はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

暴論を吐く

2013年05月14日 | 日記
自民党は「防衛軍」を作りたいという。そもそも、軍隊って基本的にすべて「防衛」のために存在している。しかし、作られた当初は防衛であっても、それが権益の理解の差によって「自国」だけではなく、権益の生じる海外への侵攻に容易に変わる。日本の太平洋戦争がそれである。国際連盟で日本の都合が通らない事により、孤立化の道を辿った日本は、中国に侵攻した。この行為は中国にとっては侵略以外のナニモノでもない。

日本維新の会共同代表である橋下大阪市長は、侵略という言葉の定義について不明確だと言う。簡単である。侵略されたと思う側が、相手に対して侵略だと言えば、それが侵略なのである。定義云々の問題ではないのだ。

戦争が起きたとする。憲法が改訂されて国防軍が創設されるとする。召集されるのは若い人である。次いで働き盛りの人である。これが実に不条理である。ただ心理的には若い人は死とは対極にあるだけに、逆に容易に死を考える。だから、大儀などと言う言葉を持ち出すと、それに乗っかり簡単に特攻などの要員となる。恒常的に死を身近に感じる高齢者に比べ、死という概念そのものが、あたかも美しいものとして称揚されると、実感無き死に対する憧憬にも似た感情を持つ。

若い世代は、次の時代を作る大切な社会の資源である。生産をするためには必須な力である。むしろ、無為徒食の輩と化した高齢者こそが、実は特攻要因として、あるいは最前線で戦う消耗品としての戦闘員として向いているのではないか。今や日本式の正々堂々などという戦いは無い。無人誘導ミサイルなどが主となる。それは前線というものが意味を成さなくなったもとも言える。その気になれば、世界中どこにでも相手を殲滅するだけなら容易である。多少からだが不自由でも、ロボット化技術があり、老齢による体力の減衰を補完することも可能である。であれば、高齢者こそが兵士として論理的に向いているのではないか。75歳徴兵制度はいかがか。75歳まで病などで亡くなった方は、逆に自分の宗教とは無関係に靖国に祀られるなどという不幸を感じずに健やかなる死を迎えることもできる。勤労者に過重な負担となる高齢者問題も、一挙に解決するではないか。