石井牧場
石井はあまりの惨たらしいメティウスの姿に、息が止まり腹の奥から嘔吐した。涙さえ出ない、悲しい光景だ。
サチカゲが、恐怖で立ちすくむ姿を見て、口の中の苦い汁を吐き飛ばし、首を強く抱いてやった。
震えの中から、サチカゲの恐怖が伝わる。やがて、ゆっくりと首を石井の方に向けた。見返してやるにはしのびない。深い悲しみの瞳を石井は忘れる事は出来ない。
牧場でも一番優秀な牝馬、メティウスに、ブライアンズタイムをかけ、去年四月の誕生から、ずっと石井が世話してきた。十月に離乳が順調に終了してからも、五頭世話する中で、このブライアンズタイム '96にはとりわけ、将来性を直感していた。
「サチカゲ」と呼んで、当歳時から眼をかけていた。
曽我も当然自分が引き取る馬と考えていた。
曽我の夢は、ここ五年のクラシック制覇で、国際レースで勝てる馬を育成時から捜し、国際グレードレースで勝利する事だった。
メティウスの複雑骨折は、手の施しようがなく、次の日殺処分となった。
母馬が死んでからのサチカゲは、すっかり沈み込み、やんちゃな活発さが消えた。
朝運動でも他の親子の後ろを、やっとついて行く姿が痛々しかった。石井は、親父に相談して、しばらく夜はサチカゲの馬房に泊まりたいと言った。
「おまえの気持ちはわかるが、あの仔もこれを越えんといかんのだ。一人前の競走馬は、遅かれ早かれ母馬と離れ、本格育成に入るわけだから」
「それはわかっているけど、サチカゲにとっては異常な経験だ。走ることへの恐怖を引きずっている。何とかしてやらんと」
「毎日話しかけ、励ましてやる事だ。一流の血統だし、ブライアンタイムズは気丈な血統だよ。」
石井は十日間程、馬房に泊まり、毎夜三十分程話しかけ、励まし続けた。