よろず戯言

テーマのない冗長ブログです。

最期の桜

2024-04-22 03:13:52 | 日記・エッセイ・コラム

 

穏やかに眠っていた。

きれいにまっすぐと仰向けに。

親父のこんなにも すこやかな寝顔、初めて見たかもしれない。

 

――――――――

 

 

「あと何回、桜が見れるかのう・・・。」

数年前の桜の季節、アル中クソ親父が発した言葉だ。

当時の親父は、仕事などはせず、朝から焼酎を喰らいタバコを吹かし、

ベッドに寝っ転がって、一日中韓国ドラマやらを観て、

一日4~5食は飯を食べていて、もりもりと象並のクソをしていた。

 

「何があと何回 桜だよ・・・アンタはきっと俺よりも長生きするだろうさ!」

そんなふうに思いながら、親父の戯言に苛立ちを感じていた。

コロナ禍をいいことに、白タクをやめてから、ずっと家でダラダラ。

もっとも白タク時代も、大して働いてはおらず、日銭を稼いでは、

酒とタバコ、ガソリン代に消えていた。

 

そんな親父が泥酔してお母んに暴言を放ち、

そのことで自分が弟に向けて発した言葉が原因で、警察沙汰になり、

お母んを避難させて大騒動になったのが、一昨年の秋。

そして昨年、親父はお母んに離婚届を渡し、ひとり家を出て行った

 

かっこいいことを言って家を出て行ったものの、

一ヶ月も経たないうちに、どうやら近所で車中泊を続けているらしいことが判る。

そののち、すぐ近所で家を借りて、一人暮らしを始めたことが判る。

そして、あろうことか、自分ら子どもたちに内緒で、

お母んは、度々その親父の新居へ行き、

部屋の掃除や洗濯など、かいがいしく親父の世話をしていた。

 

当然、お母んを激しく叱ったものの、

以降も関係を断ち切ることをせず、ことあれば世話に向かっていたお母ん。

もう自分も妹らも、母の行動に呆れて、

もうこのバカ夫婦のことはどうしようもないなと放置していた。

 

自分の息子が京都へ就職して、ちょうど一年が経った先月末。

年休消化で長期休暇が獲れたとのことで、息子は福岡へ戻って来ていた。

息子と会うのは一年ぶり。

その日は お母んも休み。

甥っ子も呼んで、息子と自分と三人で昼食を取り、

その後、うちに連れて来て、お母んにも会わせる予定だった。

 

ところが・・・家に戻ると、お母んの姿がない。

電話をしても、出てくれない。

あれ?

確か今日、仕事休みだったはず。

朝も家に居たよな・・・? 

急遽、仕事に駆り出されたか?

何か事情を知っているかもしれないと思い、妹に電話してみる。

 

「あ、お母さんね、病院に行かないいけんっちいいよった。」

病院?

そんなこと言っていたっけかな?

お母んも、膝やら股関節やら悪くしていて、

卵巣腫瘍の摘出やら、昨年は手術ばかりしていた。

あちこち体が悪いのは知っているし、

定期健診か何か入っていたのかもしれない。

 

息子と甥っ子と自分とで、家でまったりしていたら、

再び、妹から電話がかかる。

「あのね・・・お母さん、お父さんと一緒に飯塚病院に行っちょってね・・・。」

はぁ?親父と一緒に!

「なんで?!」

「お父さん、末期ガンでね、余命2ヶ月っち・・・。」

知らんわ!そんなん!

「ひとりで病院に行くのが怖いき、お母さんに付いてきてっち頼んだらしい。」

「それでね、先生の説明やらがあるき、お母さん たぶん遅くなるき・・・。」

 

親父が余命2ヶ月という衝撃よりも、

怒りの方が込み上げてくる。

せっかく息子が一年ぶりに福岡へ戻って来ているのに、

あのクソ親父のせいで、お母んに会わせることができなくなった!

いつもいつもタイミングが悪い、死ぬ間際までも疫病神か!?

あんな啖呵切って出て行ったくせに、静かにどこかで一人で死んどけばいいのに!

 

その翌日、仕事から帰ると、居間に布団が敷かれ、親父が寝ていた。

自分の帰宅に気付いた親父は、布団から起きて自分に話す。

「すまんけど、また少しだけ世話になるの。」

「お母さんに迷惑かけまいと思って出て行ったとに、

けっきょくまた戻って来て迷惑かけることになった・・・。」

自分は返事だけはしたが、何も言葉返さず、親父の姿も見ることもなかった。

 

親父は血圧が高く、ずっとその薬を飲んでいた。

かかりつけの近所の小さな病院で、二週間に一度、血圧の薬を処方してもらう。

その日もまた、血圧の薬をもらいに行ったが、

「どうしたん、**さん、その黄疸!」

親父の姿を見たとたん、馴染みの看護士さんが、驚いた顔をしたという。

黄疸が激しく出ていて、すぐに先生に診てもらうも、小さな個人病院。

手に負えないとのことで、紹介状を書かれて、近所で一番大きい総合病院へと行った。

 

「手の施しようのない、末期の肝臓がんです。」

「余命、半年~1年くらいでしょうか・・。」

総合病院での医師の診断は、こうだった。

しかし、かかりつけの小さな病院の先生が、まだ助かる可能性があるかも・・・と、

一縷の望みを持って、飯塚市にある、さらに大きな総合病院で診てもらうことを薦めてくれた。

 

その病院に行くのに、親父は お母んに同伴を求めてきたのだという。

そして、その飯塚の大きな病院で診てもらった結果、

「余命1ヶ月・・・持って2ヶ月といったところでしょうか・・・。」

治療が望めるどころか、さらに短縮されて余命宣告を受けてしまうことに。

 

親父の荷物が家の至る所に置かれている。

もう一人暮らししていた家を引き払うため、

家財から食料品から、すべて家に持って来ていた。

冷蔵庫に飲みかけのビール。

立ち込めるタバコの煙。

 

ああ・・・また家にクソ親父が戻って来た・・・。

余命2ヶ月だと!?

もう会うこともなかろうと思って せいせいしていたクソ親父。

あと2ヶ月も、また一緒に暮らさなきゃならないのか!?

しかも死んだあとの世話もしなきゃならんときた。

死らん場所で知らんうちに死んでくれれば楽だったのに・・・。

 

2ヶ月の辛抱だ。

そう思って、クソ親父には関わることもなく、

会話なんてのも一切することなく、普段どおりに生活した。

 

親父がいつも利用していた、自動車修理工のひとがやってきた。

親父の愛車、プリウスを引き取りに。

もう車を運転することもできず、たった二週間前に車検を済ませたばかりというのに、

車を手放し、引き取ってもらった。

最寄りの警察署へ行き、運転免許証も返納した。 

 

眼科へ電話する。

来月に予約していたらしい、白内障の手術も断った。

もう死ぬのに、白内障の手術をしても意味がないからだ。 

公証役場で土地の名義変更、金融機関で預貯金の払い戻し。

通帳の名義変更ではなく、生きているうちに解約し、

そのすべてをお母んの口座へ移す。

 

借金の返済。

叔母から借りていた350万円、耳をそろえて返済する。

なんとクソ親父、使い込んでいると思っていた、

叔母への返済用の貯金、手を付けることなく温存していたのだった。

従兄や叔父ら立ち合いのもと、叔母への返済を果たした。

 

毎日のようにお母んを伴い、役所や金融機関,病院など、

いろんなところを巡って、終活というか、死に支度をしていた。

自身の死を受け入れて、ひとつひとつ片付けるべきことをこなす。

 

自分がもし医者から余命宣告を受けたとして、

こんなすんなりと受け入れられるだろうか?

生きることに対して、もっと執着してしまうんじゃなかろうか。

もっと生きたい・・・死にたくないと・・・。

それが親父は、こんなにも潔く自身の死を受け入れている。

これまで周りに迷惑をかけ、さんざん好き放題に生きてきたからか?

 

しかし、うちに来て一週間も経たないうちに、

親父がほとんど食事をとらなくなる。

大好きだった酒も飲めなくなる。

最後に良い酒を飲みたいと、年金支給日に奮発して買っていた、

1本3,000円の日本酒も、とうとう口を付けることができなくなった。

「それはもう、俺が死んだとき、ハンカチか脱脂綿で口に含ませてくれ・・・。」

弱弱しく、そんなことをお母んに言ったらしい。

あらかた やるべきことを終えたのだろうか、親父が急激に衰えた。

 

親父が買っていて、とうとう飲めなかった酒。

 

満開の桜を見ていたとき、

数年前にクソ親父がつぶやいていた言葉を思い出す。

「あと何回、桜が見れるかのう・・・。」

桜、見せてやりたいな・・・。

次の休みに、近所の桜の名所、丸山公園にでも連れていってやるか。

 

 

そう思って、お母んにそのことを話すと、

「いや、もうお父さん、歩くのもきついみたいやけん、いいばい・・・。」

なんでも、数十メートル歩くのもしんどくなってしまい、

町の福祉課で車いすを借りて、それで移動しているのだという。

「桜は、こないだ糸田の川沿いで、咲いちょうの車から見たし、

それでもう、お父さん「桜見れたけん、もういい。」っち・・・。」

 

じゃあ、じゃあ、直方でやってるチューリップフェアにでも、

こないだ始まったばっかで、出店も出て賑や・・。

いや、人でごった返している会場は無理だろうな。

それに、あそこは狭い連絡橋を使って川を渡らなければならいし・・・。

ちょうど春爛漫、これからまだまだ色んな花が咲き誇る。

死を迎えるその日まで、ひとつでも多くの花を見せたい・・・。

しかし、それも もう叶わない。

  

先週の金曜日、親父とお母んは病院へ行くことになっていた。

妹が看護士として勤めている、田川市内の大きな総合病院。

そこの緩和ケア病棟の医師との面談で、

部屋が空いていて、なおかつ医師が入院すべきだと判断すれば、即入院となる。

入院となれば、もう親父は家に帰ることはなく、会える機会は面会だけだということになる。

 

自分はこれが今生の別れとなったとしても、

あらためて親父と会話する気はなかった。

もう昨年のあの時、今生の別れだと思っていたし、

そのつもりで手紙をしたためて、それを渡した。

だから、もう改めて言葉をかけることもしないし、

顔を見ようとも思わなかった。

 

これまで何度か、親父の姿をチラっと見た。

すっかり瘦せ細り、別人のようになっていた。

肌の色は黄疸で黄ばんで、照明によってはオレンジがかって見えるくらいだった。

お母んに両手を支えられ、トイレや風呂まで誘導される。

紙おむつを履き、変わり果てた親父の姿にショックを受けた。

だから、もうそんな老いさらばえた親父の姿を見たくはなかったし、

親父だって、そんな姿を自分に見られたくはないだろう。

 

ふだんどおり支度をし、出社しようとしたら、

お母んが自分の部屋にやって来る。

「お父さんに・・・ひとこと言って行き。」

チッ・・・余計なことを。

面倒くせえなあ。

そう思って、しぶしぶ親父のいる居間へ行く。

 

 

テレビが点いていた。

親父はいつものようにベッドに寝そべっていた。

起きてテレビを観ているものだと思っていたが、

目を閉じて静かに眠っていた。

 

きれいに仰向けに布団に入っていた。

いびきはおろか、寝息すら聞こえない。

苦しそうな表情でもなく、すこやかな表情で静かに眠っていた。

親父といえば、大音量のいびきと、すこぶる悪い寝相。

顔はいつだって険しい表情で、ときに唸り声をあげて寝ていた。

それが、こんな穏やかな表情で眠っている。

親父のこんなにも すこやかな寝顔、生まれて初めて見たかもしれない。

 

あまりに静かに すこやかに眠っているので、声をかけるのに躊躇していた。

「お父さん、武夫が話があるっち。」

お母んが台所から、親父に声をかける。

すると、お母んの声に反応して、親父が目を開いた。

脇に立つ自分に気付いて、こっちを向いた。

 

その瞳は澄んで、しっかりと自分の顔を見据えていた。

親父はいつだって飲んだくれていて、目が据わっていた。

だが、今 目の前で横たわる親父は、まっすぐなまなざしで自分を見据える。

白内障を患っていて、近視だったのに眼鏡もかけておらず、

自分の顔が見えているのかどうかは判らない。

 

「がんばれよ!」

そう自分に力強く言う親父。

「うん・・・じゃあね。」

気の利いた回答ができなかった。

「がんばれ・・・。」

そうもう一度言うと、布団から親父の腕が伸びてきた。

握手を交わす。

すっかり細くなった親父の手を握る。

細いけれど、弱弱しさは感じられなかった。

でも、がっつりした力強さも感じられなかった。

「じゃあね・・・。」

もう一度そう言うと、親父は腕を布団のなかへと引っ込めた。

そうしてまた、天井を向いて、ゆっくりと瞳を閉じた。

 

たぶん面会には行かない。

これが本当に本当の今生の別れ。

職場へ向かう車のなかで、親父との思い出がひとつずつ甦る。

幼少期,中学生のとき、高校生のとき、そして大人になってから・・・。

酒とタバコ,ギャンブル・・・そんな親父を反面教師に育ってきた。

あんなに嫌っていたのに、あんなに憎んでいたのに・・・。

なぜか涙が込み上げてきた。

 

 

 

親父は即入院だった。

食事をろくに取っていなかったため、点滴がなされた。

点滴は今後24時間外せないらしい。

 

入院から3日後、親父がみるみる衰退した。

もう起き上がることもできず、介護士に支えられての排泄。

食事もまったく取らないため、今日面会に行った妹が、食事をストップした。

母の呼びかけにも答えられなくなり、ずっと眠ったままだという。

余命2ヶ月と言われていて、あと40日くらいあったはずだが、

持って2ヶ月だったから、やはり1ヶ月しか持たなかったってことなのか?

看護士をやっている妹も、「もう1週間持たんと思う・・・。」そうつぶやいた。

 

血便が出て、黄疸はさらにひどくなり、

さらに手足が紫色に変色しているという。

看護士が一枚のしおりを渡してくれた。

“ご家族の方へ~旅立ちのまえに~”

もう本当に親父が長くないのだろう。

 

 

臨終を迎える前に、一度面会に行くべきか?

もう誰が来ても、反応しないかもしれない。

反応したとて、自分を息子だと認識できないかもしれない。

それでも会うべきか・・・。

いや、会いに行けば負担になるかもしれない。

声はかけず、手を握るくらいでやめておこう。

 

寒い冬は去り、そして暑い夏でもない。

花爛漫な うららかな春、親父はいい時期に召されるな・・・。

 

 



2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (れいな)
2024-04-22 13:24:16
こんにちは。
またもや目を見張る急な展開が繰り広げられているのですね。
毎回本当にドラマの脚本の様な読み応えなので私がもし出版社の人間だったら書籍化する話を持ちかけていたかもしれないほどです。

母を亡くして以降、「理想の死に方」とはなんぞやという事をずっと考えています。
自身にとって、また家族にとって。
ピンピンコロリがベストだと言われています。
本人的には癌などが発見されてじわじわと近づいてくる死に怯えながらというのが一番嫌なケースなのですが実際にはそのパターンが大半なんですよね。
でもお父上のケースはある意味ベストなのかもしれません。
今から何度も入院して高額な手術して放射線やら抗癌剤やら苦しい治療を延々と繰り返しながら数年かけてそれに近づいていくのではなく、かつある程度身辺整理や最期の挨拶なども可能。

肝不全の末期というのは脳への毒素を分解できなくなるため意識が混濁します。
なので他の肺癌など最期まで意識清明で苦しみながら逝く癌に比べて本人も周りも少し救われます。

別人の様に老いさらばえた姿なんて見たくなかったというのもよく解ります。今までのイメージのまま居なくなってくれる方が理想というか、最終イメージがその姿で「更新」されてしまうと脳裏から剥がれないんですよね・・・
返信する
現実は小説よりも奇なり ()
2024-04-23 00:48:29
れいなさんこんばんは、コメントありがとうございます。 
 
自分も理想の死に方は、元気なうちにポックリでした。
事故死とか脳梗塞等の突然死とかではなく、
元気なまま自然死なんてのが最も理想的なんでしょうが、
実際、そんなふうに最期を迎えるひとなんて、ほんの一握りなんでしょうね。
 
ただ自分も今回の親父の件で、いろいろと考えさせられました。
医師から余命宣告を受けたら、絶望の淵に立たされてしまう。
がんで徐々に体力を奪われ、苦しみながら死ぬなんて、
まっぴらごめんだと思っていました。
 
けれど、逆に考えると限られた時間で計画的に終活ができる。
遺族に対してけじめをつけることができる。
やり残したことはあったとしても、どこかで踏ん切りをつけ、
死を受け容れて前向きになれるのかもしれないなと。
 
そして遺族の側としても、ある程度 心の準備ができる。
突然逝かれるよりも、ずっと心が楽なのかもしれません。
 
もっとも大事なのは当事者がどう思うかですが、
うちの親父に関しては、潔く死を受け容れてすべて片付けてから、
我々遺族の負担を極力なくしてから、病院へと向かいました。
自分も果たして、あんなふうに素直に死を受け容れるだろうか?
そんなふうに深く考えさせられました。
返信する

コメントを投稿