2013.11.20 帰還に向けた安全・安心に関する基本的考え方~原子力規制委員会
原子力規制庁による「帰還に向けた安全・安心に関する基本的考え方」の協議だそうな。この変なタイトルに イイカゲンさを見る。事実、安全と安心は別物である。安心は安全が証明されてこそのものであり、安全と安心を同列に論ずることそのものが噴飯モノなのだと思うのだ。
安全であることを証明してこその安心である。お題目のように安全だ安全だというのが、安心を生み出すとは到底思えない。
チェルノブイリでは、物流のための輸送路近辺だけを除染し、その他の農地や山林は「除染が不可能」であること。仮に可能であっても、その費用と除染作業員の捻出が不可能であることから、放置されることとなっていて、住民は避難を余儀なくされてしまった。
ここで報告されている被曝限度の国際的疫学的調査は、ICRPに拠っているのだが、それを覆す疫学的・病理学的報告は、チェルノブイリ以降、ウクライナ共和国の国を挙げた疫学調査や、英国の研究者、ドイツの研究者などが論文として著しているのだが、実はICRPとIAEAは黙殺という手に出ている。黙殺することで、日本ではICRP基準が未だに用いられるのだが、その正当性には疑問が残る。多くのICRPの論拠に反する研究者の論文に対する、合理的反論に拠って行われているわけではない。
基準そのものに国際的には様々な異論があるにも関わらず、日本では未だにICRPが国際的な基準として認められているかのようだが、被曝の影響の直線仮説は米国科学アカデミーの意見が、ついにICRPに取り入れられることとなったのが現状である。BEIRの報告書が、ICRPの被曝基準とそのままなったわけだ。
この規制委員会の問題点は、住民の不安を取り除くための「思想的」な「安心」を広く敷衍し、「安全」に対する思想が決定的に欠落している点である。相談員が「安全だから安心してよい」と住民に対して啓蒙を行う、ある種の放射線安全神話の構築を語っている。
これって、当然放射線からの防護ではなく、放射線の中で「太く短く生きよう」という、殆ど精神論の醸成を作り出すものだ。それを国を挙げて行うとする。銃弾が飛び交う戦場で、ここは安全で普通に生活できる、と兵士に思わせる「洗脳」のための手段を語っているように見える。
それが、書類に書かれた通りの文言を訥訥と語る委員の読み上げと、式次第に従った田中委員長の御座なりな議事進行が相俟って、国会での論議以上に予定調和が見えて薄ら寒い思いがするのである。