はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

孤立死を考える

2014年02月15日 | 日記

東京・墨田 高齢の親子と夫婦孤立死か」というニュースがテレビで報じられる。それがさも問題であるかのような表現である。戦時中の隣組のような相互監視社会にあっては、確かに滅多に考えられないことなのだろうが、「隣は何をする人ぞ」となる現代では、今まで表面に出てこなかったことが不思議である。

そもそも「死」は個人個人の個々の問題である。個人の問題であり、死は常に死んだ本人にとっては「孤立」しているわけだ。心中などでも事切れるのは同時というわけではないし、同時だとしても魂なんぞは信じていないオレにとっては、たまたま一緒に死を迎えたとしても、死ぬのは個人個人であると思っている。思いと「死」という事実とは違うものだ。

旧来の家族制度を前提としているから、その家族制度が十分に瓦解しているため、看取る家族が存在しないということでもある。孤立死がいやなのであれば、大家族制度を保つか。しかし、経済状況がそれを許さない。

肉親という存在が実際には良くわからない。生まれたことも知らない従兄弟などが存在する。父方の肉親とはほとんど没交渉だったから、父の唯一の弟の最初の子である娘のことしか知らない。その後、その叔父に二児の男子が生まれたことも、実は知らない。父の葬儀でそのうちの一人と初めて会ったのである。

母方の親戚は地元であったため、それなりに交流があったのだが、それでも覚えていない従兄弟も存在する。あまり肉親などに対する特別な感情は無いと言っていい。

孤立死という姿は、多分オレの死の姿そのものだろうが、別に葬儀も必要ではないと思っている。葬儀というのは、生きている人間が死んだ人間を肴に集うためのものであり、死んだ本人にとっては「どうでもいい」ことなのだと思っているからだ。墓も不要である。墓地埋葬法という厄介な法律があったのは、日本の死が土葬だった時代の名残だろう。火葬が一般化している現代では、もう少し火葬する時間を長くとれば、骨も残らず灰にできるはずである。札幌では木の枝などが月に何度か回収される。そこに混入させ、廃棄して、腐葉土として使ってほしいものである。

氏は孤立して起きる。誰が看取ろうと、看取った人間がともに死を共有するわけではない。心中は死の共有に見えるが、同時に死んだとしても個別に死は訪れる。それを認めたくない社会というシステムが、死に物語を作り出す。生という物語だけでは飽きたらず、社会からの最終的なドロップアウトである死すら、社会という物語世界に置きたがる。生き残ったものに対する物語を、他人の死によって紡ぎだすキッカケとする。これは大いなる欺瞞だ。

死は常に個別に孤立してやってくる。それを認めないことで、生き残った人間に「死んだ人間の生まれてきた意味」を付加する。でもねぇ、達観して見れば、生も死も、存在も、実はこの宇宙空間の中では限りなく無意味なのである。色即是空空即是色なのだ。