墓守りのレオ 石川宏千花 小学館
誰もが逃れられない以上できるだけ望ましい形で迎えることができればよいのだが現実の死の中には少なからず望ましくないでもおさまらない(非業、不運、数奇、無念などで表現される)過酷であろう死に方が存在していることを否定できない。
著者のブログ「ヒロチカーノ日記」で、
『墓守りとして生きる少年・レオの目を通して、人の心が持つ闇と、
どんな闇のそばにも必ずあるはずの光を見てもらえるお話になれば、と書いたお話です。』
とある。この作者がそのようなテーマに対峙する実力があるのは(他の作品から)知っているつもり。
それだけに(うどんカフェの)五杯目辺りから須磨さんなど身近な(他)人の死の知らせに直面する希子を目の当たりするかもしれないとビクビクしていた。それが杞憂で済んだと思っていた。否、今後も石川作品を読み続ける限り避けられないとは分かっていたはずでタイトル中に墓守とあるから警戒すべきであったが少なくとも読み始めは怠っていた警戒(はしていたけど、いきなりとは)。エミリアのお話(ブルー・マンデー)は試合開始早々にカウンターパンチを決められた感覚。ただ、この作者のすごいのは読み手が受けたと感じた衝撃を物語の登場人物たちが緩和してくれること。正確には読者が直接喰らったつもりでいたけど、物語の中できちんと完結し、(読み手など)部外者の介入など許さない程仕上がってい(て読者自体が決して悲劇のヒロインそのものではありえないとしっかり線を引かれてい)る(ということは、逆にフィクション中の解決ではないかもしれないが完結は現実に起きている問題に介入しないことを意味している)。
(前の括弧内で感じたことを真摯に受け止めるのであれば、現実に生じている問題に対してアクションをとらなくてはいけない。しかし、それは決して簡単ではなく、読んで悲しいことはいけないと思うだけが関の山、) それでも、干渉したい一読者と言うか私は<伶央>と言う文字を見、 この先起こることだけを悩めばいいと気持ちを切り替えるレオ(ダズリング・モーニング)にイネさんと蔵六の(面白味のなさが救いになる)絡みにダブらせ嬉々とし、無力で無関心と同等な己を慰めるの(に終わる)だ。
エンタテイメント的都合で異常を単純に選択したのではなく、存在する理不尽な死として取り上げざる得ないのがアシュトン・ピットだったのだろう(クランベリー・ナイト)。利発であるが不遇である状況に勝手に同じにおいを感じレオに近づき、よくしてやろうと思ったアシュトン・ピットであったが伯母さんの最後の言葉
「『よかった、あの子はちゃんと、この家から逃げ出すことができたんだわ……』」
に打ちのめされ、この世界は呪われてなんかいない、それどころか、こんなにも慈悲深く、果てのないものだったのだと思い知らされる。
愛されていることをちゃんと理解しているレオに対して愛されていることに気づかず呪ってしまったアシュトン・ピットも立ち去ろうとするレオを呼び止め、
「きみは、だいじょうぶだ」
(「ええ、ぼくは、だいじょうぶです」)から満たされた気分で気づかぬうちに、その頬には一筋の涙。
悲劇が物語だけの出来事であるのであれば、エミリアもレオの母もアシュトン・ピットの犠牲者も何もフィクションの中で描かれなくてもよい・読まなくてもよい死に方かもしれないが現実の死の中には少なからず望ましくないではおさまらない(非業、不運、数奇、無念などで表現される)過酷であろう死に方が存在していることを否定できない以上、作者のような感性を持つ方に紡ぎ続けて欲しいお話です。
"→♂♀←"「オススメ」のインデックス
![]() | 墓守りのレオ (創作児童読物) |
石川宏千花 | |
小学館 |
誰もが逃れられない以上できるだけ望ましい形で迎えることができればよいのだが現実の死の中には少なからず望ましくないでもおさまらない(非業、不運、数奇、無念などで表現される)過酷であろう死に方が存在していることを否定できない。
著者のブログ「ヒロチカーノ日記」で、
『墓守りとして生きる少年・レオの目を通して、人の心が持つ闇と、
どんな闇のそばにも必ずあるはずの光を見てもらえるお話になれば、と書いたお話です。』
とある。この作者がそのようなテーマに対峙する実力があるのは(他の作品から)知っているつもり。
それだけに(うどんカフェの)五杯目辺りから須磨さんなど身近な(他)人の死の知らせに直面する希子を目の当たりするかもしれないとビクビクしていた。それが杞憂で済んだと思っていた。否、今後も石川作品を読み続ける限り避けられないとは分かっていたはずでタイトル中に墓守とあるから警戒すべきであったが少なくとも読み始めは怠っていた警戒(はしていたけど、いきなりとは)。エミリアのお話(ブルー・マンデー)は試合開始早々にカウンターパンチを決められた感覚。ただ、この作者のすごいのは読み手が受けたと感じた衝撃を物語の登場人物たちが緩和してくれること。正確には読者が直接喰らったつもりでいたけど、物語の中できちんと完結し、(読み手など)部外者の介入など許さない程仕上がってい(て読者自体が決して悲劇のヒロインそのものではありえないとしっかり線を引かれてい)る(ということは、逆にフィクション中の解決ではないかもしれないが完結は現実に起きている問題に介入しないことを意味している)。
(前の括弧内で感じたことを真摯に受け止めるのであれば、現実に生じている問題に対してアクションをとらなくてはいけない。しかし、それは決して簡単ではなく、読んで悲しいことはいけないと思うだけが関の山、) それでも、干渉したい一読者と言うか私は<伶央>と言う文字を見、 この先起こることだけを悩めばいいと気持ちを切り替えるレオ(ダズリング・モーニング)にイネさんと蔵六の(面白味のなさが救いになる)絡みにダブらせ嬉々とし、無力で無関心と同等な己を慰めるの(に終わる)だ。
エンタテイメント的都合で異常を単純に選択したのではなく、存在する理不尽な死として取り上げざる得ないのがアシュトン・ピットだったのだろう(クランベリー・ナイト)。利発であるが不遇である状況に勝手に同じにおいを感じレオに近づき、よくしてやろうと思ったアシュトン・ピットであったが伯母さんの最後の言葉
「『よかった、あの子はちゃんと、この家から逃げ出すことができたんだわ……』」
に打ちのめされ、この世界は呪われてなんかいない、それどころか、こんなにも慈悲深く、果てのないものだったのだと思い知らされる。
愛されていることをちゃんと理解しているレオに対して愛されていることに気づかず呪ってしまったアシュトン・ピットも立ち去ろうとするレオを呼び止め、
「きみは、だいじょうぶだ」
(「ええ、ぼくは、だいじょうぶです」)から満たされた気分で気づかぬうちに、その頬には一筋の涙。
悲劇が物語だけの出来事であるのであれば、エミリアもレオの母もアシュトン・ピットの犠牲者も何もフィクションの中で描かれなくてもよい・読まなくてもよい死に方かもしれないが現実の死の中には少なからず望ましくないではおさまらない(非業、不運、数奇、無念などで表現される)過酷であろう死に方が存在していることを否定できない以上、作者のような感性を持つ方に紡ぎ続けて欲しいお話です。
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