平らな深み、緩やかな時間

254.『触覚 手触りのかたち』トキ・アートスペースについて

10月2日の日曜日まで東京都渋谷区神宮前の「トキ・アートスペース」で、『手触りのかたち』という展覧会が開催されています。

http://tokiart.life.coocan.jp/2022/220927.html

上記ホームページより、情報を書き写しておきます。企画のコメントなど、全てコピーしたいところですが、それでは申し訳ないので一部省略させていただきます。上記ホームページをご覧になれば、原文を読むことができます。

 

『触覚 手触り(てざわり)のかたち』

 2022年9月27日(火)〜10月2日(日)

12:00-19:00 (最終日17:00まで)

 

<企画に関するコメント>

 美術鑑賞において、作品を見ることを考える。より作品を見る為に雑念を排除し五感を働かせて鑑賞するように言われることがある。五感とは、視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚を指す。しかし、美術鑑賞においては、ほぼ視覚に頼っているように私は思う。

<中略>作者が感じたことを感じ、作品を取り巻く空間を感じることができれば、もっと美術作品を鑑賞できると思う。しかし、美術館やギャラリーでは作品の保全のため作品に触ることができない場合がほとんどである。

 この展覧会では、五感の一つである『触覚』を刺激することを考えてみたい。何かに触れることで、形、素材、固さ、温度等、作品が内包するたくさんの情報を与えてくれる。<中略>彫刻では、触ることで形や素材感等たくさんの情報を得られる、絵画においても画面のマチエールは画家の思想など制作の一端を感じられると私は思う。

<中略>美術作品をより深く鑑賞し、作品の本質に触れるために視覚に加え、触覚が人の心の根底に投げかけ、健全な人間性を保つために必要であると私は考える。今回の展示は美鑑賞の一つとして提案します。

 

<参加作家>

浅野彌弦 (絵画系諸材料) 東京造形大学 卒

阿部靖道 (石) 多摩美術大学彫刻科 卒

四家真理子 (石) 多摩美術大学彫刻科 卒

野津俊道 (諸材料) 多摩美術大学彫刻科 卒

森哲弥 (ポリエステル樹脂) 多摩美術大学彫刻科 卒

川西紗実 (紙) Sophia University Sociology 卒

(「トキ・アートスペース」ホームページより)

 

以上のような案内が書かれていますが、簡単に作品の紹介をしておきます。

 

浅野さんの作品はタブロー作品ですが、ほぼ単一の色彩の上に細やかな抽象的な描写が施されています。以前の作品が掲載されているリンクを見つけました。

http://artplacek.sakura.ne.jp/1210asano.html

このリンクの作品よりも、もっと画面構成がシンプルになっていて、私は緩やかな陰影描写のようにも、あるいは毛細血管のようにも見えました。マクロな画面の広がりと、ミクロな描写とが同居している不思議な絵画です。

 

阿部さんの作品は、重たい石が軽やかなループを描いている彫刻作品です。今回の作品と共通する作品の写真があるリンクを見つけました。

https://www.ishimaga.com/4091

この展示では作品を触って良いことになっているので、試しに触ってみると冷たい石の感触がありました。素材の重量と形体の軽やかさと、そのミスマッチがユニークな作品です。

 

四家さんの作品も、阿部さんと同じリンクを見つけました。

https://www.ishimaga.com/4145

四家さんの作品は、小さくて有機的な形が繋がっているのですが、それがモコモコと伸びたり、動いたりするように見えます。しかし触ってみると、やはり冷たい石の感触があります。

阿部さんの作品にしろ、四家さんの作品にしろ、お手軽な工業的な素材で作ってしまうと簡単に形ができそうですが、それではアイデアだけの作品になってしまいそうです。石の重くて冷たい触感と、形の軽さや有機性とが出会うことで、不思議な感覚を見る者に与えているように思います。

 

野津さんの作品は、逆に素材を選ばず、イメージをそのまま立体に置き換えたような作品です。参考にできそうな画像が見つかりませんでしたが、中華鍋や木の枝、小さな人の形などが自由に組み合わせて、夢の画像が現実の空間に現れたような作品でした。細工が細やかで、触っていいということでしたが、壊してしまいそうで触れませんでした。視覚的に鑑賞しても、十分に触覚性を感じさせる作品です。

 

森さんの作品は、今回の作品展についてツイートしている写真の手前に見える作品が、多分森さんの作品です。

https://mobile.twitter.com/mori89268861

オーソドックスな彫刻のように見えて、素材がポリエステル樹脂というところに意表を突かれました。森さんのデッサンも展示されていましたが、平面と立体の関係について、真剣に試行錯誤していることがわかりました。立体作品はポリエステル樹脂ですから、色や触感などある程度は自由に表現できるのだろうと思いますが、あえて大理石のような、つまり彫刻のような仕上がりにとどめているようです。そこには立体表現の意味を突き詰めたい、という意図があったのでしょうか?私にはそう見えました。

 

川西さんの作品ですが、まずは昨年の「トキ・アートスペース」のリンクをご覧ください。

http://tokiart.life.coocan.jp/2021/210322.html

今回の作品は、このリンクの写真よりも、もっと紙の質感の変化が強く現れています。このような平面的な作品と、コーナーに掛かるように設置された作品と、天井からぶら下げられた立体的な作品と、3点が展示されていました。作品のまとまりとしては平面的な作品が良いと思いますが、彼女の表現力の源は立体作品の自由な表現にあるようです。紙の質感への感性が、さらに敏感になっている背景には、作品の型にこだわらない、川西さんの自由な思考が作用しているのだと思います。素材と触れ合いながら、その時の自分の指向性が見えてきて、それをちゃんと捉えることができるのが、川西さんの才能だと思います。出来上がった作品が、お手軽な言葉で説明できないものであっても、気にせずにどんどん前に進んでいっていただきたいものです。

 

以上、作品写真も撮らずに、画廊にお伺いした時の記憶だけで書いているので、間違いや混乱があったらご指摘ください。それから、川西さん以外の方々の作品をこれまで見てきていなかったので、個々の作品への踏み込んだ批評は書けませんでした。しかし、この展覧会の企画意図については、十分に共感できるものがあります。

それに「触覚」という観点で表現形式の異なる作品が並んだことで、それぞれの作品の個性がくっきりと見えていたように思います。例えば、川西さんの作品は、立体的な形状をしていましたが、平面の連なりという点で絵画的な見え方をしていましたし、阿部さんと四家さんの作品がいかに軽やかで既成の彫刻らしからぬ形状をしていたとしても、やはり石の圧倒的な存在感が際立っていました。

 

このようなユニークな展覧会のキーワードである「触感」について、蛇足ではありますが私の思うところを書いておこうと思います。私自身が「触覚性絵画」などと自分の作品を規定して制作しているので、このblogを読んでいただいている方には馴染みの話になりますが、ちょっとだけお付き合いいただければ幸いです。

 

まずは美術作品と触覚性について、正面から論じた本について紹介しておきます。『触れることのモダニティ』という、高村峰生さんという研究者が書いた著作です。私は以前、この本の紹介を書いたことがあります。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/082d79d46b701c761eb98de6c182fd39

この本は4つの章に分かれていて、ロレンス(David Herbert Richards Lawrence, 1885 - 1930)、スティーグリッツ(Alfred Stieglitz, 1864 - 1946)、ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin1892- 1940)、メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)の4人の小説家、写真家、批評家、学者が取り上げられています。興味がある方は、ぜひ読んでみることをお薦めしますが、今回は展覧会の内容と繋がりそうなところを取り上げてみます。

はじめに著者の高村さんは、この本のねらいについて「序論」の中で次のように書いていますので、読んでみてください。

 

ウィリアムズ(William Carlos Williams、1883 - 1963/アメリカ合衆国の詩人)の言葉によって示唆されているような、触覚とモダニズムの交錯について考察することが本書の目的である。

もちろん、触覚は普遍的な身体感覚である。私たちは日常生活の中で常に何かに触れながら生活をしている。扉を開ける、ページをめくる、キーボードをたたく、コップを持つ。こうした「手」による動作だけではない。イスに座ったり、外を歩いたりといった行動も触覚抜きにすることはできない。そもそも私たちの皮膚や内臓器官が正常に機能するのも、モノの接触を私たちの身体が受け止めているからにほかならない。胃は食べ物が口から食道を通って入ってくることによる刺激を信号として受け止めて働き出すし、皮膚が強い圧力を感じて「痛み」の感覚を脳に伝えるのは、それによって身体を崩壊から守るためである。触覚は生きることそのものと深く結びついている普遍的な感覚であると言える。

しかし、触覚の生気論的、あるいは原初的な含意は、モダニズムの時代における言説にユニークな影響を与えたのであり、そのことは歴史的に検討されなければならない。触覚は生物にとって必要不可欠な感覚として常に存在していたとしても、それはどのように捉えられ表現されるかという問題には必ず歴史的な意義が存在している。20世紀前半は西洋の触覚言説において決定的に重要な時期であった。

(『触れることのモダニティ』「序論」高村峰生)   

 

触覚が私たちが生きていく上で重要な感覚であることが書かれています。それに、私たちは必ずしも意識していないことですが、例えば食べ物を消化するということにおいても、触覚は大切な役割を果たしているのです。そして20世紀前半はその触覚を語る上で決定的な時期であった、と書かれています。

しかし、果たして私たちにそういう認識があるでしょうか?この展覧会のコメントの中にも「しかし、美術鑑賞においては、ほぼ視覚に頼っているように私は思う」と書かれていました。触覚は重要な感覚なのに、どうしてこうなってしまうのでしょうか?『触れることのモダニティ』のページをめくると、次のように書いてあります。

 

ところで、本書が西洋のモダニズムにおける触覚の重要性を強調するのは一見して奇妙なことに映るかもしれない。西洋文明においては、触覚ではなく視覚がもっとも重要な感覚であるとみなされてきたからだ。プラトンやアリストテレスのようなギリシアの哲学者たちは、他の感覚器官に対する視覚の優位を確立した。

(『触れることのモダニティ』「序論」高村峰生)

 

この、諸感覚における視覚の優位性はさまざまな本に書かれていて、いちいち拾うのが面倒なほどです。そして心ある研究者や芸術家たちが、それは違うぞ!ということを言いたくて触覚性を重視している言葉や表現を発しているのです。この『触れることのモダニティ』という本がそうですし、今回の『触覚 手触りのかたち』という展覧会も、図らずもそのような動向の興味深い一端を担っているのではないでしょうか。

 

この触覚軽視、視覚優位の傾向について、もう一冊、参考となる本を紹介したいと思います。それは伊藤亜紗さんという研究者の書いた『手の倫理』という本です。この本も、以前に私は紹介している本です。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/8f0cd919dcea13ce56408a0b98106ed9

その「第2章 触覚」には、次のように書かれています。

 

西洋哲学の文脈において触覚がどのように理解されてきたかを知るうえで、まずおさえておきたいのは、そもそも触覚が伝統的に「劣った感覚」として位置づけられてきた、ということです。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。人間は五つの感覚を持つと言われています。もっとも、目で見るだけでも物の質感を感じることができますし、一部の人は音に色を感じる(共感覚)など、五つの区別はそれほど明確ではありません。ですが、その問題にはひとまずここでは立ち入らないようにしましょう。便宜的に五つに分けるとして、しかし、これらは決して対等ではなかったのです。

感覚のヒエラルキーの最上位に位置するのは、ご想像のとおり、視覚です。視覚がより精神的な感覚だと考えられたから。それぞれの感覚が持つ(と人々が考えた)特性にしたがって、ヒエラルキーが与えられているのです。

視覚が精神的な感覚であり、それゆえ最上位に位置すると考えられていたことは、たとえばプラトンの「イデア」論を見ればあきらかです。イデアという語はギリシャ語「イデイン」、すなわち「見る」に由来しています。認識の本質は、とりもなおさず「見る」ことにあると考えられていたのです。

ただし、イデアを見るのは生理的な目ではありません。それは魂が霊界にいるときに見ていたものであって、体を持った人間の認識は、不完全ながらそれを想起することによって成立している、とされるのです。プラトンは逆に、敵対するソフィストたちを「抵抗感とか接触感とかいったものを与えてくれるものしかありはしないのだと言い張」ると、触覚に結び付けて批判しています。

なぜ、触覚は劣っているのか。まずあげられるのは「距離のなさ」です。視覚であれば、対象から離れているので、対象から自己を切り離して、理性的に分析したり、判断したりすることが可能です。ところが触覚にはそうした距離がない。触覚は対象に物理的に接触することなしには、認知が成立しないからです。ゆえに自己の欲望や快不快に直結してしまう。感覚のヒエラルキーは、大きく分けて視覚と聴覚が上位、嗅覚、味覚、触覚が下位に分けられますが、この二つのグループの線引きとなっているのが、まさにこの距離の問題なのです。

(『手の倫理』「第2章 触覚」伊藤亜紗)

 

ちょっと長い引用で申し訳ありませんが、触覚が対象との距離感が近い、ということで視覚よりも劣っていると考えられてきた、というところまで読んでいただきたかったのです。それはこの点が、まさに表現における触覚性を考える上で、私が重要だと考えているからなのです。距離が近いということは、理性的な分析や判断をする上では不利な条件となります。しかし、それは裏を返せば鑑賞者の心の内側に、つまり理性を超えた感性に、直接訴える表現の領域において「触覚」はたいへん重要な感覚であることを示しています。

この「触覚」と「距離」との関係について、高村さんも伊藤さんも、とても興味深いことを書いています。高村さんは哲学者のメルロ=ポンティが掲げた「キアスム」という概念を通じてこのように書いています。

 

メルロ=ポンティは「肉」という概念を、身体のあらゆる客観的な分節化に先立つ匿名的な身体性のモードを指し示すのに用いており、「肉の世界」という概念によってそれが世界と切り離せないことを強調している。肉体と世界の相互依存的な不可分な「絡み合った」関係性をメルロ=ポンティは「キアスム」と呼んでいるが、このような「肉」の匿名性や「キアスム(絡み合い)」に特徴づけられる彼の身体の哲学は、現象学の伝統的方法から逸脱している。ときにそれは現象学的厳密さを失い、ある種の神秘主義へと傾くリスクを冒しているが、そのようなものにこそ、本書が一貫して探求している歴史的言説としての触覚性がよく表出しているのである。

(『触れることのモダニティ』「第四章 触覚的な時間と空間」高村峰生)

 

この肉の絡み合い(キアスム)こそ、今回の展覧会の「触れる」ことと関わってくると私は考えます。作家によって表現された作品の触覚性は、表現者の触覚の反映でもあり、鑑賞者がその作品に触れることは、両者の触覚性が作品の上で交錯することになるからです。それはまさに、表現者と鑑賞者の「触覚性」の「絡み合い」ではないでしょうか。

メルロ=ポンティは、この「キアスム」の事例として、一人の人間の右手と左手の触れ合いを挙げていて、そこには右手と左手の相互の感覚の乗り入れがあるのではなくて、瞬間的な触知の移行があるというふうに考えていたようです。私たちが自分の身体のどこかに触れる時に、感覚的な混乱を起こしたりしません。そこには触覚の受け渡しがあるのです。しかしこの事例で止まったことは、メルロ=ポンティの時代における身体論の限界であったのかもしれません。

これに対し、伊藤亜紗さんはもっと興味深い事例を挙げています。メルロ=ポンティの触覚への考察は、自分が他のものに「さわる」ことを前提としていますが、伊藤さんは「ふれる」という言葉を用いて、触覚について別な見方を提案しています。ここで詳しく説明することはできませんが、例えば「ふれる」という言葉には「ふれあい」という他者と共有するような感触があることを確認しておきましょう。そして他者と「触れ合う」時には、必ずしも直接、相手と接触していなくても触れ合うことができます。何か道具を介在して、相手との感覚を共有することも可能なのです。直接的な接触がなくても、「触れ合う」ことは可能です。

伊藤さんは、ここでラグビーのスクラムや船のセーリングの事例を挙げてそれを説明しています。ラグビーのスクラムでは、すべての選手が自分の味方や対戦相手の意志を感じながらプレーするのだそうです。直接、相手の選手に触れているのかどうかは、問題ではありません。また、セーリングのセーラーは船室に居ながらでも、その時の風の向きや強さを感じるのだそうです。自分の身体で風を受ける必要はないのです。

 

さて、このように「ふれる」触覚は、物理的には「距離ゼロ」で相手の体に接触するとしても、知覚はその表面にとどまらず、「内にはいりこむ」性質を持っています。このことは、裏をかえせば、「ふれる」は物理的に距離があるほど、つまり相手の体との接触が間接的であればあるほど、表面の知覚にまどわされずに、純粋に内にはいりこんでいける、という可能性を示唆しています。距離があるほど、逆説的にも入っていけるのです。

(『手の倫理』「触覚」伊藤亜紗)

 

この「逆説的にも入っていける」ことを、伊藤さんは後の文章で「距離マイナス」という言い方をしています。これはとても面白いことではありませんか?鑑賞者が作品に入り込むことで、「距離マイナス」の地点で作品を感受できたとしたら、これほど表現として強いものはないのではないでしょうか。

私はこの「距離マイナス」を目指して、日々作品を制作していますが、もちろん、簡単に実現できるものではありません。そして、このような作者と作品と鑑賞者の関係を築くためには、鑑賞者の方にも少し歩み寄っていただく必要があります。作品の表面だけを見て、それが美しいかどうか判断されてしまえば、どんな工夫も役に立ちません。作品を見る方にも視覚だけに頼らない、全身で作品を楽しむようなイメージが必要なのです。

 

話が長くなりましたが、今回の『触覚 手触りのかたち』は、そのように感覚を解放して作品を鑑賞することへの、一つのステップになるようなことを試みだと思います。作品との距離があっても触覚的な鑑賞は可能ですが、一足飛びにその地点に行くのではなくて、実際に作品に触れることで、視覚と触覚の相互の感覚を呼びさまして、徐々にすべての感覚を連動していく、そんな体験が今の美術の世界には必要なのかもしれません。

 

それから、高村さんの研究を読むと、芸術表現における「触覚」の重要性が見直されていることを感じます。あるいは伊藤さんの著作を読むと、障がいのある方への介護体験などを通して、「触覚」の持つ新たな認識が日々更新されていることがわかります。伊藤さんの本は一般書として広く読まれていますから、「触覚性」に興味を持たれたなら、そのうちのどれか一冊を手に取ってみることをお薦めします。介護の専門書だと思って読み始めたら、目から鱗が落ちるような体験をするかもしれません。

 

そして最後に、街角の一つのギャラリーから、このような新しい世界への扉が開かれていることを、多くの方に確認していただきたいです。ふだん、絵画や彫刻などジャンルを決めて作品を見ていらっしゃる方にも、その垣根を超えて見ていただきたい展覧会です。できれば、個々の作品の品定めに終始しないで、作品が並んでいることの相乗効果に目を向けてみてください。私は、継続して作品を見せていただいている川西さんの作品が、あらためて絵画的に見えたことに新鮮な驚きを感じました。皆さんがそれぞれに注目している作家の作品は、どんなふうに見えるのでしょうか?

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