「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

ふじ子と「コッテン」

2016-12-30 23:51:39 | 一場の春夢――伊藤ふ...

ふじ子は、三一年秋ごろから古賀孝之経営の銀座の八丁目「コッテン」という名の喫茶店を「伊藤まさ子」(-古賀の記憶)と名のり手伝うようになった。遅くなれば店に泊まることもあり、この店から「銀座図案社」というデザイン事務所に勤めに出て行く。そのころ、水島みつこ(後に古賀の妻となる)と知り合う。コッテンに左翼が集まっているという噂が立ち、警察も姿をみせるようになったので古賀は店をたたみ、八丁堀の奥の家に引っ越した。ふじ子も一緒で、高野治郎ともう一人の青年の三人で二階の二帖間にふじ子は住んだ。所持品はほとんどなく、洋服も少なく毎日同じ服をきていた。古賀によると、ふじ子がしばらくして検挙され、女であることをもって凌辱的拷問を受けた。このエピソードは三一年十一月二三日付『帝国大学新聞』に掲載の短編小説「疵」にまとめられた。「疵」とは、特高のテロによってふじ子の身体に刻まれた傷跡のことだ。

同時期、プロレタリア美術家同盟の指導者の一人である岡本唐貴は、杉並・馬橋の多喜二たち一家のそばに引っ越した。細い路地をはさんで、多喜二の家があった。弟の三吾のバイオリンの練習の音が聞こえる距離だったと、『岡本唐貴自伝的回想』で述懐している。岡本は、プロ美第四回展に出品した「電産スト」をテーマに三○○号のキャンパスに向かっていた。多喜二もふじ子もよく遊びにきた、ふじ子は多喜二のことを「ヤツが」「ヤツが」と得意げに語ったと岡本は証言する。すでに多喜二とそういう関係にあったのだ。

翌三二年四月上旬、多喜二が指導するプロレタリア文化連盟は壊滅的な弾圧を受けた。その前から、作家同盟書記長として第五回大会の報告書をまとめるため自宅を離れ、ふじ子に紹介された木崎方にこもっていて検挙を免れ、そのまま地下生活に入った。

古賀孝之「無名の情熱――伊藤ふじ子」(『現象』六九年十一月号)によると、ふじ子は洋裁の出来る水島みつ子を講師に仕立ててグループをつくり、大井町あたりの労働者街でサークル活動をしようとしたそうである。はでな立看板で労働者のおかみさんを集めた。このサークルは「大崎労働者クラブ」にはいっていた。大崎の東京南部地域は、現在も「下町ロケット」などで知られる都下の先進工業地帯で、ここには五反田の藤倉工業の女子労働者らも集まった。藤倉工業は海軍御用達の軍需工場で、中国戦線の毒ガス戦を想定し、防毒マスク、パラシュート、ゴムボート、飛行船の側の製造に従事していた。ここで臨時工解雇反対の争議がまき起こっていたことで、共産党はオルグ対象の重点工場として工作していた。多喜二は、その藤倉工業解雇撤回闘争の経緯を小説「党生活者」(発表時「転換時代」の題名、『中央公論』三三年四月、五月号掲載)で、ドキュメンタリータッチで描いている。同作にはふじ子との暮らしが随所に反映されている。その女性像表現を中心に以下にふじ子の影をたどる。

 


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