多喜二の友人で,村山籌子について,山崎怜先生の大変な調べがある。
1「村山籌子」(『香川大学一般教育研究』47)
2同(『日本福祉大学研究紀要』95号,1996年8月)
3同(『日本福祉大学研究紀要』96号,1996年12月)
4同(『日本福祉大学研究紀要』99号,1998年8月)である。
村山知義(1901-77)は,東大を中退し,ドイッ留学をした。美術運動と演劇運動をした。1926年に,前衛座を結成し,左翼劇場に参加し,日本プロレタリア劇場同盟(プロット)の執行委員長になった。一時転向し,1934年に,新劇団の大同団結を提唱して,新協劇団を結成した。
村山籌子(1903-1946)は,村山知義の夫人である。
籌子は,松尾哲次に語った。
松尾は,1908年生まれ,村山知義の弟子で,演出家である。「小林多喜二の命日に,おもてだって会をすることはできないので,籌子の発案で,多喜二にお母さんをなぐさめるために,毎年,神田の中華料理店で多喜二のお母さん,弟の三吾,原泉子(女優),および簿子の4人で食事をするということだった。」
松尾は,多喜二と直接会ったことはなく,一度新宿の本屋で本を立ち読みしていた多喜二と挨拶をかわしたことがあった。籌子は,松尾に語った。「小林さんは行儀正しい人よ。オリメ正しい人で,蔵原さんに逢ってもビザをくずさないのよ」。松尾はそれを聞いて,簿子がもぐっている人の連絡係[いわゆるレポのこと]をしているのだな,と思った。多喜二はまだ,人々に小林と言われていた
昭和7年4月4か5日に村山知義が捕まり,4月15日に,松尾と沢村貞子が捕まった。
陣ノ内鎮(おさむ)は1907年生まれ,村山知義の弟子で演出家であり,ペン・ネームは陣竜二である。陣ノ内は語る。小林多喜二が亡くなったその日に,陣ノ内たちは,左翼劇場で公演中だった。その舞台の上から,陣ノ内が多喜二の死についてしゃべって黙祷をよびかけた。築地小劇場でであった
河野さくらは,鹿地亙の夫人であった。後に離婚した。籌子の親しい友人だった。ナップ時代のプロレタリア音楽同盟(略称PM)の同盟員だった。上落合の村山家をその事務所に借りた。それを関鑑子らと作った。
河野は語る。籌子が阿佐ヶ谷の多喜二の母の家を知っていて,小林多喜二の死の時,河野は,籌子に連れられて行った。「行きましょう」と誘われ,籌子は,「上落合の家から阿佐ヶ谷の多喜二の家まで泣きどおしで,タダごとではありませんでした。あんなに涙を流した籌子を,河野は見たことがなかった。その流しようは尋常ではありませんでした。阿佐ヶ谷の花屋に寄って赤いバラを買ってもって行きました。阿佐ヶ谷の家では涙を払いおとし,終始だまって一言もいわなかった。レポをやっているのがわかっては困るので… … 。」
河野さくらは,籌子が泣いたのを見たのは,多喜二の死のときが最初で最後だった。蔵原がつかまったとき,河野は,籌子と一緒にいたが,籌子は泣いたりはしなかった。籌子は,蔵原惟人のレポをやっていた。籌子は蔵原が好きであった。
『少年戦旗』が先鋭的になって,政治主義が昂じて,籌子はそこをやめた。宮本百合子は,籌子を嫌っていた。
河野さくらは書く。1933年2月21日,昼ころ,村山籌子が下落合の鹿地・河野の家のドアをしずかにノックした。前日(二十日)の夕方,私たちは小林多喜二の死を新聞夕刊の一段記事で知った。K[鹿地]は顔色を変え,しばらく声もなかったが,「俺は行ってくるからね」とことばを残して出て行った。
ノックの瞬間,河野は籌子の気配を察してしまっている。「行きましょう… …」。
籌子はひとこともらすと目を伏せた。「
はい」と答え,何もたずねず,私はオーバー・コートを着ると,玄関のドアに鍵をかけて,籌子と並んで,東中野駅に向かってあるいていた。このすばやい行為は一種の啓示のようなもの,一晩中ひとりで,家のなかを整理整頓しながら心臓の鼓動を押さえているうちに,多喜二に会うための一番適切な方法として願望が高まっていたのだろうか。
駅への道を歩く簿子はあふれる涙をぬぐおうともぜず,うなだれず,きれいな歩調をみださなかったのだ。行先は阿佐ヶ谷駅だった。車内はまるですいていて,二人ならんで腰をかけたが,籌子はまだぽろぽろ涙を流した。阿佐ヶ谷の改札口を出た時,はじめてことばをやさしくささやいた。「ねえ,真紅の花だけが,あの人にはいいと思うの」。河野は強い共感でうなずいた。路地から路地へ家々の垣根沿いにまるで通いなれた家へ帰るような足どりでいそぐ籌子はもう泣いていなかった。「ああ,そうだったのか」。
河野は多喜二の母親が上京して,ここに暮らしていることさえ,つゆ知らなかったのだ。籌子は聡明な女性であると同時に勇気のある人であった。危険な連絡の仕事もよそ目にはごく自然な姿で,やり抜いていたのだ。紅い花束を抱えて河野とつれだって行く格好は誰の目にもあやしさを感じさせるものではなかっただろう。
鹿地亙は,本名が瀬口貢である。1903年生まれなので,多喜二や籌子と同年である。東京帝国大学文学部を卒業し,1930年ごろ,プロレタリア文学運動に加わった。
鹿地は語る。1932年の春,鹿地は小林と宮本の連絡係だった。そのとき,籌子が(小林に)「逢うの?」ときき,ウソをいうと,「つれない人ね」というにきまっているので,籌子をつれて行った。それは芝のイチノハシ付近だった。
小林も壽子も大変うれしそうであり,非合法活動中の小林はとくに人なつっこく,籌子をひきとめた。あまり長く逢うのは非合法活動では禁じられていたが。
簿子が多喜二に逢いたがったのは友情だった。男女にも友情のあることを籌子は立証した。
多喜二もまた「楽しき雑談をしようよ」と籌子をひきとめた。これも友情だ。3人は喫茶店でたのしい話をしたのです。
鹿地は言う。
籌子が自由学園の後輩を通じて多喜二をかくまったと籌されるが,鹿地は聞いていない。
すくなくとも最後につかまる時のアジトが籌子さんによるものとは聞いていない。
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