梅雨が明けて夏山シーズン本番へ
富士山とハクサンシャクナゲ
7/17(2564.4三等三角点「奥槙沢」より)
夕暮れの赤石岳
富士山、手前右に笊ヶ岳・布引山
7/19(2701標高点辺り、赤い屋根の小屋も見える)
聖岳方面
荒川岳方面
おまけ 山小屋の夕食
生姜焼きと具だくさんの味噌汁が売り
梅雨が明けて夏山シーズン本番へ
富士山とハクサンシャクナゲ
7/17(2564.4三等三角点「奥槙沢」より)
夕暮れの赤石岳
富士山、手前右に笊ヶ岳・布引山
7/19(2701標高点辺り、赤い屋根の小屋も見える)
聖岳方面
荒川岳方面
おまけ 山小屋の夕食
生姜焼きと具だくさんの味噌汁が売り
一等三角点「坂部村」(坂部高根山)
師走の「おはようハイク」は、坂部高根山に行った。担当の河野君お薦めの展望所からは、高草山の上に富士山が、また北には大井川筋の山々と申し分無い眺望だった。目的地の坂部高根山頂には白山神社の祠があり、藤枝蔵田の高根白山神社との関連も窺えて興味が湧くと共に、もう一つここには一等三角点(点名:坂部村)と、県内ではここだけという天測点(かつて三角測量の位置座標を補正するための天文測量に用いられた測量標、全国で48点)が埋設されている。現在は木立に囲まれ山頂からの展望は望めないが、この場所が地図測量において重要な地点だったと推測される。
三角測量の原理は、三角形の2点間の長さと内角が分れば、もう1点の位置(残り2辺の長さ)が分るというものだが、ここで必要になるのは正確な2点間の距離(基線)となる。国土地理院によれば「基線は3㎞から10㎞という直線と平坦な地域が確保できるところを選び、4mから25mの伸縮の少ない正確な物差し(基線尺)を使用して、その長さを慎重に測りました。特に温度による伸縮を少なくするため、明治末期までは氷漬けにして温度を0度に保った基線尺を使用したといわれます。」(地理院HP「一等三角測量とは」)とある。
坂部高根山は牧之原台地末端の、山というより丘陵部の僅かな出っ張りに過ぎないが、地形図を眺めると南東側の川尻より静波の海岸に沿った平坦地から望めば明瞭な目標点となるピークに思える。仮にこの海岸部に基線を設けたとすると距離は約7㎞となり充分に条件を満たすわけで、坂部高根山は三角点網の基点としての役割を果たすことになる。顕著な山でもない場所に一等三角点が存在するのは、こういう訳があるようだ。坂部高根山(坂部村)をはじめとして静岡県の一等三角点を探してみよう。
おはようハイクの折、先述の展望所で富士山や大井川の奥山の他に二つの山を探していた。北東方向の富士山やや左には静岡市のランドマークで、担当のK君のフィールドでもある「竜爪山」が見えた。反対側の北西方向には島田の街の向こう側に「八高山」が見えた。この2峰と城跡でもある高天神山(高根山北面の展望所からは見ることはできない)が、一等三角点「坂部村」と共に三角点網を形成する地点となる。
静岡県内(県境を含む)の一等三角点(補点を含む)は次の通り。(地図参照)
①神石山(324.95m)
②富巻山(563.49m)*富幕山
③神ケ谷(37.58m)
④都田村(86.11m)*2016年3月支障撤去
⑤白倉山(1027.40m)
⑥上野巳新田(33.63m)
⑦熊伏山(1653.67m)*長野県
⑧黒法師岳(2068.09m)
⑨八高山(832.38m)
⑩高天神山(220.86m)
⑪坂部村(150.53m)*高根山
⑫大無間山(2329.62m)
⑬赤石岳(3120.53m)*長野県(県境上)
⑭竜爪山(1040.84m)*文珠岳
⑮毛無山(1945.40m)
⑯羽鮒村(320.71m)
⑰愛鷹山(1187.54m)
⑱達磨山(981.83m)
⑲岩科村(520.09m)
⑳万城岳(1405.63m)*万三郎岳
その間隔は約40㎞間隔で本点、25㎞間隔の密度に補点といわれるが、地図を見ると必ずしもそのようにはなっていないようだ。しかしながら、海岸部の小さな三角から、山間部に向けて段々と大きな三角形になっていく傾向は見て取れる。また、点名が山名である一等三角点は里山、奥山に拘らず、いずれも山座同定の標準となる特徴を持った(隣接の一等三角点からよく確認できる)山であり、静岡を代表する山が含まれる。私自身は、この内「熊伏山」が未踏であるから、本年はこれを訪れ、静岡一等三角点峰達成としたいものだ。また、会の20周年では春合宿で「毛無山」を訪れる。ここからの隣接一等三角点「赤石岳」「大無間山」の眺望も楽しみである。(2016年2月記)
【追記】2024年7月14日
会のLINEトークの中で、O・Kさんから「行ったことのない県内一等点の場所を地形図で見ました。都田村が??このあたりと見当はつくが、見過ぎて目に入らない?」とのメッセージ。調べてみると一等三角点「都田村」は2016年3月、支障撤去されていました。
一等三角点があったのは、都田浄水場の東隣の場所
さらに、国土地理院の基準点体系分科会は2024年を目途に「少数の三角点を除き測量の基準としての用途を廃止する方針」を報告しています。“支障”がない限り既存の三角点標石が撤去されることはないでしょうが、測量の基準点という役割は終えられ、衛生測位システム(GNSS)を利用した電子基準点に置き換えられてゆくということでしょう。静岡県内の一等三角点の内、現在、電子基準点が取りつけられているのは、愛鷹山、達磨山、万城岳(万三郎岳)、岩科村の4点。また国土地理院は「電子基準点、三角点、水準点等の基準点の標高成果について、令和7年4月1日に衛生測位を基盤とする最新の値に改定します」と予告しています。標高が変わるお山も出てくることでしょう。
「野原の三角点は三角点を知らぬ人に、山の三角点は三角点を読む人に掘り取られてしまいつつあるのは誠に惜しい事ではありませんか。これらの三角点は国宝でありますから少なくとも我々だけは三角点を愛してやりましょう。」(加藤文太郎『単独行』より)
小屋開けを迎えたが生憎の天候が続く
「昨日、今日(7/11)と風が強くて雨もありで…嵐みたいな時もあります」「夕方4時、小屋前気温11℃」
「今朝(7/12)6時頃の小屋裏から」
赤石岳
聖岳
荒川・悪沢岳方面
裏の展望台への道
ハクサンシャクナゲ
2564.4m三等三角点『奥槙沢』、名なしではありません
小屋裏の小ピーク2564.4m三等三角点「奥槙沢」の名前が出ましたので、南アルプス南部の三角点について少々。
三伏峠から光岳までの南アルプス南部主稜線のピークで一等三角点は盟主・赤石岳(3120.5m「赤石岳」)だけで、範囲を南アルプス全域に拡げても甲斐駒ヶ岳(2965.5m「甲駒ケ嶽」)と二峰しかありません。二等三角点は南部主稜線では小河内岳(2802.0m「小河内」)と上河内岳(2803.4m「上河内岳」)。
三等三角点は主稜線から少し外れますが荒川中岳(3083.7m「荒川岳」)、大沢岳(2819.8m「大沢岳」)、兎岳は2818mの山頂から西に少し外れた場所に2799.8m「兎岳」、吊り尾根の聖岳も少し複雑で三つの標高があります。聖岳自体の最高地点は3013m前聖岳ですが、主稜線から外れた静岡側に2982m奥聖岳があり、三角点は吊り尾根の東端に2978.7m「聖ノ岳」としてあります。やはり主稜線から少し外れますが、薊平の分岐から少し伊那側に下りた所に2314.5m「西沢」、静岡側に外れた2524.2m「仁田岳」、2354m易老岳もまた易老渡側に少し下りた地点に2254.5m「易老岳」、最後は2591.5m「光岳」となります。支稜線では3141mの悪沢岳(荒川東岳)には意外なことに三角点は設置されていません。千枚岳(2880.3m「上千枚」)、2515mマンノー沢頭の山頂から僅かに外れて2503.9m「千枚」がありますが、この点名「上千枚」は上河内岳東尾根上の2359.0m上千枚山の点名ともなっています。聖岳東尾根上には白蓬ノ頭(2632.8m「白蓬沢」)があります。
こうしてみますと三角点は全ての主要ピークに設置してあるものではなく、また標高や山頂(最高地点)とも基本的には関係がないことが分かります。日本第二位の高峰・3193m北岳(3192.5m「白根岳」)は三等三角点ですし、第三位の3190m奥穂高岳には三角点そのものが設置されていません。その意味では、我が赤石岳の一等は立派(?)なものです。ご存知のとおり三角点網は細かい四等から大きな一等へと段々と大きな網になっていきますが、赤石岳に隣接する県内の各一等三角点との距離は、毛無山35km、大無間山23km、熊伏山33kmとなります。もう一つ蛇足となりますが、聖岳には三つ標高があることを前述しましたが、富士山剣ヶ峯も『地理院地図』には三つの標高が記載されています。
(1)電子基準点「富士山」3774.9m
(2)二等三角点「富士山」3775.5m
(3)富士山最高地点の標高3776m(二等三角点「富士山」より北へ約12m)
井川は静岡最北部の山村であり、大井川最上流部の南アルプスによって遮断された閉塞谷、つまり行き止まりの谷である。車道が整えられた今でこそ、大井川の平野部への出口となる島田から二時間程で行けるが、戦後も暫くまでは、峠の山道を越える以外にない文字どおりの離れ里だった。井川へ越える車道が入るのは1957年の井川ダム完成の後であり、1958年、富士見峠を越える大日林道(現・県道南アルプス公園線/県道60号)、大井川筋では1971年、林道閑蔵線の完成を待ってのことであった。また、大井川鉄道井川線の前身は、戦前より電源開発(ダム建設)のための軌道としてあったが、旅客営業を開始するのはやはり井川ダム完成後の1959年であった。
こうした閉塞谷の秘境にあって、外へと通ずるルートは、主要には川に沿って縦に移動するものではなく、隔てる山稜の峠を横に越えての交流だった。山伏から南下する大井川・安倍川分水嶺では、梅ヶ島へ抜ける三尺峠(牛首)、孫佐島へ抜ける井川峠、湯の森や奥仙俣に抜ける峠などがあるが、地形的に見ても中河内川へと抜ける大日峠が、一番越え易かったであろうことは想像できる。大日峠を越えた中河内川最上流部の口坂本は、名のとおり井川への入口であり、それ故、旧井川村に属していた。ダム建設以前の井川と静岡との交通には、徒歩での大日峠越え(3時間)、口坂本からのオート三輪(2時間)、上助からのバス(1.5時間)、計6時間半程を要したようだ。物資は持子と呼ばれる運搬人が背負って、もしくは索道を使って大日峠を越えるしかなかった。
昭和30年頃の井川・大日峠
『修訂駿河国新風土記』によれば
〝大日嶺は此村より登り一里半許、東の方、途中に冷水の湧出る処あり、ここを水呑と云、下の方に大日堂あり、嶺の名これによる、神祖府に御在城の時、此嶺に御茶小屋を建、足久保にて製せし茶を壼に詰、此処に納め置、後に御台所に納めしとぞ、海野弥兵衛・朝倉六兵衛司る処なりと由緒書に見えたり、其跡石垣存す、此峠を西に下れば井川中野村なる刎橋の本に到る、凡下り一里半余……〟
とあり、既に江戸時代より頻繁な往来のある峠であったことが窺える。〈冷水の湧出る処〉には、水呑茶屋があったらしい。
大日峠を越えたのは、井川の人々や生活物資だけではない。南アルプス登山のためには、この峠を越えて井川へ入らなければならなかった。冠松次郎の『大井川の冬』によれば、静岡駅の到着が早朝の4時42分、7時50分の安倍鉄道の始発に乗り、牛妻からは自動車で唯間へ。それから5貫目位のルックを背負って、気ままに歩き出した……とある。
〝口坂本で峠へ行く人に荷を托し、写真機だけ持って峠道を登って行った。長堤のような大日峠につづく山々を見ながら、途中の掛茶屋でウドンを一杯食べて空腹を癒し、それからやや急な坂道を登って行くと間もなく水呑茶屋についた〟
北アルプスで言うならば上高地への入口としてのかつての徳本峠越えと全く同様の意味が、井川・大日峠にはあったのである。今日、由緒正しき峠を歩いて越すのも一興だろう。
*参考:金子昌彦・廣澤和嘉著『登山誌:静岡市を含む南アルプスの山々』
(2014年10月記)
現在の大日古道の様子は下記「大日古道と井川村」参照
知人からの南アルプス便り、小屋開け前の準備に忙しい
絶好の布団(毛布)干し日和
コーヒーブレイク
やっと荷揚げのヘリが来る