はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

世の中には理解できぬ事ばかり

2013年10月22日 | 日記

 経済の専門家というヒトタチがいる。そのヒトタチの多くは金融の専門家の場合が多い。

 ガソリンで動くエンジンにとっては、ガソリンが生産で動くことが消費だといえる。そのエンジンを良好に回すためのものがオイルに当たる金融だと思っていた。しかし、どうやら金融というオイルが、自分がガソリンに取って代わってエンジンを回そうとしているのが、昨今の状態に見える。

 もちろん、油は油だから、オイルでもエンジンは動くかも知れない。しかし、ガソリン用に作られたエンジンである。当然のように、出力も低下し、様々な潤滑系の不純物によって、エンジンの性能は発揮できないどころか、時として焼きつき、エンジンそのものが破損する。

 そうした姿の顕著な例が、日本に於けるバブル崩壊だったのではないか。それまでの堅調な上昇経済が、金余りというバブルに浮かれているうちに、肝心のガソリンのことを忘れ、エンジンをストールさせてしまった。

 ところが、このエンジンの破損について、多くの場合ガソリンの質などに話が歪められ、懲りもせずに再びオイルだけでエンジンを走らせようとするのが、どうもアベノミクスの正体ではないか。そのアベノミクスも、米国のヘリテージ財団などという保守強硬派路線の敷いたシナリオに基づいて行われているようである。

 生産→流通→消費というのが経済の仕組みで、それが経済のエンジンだとすると、オイルはこの→部分なのだろうと思うのだが、しかし、どうもこの→部分だけが異様に肥大化してしまったという感じが拭えない。

 金融資本主義という言葉があるのだが、この金融というものが、多くの国を実質的に支配下に置き始め、それが国際金融資本という名の下に、物の価値を付加価値という形で高め続け、実質的に暴慢したバブル的価値を押し付けているのではないか。だから、針の一突きでバブルが弾け、物が付加価値の付加を取り除き正味の価値となってデフレ基調に進む。

 付加価値はオマケなのだが、オマケが本体と一緒になってしまったところに、この経済の根本的な問題点があるのではないか。メシを炊くのに普通の水道水ではなく、***山麓伏流水などのペットボトル入り市販高級飲料水を使って悦に入っている姿と、実は大差ない。十分に安全な水道水で炊いても、超高級市販飲料水を使って炊いても、その味は気分の範囲での差ほどにしかない。実質的差は概ね皆無に近い。

 であるならば、ビンボーなオレは、別に超高級市販飲料水を買ってまで飯を炊く必要など無いわけであり、水加減さえ間違えなければ、普通に食するに困らない飯が出来上がるわけだ。

 付加価値をすべて認めないというわけではない。ただ、価値を高めるための権威付けのような付加価値などは、屁のツッパリにもならんと思っているのだ。

 本来付加価値を見出すのは消費する側である。例えば芸術である。絵に大金を投資するのは、その画家の名に拠る場合が多い。絵の出来そのものも、名の通った画家は、多くの場合、素晴らしい絵を残しているわけだ。でも、同様に無名の画家の絵でも、私にとって、あるいはあなたにとって、代え難い思いを抱かせるものがあるのだとしたら、それは私や貴方が発見した付加価値に他ならない。付加価値というのは「売る側」によって押し付けられるものではない。買う側の判断によって得るものなのだ。

 多くの商品がマーケティングによって「売る側による付加価値」を上乗せされている。貴方がそれに賛同するならば購入すれば良いのだし、賛同できないならば、買わなければ良い。その程度のものが付加価値といいうものの本質なんだろう。

 金融資本の多くが、この生産の「付加価値」というバブル部分に多くの投資をしている。もはや、その時点で胡散臭さ百倍だと思うのである。