よろず戯言

テーマのない冗長ブログです。

曇天模様の空の下、欅のトンネルをくぐって

2024-04-27 20:00:56 | 日記・エッセイ・コラム

 

昨日は雨が降ったり止んだりだった。

今朝は小雨がパラついていたが、今はそれも止んでいる。

ただ、空は重たい灰色のまま、自分の心情を表しているかのように濁り曇っている。

だけど、頭上にはケヤキの若葉がそよそよと広がり、鮮やかで空よりも明るい。

ケヤキの若葉のトンネルをくぐり抜けたとき、自分の心も晴れるだろうか?

 

 

―――――

 

こないだの日曜。

妹ふたりが朝から、親父の入院する病院に居た。

面会は本来、平日の午後1時から4時までの間で、

事前に定められた親族3名のみで、同伴する者も16歳以上と定められていたが、

もう長くないとのことで、その制限は解除されていた。

妹たちは、それぞれ子ども達も連れて行き、最後に親父に会わせていた。

 

入院から2日目の土曜日に、親父の症状を見た妹が、

「もう長くはない・・・持って一週間くらい。」

看護士をやっている妹が、そうこぼしていたが、

3日目の日曜日、病状はさらに悪化し、もう喋ることも受け答えもできなくなり、

少し目を開けたり、顔を動かしたりはして反応はあるものの、

意識が在るのかどうかまでは判らない。

 

お母んも昼過ぎから支度して病院へ向かった。

熊本から弟もやって来て、直接病院へと向かった。

自分は付近の葬儀社をひとつひとつ尋ねることにした。

葬儀社を選んでの生前相談、

来週の休みあたりに じっくりやろうと思っていたが、

こんな早まるとは思っていなかった。

 

雨が降りしきるなか、葬儀社を尋ねる。

自宅近くに田川地区一帯を受け持つ火葬場があり、

そのため付近には葬儀式場が点在している。

あまりありがたくはないけれど、葬儀式場に困ることがない環境。

お寺にも行って、読経をお願いしなければならない。

 

たまたま葬儀が入っていて対応できないとか、担当者が居ないとかで、

葬儀社めぐりも思うようにいかず、とりあえずお寺さんへのお願いだけは済ませて帰宅した。

自分はけっきょく、病院へは行かなかった。

その日の夕方遅くにお母んと熊本の弟が帰って来た。

妹たち一家とともに面会時間ギリギリまで居たそうで、

やはり親父の状態は、もう風前の灯火といっていいほどだったようだ。

 

明けて月曜の朝。

ふだんどおり支度して、出社する。

なにかあったときのため、お母んに会社の連絡先を書いたメモを渡す。

工場で働いているので、携帯電話に連絡されても、すぐに電話が取れないからだ。

事務員に連絡してくれれば、工場に居る自分に知らせてくれる。

お母んと弟は朝食を食べていた。

弟も仕事があるため、熊本へ戻ることになっていた。

「気をつけて帰れよ。」と、弟に告げて家を出た。

 

家を出て、職場へ向けて車を走らせる。

葬儀のことやら、供花のことやらを考えながら運転していた。

不意に携帯電話が鳴る。

電話に出ると、さっき家に居た弟からだった。

「病院から連絡あってね、お父んの容態が急変したき、家族すぐに来てくれっち・・・。」

「・・・・わかった!」

 

すぐに会社へ連絡し事情を伝え、休暇をいただく。

事前に親父が危ないことは会社には伝えていた。

右折ウインカーを出して車の進路を変更し、いつもの通勤路からそれる。

急遽 行き先を病院へと変更する。

前の車が異様にのろい。

制限速度50km/hの道路を30km/hくらいでトロトロと走ってやがる。

いつもはそこまでやらないけれど、

このときばかりは車間距離を詰めパッシングして煽り散らかす。

焦るな焦るな・・・。

そう言い聞かせながら、病院へと車を走らせる。

 

ほどなくして病院へと着いた。

まだ開院時間が来ていないため、正面入口からではなく、

裏手にある時間外通用口から入る。

そこに居た守衛さんに、事情を説明し、病棟への行き方を尋ねる。

すると守衛さん、親切にエレベーターまで先導して案内してくださった。

 

 

6階 緩和ケア病棟。

治療が困難であったり、ひどい苦痛を伴ったり、

完治の見込みがない末期がんの患者が、無理な治療や延命措置をやめ、

身体のみならず心のケアもしながら、がん闘病の苦痛を緩和して、

なるべく安らかな最期を迎えるための病棟。

 

ナースステーションは無人。

付近に看護士やらスタッフらしきひとも見当たらない。

自分で親父の病室を探さなければならない。

輪っか状になった病棟を反時計回りに、各部屋のプレートの名前を確認してゆく。

2/3ほど回ったところで、ひとつの部屋からスタッフらしき方が出て来た。

親父の名前を告げて、病室を訊ねる。

すぐに案内してくださった。

反時計回りでなく時計回りに回っときゃ、すぐに辿り着けていた場所だった。

 

ノックして中の返事も確かめぬまま、中へ入る。

 

「もう止まっちょ・・・。」

 

この病院の隣の病棟で看護士をやっている妹だった。

早めに出勤して、親父の病室をのぞいたら、既に息を引き取った後だったという。

妹は親父の周りでいそいそと世話をしていた。

電気ひげ剃りを取り出し、おやじのあごの無精ひげを剃りだす。

 

親父が・・・死んだ・・・・・。

 

 

自分が生まれて初めて経験する。

家族の死。

 

先月、飯塚病院で余命宣告を受けた。

「余命1ヶ月・・・持って2ヶ月。」

医師の宣告どおり、あれから、ぴったり1ヶ月で息を引き取った・・・。

 

口がパカッと開き、片目はうっすらと開いたまま。

黄疸の黄色は、家に居たときよりも鮮やかさは失われ、くすんでいるように思えた。

もはや生気はなく、蝋人形のように横たわっていた。

 

ただ、肌はしわもシミもほとんどなく、きめ細かくて きれいだった。

自分なんかより、ずっときれいな肌をしていた。

親父って、こんな肌ツヤきれいだったんだな・・・。

そんなことを このとき初めて知る。

それくらい、生前に親父の顔をじっくりと見たことがなかった。

 

「6時過ぎの体交のときには、呼びかけに反応して手のばして、

 ベッドの手すり持とうとして自力で向き変えようとしよったみたいなんやけどね・・・。」

「たいこー?」

「体交、体の向きを換えること。

 でね、8時のときに来たら、もう止まっちょったっち・・・。」

 

妹は泣きはらした顔をしつつも、終始笑顔で、

「じいちゃん、がんばったね~。」

時折親父に話しかけながら手際よく作業を続ける。

妹は自身の子らの手前、親父のことを「じいちゃん」と呼んでいた。

同じように、お母んのことは「ばあちゃん」と呼んでいる。

 

歯ブラシのようなものを取り出し、口の中を拭きとり、

腕に装着されていた、点滴針やチューブを取り外し、

よく判らない医療機器を片付けはじめる。

「これ、痛みを無くすための医療用の麻薬。」

「モルヒネ?」

「そそ。」

 

「先生は?」

「まだ居らんばい、8時半に担当の先生が来て死亡確認してくれる。

 亡くなりそうやきっち、心電図とか見ながら先生が付きっきりで患者さん見たりせんと。

 本人がきつくないようにして、ゆっくり眠るようにして・・・緩和ケアってそういう場所なん。」

 

入院期間は、想定よりもずっと短かった。

 

親父の身体周りの作業が終わると、病室を片付けはじめる。

持ち込んでいた私物類を、バッグに詰めたりナイロン袋に詰めたり。

今おもえば、ボーッと脇に突っ立っているだけで、何も手伝わなかった自分を叱りたい。

ただただ、妹の動作をプロの仕事だと感心しながら眺めているだけだった。

 

しばらくして、お母んと弟が病室に到着した。

「おとうさーん・・・!」

お母んは病室に入るやいなや、すぐに親父の亡骸のそばに駆け寄り、

泣きながら顔に触れる。

顔から肩に触れ、布団をめくって腕を握る。

ハンカチで口元をおおい、ウッウッ・・・と泣き声を漏らすお母ん。

 

交際をはじめた若い頃から今まで、

DVでは片付けられないような ひどい仕打ちを受け続けたにも関わらず、

親父のことを好いていたんだな・・・。

腐れ縁とでもいうのか、お互い依存した異様なカップルだったのか。

一昨年のあの騒動がバカバカしく思えた瞬間だった。

 

しばらく呆然とその光景を眺めていたら、

「お母んとお父ん、ふたりだけにしてやろうや。」

弟がしびれを切らしたように発する。

弟のひと言で目が覚めて、そそくさと病室を出た。

会社へ連絡し、一週間の忌引き休暇をもらう。

 

緩和ケア病棟に設けられてある、

リラクゼーションスペースみたいなところで弟と待機する。

たくさんの本やレコードが置いてある。

蓄音機も備えられていて、実際LP版のレコードを楽しめるようだ。

外の景色を眺める。

6階なので田川市の中心部が一望できる。

遠くに田川市のシンボル、伊田の二本煙突が見える。

 

上の妹もやって来た。

やはり出勤途中で連絡があって、駆け付けたらしい。

この上の妹も、以前この病院に勤めていた元看護士。

病院の許可をもらい、さっきの妹と一緒に、親父の死後処置をするという。

 

入院時に渡された、面会時に提出する健康チェックシート。

けっきょく自分は一度も使うことがなかった・・・。

 

ほどなくして担当医も出勤してきたらしく、

本来病棟内で行われている、朝一の申し送りやミーティングをすっ飛ばして、

真っ先に親父の病室へ来てくださった。

先生は、固く冷たくなった親父の胸へ聴診器を当て、

小さなライトで瞳孔を確認したのち、自身の腕をめくって時計の時刻を確認。

「午前8時22分・・・です。」

先生のその言葉で、同伴した看護士さんが何やら書き込み、

自分らに向かって一礼して退室する。

もう明らかに死んでいても、形式的に死亡確認をやらなければならないのだろうな。

 

自分は葬儀社とお寺へ連絡をいれる。

葬儀社は全然 回れていなかったけれど、

唯一葬儀が入っていなくて、スタッフと じっくりお話をすることができたところに決めた。

お寺さんのご子息と、このスタッフさんが飲み仲間らしく、

「そこのお寺さんなら、やってあげたいなー。」と、こぼしていたし、

何よりも、この方の応対の感じが良くて、

斎場の設備や料金設定に特段の不満がなければ、

正直 他の葬儀社を回るべくもなかった、とくらいに好印象だった。

 

葬儀社へ電話し、病院までのお迎えと、通夜・葬儀の依頼をする。

昨日打ち合わせしたスタッフが宿直だったので、すごく驚いていた。

処置が終わる時間を伝え、病院まで迎えに来てもらう。

 

お寺とは、この日の午後からご住職と打ち合わせの予定だった。

昨日、訪問した際には、住職が不在で、坊守さんとご子息としかお話ができず、

詳しいことは、住職が居られるときにということで、時間を約束していたのだが、

親父が亡くなってしまったので、それも もう意味がなく、問答無用で枕経をお願いする。

お寺さんもまた、相談から一夜明けての訃報だったので、かなり驚かれていた。

 

処置が終わり、自分はひと足先に、一階の霊安室まで行く。

正確には霊安室ではないらしいが、簡易ながら きちんと祭壇が用意されていて、

病院で亡くなった方は、ここからご遺体が搬出される。

先にご出立されるご遺体が居られ、よその葬儀社のハイエースに、

今まさにストレッチャーのご遺体が乗せられているところだった。

 

昨日訪ねて、さっきお迎えを依頼した葬儀社のスタッフも来られていた。

脇には、リムジンのクラウン。

おおぅ・・・お迎えにもリムジン使うんだ。

最近はノアとかハイエースとか、

それと判らないような車でのお迎えが主流だと思ったが、

いやリムジンで病院に来てくれるとは。

 

先客が出られたので、次は親父の番。

親父が乗せられたストレッチャーが降りて来た。

葬儀社のスタッフさんは、リムジンを病院にベタ付けし、

ハッチを開けて車からストレッチャーを下ろす。

病院のストレッチャーから、葬儀社のストレッチャーへと親父を移動させる。

 

リムジンに乗せられて、ハッチが閉じられ、

病院のスタッフさんや葬儀社のスタッフらとともに、自分も深く合掌礼拝する。

昔、広島に居たころに葬儀社に努めていたし、

長らく花屋で働いていて、葬儀社とも関りあったので、

この辺の作法は心得ているつもり。

 

葬儀場に到着すると、親父は和室に安置されていた。

ほどなくして、枕経をあげに お寺さんが来られた。

住職は法事とのことで、ご子息が読経に来られた。

 

昨日、相談に訪れた際に、既にある程度の話はしていたので、

スタッフとの通夜・葬儀の打ち合わせは早かった。

ホールではなく和室で小規模に。

家族葬で、密葬で。

 

いちばん安価なプランで最低限の祭壇飾り。

親父の訃報は親父の兄弟のみに伝え、近しい親族のみの参列。

一般会葬者はなく、記帳所も設けないし返礼品も用意しない。

供花・供物・弔電はお断りで、式場看板も設置しない。

妹たちも異論は唱えず、淡々とすべて決まった。

 

通夜後のお食事はどうされますか?

自分ら家族と孫たちしか頭になかった。

あとはせいぜい、親父の兄弟の叔父叔母くらいか。

おにぎりのセットとオードブルを一皿だけ注文した。

供花お断りだったので、お別れのお花が棺いっぱいにならないだろうと、

ダルマかご花を一対だけ注文した。

 

自分は家へと戻る。

礼服や数珠の準備。

そして、何を思ったか、古いデジタルフォトフレームを引っ張り出す。

ここ20年ほどで撮りためていた、自分の子どもたちを含む、

親父にとっての、孫たちの写真を取捨選択してゆく。

 

妹たちの子らは参列できるだろうが、自分の子と静岡に住む弟の子らは参列できない。

最期に親父も孫ひとりひとり、ひと目会いたかっただろうが、それも叶わなかった。

だったら、荼毘に付される前に、写真だけでも・・・と思った。

2時間以上も費やし、デジタルフォトフレームの写真を選択し終える。

 

そして花屋を巡る。

むかし取った杵柄。

自身の手で枕花を一対つくり、親父の祭壇に飾ってあげたい。

本当は祭壇自体を生花で飾ろうとも思っていたが、

そこは前日の相談の段階で、葬儀社に丁重に断られてしまっていた。

葬儀社には複数の生花店が契約で入っているため、それはできないと。

ま、当然っちゃ当然だわな。

枕花一対くらいなら、持ち込んでもらっても構わないとのことだった。

 

だが、コロナ以降、葬儀や法要が簡略化され、

それに伴って弔事用の切花の需要も激減したらしく、

どこの花屋も以前のような品揃えではなくなってしまった。

実に3件ものお店を巡って、

なんとか枕花一対を挿せるだけの花材をそろえることができた。

輪菊や葉物を置いているお店がなかなかなくって難儀した。

 

 

控室に戻ると、家族がそろっていた。

甥姪が元気にはしゃいでいた。

式場スタッフと打ち合わせして、開式までの間にササっと枕花をこさえる。

できあがったものを、祭壇両脇に設置する。

供花お断りだったはずなのに、叔父や妹たちの職場から既に3本もの供花があがっていた。

こりゃ、ダルマかご要らなかったかも。

 

叔母、従兄たち。

開式時刻が迫ってきて、だんだんと親族が集まってくる。

え・・・気付けば40人以上もの参列者。

親父の甥にあたる3人の従兄たちが、

それぞれ奥さんと子どもさんお孫さんまで連れてきていて、

とても家族葬とはいえない規模の人数に。

 

開式前、ご住職と打ち合わせ。

ご住職は懐かしんで親父の生前の思い出を語る。

どうやらご住職は同年代で、よく親父のことを知っていたらしい。

開式時刻を過ぎても話が止まらないご住職。

たまらず葬儀社スタッフが呼びに来られる。

 

通夜が開式される。

隣で鼻をグシュグシュいいわせながら、ずっとすすりなくお母ん。

焼香が終わり、読経が終わり、ご法話が終わり、

お寺さんが退席され、喪主の挨拶となる。

・・・が、到底 挨拶ができる状態ではないお母ん。

それを見越してか、葬儀社スタッフは自分のもとへ寄ってきた。

親族代表として自分が挨拶をすることに。

 

ぜったい泣かないだろうな・・・。

 

バアちゃんの葬儀のとき。

ジイちゃんの葬儀のとき。

また、以前勤めていた園芸店の社長の通夜のとき。

それぞれ涙が込み上げていたが、その際に思っていたことが、

自身の親父の葬儀のときにゃ、ぜったいに泣いたりしねえだろうな・・・。

いや、泣けるわけがない。

 

そう思っていたのに。

開口ひと言めから、声がうわずる。

 

「本日は甚だ急で、お忙しいなか、お足元の悪いなか、

 みなさまお集まりいただき、まことにありうがとうございます。」

 

まずは定型文だ。

あらかじめカンペを用意していたわけではない。

長年培ったなかで、こういうことが咄嗟に喋れるようになっている。

いや、この歳だと、そう自慢できるようなことでもないか。

 

挨拶を続ける。

 

「先週の金曜日の朝、出勤する際に、おふくろに呼び止められました。

「お父さんに、ひとこと言って行き。」そう言われました。」

 

定型を過ぎた頃、自分はひと目をはばからず、泣きながら挨拶していた。

叔父叔母や従兄、それに甥姪も、こんな自分を見るのは間違いなく初めてだし、

なんなら妹や弟、そしてお母んも、初めてに違いない。

周りにはポーカーフェイスで通してきた自分が、

まさか泣くことはないだろうと思っていた親父の通夜で、

こんなにも醜態をさらしている。

 

「みんさん、ご存じの方もおられると思いますが、

 自分は父とは険悪な仲で、ここ数年は父を避けて ほとんど口もきいておらず、

 昨年、父が家を出て行った際に交わした言葉と手紙がありまして、

 自分はそれを今生の別れと思っておりましたので、

 もう、あらためて父と話すつもりはありませんでした。」

 

「ですが、母に呼び止められて、嫌々父の居る部屋に行き、

 話しかけようとしましたが、父は眠っていました。

 眠っている父の顔は、今までに見たことないくらいに健やかで穏やかで驚きました。」

 

「父はいつだって酒で酔いつぶれていて、寝ていても顔をしかめ、

 大きなイビキと唸り声、ときにわめきながら寝言をいい、

 寝相もすこぶる悪く、そんな寝姿しか見たことがありませんでした。」

 

「ですが、このとき見た父の寝姿は、きれいに布団に包まれ

 しっかりと仰向けになり、とても安らかな表情で

 寝息も聞こえないくらいに静かに眠っていました。」

 

「自分が声をかけるのを躊躇していたら、

「お父さん、武夫が話があるっち。」と、母が台所から父に話しかけました。

 すると父はゆっくりと目を開き、自分の方をまっすぐに見つめてきました。

 そのときの眼差しがとてもきれいで力強く、

 私は47年経って、初めてあんな父の顔を見ました。」

 

「父はゆっくりと布団から手を差し伸べてきて、握手を交わしました。

「がんばれよ。」私にそう言って、父は腕を引っ込め、

 また正面に向き直し、静かに眠りにつきました。

 それが、父と交わした最後の言葉になり、父に触れた最後になり、

 今生の別れとなりました。」

 

「その日のうちに入院し、翌日には容態が悪化し、

 入院3日目の今朝、静かに息を引き取りました。」

 

「父は余命宣告を受けてから、母とともにせわしなく動いておりました。

 役所や金融機関をめぐり、色々と身辺整理をし、

 終活を完遂し、われわれ遺族に面倒なことを残さずに、

 まるで自分の役目を終えたかのように、

 その後は みるみるうちに衰えてゆきました。」

 

「私は子どもの頃から父が大っ嫌いでした。

 大人になってからもずっと、嫌いで憎くて恨んでいました。

 ですが、あの握手で、父への恨み募りが消えたように感じました。」

 

「明日、父は荼毘に付されます。

 多くの方々に見守られ、きっと幸せであると思います。

 お時間の許せる方は、ぜひ明日の葬儀も参列していただければ幸いです。

 本日はお忙しいなか、本当にありがとうございました。」

 

途中、泣いて声が引きつりながらも、なんとか挨拶を終えた。

その後、家族葬のつもりで用意していた料理が足らず、

上の妹が急遽用意した料理やアルコールもすぐになくなり、

自分が少し離れた場所にある量販店のスーパーで、大量の食べ物やお菓子を買う。

それもほぼ全てなくなるほどの、どんちゃん騒ぎとなった。

そうだった・・・ふだん疎遠だから忘れていたが、

親父方の親族(とくに従兄たち)は、こういうひとたちだった・・・。

酒呑みばっか・・・。

 

 

その日、お母んは家に帰し、

自分と熊本の弟二人で、斎場で過ごすことに。

弟は奥の寝室で寝たが、自分は親父の祭壇の部屋に布団を敷いて寝た。

祭壇の灯りが眩しくて、空調の音がうるさくて、なかなか眠れないまま朝になった。

 

昼前に おときを食べ、午後1時から葬儀がはじまる。

 

前日と同じく、従兄たちが子どもを伴ってやってきた。

ちょ・・・平日なのに?

叔父の葬儀で休みとれるん?

いや、故人の続柄が甥姪ならまだしも、

その子らまで、会社や学校休んで葬儀参列するもん?

この親戚らと、自分はちょっと感覚が異なるな~と思いつつ、

参列を拒むことなんてできないから、来てくださった方々へ挨拶する。

 

開式前に葬儀スタッフと打ち合わせ。

この日は司会進行の女性スタッフも居た。

「ご長男様、お花を作ることができるそうで、

 よろしければ、お棺の上に乗せる、お別れの花束もお作りになられますか?」

ふだんは葬儀スタッフが供花から花を抜いて即席で作るという、お別れの花束。

自分でつくる。

親父への最後の手向けだ。

用意されたラッピングのセロハンとリボンを使い、おおきな花束をこさえてあげた。

 

昨晩の通夜式とは異なり、尖った帽子に袈裟と修多羅をまとい、

立派な法衣の出で立ちで、ご住職が入場してくる。

 

葬儀は厳かに執り行われ、いよいよ出棺となる。

最後のお別れ。

静岡から駆け付けた弟も、お別れには間に合った。

菊にユリ,デンファレ,トルコキキョウ,キンギョソウ,etc・・・。

葬儀スタッフが切った供花が、トレーの上に乗せられている。

その花が会葬者に手渡され、次々と親父の棺のなかに入れられてゆく。

 

親父はよそゆきの一張羅の背広を着せられていた。

しっかりとネクタイまで締められていた。

愛用していた帽子や、使用していた入歯、愛飲していたタバコも棺に。

タバコは がん宣告後も吸い続けていたが、入院当日から とうとう吸えなくなってしまい、

「残りは棺に入れてくれ・・・。」と親父が自ら言っていたらしい。

同時に飲めなくなってしまっていた お酒やビールも、

菊の葉っぱに浸して、口元に吸わせてゆく。

ラストはお母んが胡蝶蘭の花を親父の胸元に添える。

家族みんなで手を添えて、ゆっくりと棺のふたが閉じられる。

 

母が位牌を。

自分が骨壺を抱き、弟や従兄たちの手によって棺が霊柩車に乗せられる。

 

出棺の挨拶。

昨晩自分がやったから、今日こそは喪主のお母んが・・・と思ったが、

式中もずっと過呼吸気味だった母、今日も到底 挨拶なんてできそうにない。

やはりというか、自分の元へとマイクが差し出される。

 

「マイクは結構です。」

司会者の差し出すマイクを拒み、出棺の挨拶をする。

 

昨晩あれだけ皆の前で泣いたから、今日はもう泣かずに挨拶できるだろう。

そう思っていたけれど、やはり出だしから声がうわずってしまう。

 

「昨日は雨が降ったり止んだりで、涙雨でしたが、

 今朝、小雨が降っていましたが、開式前には雨は止みました。

 しかしながら、あいにくの曇天模様で、晴れ空で父を送ることができないのが残念です。」

 

「昨晩、父の祭壇の前で眠り、最後の夜を一緒に過ごしました。

 それで私のなかでは、父とのわだかまりは解けたと思っておりますが、

 この曇り空を見ると、まだ父には名残惜しいことがあるのかな?

 そんなふうに思っています。」

 

「父は余命宣告を受けたのち、

 体を病魔に蝕まれながらも、身辺整理に勤しみ、

 遺族の負担を極力減らさんと頑張っておりました。

 自身の死を潔く受け入れて、

 最後にはその役目を終えたかのように、おとなしく病院へと行きました。」

 

「自分がもし、余命宣告を受けたとき、

 果たして父と同じようにふるまえるのか?

 父のように潔く死を受け入れる自信がありません。

 生きることに執着して、死にたくないと往生際の悪いことをするんじゃなかろうか?

 そう思うと、最期の父の振る舞いは、立派だったな・・・と、

 自分には真似できないだろうな・・・と思いました。」

 

「昨晩に引き続き、こんな大勢の方々に見送られ、

 父は寂しい思いをすることなく旅立てると思っております。」

 

 「生前は父のむちゃくちゃな性格から、ご親族のみなさまには、

 迷惑ばかりかけてしまったと思い、本人に成り代わり、深くお詫び申し上げます。

 残された我々家族にも、父の生前と変わらぬお付き合いをいただければと思います。」

  

「これから荼毘に付されてまいります。

 お忙しいなか ご参列いただき、最後まで暖かい見送りをいただき、

 本当にありがとうございました。」

 

やはり込み上げてくるものに抗うことはできず、

出棺の挨拶でも、皆の前で醜態をさらしてしまった。

 

助手席にお母ん座り、お位牌と遺影を抱く。

その後ろに自分が座り、骨壺を抱く。

真横には親父の眠る棺。

親父と一緒に車に乗るのは、何年ぶりだろうか。

7~8年前に、天神の百貨店まで乗せて行ったぶりくらいじゃなかろうか。

 

火葬場で最後の最後のお別れ。

棺のふたの小窓が開けられ、最後の拝顔。

一気に泣き崩れるお母ん。

親父の姉にあたる、叔母たちも号泣している。

棺が釜に入れられ、その扉が閉じられ、着火のキーをお母んが回す。 

 

 

火葬が終わるまで、1時間から1時間半。

待合室で親族が待つ。

そうだった・・・ここでもまた従兄たちの どんちゃん騒ぎが始まる。

長男として情けないが、そんなことすっかり頭から飛んでいた。

妹がしっかりとお菓子やつまみ、アルコール類を用意してくれていた。

 

朝から いろんなことで妹に怒鳴られいたこともあり、すっかり意気消沈していた。

ひとりになりたい。

もうこのまま礼服も脱ぎ捨て、どこかへ逃げたい。

 

葬儀場と火葬場は目と鼻の先。

歩いて葬儀場まで戻り、駐車場に止めっぱなしだった自分の車に乗り、

再び火葬場へやって来る。

駐車場で2~30分ほど、いろんなことを考えながら目をつぶっていた。

このまま逃避したいけれど、さすがにそういうわけにはいかない。

 

県道から火葬場へ入る坂道は、ケヤキ並木がトンネルのようになっていた。

閉塞的だった霊柩車からは見えなかったが、

自分の車を運転して入るとき、そのきれいな並木が確認できた。

ちょうど芽吹く季節で、若々しい青葉が鮮やかだった。

 

元来、人付き合いが苦手で親族ともほとんど交流してこなかった。

大人になってからは、従兄たちともほとんど交流もない。

うちの親父同様、酒を飲んで品もなく大声で騒ぐ、

父方の親族は昔から苦手で、ずっと距離を置いていた。

長男という立場上、こういう席でそういうことも言ってはおられず、

そういう自分の らしからぬ行動に、妹も苛立っていたのだ。

  

車を降りて、その坂道をくだり、徒歩でケヤキのトンネルをくぐる。

雨は上がったとはいえ、空は重たい灰色をしていた。

自分の今の心情を表しているかのように重たい灰色で暗く濁った色をしている。

だが、その空をおおうように、ケヤキは枝を広げて若葉を萌やしている。

曇り空よりも明るく さわやかな若葉が、そよそよと自分を包み込んでくれる。

このケヤキのトンネルをくぐれば、自分の心も少しは晴れるだろうか?

 

 

ゆっくりとケヤキを見上げながら、トンネルの坂道を歩く。

心地よい小鳥のさえずりが聞こえ、

いつもの喧騒や、さっきまでの沈んだ気持ちが薄らいでゆく。

 

いい季節に親父は逝ったな。

寒い季節でもなければ、蒸し暑い季節でもない。

花が咲きほころび若葉が萌えあふれ、小鳥がさえずる春爛漫のこの季節。

あいにくの曇天模様だけれど、こんな麗らかな季節に旅立つなんて。

できれば自分も、こんな季節に旅立ちたいものだ。

 

享年73。

戦後間もない時期に生を受け、

筑豊炭田の衰退期、小さな炭鉱山主の息子として生まれ、

閉山とともに家は没落し、壮絶な子ども時代を経験し、神奈川へと就職。

帰省していて神奈川へと戻る道中、まだ十代だった お母んと出会った。

 

お母んと駆け落ちし、自分が第一子として生まれるも、

親父は甲斐性なく仕事は長続きせず、日銭を稼いでは酒や博打に消える。

お母んは母乳の出が悪くなり、ミルク代もないため、

米の研ぎ汁に砂糖を混ぜたものをミルク代わりに、自分に飲ませていたという。

 

計6人の子どもをもうけたが、親父は相も変わらずだった。

自分の幼少期~就職して実家を出るまで。

そして、福岡に戻って実家に居候はじめた頃から今まで。

自分も親父とのことは、振り返りたくないエピソードばかり。

 

自分の兄弟は皆、あの親父に振り回され、その進路も人生も狂わされている。

当時、そんな言葉なんてなかったけれど、完全に最低な“親ガチャ”を引いてしまった。

それもこれも、もうみんな終わった。

 

散々、家族に迷惑をかけてきた親父。

最後は潔く旅立っていった。

入院してあっと言う間に逝ったのも、

入院費用がかさまないよう、親父自らが死に急いだのかもしれない。

いや、親父のことだから、病魔に蝕まれ、すっかり衰えた、

みじめな自分の姿を子や孫らに見られたくなかったのかもしれない。

 

 

遺影の親父は、満面の笑顔。

きっと、この表情のまま、お母んや妹、孫たちを見守ってくれていることだろう。

最後まで親父を拒絶し続けていた自分には、さすがに愛想も尽かしているいるだろう。

自分は、あの日 最後にかけてくれた、「がんばれよ。」のひとことでじゅうぶんだ。

 

 

今日も自宅の仏壇に線香をあげる。

親父が生前、自分が買ってきて仏壇に供えていたドラゴンフルーツを見て、

「食べてみたいのう・・・。」と呟いていたという、

姪っ子からそんな話を聞いたので、

昨晩、仕事帰りにドラゴンフルーツを買ってきて、親父の前に供えた。

 

・・・・・。

どう?

ドラゴンフルーツ、思ってたんと違うやろ?

そんな美味しいいもんじゃなかろ?

こんなもんだぞ。

わしは好きなんやけどね。

 

明日は初七日。

あっという間に、四十九日,初盆,一周忌と迎えるのだろうな。

またなんか、お父さんの食べたことのないようなもん、供えてやるよ。

 

 

昭和52年(1977年)父と。

 



2 コメント

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Unknown (れいな)
2024-04-30 15:48:57
こんばんは。
この度は本当にお疲れ様でした。
早かったですね。
大っ嫌いだった、涙なんか多分流さないだろう
そう思っていたのに・・・
優しくて感受性豊かな武さんの事だから、きっとそうなる(溢れ出てしまう)と予想していました。
前回の「がんばれよ」という最後の顔合わせ・会話・手握りが決定打になったのでしょうね。
今しか無い!と思ってそれをお膳立てして下さったお母様さすがだなぁと感じました。
しばらく手続きやらでバタバタだと思いますがご自愛くださいね。
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薄情になりきれませんでした ()
2024-05-01 02:17:32
れいなさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
 
あっという間でした。
入院が長引くこともなく、家族の負担が最小限で終わりました。
各種手続きも おおよそ終了していて、驚くほどスムーズです。
 
いや、本当に涙なんて出ないだろうと思っておりましたが、
どうやら自分も人の子だったうようです。
れいなさんは見透かしていたのですね。
 
今生の別れの機会をくれた母には感謝です。
あれがなかったら、今頃、自責の念に駆られて後悔していたと思います。
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