ゼンジー北京という芸人さんがいる。出身地の広島が中国地方にあるため、それを中国と合わせて、芸名を北京としたという人である。手品師であるが、手品はそれほど傑出していない。むしろ、どちらかと言えば下手な部類である。この北京というフェイクと、傑出してはいない手品と言うフェイク。この二重のフェイクが、ちょっと悪相なのに、なぜかそれなりに人気を持った。
たしか、水中脱出なんぞの大掛かりな手品も行ったことがある。オレはなぜか、ゼンジー北京の一世一代のそのイリュージョンの舞台を生で見た記憶がある。
イリュージョンというのは、客の錯覚と演者の演出との相乗効果で生まれるのだが、ゼンジー北京さん、例のあの口調である。殆ど緊迫感が客席には無かった。しかし、当の本人は、滅多に無い大ネタであるから、相当に緊張していたようである。あの口調から軽妙さが消え、それなりに切迫感が客席を覆った。しかし、切迫感はあっても、緊張感は皆無である。なぜなら、先代の引田天功などが、こうした大掛かりな脱出マジックは、幾度も行っていたからだ。
当然、ゼンジー北京も慣れないながらも、脱出には成功する。優れた手品師とは看做されていなかったから、成功したので万雷の拍手である。
日本の現状が、どうにもこのフェイクだらけのゼンジー北京の芸風と繋がる。原発事故以降の現在に至るまでの対処療法的「収束作業」は、その作業そのものが収束に程遠い現状を指し示し、発災当初から小出裕章氏らに指摘されていた汚染水問題は、発災二年を経て、ようやくメディアの大見出しになる。
コントロールには程遠い状態があってもなお、内閣総理大臣は事態がコントロール下にあると強弁する。このフェイクは、カタコトの日本語を使うゼンジー北京の「日本人なのにオレは日本人じゃないよ」と扮するフェイクと、ほとんど同レベルの発言であり、事実に直接対峙しないフェイクの姿勢そのものを表したものだと言える。
どうやら、この国の指導者は、子供でも分かる事柄を、ゼンジー北京並みのバレバレの手段で覆い隠そうとしているのではないか。秘密保護法案も、どうやら「何が秘密なのかは秘密」という事を、あからさまに提示したわけだ。つまり、それが許されるような「数の論理」が罷り通る。
すべての局面で、こうしたアカラサマなゼンジー北京的手法が、罷り通っているのである。一事が万事なのである。つまり、一事が万事ゼンジー北京化してしまっているわけだ。