アンパンマンの作者のやなせたかしさんの訃報が、Facebookやマスコミなどで流れる。享年94。ご冥福をお祈りする。
もちろん私はアンパンマン世代ではない。ドラえもん世代でもない。サザエさん世代、しかも江利チエミが実写主人公だったテレビドラマでの世代である。漫画は少年サンデーやマガジンが週刊誌として発刊されたのを覚えている。マンガ雑誌と言うと別札付録テンコ盛りの月刊漫画雑誌、冒険王とかぼくら、少年画報の世代である。
だからアンパンマンが月刊の絵本であったというのも、今回の訃報ニュースで知った。アニメは「見たことがある」という程度であるから、殆ど中身は知らない。でも、お腹が空いた人がいると、そのアンパンでできた顔を食べさせるようなヒーローだということは知っている。
やなせたかしという名前を知ったのは「手のひらを太陽に」という歌でである。この作詞がやなせたかしという人だと知ったのは、この曲がNHKの「みんなの歌」で採り上げられたときである。たしか「徹子の部屋」だったと思うが、この歌の成り立ちをやなせさん本人が語っていたのを見たこともある。アンパンマンの作者として脚光を浴び始めた頃だから、相当高齢になってからだ。
仕事に行き詰まり、どうしようもなく手を電灯ですかしてみたら、その光が手のひらを通過して、自分の体の中に、確かに血が流れていることを実感したときに生まれた詩だという話だったと記憶している。
やなせさんが従軍していたという話も聞いた。敗戦後、戦地での経験、戦後の経験から、やなせさんは戦争を確実に嫌悪していたのだろう。
アンパンマンが顔を食べさせる「自己犠牲」は、その相手が「食べることが出来ずに困っている人」という具体的な対象があっての自己犠牲である。スローガンや国という概念を守ることはしていない。戦う相手はバイキンマンであるが、相手がバイキンであっても殺さない。
戦争で自己犠牲と言うと、特攻隊とか玉砕という話になる。相手を殲滅するか、自分が倒されるか、そうした二者択一である。時として正義の味方と悪の手先との二項対立の物語は、そうした殺伐としたものとなる。それは鉄腕アトムでさえ、敵対するロボットを破壊してしまうという点からも明らかだ。
ところがやなせさんのアンパンマンはバイキンマンの野望(?)を止めるし、懲らしめるのだが、バイキンマンを殺したりはしない。同時に、補充が利く顔は、困っている人には食べさせるが、自分が死んでしまうほどではない。その按配がキモなんだろうと思うのである。人助けのために自分が死んでは、別に助けなければならない相手を助けることができなくなる。自分に出来る限界の範囲で、自分が関係を築いた個別具体的な「人」のために役立とうとするわけだ。
役立つためには生きなければならない。そういう前提での自己犠牲である。つまり、出来ることは限られているのだが、その限られた範囲での行為なのだ。
ともすれば、精神論者は「できないのは精神が弛んでいるからだ」などと情動的な方向に話を持ち込む。でも、実際の話、一人のヒーローが頑張っても、個別に救うことが出来る相手は限られる。これは精神論ではなく、出来る範囲と出来ないことがあることを、明確に示しているわけだ。きわめて合理的なヒーローである。
アンパンマンは顔が濡れてふやけると力を失う。ふやけて力が失われた顔を、正常の顔に取り替えて力を取り戻す。ふやけてしまった顔は、困っている人がいても食べさせない。美味しくないからだろう。相手の力にならないほど、傷んでいるからだろうし、不潔になっているからだろう。
目指すべきは特攻隊のような自己犠牲ではなく、アンパンマンの自己犠牲、つまり出来ることを地道に行う自己犠牲なのではないか。