも、その奥にあるものに到達しやすくなっている」という言葉を頭に入れておきましょう。

これらの考察が、私が文頭で掲げた「距離ゼロ」、「距離マイナス」とどのようにつながっているのか、伊藤さんのまとめを読んでみましょう。

 

ただし、こうした西洋の触覚論は、基本的に「さわる」を念頭においた議論であり、「ふれる」への言及がほとんどありません。そこで本章の後半では、三つの特徴のうち最初の「距離ゼロ」をとりあげ、「ふれる」場面を念頭におきながら、検討しなおしました。その結果見えてきたのは、触覚が実は「距離ゼロ」ではなく「距離マイナス」であること、つまり、対象の内部にある動きや流れを感じ取る感覚である、ということでした。

(『手の倫理』「第2章 触覚」)

 

ここまでの話をまとめましょう。触覚は対象物とふれること、つまり「距離ゼロ」において対象物を感受する感覚ですが、実はその時に対象物の表面ばかりでなく、対象物の内側の動きや流れまで感受することができるということがわかりました。対象物と直接ふれてその表面を感受する状態が「距離ゼロ」とするならば、対象物の内側に入り込んで感受する状態、つまり「相互嵌入」の状態は「距離マイナス」である、ということができます。

さらに興味深いのは、「相互嵌入」=「距離マイナス」の状態というのは、直接対象物に触れているときよりも、物理的な距離を置いて条件が限定されているときの方が起こりやすいということです。

 

とするならば、私は美術作品を距離を置いて鑑賞する場面においても、「相互嵌入」=「距離マイナス」の状態を作り出すことが可能ではないか、と考えています。残念ながら、そこまで言及した研究書は今のところ見つかっていません。伊藤亜紗さんの『手の倫理』は美術書ではありませんし、前回ご紹介した高村峰生さんの『触れることのモダニティ』も、そこまで突き詰めた著書ではありません。ただ、両方とも私たちの探究の入り口を示唆するものであり、そういうことに注目している研究者がいることは、たいへんに心強く、また貴重なことでもあります。

 

それでは、私たちがこれから探究していくべきことは、どんなことでしょうか?それは視覚と触覚、あるいはそれ以外の感覚がどのように連動しているのかを知ることであり、その連動をうながすような表現を実現することです。私が考えるところでは、すでに表現者たちはそのことを実現していると思います。ただ、それがちょっとわかりにくくて、そのことを語る批評の言葉がないのです。

本当は、表現者が「距離マイナス」となるような作品を作っていて、無垢な鑑賞者はそのことを全身の感覚で感受しているのに、批評の言葉が貧しいために、理屈っぽく考えれば考えるほと、「距離マイナス」から遠ざかってしまう、というのが現状ではないでしょうか?この現状を打破するには、まず「触覚」という感覚への意識を高めることが必要であり、今回の『触覚 手触りのかたち』のような展覧会が、もっといろんなところで試みられていくべきなのです。もちろん、それは実際に作品にふれることができる、という方法にこだわりません。私たちの中で眠っている「触覚」的な感性を覚醒できれば良いのです。

 

僭越ですが、私の「触覚性絵画」も、その試みの一つです。このところ、毎回、テキストを添えた展覧会を開催しています。この触覚性へのアプローチは、その試みの一つ一つが小さなものであっても、いずれは美術表現の可能性を大きく広げることになるはずです。

私はその可能性について、まったく疑っていません。美術表現に関わる作家、鑑賞者、批評家、それぞれがちょっとずつ意識を高めることで、それを実現することが可能なのです。『触覚 手触りのかたち』展も、その小さな一歩にあたると思いますが、その成果ははかり知れないものがあると思います。

誰もいまだに語り得ないものだからこそ、試みる価値があります。そう思いませんか?

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