先日私の大好きなある人が(親の)形見の品を身に着けていた。
それを見て「亡くなった方が喜ぶ素敵な行いだなぁ」と思ったが、
考えたら自分は親の形見を何一つ持っていない事に気がついた。
何故形見を持っていないかと言うと、
仕事柄、母は着物や装飾品もそれなりの物を持っていたけど、
放蕩の兄がほとんどをお金に換えて使ってしまったのと、
私が二十歳で家出同然で家を出た事を理由に、
「お前が継ぐ物は何一つない!」と
親戚に遺産放棄の印を押さされた上に、
お骨になって帰って来たばかりの母親の祭壇の横で、
叔母が母親の着物(何故か私の七五三の着物も)を、
風呂敷いっぱいに包んで持ち帰ってしまったからなのだ。
帰る家も思い出の品も何もかも奪われ、
その時はもの凄く悔しくて悔しくて仕方なかった。
今も思い出すと泣けて来る事もあるけど、
私は思う。
全ての事には意味がある。
そしてこのメッセージ(意味)はおそらく、
すべてを忘れて、許しなさい。
先日ブログで、
亡くなった
元チューリップの安部さんの事を書いた。
その時チョイスした曲が「神様に感謝をしなければ」
なんでこの曲を選んだのか?たまたまyoutubeで見つけたのだが、
数あるチューリップの曲の中で、
何故あまり知られてないこれを見つけたのか?
何故大好きな人が形見の品を身に着けていたのか?
何故それが形見の品だと教えてもらったのか?
もちろんそれぞれには何の関係もない事だし、
そしてもしかしたらまったくの勘違いかもしれないのだけれど、
それでも最近起こった再会や己を振り返る作業によって、
もの凄い勢いで嫌な過去が修復されている。
私が失った自信や潔さが蘇ってきている。
だからこそこれに
忘れ、許す。という意味があるのだろう。
二十歳の私は何一つ執着を持たない潔さがあった。
だが怒りと悔しさから親族を恨み憎み執着した。
それをもう
解放しろというメッセージだと私は受け取る。
チューリップの「神様に感謝をしなければ」
これは辛い事だって忘れる事が出来る。
忘れる事を神様が作ってくれたおかげだという曲だ。