山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

伊豆・二本杉歩道の補修

2024-06-19 13:52:23 | 日記

二本杉峠(旧天城峠)

 山の仲間がラインで「河津側の二本杉歩道は少しづつ整備されそうですね。」と情報を届けてくれた。
こちらにリンク↓

吉田松陰も通った古道“通行禁止の道”復活へ一歩【河津・二本杉歩道】

(『テレしずWasabee』2024年6月15日)

峠の名の由来となった二本杉

 歴史的な街道である旧下田街道を今に伝える二本杉峠の河津側は、大雨被害によって10年余に亘り「閉鎖」されたままであったが、歩道の復活に向けて地元の有志たちが登山道整備を始めたとのことだった。二本杉歩道の荒廃は河津側だけでなく、北側の伊豆市(湯ヶ島)側も同様で、先日の伊豆山稜線歩道山行の際にも感じられたことだった。「天城遊々の森(旧大川端野営場)」の上部にあたるが、歩道の管理者すらおらず勝手に手が付けられない状況のようで、こうした歩道の保全には行政の問題もあって難しい面がある。
 また、旧下田街道という歴史的遺産の側面を重視するのか、あるいは単なる自然歩道として整備するのかによっても、補修方法や管理方法が変わってくることだろうと思う。その意味で、「目標は下草やササが茂る環境になり、その中に人が歩ける最小限の道があることです。」という施工者の方向性には少し考える処があるが(馬も、駕篭も、荷車も通ったのが“街道”であるのだから)、ともあれ手が付けられ始めたのは良いことだった。

二本杉峠下(河津側)に佇む地蔵仏

 二本杉歩道について以前、私は所属会の会報に次のような文を寄せていた。

*     *

 来年度定例山行候補地としてTAKさんより提案の「二本杉歩道」を、一緒に歩かせていただいた。二本杉峠は、三島から下田まで伊豆半島を縦断する旧下田街道(現国道414号)が天城山稜線を越える核心部である。河津町の資料には次のように記されている。
 天城峠を越えて南(賀茂)と北(田方)の交通の始まったのは、いつの頃か定かではないが、いくつかの古道や旧道が残っている。その内の一つ、二本杉峠(旧天城峠)越えのルートは文政2年(1819)に開通し、幕末開国を巡って、数多くの歴史上の人物が往来した街道である。(中略)明治38年(1905)に旧天城トンネルが開通するまで、この街道は伊豆の南北を結ぶ幹線道路で、文化交流や日本歴史に多大な影響をもたらしたため、日本の歴史の道百選に選ばれている。
 TAKさんの要請は、この峠道は近年の大雨で荒れ、河津側の宗太郎園地~二本杉林道間が閉鎖されているようだが、歩行が可能かどうか踏査してみるということ。この道は観光地である河津七滝の延長上であって、「閉鎖」はおそらく観光客に向けての処置だろうと推測した。案の定、登山者にとっては「少々荒れ気味」位で普通に歩ける状態だった。長い歳月踏まれてきた道は、易々とは失われない。ただ、気になることもあった。
 二本杉歩道は「踊子歩道」(旧天城トンネル越え)などと共に、前記文のとおり行政もその価値を認めているのだが、歩いてみると保存意欲が後退しているのではないかと感じられた。これは河津側だけでなく湯ヶ島側も同様。倒木の伐採除去や木橋の補修、付け替え、道標の明確化といったことが、近年行われた様子が見られない。無論、それは登山者にとってはさほど大きな問題ではないが、一方で「歩道」と銘打ち歴史的遺産として位置付けている割には中途半端な対応ではないかと思う(ひょっとすると放棄、永遠の閉鎖ではないかとさえ思える)。道は歩かれることによって維持されるのだから、「通行止め」ではなく、この峠道を歩いてみようと思う人たちに開かれることが大事なことだと言えよう。現代の下田街道=伊豆縦貫道の早期開通と同等に、過去の下田街道の「開通」も意義があることだろう。

(2015年7月記)

*     *

二本杉歩道の壊れた橋(2016年12月)

 河津七滝宗太郎園地より北西に上がり伊豆山稜線を越える二本杉歩道(旧下田街道)については、既に昨年6月踏査を行った(『やまびこ』№220)。その後のルート状態と冬季となる定例山行での問題点を確認するため下見を行った。
 今回再訪し、宗太郎園地~二本杉林道間の状態は前回同様、沢内が歩きにくいものの登山者にとって特に危険な箇所があるものではないが、宗太郎園地分岐の橋渡り口には進入禁止ロープが前よりもしっかりと張られ、また二本杉峠北側には通行止め告知の指導標が目立って設置されていた。もとより2013年夏より「当面の間」ということで閉鎖され三年余が経つが、一向に修復に着手した形跡はないのだから、道は荒れるに任せたままというわけだ。定例山行という性格上、また冬季という条件上、通行止めルートを使い万が一参加者にケガがあった場合には問題があると判断、天城峠から二本杉峠への縦走に変更を提案し、企画者のTAKさんの了解を戴いた。道の駅に下る本隊と別れ、同ルートを逆に歩いた。葉を落した山稜線歩道からは富士山がきれいに眺められ、展望のない二本杉歩道より気持ち良く歩けるかなと感じた。
 前回の報告にも記載したことだが、行政の保存意欲の後退と「閉鎖」という安直な方法が、歴史的な街道を埋もれさせてしまうのではないかと危惧する。道は人に歩かれることで保たれるのだから。

(2016年12月記)

涸れ沢状で踏み跡は判然としない(2016年12月)


花菖蒲

2024-06-18 16:07:27 | 日記

いつもより大回りの散歩から

長谷川家長屋門前の花菖蒲

長谷川家長屋門(はせがわけながやもん)前の花畑では、季節毎の花が見られる。今は花菖蒲がみごとに咲いている。

*長谷川家は、慶長元(1596)年頃から島田代官であった長谷川藤兵衛長盛の弟、三郎兵衛長通が先祖になります。長通は、兄の長谷川七左衛門長綱に随い相模国に赴き、代官職を務めた後、ここに居を移し、代々三郎兵衛を名乗り庄屋を務めました。この長屋門は、その庄屋宅の門で、棟札には「維時元治元龍舎甲子臘月吉日・野田村・大工棟梁・栄次郎」と記されており、元治元(1864)年に建てられたことが分ります。茅葺入母屋造り、間口5間半(約10メートル)、奥行2間(約3.6メートル)で、市内に唯一残る茅葺長屋門です。(島田市ホームページより)

立石稲荷(たていしいなり)

こちら側から見ると何やら巨神兵(ナウシカ)の頭部のようで怖ろしい。下部の洞の中の小さな狐たちは可愛らしいが……

*静岡県島田市を走る国道一号線バイパス脇の樹木が林立する山中にある、巨大な石が立っていることからその名が付いたとされる、御神体として高さ8m 幅10mの巨石を祀る稲荷社。その昔、沢の砂防工事を行う際に、この巨石の西側部分を砕き次々運んで工事をしたという所が今も残ることから、元々はもっと巨大な石だったと考えられている。商売繁盛や大漁祈願などの御利益があるとされ、江戸時代末期より「波田のお稲荷さん」として、地元民をはじめ焼津の漁師や島田の芸人達に親しまれてきた稲荷社で、毎年3月の第1日曜日に、地元の方々により祭事が執り行われている。(島田市観光ガイドより)


高桑信一編『森と水の恵み』

2024-06-18 14:51:47 | 山の本棚

――生を取り戻す舞台

2005年8月発行・みすず書房

 みすず書房から今夏(*2005年)刊行されたシリーズ「達人の山旅2」と銘打たれた16篇からなるアンソロジー。編者の高桑信一氏は、元浦和浪漫山岳会の代表で、ベテランの山旅派(?)の沢屋。会報11月号の編集後記で「登山者が山麓の風景を見なくなった。」という氏の言葉を紹介したが、消えゆく山里の文化や失われた径などを記録し、活発に著述や発言をしている。私が「山」を見ようとする時、大きな示唆を得ている一人である。
 高桑氏は本書「編者あとがき」の中で、

 本書を編むにあたって心がけたのは登山者の視点を捨て去ることだった。そこには登山という行為を基軸としながら、自然との共存をわが事のように慈しむ生がある。(中略)
 登山という領域に終始しながらも、山は主体ではなく、日々を暮らす者たちが生を取り戻すための舞台なのであった。

と述べている。
 まさしく、「山」は単一に山だけとしてあるのではなく、「日々を暮らす」こととの関係の中で、ある時は対峙しながらも、癒されていくことができるのだろうと思う。「山」は舞台装置に過ぎず、そこには多様な精神が投影される。本書は山を鑑にしながら、多様な生の有り様を示したものだと言える。
 本書を手にしたもう一つの大きな理由は、執筆者の中に若林岩雄氏の名前を目にしたことだった。若林氏は、これも沢登りの代表的な山岳会である「わらじの仲間」の元代表であった。氏の名前に初めて触れたのは、もう何年か前、セルフレスキュー関連の資料を求めていた時、『岳人』誌に連載を執筆されていた。当時は都岳連の遭対関連の仕事もされていたかと思う。それからまた何年かして、再び『岳人』で氏の文章を目にした。「いくつもの季節をめぐり いまの山登りへ」と題し、「わらじの仲間」を退会し、故郷である長野へ移住(職場は東京でのサラリーマンのまま)したこと、その訳のひとつとして第三子の自閉症という障害のことを知った。バリバリの沢屋(『ヤマケイ登山学校』の沢登り篇を担当)から、家族だけの「安曇野山歩会」と称し、里山を巡っているということだった。私は、自身の息子の障害(ダウン症)のこともあって、氏の「いまの山登り」への転進を強く受け止めた。
 本書では「息子と歩く里山」と題し、その詳しい経緯(いきさつ)や、その後の自身の意識の変化、山登りでの息子の様子、人との拡がりなどが語られていた。それは例えば

 そんな意識を引きずりながらも、近くの里山に通っているうちに、しだいに登山とか沢登りとかいう意識が抜けはじめた。里山をウロウロすること自体が、楽しみに変わっていく。のであり、「せいぜい山にでも一緒に行くくらい」の中で、息子とのコミュニケーションの工夫や、様々な発見を繰り返し、それに伴い、近所、養護学校、幼なじみといった人との繋がりも、また拡がっていくのである。
 山では、とくに何かのルールや規則に従う必要がない。もちろん、天気、温度、道の状況などへの対応は必要であるが、人間が設定したルールや目標があるわけではない。自然のルールに従えばよいので、それさえ守っていれば、何に興味を示そうと、どんな寄り道をしようと自由であり、拒否されない。

と、若林氏は総括するのであるが、山が拒否しないのは、個々の人間存在の有りのままを映す鑑であるということに他ならない。そこにある山は、日々の暮らしと無関係にあるものではないし、逆に日々の暮らしを包括してしまうものでもないだろう。困難を伴う登山であれ、里山歩きであれ、山に通うのは、少しずつ生を確認していく作業ではないのか。
 それにしても、若林氏をはじめ本書に登場している人たちの姿は、何と軽々とした精神だろうかと思う。「日々の暮らし」が、生きづらい方向に向けられている今日の中で、そうした精神の存在は「ああ、山に行こう」という気持を強くさせてくれるのだ。

(2006年1月)

 


柏瀬祐之『ヒト、山に登る』

2024-06-10 16:54:05 | 山の本棚

1999年8月発行・白水社

――風景をこえて

 今年(*2002年)は国連の定める「国際山岳年」である。国連の意図するところは、環境あるいは資源としての山岳地域の〝保全〟あるいは〝開発〟なのであり、行為としての〝登山〟を考えてのものではないが、これを契機として山岳地域を遊び場とする側も某かのアピールをしていこうと、各種のイベントが企画され開催されている。山岳地域の〝保全〟あるいは〝開発〟が、国連にとって重要な課題となる背景には、地球環境の破壊という、その存立基盤への危機感がある。つまり、ほころびを見せ始めた〝近代〟を延命させるためには、山岳資源の管理が欠かせないものとしてあるのだろう。それでは行為としての登山をする側は、この機会に何をアピールしようとするのか。保護、保全といった環境の側面からだけでなく、行為としての〝登山〟そのものが、人間や近代の存立にどのように関わっているのかを考えることは、あながち無意味なことでもあるまいと思う。柏瀬祐之(かしわせゆうじ)氏の著作から、その辺りを探ってみたい。
 中公文庫版『午後三時の山』の著者紹介によれば、柏瀬祐之氏は
「1943年、栃木県足利市に生まれる。10代より山登りを始め、20歳の時に岳志会を設立。当時の初登攀争いに伴う権威主義的傾向に反発し、谷川岳一ノ倉沢の全壁トラバースをもって問題を提起、硬直化した登山界に新風を吹き込む。日本山岳会々員。中央大学法学部卒。著書に『山を遊びつくせ』『ヒト、山に登る』があり、編著書に『日本登山体系』(全十巻、以上すべて白水社)がある。」とある。
 谷川岳一ノ倉沢全壁トラバースや、『山を遊びつくせ』での近代アルピニズム終焉の予告が、当時の登山界へどのような衝撃を与えたのかは知る由もないが、頂上を極めることでなく、もたらされる「感覚の覚醒」こそが登山という行為の意味なのだという主張には、首肯する。

……日本経済がまだかろうじて高度成長路線を歩んでいた一九七〇年代はじめまでは、登山の世界を初登頂・初登攀主義(より未知へ)、標高主義(より高くへ)、困難度主義(より困難へ)が覆っており、登山者たちはその目玉商品に向かって蟻のように群がっていればよかった。他にことさらの動機など必要もなかったのである。だが、群れれば群れるほど対象となる山やルートは喰いつくされ、小粒化して、やがて目玉商品は事実上この地球から失われ、あとにはわずかに、自然の中で無為に遊ぶ物見遊山の楽しみが残るだけの寂しさとなった。
 近代登山誕生以来二百年にわたって人々をひきつけていた目玉商品とその裾野がなくなったのだから、そこに不毛の荒野しか残らないのは当然だろう。いや、ひとつだけ残った物見遊山を寂しいといい荒野と呼ぶのは浅見かもしれない。自然の中で無為に遊ぶというその精神の成熟と豊穣は本来語るべくもないからだ。むしろその成熟と豊穣が耳目をひきつける目玉商品の存在によって忘れられ、痩せ衰えさせられていたと見るべきなのだろう。

(午後三時の山「今、山に登るということ」、下線―takobo4040以下同様)

 アルピニズムを至上の価値とするヒエラルキーではなく、岩登りには岩登りの、沢歩きには沢歩きの、雪山には雪山の、そして尾根歩きには尾根歩きの個々の楽しみがあり、「登山の大目的は体験のおもしろさ、楽しさ、すばらしさである。だからそのメイン・ディッシュを味わうためには、登らない登山があってもいい。登らない貪欲さも時には必要だし、頂上なんてドーデモイイサと思う自由は、いつも保っておきたい」(前掲「なによりも深く雪と遊べ」)と軽やかに述べるのである。
 さて、アルピニズムの〝終焉〟は、ひとり登山に限ってのことだろうか。時を同じくして〝近代〟そのものもまた〝終焉〟に向かい始めているのではないか。近代を支えてきた経済主義、世界主義、科学主義のほころびは、経済的停滞、民族・宗教的対立の拡大、地球環境の破壊という形で顕著になってきている。それでは、そもそも登山と近代とはどのような関係の中にあったのか、また登山という行為は、近代を超える契機となるのか、その辺りを提示したのが『ヒト、山に登る』である。
 柏瀬はまず、近代登山の幕開けといわれる1786年のモンブラン初登頂劇の謎を追いながら、その中心的人物の一人にして近代登山の始祖と呼ばれるH.ソシュールに焦点を当てていく。そして、モンブラン初登頂は登山のみでなく、ヨーロッパ近代の始まりそのものである、と大胆な結論を導き出すのである。
 私たちが山に登る理由の一つとして上げる〝風景〟に対する美意識は、人間が根源的に持っていたものではない。中世教会支配の弱まりによってもたらされたルネサンス=人間中心主義によって、人間の眼の焦点=視覚こそが空間の中心となっていったのである。

 私は「近代」を視覚優位の時代と理解している。人間に視、聴、臭、味、触の五感があるとして、視覚の論理が他の四つの感覚をも席捲した時代と思っている。
 視覚の論理とは焦点主義である。空間という漠然とした広がりを、いつも焦点を中心に据えてとらえる。焦点は、それを絞りこむことによって外界を認識するという、もっぱら人間の側の事情にもとづく任意の一点にすぎないが、その任意の一点が定められた瞬間、それは唯一絶対の中心として空間を支配する。

(「ヒト、山に登る」)

 〝風景〟は最初から存在していたのではなく、空間の中心が神から人間の視覚(正確には、線遠近法的解釈)へと移ったことによって初めて認識されたのである。言い替えるならば、自然が神や悪魔といったものの領域から人間の領域へと変貌していったとも言える。柏瀬は「神聖な場所やケガれた場所など異質な空間の入りくんだ状態が、距離や高低といった測定可能な物理的空間に還元され、どこもかしこもノッペラボウに均質化してしまう、それこそ近代の根本である」というE.フッサールの言葉をあげ、モンブラン登頂は、世界史上でも初めての「空間の大衆化・均質化」、つまり近代の始まりそのものであったと喝破する。
 一方で、「自然に帰れ」と唱えた同時代の思想家ルソーの自然観が、絵画的、調和的なもの、言うなれば「去勢された自然」であるのに対し、H.ソシュールの中には自然との臨場感、接触感が存在するという。H.ソシュールは「危険そのもの、希望と恐怖との入れかわり、自分の動作によって、心の中に保たれる不断の動揺」こそがアルプスの魅力なのだと吐露しているのである。

 自然との接触が強まることによって、物理的空間のノッペラボウな均質性は崩れ、自分の接する空間だけが異質な濃密さでふくらんで、他とは異なった非均質な心理的空間をつくりだす。山は高さと気象条件こそ違え、同じ物理的空間として平地と連なっている、という脱中世的意識が、山を広く人々に開放したにもかかわらず、実際そこに登りはじめるやいなや、その科学的前提は、H.ソシュールのいうわけのわからない「不断の動揺」とともに崩れるのである。

(前掲)

 このような「自然との接触感」は、私たちも山に登る中で往々に体験する。それは、肌で感じる風や掌で掬う水であったり、指で感じる岩肌の硬度や足裏の土の感触であったり、木や獣の臭いであったり、さらには闇やガスの中の何か解らない気配だったりする。単なる視覚的な〝風景〟ではなく、それら全てが登山という行為の中から感じられるのである。そこでの心理的な振幅「不断の動揺」が大きいほど、濃密な接触感=質感が生まれるのである。それは、自然を通した「自己との接触感」とも言えるだろう。例えば人と会うこともない静かな山や、凛とした冬の山を想起すれば、その中で感覚が研ぎすまされていくことは容易に体験できる。言ってみれば、視覚によって客体としての〝風景〟を捉えるのではなく、自分自身が風景の一部となる、風景に溶け込んでいく感覚なのだ。
 かくして、登山なる行為は視覚の絶対化という近代的価値感の中から誕生したにもかかわらず、その接触感、触覚的志向によって、「はじめから脱近代の懐刀をのんでいる」と柏瀬は言うのである。
 先に柏瀬は、近代を「視覚優位の時代」と定義したが、人間のいわゆる五感は、「視覚、聴覚、触覚、嗅覚および味覚、痛覚の順で展開し、最初の視覚に近づくほど対象の認知が優位を占め、逆に最後の痛覚に近づくほど自分の身体の経験が優位になる」。つまり視覚の客観主義から痛覚の主観主義へというスペクトルであり、その中間に位置する触覚は、両者をまるごとかかえこみ生かせる――近代を超える可能性を持ったものではないかと願望するのである。それは劇場空間から祝祭空間へとでもいうのだろうか、「臨場感の高揚した社会」と柏瀬は形容している。
 近代とりわけ20世紀は、「映像の時代」といわれるように、まさに〝視覚〟が優位を占める時代だ。子供のテレビゲームや犯罪の様相を見ても、現代が〝痛覚〟から最も遠ざかっている時代であることがわかる。例えばTVやコンピューターに代表されるように、フッサールの言う「測定可能な物理的空間」=デジタル(記号的)な空間は、実体のない「臨場感の喪失した」バーチャルな空間(その政治的表現が〝グローバリズム〟であろうと思うのだが)へとヌエのように変貌しようとしている。繰り返しになるが、それは「任意の一点」に過ぎない視覚=線遠近法的解釈が、「唯一絶対の中心として空間を支配する」ということ、空間の解釈が一元化されるということである。

……われわれの目の前にある実在の世界というものは、線遠近法的に見るひとには線遠近点法的な空間が、そうでないひとにはそれなりの空間がひらける。どんな見かたも受け入れられる。多元的な世界解釈が許されるわけだ(人間ばかりでなく、動物にだって彼らなりの解釈が許される。したがって実在世界では生きとし生けるものすべてが共存できる)。

(前掲)

(2002年11月記)


いつもの散歩

2024-06-09 16:25:48 | 日記

はっきりしない天気で予定の山歩きが中止となって、いつものコースの散歩。まずは6/6記事「大津落合のクスノキ」中とは別の八兵衛碑二つ。
左/野田・鵜田寺境内の八兵衛碑(明治35年・西野田講中建立)大小二つの碑が重なって建てられている。藤枝バイパス工事に伴ってここに移されたらしい。
右/尾川・尾川丁仏参道入口の八兵衛碑(明治35年・建立者不明)千葉山尾川丁仏参道入口に馬頭観音(左)や地蔵菩薩、道標などと共に建つ。丁仏参道の登り口は昔はここではなかったから、これも移されたものではないだろうか。
ちなみに落合の八兵衛碑は明治36年建立、大草は平成7年に再建だが元は明治38年建立。明治35年〜38年に何があったか?

 これも例の招魂社の大クスノキと大津谷川。離れて見てもなかなか立派に思う。

足元を見ると道端にはさまざま草花。オオキンケイギク(5/25記事)ではないが、外来種で野草化したものも多いようだ。
「おのが身を特定外来生物と知らず誇れりオオキンケイギク」知人の短歌、帰化定着してしまったものは、それはそれで良いのかな、あんまり排外主義的な態度は……。変化していくのも自然の内。

 アジサイ

 ムラサキカタバミ

南アメリカ原産、江戸末期に導入されて帰化したらしい、環境省の要注意外来生物に指定されている

 ノアザミ

 ネジバナ

 マツヨイグサ

待宵草 これも北アメリカ原産で要注意外来生物、「宵待草」は竹久夢二か

 ホタルブクロ

花、つぼみ、若苗が食用にされるそうだ、食べたことはないなぁ