山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

駒ヶ岳の由来

2025-01-11 10:49:20 | エッセイ

前の記事、山を彫る「会津駒ヶ岳」に関連して旧稿を掲載する。

*  *  *

 6月定例山行「箱根駒ヶ岳」、7月夏山合宿「会津駒ヶ岳」と、二つの駒ヶ岳が連続することになった。さて、全国には幾つの駒ヶ岳があり、その山名は何処から由来しているのだろうか。
 駒ヶ岳と聞くと、まっ先に思い浮かぶのは南アルプス(赤石山脈)の甲斐駒ヶ岳だろう。「山の団十郎」の異名を取る凛々しい姿が里から直にすくっと立上がり、中央道などからもその個性的な姿が判りやすく、登山者はすぐに覚える山の一つだ。2966メートルの標高は、全駒ヶ岳の最高峰でもある。伊那谷を隔てた中央アルプス(木曽山脈)には、同山脈の主峰、木曽駒ヶ岳がある。標高で甲斐駒にわずか10メートル及ばず、伊那谷では両峰をそれぞれ東駒ヶ岳、西駒ヶ岳と区別している(木曽駒ヶ岳は木曽谷からの呼称)。木曽山脈には南駒ヶ岳もある。これに先日の箱根駒ヶ岳を加えた辺りが、静岡の我々には普段の守備範囲といったところだろう。

 電子国土で「駒ヶ岳」を検索すると上表の18座が挙げられた。多くは地図上の山名は単に「駒ヶ岳」で、箱根、会津、甲斐などという地域名を冠した呼び名は俗称である。以前は、その地に住む人々は地元のその山を単に「駒ヶ岳」と呼んでいたと想像する。分布図を見ると、東日本に偏在していることが判る。石井光造氏は『山DAS』(白山書房)「雪形の山」で「そのほとんどが、残雪が山に作り出す馬の形からの山名である。残雪が多く、遅くまで雪の残る東日本にしか駒ヶ岳がないのは当然だと、当たり前のことに感心した。」と記すが、さすがに箱根に毎年雪形が現れるような積雪は無いだろうし、最高峰・甲斐駒ヶ岳も雪形は聞かない(あるいは、白い花崗岩の岩肌に馬の姿が見えるのだろうか?)。また、馬の雪形に由来する山は白馬岳などあるが、なぜ「駒(こま)」であるのかという疑問が残る。
 一方で、古代の高麗(こま)人〔(前)高句麗〕進出に由来するとの説もある。登山文化史研究家の谷有二氏は、「六、七世紀の頃、朝鮮半島は新羅、百済、高句麗の三国に分かれて戦乱に明け暮れていた。あるとき、それを避ける一団が日本に向かって船出して大磯の浜に上陸してきた。大磯の高麗(こま)山(一六七メートル)に彼らは祖先をまつり、相模平野一円の開拓に乗り出した。そのことは箱根神社の『権現縁起絵巻』にも延べられている。やがて彼らは、箱根にそばだつ高峰の上に、高麗神社を祀ったとあるから、箱根駒ヶ岳の実態は高麗ガ岳ということになる。」(『山の名前で読み解く日本史』より)と述べている。相模、武蔵、甲斐にかけて朝鮮渡来系の地名が多く残ることや、馬の別称としての駒(koma)は朝鮮古語由来との説とも一致する。甲斐国巨摩(こま)郡(現在は、中巨摩郡、南巨摩郡が残る)の地名も高麗由来が有力なことから、おそらく甲斐駒ヶ岳もこの系統ではないかと思われる。また、これより以前から高麗人は日本海を渡来していた。駒ヶ岳の分布が北陸から奥羽山脈西側にかけて多いのは、単に積雪量の多さ(雪形のできやすさ)だけではなく、これを物語るものかもしれない。つまりは高麗人のランドマークとしての駒ヶ岳である。
 さて、会津駒ヶ岳(点名=岩駒ヶ岳)は一般的には残雪期に駒の形の雪形(黒馬=ネガ形)が現れることからとされているが、山麓の檜枝岐にある駒嶽神社の存在(駒形神社など全国に駒の付く神社は約150社あるが、7社を除き東日本=琵琶湖以東にあるのは駒ヶ岳の分布に近い)や、近隣の越後駒ヶ岳との関連などに興味が湧く。この駒嶽神社で奉納される檜枝岐歌舞伎は有名で、舞台は古代ローマの円形劇場のように拝殿に向かって建てられている(国指定重要有形民俗文化財)。檜枝岐には、この他にも星・平野・橘の三姓がほとんどであることや、これに因んだ平家落人伝説や鯉幟を上げない風習など、人口密度が全国で最も低い山間の小さな村は、尾瀬の玄関口だけではない謎めいた魅力を持っている。
 もう一つ興味をそそるのは、旧沼田街道(現在の国道401号線)の存在。国道401は会津若松と沼田を結ぶ道だが、群馬側大清水から福島側七入までは尾瀬沼を挟み、いわゆる幻の国道=点線(登山道)国道であり、群馬・福島県境は自動車道が存在しない唯一の県境となっている。沼田街道は、かつては会津と上州を結ぶ交易路として利用され、会津側からは米や酒、上州側からは油や塩・日用雑貨などが尾瀬沼の畔の三平下辺りで中継されていたようだ。また、幕末の戊辰戦争の際には、佐幕派の会津軍が大江湿原に防塁を築き抵抗したことは、あまり知られていない(実際には尾瀬を越え戸倉で交戦)。今回の合宿の宿泊地である七入から道行沢沿いに沼田峠に至る破線道も旧沼田街道であり、時間があれば少し辿ってみるのも面白い。
 山間の閉塞集落と思える檜枝岐も、歌舞伎の存在や街道としての歴史があり、会津駒ヶ岳への登山だけでなく、付随する様々な好奇心を持って臨めば一層の楽しみが得られそうである。加えて、原発事故によるこの地の現状や、我々登山者への影響、成すべきことなども少し考えてみよう。

(2012年7月『やまびこ』184号「月々の山」)


山を彫る(番外篇)会津駒ヶ岳

2025-01-10 15:16:12 | 山を彫る

会津駒ヶ岳1

駒ノ小屋が見えてきた、稜線まであとわずか

愛唱歌「夏の思い出」の中の一節に「はるかな尾瀬遠い空‥」とある。尾瀬が好きで何度か行っているうちに燧ケ岳、至仏山から見える会津駒ヶ岳が気になり始めた。地形図を見ると尾瀬よりも更にはるかな峰である。その地の様子も知らないままルートを考えた。桧枝岐から登るしか道はなさそうである。桧枝岐か、遠いなぁ。島田からのアクセスが悪い、長い。計画倒れのまま幾星霜。2012年チャンスが巡ってきた。SHC夏山合宿で会津駒ヶ岳を目指す。ここで問題発生、先に計画していた東北旅行と日が重なった。山行担当者にお願いして7/27桧枝岐の手前、会津線「会津高原尾瀬入口駅」で落ち合うようにさせてもらった。旅行は全体を1日前倒しに、車には旅行の支度と山の支度を用意した。7/27会津若松駅まで送ってもらい、しばしの別れ。独り会津線に乗車、呑み鉄のはしりであった。会津高原尾瀬入口駅で降車、SHCを待つ間にもうワンカップとソバの昼食。貸切バスに乗り8時間かけてやってきた会友と無事合流できた。その夜は七入山荘で早速宴会。

会津駒ヶ岳2

駒ノ大池の脇を通って山頂を目指す

7/28いよいよ会津駒ヶ岳に登る日が来た。広葉樹の中の急坂をひたすら登る。2ピッチ、1:40登った所に水場があり、しばし休憩。つわものは給水に行ったが私にはそんな余裕はない、あきらめた。ひと上り後、視界が開けてきた。いつしか周りは針葉樹に変わり駒ヶ岳も見えるようになってきた。ここまで来ればしめたもの、木々は矮小になり展望がどんどん広がる。10:45駒ノ小屋に到着、ここで早めの昼食。エネルギーを補給し、衣装を整え出発、山頂を目指す。この上り道も爽快だ。11:40はるかな峰であった会津駒ヶ岳にとうとう登ることができた。班毎に集合写真を撮り中門岳に向けて出発。計画書でこの名前を目にしたとき、聞いたことがない名称の山に首を傾げた。しかし、この道こそ永年求めていた楽園だった。ほとんど起伏のない広い尾根をゆったりと歩く。お花畑、中でもハクサンコザクラ、残雪、湿原、求めていたものが揃っていた。中門岳で山行の達成を祝い、来た道を引き返した。小屋付近でOさんが捻挫して下山は難儀したが、なんとか宿に戻ることができた。

会津駒ヶ岳ハガキ

 

会津駒ヶ岳山頂

さて、会津駒ヶ岳を彫るのは、なかなか手強い。山が大きくて画がまとまらない。考えた末、小屋下から下を見たところ(登ってきた道)を彫ることにした。木道に人ひとり、これは私だ。永年の夢が叶い達成感を反芻しながら下っている姿です。満足する出来映えではなかったためもう一枚挑戦。ちょうど年賀状の時期だったためハガキサイズで一作仕上げ構図を決めた。ほぼ同じ構図の絵を描きf6サイズで彫り上げた。駒ケ岳山頂に向かって笹原が広がり針葉樹が点在する様は、とても気持ちが良い雰囲気だが納得できる表現には到達せず。勢いそのままハクサンコザクラをハガキサイズで、結局、会津駒ヶ岳は4作品を生む元になった。ありがとう会津駒ヶ岳。

ハクサンコザクラ

追記
山行の4年後、版画教室は先生の高齢化を理由に閉じた。太田友一先生が’24/9亡くなられた。102才の大往生!与えることをいとわぬ大人でした。人生の後半に良き人に出会えてラッキーだった。深謝。

(2025年1月、IK記)

駒ノ小屋から尾瀬へと続く稜線、遠く燧ヶ岳を望む

頂稜湿原の稜線上は池塘が散在する

会津駒山頂から中門岳に続く稜線は天上の楽園

「この辺り中門岳」標識、皆で寄り掛かると倒れちゃう?

*  *  *

この2012年7月の夏山合宿は、企画した私にとっては会心の山行のひとつだった。檜枝岐の宿手配、貸切バスの運行スケジュール管理、三日目昼食場所の手配から、会津駒ヶ岳と駒止湿原の山行まで、Oさんの怪我トラブルを除いてほぼ計画どおりに運べ満足のゆくものだった。ところで、この年の夏山合宿地に檜枝岐を選んだのにはわけがあった。

 夏山合宿「会津駒ヶ岳」山行が今月末に行われます。昨年は震災後の自粛ムードもあって自主山行としましたので、2年振りの夏山合宿となります。目的地を敢えて原発事故被災地の福島としたのは、私たちが山を登る意味や周りとの関わりなどを、答えのないことを承知の上で、少し考えてみようということです。福島県の最西端に位置する檜枝岐は、福島第1原発から約160キロ離れているにも拘らず、尾瀬や南会津の山々への入山者は減ったそうです。尾瀬全体では約2割、福島側沼山口では約4割減とのこと。観光業など第3次産業就業人口が9割を占める村にとって、これは大きな痛手となっているでしょう。福島県を訪れ、彼の地の山に登ることが、ささやかながらも復興に向けての要素になればと思います。無論これは対岸のことでなく、浜岡原発より30キロ圏内に生活する私たちにとっては、我が身のことでもあります。(2012年7月『やまびこ』184号)

また山行後には次のような感想を持った。

参加者全員から寄せていただいた感想と多くの写真で、この夏の思い出を振り返りました。皆さん本当にいい笑顔をしているし、感想からも全員で中門岳まで行けた充実感が伝わってきました。色々な制約や面倒もあるけれど、仲間と共にやり遂げることに、合宿山行の確かな感動があると思いました。本来ならば、この〝天上の楽園〟は、もう少しのんびりと時間をかけて味わいたい所ですから、皆さん各々が、機会を作ってチャレンジしてもらえれば嬉しいことです。また、今回は残念ながら不参加となった皆さんも、次はこの笑顔の中に加わってください。山はいつでも〝行ったもの勝ち〟です。(2012年9月『やまびこ』186号)

 

 


この正月

2025-01-10 10:36:07 | 日記

新年も10日になって間の抜けたことだが、本年も穏やかな年でありますように。

仕事納めの28日になって、15年程も使っていたPCが逝ってしまった。暮れの仕事が片付くまで持ったのは彼なりの意地だったのだろうか。後生大事に使い続けたのは仕事に使うソフトのバージョンが古いからで、今は何もかもサブスクリプションの方式になってしまって必要もない機能に無駄に金がかかってしまう。買取済みのソフトを活かせる方法をネットで検索したり、帰省中の息子に尋ねたりしたが、そんな都合の良いことはもはや無かった。あと何年仕事ができるか分からないが、取り敢えず年明けの仕事再開に間に合わせるために、中古(整備品)の新しいPCを手配し、正月中かけてソフトのインストール、周辺機器の接続、データの移動などに追われ、何とか再構築することができた。で、ブログも再開できる運びとなった。

温暖な当地では風もなく穏やかな正月を迎えることができた。

波田の立石稲荷に参詣し、いつものように八幡山のパノラマ台に上がった。

初富士と志太平野・駿河湾の向こうに伊豆半島

初山行は5日、精進湖北の三方分山へ。前夜のものかうっすらと白いものが。

精進諏訪神社の境内には国天然記念物の大杉(樹齢1200年、目通り10.2m、高さ40m)

旧中道往還を登り切った阿難坂(女坂)峠の石仏

パノラマ台からの富士山

精進湖

 

 

山を彫る(番外篇)三方分山 - 山の雑記帳

三方分山西面の展望図私はこの山が好きだ。まず名前が良い。“サンポウブンザン”山の名前としては珍しい字面である。名前の通り山頂から三方へ尾根が張り出して...

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