山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

串田孫一『山歩きの愉しみ』

2024-06-06 16:21:46 | 山の本棚

 木の中に、もし物語を見るのならば、それは植物らしい物語のはずである。地上に生きる一切のものと同様に、宿命的にそれぞれの場所に根を張っているが、通りすぎて行くものとして私が見る時には、見られるものらしく、あるものは申し分なく気取り、気取りそこねてうなだれるものもあり、またあるものは争いのあとを隠し切れずにいる。
 彼らの生命の長短は別にして、彼らには、私たち人間に隠されている時間があるに違いない。その時間の、あまり窮屈でない区切りのなかで、木は物語を自分で創り出している。その物語をまちがいなく見抜くことは困難であるが、時にはなまめかしい仕種のあとさえ残っているのを見かけることもある。

(串田孫一「山の博物手帖」より)


大津落合のクスノキ

2024-06-06 15:42:19 | 日記

樹高:22m、目通り幹囲:6.8m、推定樹齢:300年以上 ※WEB『人里の巨木たち』内「静岡県の巨樹」による

 いつもの散歩コース内に大きなクスノキがある。大津谷川に架かる堂前橋の袂にあって、境内の裏側から社に覆い被さるように立つ姿は凛々しく、四方からよく目立っている。クスノキが立つ忠魂社が建立されたのは、日清(1894〜95)・日露(1904〜05)戦争の前後だろうから、たかだか100年余にすぎないが、この木はそのだいぶ前からここに立っていたわけだ。

大津忠魂社

 堂前橋を渡った対岸には橋の名の由来となったお堂があって、二体の頭部のない石仏が祀られている。また、お堂の前には小長谷八兵衛碑(1903年、落合講中建立)が建てられている。八兵衛信仰はほぼ志太郡内(大井川下流左岸域)のみというきわめて狭い範囲の民間信仰だ。小長谷(川中島)八兵衛という人が何者で信仰されるようになった経緯と意味するところは不明だが、疫病や水害を除けてくれると信じられていたようだ。大津地区にはこの落合をはじめ、大草、尾川、野田と集落ごとに八兵衛碑が祀られている。堂前橋のある場所は、落合という地名のとおり大津谷川と尾川の谷が合わさる所であるから、洪水回避(川除)のポイントとして信仰が形成されることは充分に考えられる。もしかすると、忠魂社として祀られる以前の社と対岸のお堂は一体の信仰としてあって、このクスノキはそのシンボル=神木としてあったのかもしれないと想像した。

堂前橋対岸のお堂と八兵衛碑


山の本棚

2024-06-01 14:37:53 | 山の本棚

 ドイツ文学者の故 池内紀(おさむ)氏が、『山と渓谷』誌に2007年1月号から2019年10月号(同氏が亡くなったのは2019年8月)まで連載していた、書評エッセイ「山の本棚」全153篇が昨年刊行された。このエッセイは、ごく稀に『山と渓谷』誌を手にすることがあれば目を通していたが、全篇を目にするのは初めてだった。まず驚いたのはその量、月刊誌に12年にわたっての連載だから当然なのだろうが、B6判・470頁は充分なボリュームがある。ただ、その時々に気の向いた書題を拾って、ぼちぼちと一日一篇の勘定で読み繋げば半年は愉しめる案配だ。池内の簡潔な表現も、読み進めることを苦にさせない。

 帯には「古今東西、山と人、自然から生まれた言葉の森を池内紀と歩く。」とあるが、その森の広さと樹種の多さに驚いた。「山の本棚」であるから、いわゆる山書が並ぶのだろうと想像すると、さにあらず。確かに串田孫一、辻まこと、上田哲農、畦地梅太郎、ウェストン、高桑信一などといった、それらしきものも並ぶが、柳田國男、宮本常一、南方熊楠などといった民俗学から、文学、歴史学、考古学、動・植物学、文明論、各種の図鑑(『ときめくカエル図鑑』…?)、画・写真集、地方の山岳会の地域研究誌などなど、果ては山の歌集や観光ガイドの類さえもある。飯田蛇笏、河東碧梧桐、井上井月、小林一茶の句集があるのは池内が俳人でもあった所以か。この本棚に並ぶ雑多な書は、池内の博物学的な興味のほんの一部に過ぎないのだろうが、〝山〟に少しでも引っ掛かれば何でも有りというのが良い。採り挙げられた書の何処に、池内の想うところの〝山〟が潜んでいるかを考えると、さらに面白いというわけだ。例えば杉浦日向子(彼女は私と同い年であったのだ)の『百物語』があった。

「古(いにしえ)より百物語と言う事の侍(はべ)る/不思議なる物語の百話集う処/必ずばけもの現われ出ずると」

 池内の書評は「現代ではわずかにひとけない山にひとりでいるとき、江戸人の感性に似たものがよぎったりする。江戸の人がフシギをちっともフシギと思わなかったことが現代人にはフシギだが、それは近代性という名のもとに大切な何かを失ってしまった結果にすぎない。」と結ばれている。〝山〟から味わい教えられるものは、単なる可視的な自然景観だけではないことがよく分かる。時間やもっと人間臭いことも含めて、あれやこれやの全てが〝山〟なのであった。


庭のアジサイ

2024-06-01 09:34:50 | 日記

妻の植えた庭の紫陽花
小振りだけど葉に斑入りのガクアジサイが好み

6月入り、そろそろ雨の季節か・・・で、何で6月が水無月なのか?
「最も有力な説は、田んぼに水を張る月という意味の「水な月」だという説。“な”は“の”という意味の古語で、“無”は当て字」ということらしい。