前々回に続いて、生物学者の福岡伸一さんの著書について考えます。
今回は『最後の講義』という講義録と『動的平衡』という新書の二冊を取り上げます。『最後の講義』で福岡さんはかなり説明を整理して、かつわかりやすく語っています。もしもあなたが福岡さんの本を読んだことがなかったら、まずはこの『最後の講義』に目を通すことをおすすめします。そしてさらに必要に応じて『動的平衡』を参照するとよいと思います。
そういえば11月6日(水)に、この講義を阿川佐和子さんの解説とともにコンパクトにまとめたテレビ番組をNHKのEテレで放送していました。13日(水)午後10時ごろまでNHKプラスで視聴可能で、さらに12日(火) 午後2:35から再放送があるようです。
https://www.nhk.jp/p/ts/4N7KX1GKN7/episode/te/W5L7PKPMMN/
また、前々回もご紹介した福岡さんの公式サイトを見ると、「動的平衡」の考え方がビジュアルにわかります。もう一度、リンクを貼っておきます。
生命とは何か?
そう問われたら、私は、動的平衡である、と答えたい。
相補性を維持しつつ、分解と合成を繰り返し、あやういバランスを保つこと。
https://www.fukuokashinichi.com/
これらの福岡さんの考え方は、生物学の中ではメジャーなものではないようです。
福岡さんは、生命を川の流れのように、つねに移ろいゆくものとして捉えます。なぜなら、私たちの体は一年も経てば、脳も心臓も骨も、分子レベルでは新たに置き換わっているからです。つまり物質としての私たちは、去年の私と今年の私とでは、ほぼ入れ替わっているのです。
しかし、その考え方は、人の体を機械のような物体ととらえ、その部分部分を交換可能な部品のように扱う近代科学の考え方と相容れないものです。私たちは、近代科学が生んだ最新の医療技術によって、ときに命を救われ、ときに失われた体を取り戻し、結果的に寿命を伸ばしているのです。このように便利な近代的な思考を、おいそれと捨てるわけにはいきません。それに福岡さんによれば、そのような仕組みの中で相当なお金も動いているようです。
したがって人間の体を機械のように捉える考え方が重視されるのです。
その一方で、現在の医療は次のような興味深い事実も発見しています。
私たち日本人の二人に一人は癌によって亡くなっているそうです。その癌細胞は、実は私たちの体が毎日一兆回の細胞分裂を行っていく際に、その分裂のコピーミスによって生まれている、という話です。ほとんどの癌細胞は免疫細胞によって排除されますが、細胞分裂の数があまりに多いので、排除されずに生き残ってしまう癌細胞があって、それが異常な増殖を起こすのだそうです。
https://www.nhk.or.jp/program/torisetsu-show/2024_gan_ssat091.pdf
したがって、どんなに私たちが気をつけていても、癌になる可能性はゼロになりません。例えば喫煙をやめれば、癌になる可能性を低くすることはできますが、だから絶対に癌にはならない、とは言えないのです。
これを絶望的な事実だと捉えるのかどうかは考え方次第ですが、いずれにしても、この話は私たちの体も「自然」の流れの中の一部であることを示しているのだと私は思います。
さて、科学的な素養のない私が、なぜこのような話に興味を持つのかといえば、それは福岡さんの生命の捉え方が、近代科学ばかりでなく、近代哲学や思想の世界にも大きな影響を与えると思うからです。
前々回のblogで、私は次のように書きました。
これらの考え方を、私は実に興味深いものだと思います。なぜならこれらは、ルネ・デカルト(René Descartes、1596 - 1650)さん以来の、「自己」を中心とした近代思想を転覆する、そんな発想だと思うからです。
もちろん、哲学や思想の世界でのデカルトさんへの批判は頻繁に見かけますが、福岡さんのような科学者が、実際に科学的な立証をもって近代思想、近代科学を批判し、それを再検討したうえで別な道を歩もうとしている、ということが、私にはとても興味深いのです。それに、これが私たちの生命にかかわること、いわば私自身のことでもある点にも魅かれます。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/e882904be4543f8cd6c84827881173c6
このことについて、今回はもう少しくわしく書いてみたいと思います。
デカルトさんの提唱した有名な命題に、「我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり/Je pense, donc je suis)があります。これは、デカルトさんが自著『方法序説』(Discours de la méthode)の中に書いたものです。
「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない、だから「自分はなぜここにあるのか」と考える事自体が、自分が確かに存在する証明になる、というのがこの命題の意味です。これは近代哲学の幕開けとなる命題であるともいわれ、さまざまな批判はあっても、現代まで大きく影響していることは間違いありません。
その思想的な意義について、私はとやかく言う立場にありませんが、ひとつ気になるのが、このデカルトさんの命題によって「確たる私」という固定的なイメージが出来上がったことです。「我思う、故に我在り」によって思惟としての存在が証明された私は、私のもっとも身近にある物体としての私自身の体についても、「それは確かにそこにある」とイメージできたのです。このとき、「私の思い(精神)」と連動した「私の体(物体)」の存在も証明されました。
いわゆる「心身二元論」と言われるものです。
このデカルトさんの命題によってイメージされる「私の体」は、「私の思い」と同様に固定的な、確たる物体です。そして、「私の体」が物体であればこそ、手術によってその一部を切り離したり、ほかの物体ー例えば脳死した人の体の一部ーをそこに補填したりすることが可能なのです。
この考え方を推し進めれば、人の体のほとんどすべてを交換することだって不可能ではないでしょう。ロボットが部品を取り替えるようなイメージです。しかし、福岡さんのように私たちの存在が川の「流れ」のようなものであると考えるなら、このような人体の移植や交換には自ずと限度がある、ということになりそうです。
福岡さんは『動的平衡』のなかで、生命の体の部分が機械の部品と異なる点として、生命の体は時間によって変化するということをあげています。そしてその変化が精妙に、かつ複雑に絡み合っていることを指摘しているのです。
福岡さんは、『動的平衡』の第4章のなかでノンフィクション・ライターの最相葉月(さいしょう はづき)さんが書いた『青いバラ』という本のことを取り上げています。そしてその記述の後で、生命の体の複雑さについて、次のように書いています。
生命現象のすべてはエネルギーと情報が織りなすその「効果」のほうにある。つまり、このようにたとえることができる。テレビを分解してどれほど精密に調べても、テレビのことを真に理解したことにはならない。なぜなら、テレビの本質はそこに出現する効果、つまり電気エネルギーと番組という情報が織りなすものだからである。
そして、その効果が現れるために「時間」が必要なのである。より正確に言えばタイミングが。あるタイミングには、この部品とあの部品が出現し、エネルギーと情報が交換されて、ある効果が生み出される。その効果の上に次のステージが準備される。
次の瞬間には、別の一群の部品が必要となり、前のステージで必要とされた部品は不必要であるばかりか、そこにあってはならないのだ。このような不可逆的な時間の折りたたみの中に生命は成立する。
そしてもう一つ重要な視点は生命現象という「効果」が生み出されるためには、驚くほど数多くの部品と部品の相互作用がタイミングよく生じる必要があるということだ。青い花を咲かせるという効果のためにはおそらく数十、数百、いやそれ以上の部品遺伝子の働きが関わっているだろう。単一の「青の遺伝子」などというものはないのだ。近代の生命学が陥ってしまった罠は、一つの部品に一つの機能があるという幻想だった。部品は多数タイミングよく集まって初めて一つの機能を発揮する。
(『動的平衡』「第4章 その食品を食べますか?」福岡伸一)
もちろん、私には福岡さんの書いていることの細かいところなどわかりませんし、生物学の世界での福岡さんの学説の評価について知る由もありません。しかし、ここに書かれていることについては、大筋で理解しているつもりです。
そして福岡さんの言う通り、人間の体を「時間」による変化として見ていった場合、哲学者のデカルトさんの考えていた「我」という存在が、福岡さんの公式サイトにあった人物像のように流動的なものとして輪郭がぼやけていくのを感じます。私は福岡さんの著作を読まずに、『100分de名著「ドリトル先生航海記」』の解説を聞いたときに、これはデカルトさんに発する近代思想を批判する考え方になるな、と思ったのですが、実は福岡さん自身が『動的平衡』のなかで痛烈にデカルトさんを批判しています。
生命部品の商品化は売血という形で始まり、やがて臓器の売買、生殖医療を担う精子、卵子、受精卵、そして細胞へと波及していった。
現在、私たちは、遺伝子が特許化され、ES細胞が再生医療の切り札だと喧伝されるバイオテクノロジー全盛期の真っ只中にある。私たちが、ここまで生命をパーツの集合体として捉え、パーツが交換可能な一種のコモディティ(所有可能な物品)であると考えるに至った背景には明確な出発点がある。それがルネ・デカルトだった。
彼は、生命現象はすべて機械論的に説明可能だと考えた。心臓はポンプ、血管はチューブ、筋肉と関節はベルトと滑車、肺はふいご、すべてのボディ・パーツの仕組みは機械のアナロジーとして理解できる。そして、その運動は力学によって数学的に説明できる。自然は創造主を措定することなく解釈することができるー。
この考え方は瞬く間に当時のヨーロッパ中に感染した。そして、デカルトを信奉する者、すなわちカルティジアン(デカルト主義者)たちは、この考え方を先鋭化させていった。
(『動的平衡』「第8章 生命は分子の『淀み』」福岡伸一)
福岡さんによれば、このあとカルティジアンたちは動物の生体解剖を行い、18世紀前半には人間もまた機械論的に理解すべきだという医師も現れたのだそうです。この営みの延長線上に「遺伝子に特許をとり、臓器を売買し、細胞を操作する」という現在の状況があるのだと福岡さんは言います。
福岡さんは『最後の講義』でも、人間の「脳死」の定義がこのような臓器の売買に加担している面があるとして、警鐘を鳴らしています。「脳死」の定義によって人間が生きている時間を短縮してしまっている側面があることは否めませんが、その一方で臓器移植で助かる命が増えていることも事実でしょう。難しい問題ですね。福岡さんは、この一連の考察の最後に、次のような文章を書いています。
この考え方に立つ思考は現在、一種の制度疲労に陥っていると私は思う。効率的な臓器移植を推進するために死の定義が前倒しされ、ES細胞確立の激しい先陣争いが繰り広げられることが、果たして私たちの未来を幸福なものにしてくれるのだろうか。
(『動的平衡』「第8章 生命は分子の『淀み』」福岡伸一)
ここで語られている「制度疲労」というのは、言わば近代思想の限界を表していると私は思います。
そして私が思うに、芸術の世界では1980年代に「ポストモダニズム」の名のもとに「モダニズム」の芸術が退けられていった頃に、すでにこの「制度疲労」が始まっていたのだろう、と思います。芸術は、ときに現実の世界を先取りします。
そういえば、『最後の講義』の中の質疑応答の一つとして、「今の社会における芸術の役割についてどう考えているのか?」という興味深い質問がありました。
具体的には、「機械論的な生命観が医療の分野を含めて主流になっていて、それが故に狂牛病のような問題も起こっているというお話でしたが、ベルクソンはそういった人間の生存のための技術や思考を中和する作用が芸術にはあると言っています。先生は今の社会における芸術の役割についてどんなふうにお考えでしょうか?」というものです。
その質問に対する福岡さんの答えは次のようなものです。
朝永振一郎が言っていたように、物理学や生物学という科学は、自然という混沌としたものを理解するために、いったんそれを単純化する、機械化する、モデル化することによってたわめて見ている、つまり、不自然なものに変えて見ているわけです。要素還元主義的な見方で、あるいは、時間を微分的に止めてパラパラ漫画みたいにして見る方法で、世界を解釈しようとしているわけです。それはロゴス的な解釈、つまり、言葉によって自然を分節化していく解釈です。それをもう一度、本来の自然にもどさなければいけないと朝永は言っているわけです。科学が分節化、モデル化した自然をもう一度、本来の「ピュシスとしての自然」に戻すための作用は、統合的な力として学問が担当するのか、何か他の力が担当するのか、まだ正確には見えませんが、学問が細分化して人工的に見過ぎたものを本来の自然に戻す力は、やはり芸術が担うべきではないかと思います。
(『最後の講義』「第4章 質疑応答」福岡伸一)
必要ないかもしれませんが、少し補足をしておきます。
ベルクソン(Henri-Louis Bergson、1859 - 1941)さんは、フランスの哲学者で『時間と自由』、『物質と記憶』、『創造的進化』など重要な著書がたくさんあります。
朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906 - 1979)さんは、日本の物理学者で、量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した人です。
「ロゴス/logos」はギリシャ語で、「言葉や論理、理性」のことです。
「ピュシス/physis」もギリシャ語で「自然」という意味ですが、『最後の講義』の脚注では「万物がそこから生まれ、そこへ消滅する根源のこと。生命の源としても捉えられる。」と補足されています。
さて、この福岡さんの言葉の中で、近代科学はものごとを「要素還元主義的な見方で、あるいは、時間を微分的に止めてパラパラ漫画みたいにして見る方法で、世界を解釈しようとしている」という一節があります。美術の分野でこれに該当する言葉は、いつも私が引用するものですが、アメリカのモダニズムの美術評論家クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)による次の言葉です。
しかしながら、絵画芸術がモダニズムの下で自らを批判し限定づけていく過程で、最も基本的なものとして残ったのは、支持体に不可避の平面性を強調することであった。平面性だけが、その芸術にとって独自のものであり独占的なものだったのである。支持体を囲む形体は、演劇という芸術と分かち合う制限的条件もしくは規範であった。また色彩は、演劇と同じくらいに、彫刻とも分かち持っている規範もしくは手段であった。平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件だったので、それゆえモダニズムの絵画は、他に何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである。
(『グリーンバーグ批評選集』「モダニズムの絵画」グリーンバーグ著 藤枝晃雄・川田都樹子訳)
この現代絵画の平面性の追求が、まさに美術における「要素還元主義」であり、その結果、生まれたのがミニマル・アートの絵画でした。
その絵画の一例を見てください。
https://www.moma.org/artists/3758
上記のリンクはアメリカの画家、ブライス・マーデン(Brice Marden, 1938 – 2023)さんの作品です。
マーデンさんは完全な平面性を追求する絵画の中でも、「単純化する、機械化する、モデル化する」というモダニズムの方向性とは少し違っていて、平滑な色面の中にも人の息遣いを感じさせる絵が多くて、私の好きな画家の一人です。
そして彼は、ミニマルな絵画を制作したのち、さまざまな試行錯誤を続けて作風を変えていきました。このマーデンさんの変容をどう考えたらよいのでしょうか?
マーデンさんはもしかしたら、福岡さんと同じように、自らが到達した「要素還元主義的」で単純化された絵画の頂点において、近代絵画の「制度疲労」を感じて、そこから逸脱しようとしたのかもしれません。
美術の世界には、マーデンさんのような誠実な画家が少なからず存在するものの、福岡さんが言うような「学問が細分化して人工的に見過ぎたものを本来の自然に戻す力は、やはり芸術が担うべきではないか」という問いかけに答え得るような作品が、ふんだんにあるという状況ではありません。
それはなぜでしょうか?
グリーンバーグさんはずいぶん前に亡くなっていますが、それでもその影響力は大きくて、相変わらず「要素還元主義」的な作品を作っている作家が、まだまだたくさんいます。
また、グリーンバーグさんから離反して、アンチ・グリーンバーグ的な批評や展覧会を組織した批評家、作家もいましたが、それも「要素還元主義」の裏返しを意識していて、やはり彼の価値観から自由になったとは言えないのです。
あるいはモダニズムの乗り越えを目指すはずだった美術におけるポスト・モダニズムの動向は、思想や哲学の分野におけるポスト・モダニズムに比べると、薄っぺらで衝動的で、なおかつ商業的な要請から生じたものが多く、現在ではほとんど鑑賞に耐えるものがないと私は思っています。
結局のところ、美術の世界は近代の「制度疲労」をいち早く感受したものの、いまだにそこから抜け出せないでいるのです。その状況は1980年代から続いていて、私にしてみれば自分の創作活動期間のほぼまるごとを「制度疲労」した世界のなかで過ごしてきたのです。
ですから、そろそろその「制度疲労」から自由になるべきではないか、と私は思っています。もちろん、それは誰かがやってくれることではなくて、私自身が「制度疲労」から自由にならなければなりません。
そのためには、福岡さんの言葉にそのヒントが隠されているような気がするのですが、もう一度引用しておきましょう。
科学が分節化、モデル化した自然をもう一度、本来の「ピュシスとしての自然」に戻すための作用は、統合的な力として学問が担当するのか、何か他の力が担当するのか、まだ正確には見えませんが、学問が細分化して人工的に見過ぎたものを本来の自然に戻す力は、やはり芸術が担うべきではないかと思います。
(『最後の講義』「第4章 質疑応答」福岡伸一)
福岡さんの言う「ピュシスとしての自然」とはどのようなものでしょうか?
福岡さんは、その方向性の一つとして生物学的な「動的平衡」を提案しています。このような提案を、美術の世界にも取り込んでいきたいものです。
美術において「ピュシスとしての自然」を取り戻すためには、アンチ・グリーンバーグどころではなく、アンチ・デカルトにまでさかのぼらなくてはならないでしょう。それは大胆な現代美術の見直しにもなるはずです。
しかしそれは、中世やルネサンスの美術に戻ればよい、というものではありません。誰にも、モダニズムまでの美術の試みや成果を無にすることなどできないのです。福岡さんの「動的平衡」にしても、彼が分子生物学を研究したからこそ到達したモデルなのです。福岡さんは、そのことを否定しません。むしろ、そのような回り道が必要だったのだと言っています。
それでは、もしも「動的平衡」を美術の世界において、私の場合で言えば絵画においてその認識を制作に生かすとしたら、どのような絵画になるのでしょうか。
おそらく、このようなことを誰も試みたことがないと思うので、私自身でやってみるしかありません。
そしていま、そのことを考えて、制作を試みています。次の展覧会の機会があれば、その一端をお見せできるかもしれません。自分の作品がどう変わるのか、自分自身で期待しているところです。