はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

Lubuntu64bit化不能

2014年02月20日 | 日記

Lubuntu32bit版で使っていたIdeaPad206Sだが、アップデートの際にALSA周りのトラブルから音が出なくなる。仕方なしにLubuntu64bit化を試みるのだが、うまくいかない。

内蔵のWi-Fiのアダプタは認識しているようだが、肝心のネットワークにつながらないままインストールは進行する。ネットワークが設定されていないと、このLubuntuのインストーラはGRUBがインストールできないという状態となる。

結果として「何もブートせずにブート待ちシーケンスだけが延々と続く」という間抜けなPCが出来上がる。

64bit版の問題は、このWi-fiのアダプタは認識しているのだが、動作がしていない状態でインストーラができているという事実だ。だから、インストーラが最初に聞いてくる「インストール中にアップデートをダウンロードする」というチェックボックスがチェックできない。

実はかってxubuntuの64bit版で、奇跡的にwi-fiにつながったことがあるのだが、オンラインのアップっデートでカーネルが破綻した。最新のものにすると、確実にカーネルパニックを起こすという事態となり、xubuntuを捨てたという経緯がある。

この内蔵wi-fiの「ハードウェアスイッチが入っていない」問題は、ubuntuサークルの中でも問題になっているらしいのだが、rfkillでロックファイルを殺しても駄目という報告多数。ドライバの実装の問題なんじゃないかと思える。

ALSAの音源問題も、一行に解消しない。逆上しそうな気分である。ubuntuに変えてみるか。変えて問題がなくなると、問題はlubuntuのインストーラやドライバの実装の問題になりそうだ。ほとんど同じでデスクトップの違いだけだと思っていたのに、どうやら違うらしい。困る。


孤立死を考える

2014年02月15日 | 日記

東京・墨田 高齢の親子と夫婦孤立死か」というニュースがテレビで報じられる。それがさも問題であるかのような表現である。戦時中の隣組のような相互監視社会にあっては、確かに滅多に考えられないことなのだろうが、「隣は何をする人ぞ」となる現代では、今まで表面に出てこなかったことが不思議である。

そもそも「死」は個人個人の個々の問題である。個人の問題であり、死は常に死んだ本人にとっては「孤立」しているわけだ。心中などでも事切れるのは同時というわけではないし、同時だとしても魂なんぞは信じていないオレにとっては、たまたま一緒に死を迎えたとしても、死ぬのは個人個人であると思っている。思いと「死」という事実とは違うものだ。

旧来の家族制度を前提としているから、その家族制度が十分に瓦解しているため、看取る家族が存在しないということでもある。孤立死がいやなのであれば、大家族制度を保つか。しかし、経済状況がそれを許さない。

肉親という存在が実際には良くわからない。生まれたことも知らない従兄弟などが存在する。父方の肉親とはほとんど没交渉だったから、父の唯一の弟の最初の子である娘のことしか知らない。その後、その叔父に二児の男子が生まれたことも、実は知らない。父の葬儀でそのうちの一人と初めて会ったのである。

母方の親戚は地元であったため、それなりに交流があったのだが、それでも覚えていない従兄弟も存在する。あまり肉親などに対する特別な感情は無いと言っていい。

孤立死という姿は、多分オレの死の姿そのものだろうが、別に葬儀も必要ではないと思っている。葬儀というのは、生きている人間が死んだ人間を肴に集うためのものであり、死んだ本人にとっては「どうでもいい」ことなのだと思っているからだ。墓も不要である。墓地埋葬法という厄介な法律があったのは、日本の死が土葬だった時代の名残だろう。火葬が一般化している現代では、もう少し火葬する時間を長くとれば、骨も残らず灰にできるはずである。札幌では木の枝などが月に何度か回収される。そこに混入させ、廃棄して、腐葉土として使ってほしいものである。

氏は孤立して起きる。誰が看取ろうと、看取った人間がともに死を共有するわけではない。心中は死の共有に見えるが、同時に死んだとしても個別に死は訪れる。それを認めたくない社会というシステムが、死に物語を作り出す。生という物語だけでは飽きたらず、社会からの最終的なドロップアウトである死すら、社会という物語世界に置きたがる。生き残ったものに対する物語を、他人の死によって紡ぎだすキッカケとする。これは大いなる欺瞞だ。

死は常に個別に孤立してやってくる。それを認めないことで、生き残った人間に「死んだ人間の生まれてきた意味」を付加する。でもねぇ、達観して見れば、生も死も、存在も、実はこの宇宙空間の中では限りなく無意味なのである。色即是空空即是色なのだ。


ISPを変えてついでに、システムを入れ替える。

2014年02月10日 | 日記

ISPを変えて不都合が起きたのは、その不都合がWi-fiだけではなくなったためだ。いまや、メールソフトも不要な環境となっていて、もちろん仕事でネットを使うことがなくなったのが第一だが、あとは遊びと個人的な趣味の世界に浸り、そのついでにネットで遊んでいるのである。

Ubuntu13.10でフレッツ・スポットに登録しているメールアドレス変更をしようとしたら、何故かubuntuからは断られた。IPv6の問題だとサーバはいう。実はNoScript+RequestPolicyを組み込んでいたブラウザの問題だった。ヴェリサインのセキュアコードがflet.comだけではなくwww.flets.comという別のサーバシステムにクロスサイトスクリプトされていたというお粗末。それでブラウザが応答を返さないので、サーバが「お前は誰だ」状態になってしまったようだ。

裸のubuntuに裸のfirefoxだと問題なく接続できた。その代わりと言っては何だが、clamavというlinuxのウィルス検知エンジンを搭載しているclamtkでは「脅威」と検知される。設定を終え、clamtkから好かさすぞのスクリプトのキャッシュと思われるものを削除する。

クロスサイトスクリプトは諸悪の根源に見えるのだが、なぜか大手のメディアなどでも平気で使う。そのたびに、オレのようなガチガチにセキュリティで固めたブラウザからの接続は、接続はしたけど、何も画面が表示されない、という状態になる。なるほど、見せられたものではないのか、などと思ってしまうのである。

いろいろなにか不可解な事柄が起きる昨今の私事なのだが、世も何やらオリンピックで騒がしい。こういう時は本当に光TVである。過剰にメダルメダルと期待をして、メダルが取れないと勝手にがっかりするというような、マスコミの思惑通りには、なかなかスポーツは行かないものなのだ。


接続プロバイダが変わる

2014年02月08日 | 日記

接続しているプロバイダが変わった。そのため、メールアドレスも変わる。いくつか変更が必要なものもあるのだが、これから半月ほどで徐々に設定をしなおさなくては。

機器の無料設定などを行ってくれるサービスがあったのだが、要するに機器を指定するIPアドレスがわかれば、あとは全部トライ&エラーで解決できる話となる。マニュアルが不備だから人を寄越すのだろうか。ただ、ネットワーク設定については、そのサポート氏はそれほど詳しくない。ひょっとして昔なじみのトランス・コスモスが派遣として使っている人なのではないか、などとも思う。

サポート氏が帰って、改めて設定画面を見て設定をし直すと、あらあら不思議、MACアドレスフィルタリングの設定画面にMACアドレスを入力するたびに「有効/無効」が選択できる画面がある。そこを有効にするとちゃんと繋がる。

Wi-fi環境も整ったし、facebookとtwitteer、更にはgooに登録しているメールアドレスも変更した。デフォルトで使われるメールアドレスではあるが、まだ変更していないのがubuntuメーリングリストといくつかのものである。

これから最も厄介なcannonのプリンタのWi-fi設定なのだが、MACアドレスが分かっているだけに、SSIDとWAPのパスワード設定で繋がるだろう。ただし、問題はプリンタの設定がWindowsかMacOS環境が必須という点だ。ubuntu上のwine経由でのプログラム起動が可能かどうかが、問題解決の焦点である。少し気が重い。

本州方面では荒天のようで、積雪などが心配されているようだ。オリンピックの開会式などもあったようである。そんな世間に背を向けて、今日はプリンタ設定に頑張るべェ。