前回紹介した橘曙覧の眠る大安禅寺に葬むるように、遺言した笠原白翁
笠原白翁と聞いても、ピンとくる方は少ないかと思います。
冒頭の資料の右側が白翁さんです。
この時代写真撮影もチャレンジした白翁さん、とても進歩的な人だったようです。
(歴naviふくいで写真が掲載されています。)
彼は橘曙覧の3歳年上の文化六年(1809年)生れ、
没年は明治十三年(1880))この時代にしては長生きです。
白翁は後の名で、本名は良、通称良策、
現在の福井市深見町の医師の息子として生まれ、
町医者をしていました。
当時大流行の天然痘・・・1980年にWHOが根絶宣言を出しましたが
当時は強い感染力の死病で運よく完治しても全身に痘痕が残るので恐れていました。
春日野局も痘痕が残っていたとか、
明智光秀さんは全身に痘痕が残った女性を気にせずに妻にしたとか。
だから彼の妻は彼が浪人の頃、人を接待する時に接待費の為に自らの髪を売ってまで
尽くしたのでしょうか。
笠原白翁の墓石
さて、種痘は牛痘(牛の天然痘)にかかった膿を培養して人に接種し、予防するもの。
京都で蘭学も学んでいるうちに、種痘の存在を知ります。
鎖国中の幕府に種痘菌の輸入を働き掛けたり、
京都では多くの人に種痘を接種しました。
当時は、感染した患者から、その種痘を接種し、次の人に打っていく、人継ぎしか方法がなく、
地元福井に種痘菌を持ち込むのも至難の業。
真冬、種痘に協力してくれる幼子と親を連れて
決死の雪山越えを決行して、福井の除痘館へ持ちこみました。
後々、大阪の緒方洪庵が種痘菌をもらう為にここを訪れています。
この白翁の除痘館、ぶ~たんのご近所。
子供の頃、雪山越えの話よりも、
「牛の膿を打つと、牛になる」」
「除痘館の前を通ると牛になる」
閉鎖的な田舎らしい、迷信に苦しんだと聞かされていました。
蘭学に牛の膿を植え付けるなんて、
当時の福井の庶民にはキテレツだったのも仕方がないです。
ここまで書いてきて、ハッ
雪中山越えの部分、ぶ~たん小学校生の時演じた事がありました。
種痘菌を接種した子供の父親役で(女子なのに股引はいて)
おんぶして「先生さま、わしらの命、先生さまのお役に立てて下され」
そんな台詞で、子供役の同級生をおぶった記憶を思い出しました。
思わぬ、ぶ~たんの記憶の扉が開いたところで
今回はお開き・・・
橘曙覧が亡くなってから、十二年後に逝った笠原白翁
商家出の国学者であり歌人、医者の跡継ぎで多くの人の命を救った医師
この2人がどのような親交があったのかは、今回聞くことはできませんでした。
でも、小さな城下で友情をはぐくんだ二人は
お互いの一族と共に、
大安禅寺のつややかな花菖蒲を静かに見降ろしているようでした。
笠原白翁と聞いても、ピンとくる方は少ないかと思います。
冒頭の資料の右側が白翁さんです。
この時代写真撮影もチャレンジした白翁さん、とても進歩的な人だったようです。
(歴naviふくいで写真が掲載されています。)
彼は橘曙覧の3歳年上の文化六年(1809年)生れ、
没年は明治十三年(1880))この時代にしては長生きです。
白翁は後の名で、本名は良、通称良策、
現在の福井市深見町の医師の息子として生まれ、
町医者をしていました。
当時大流行の天然痘・・・1980年にWHOが根絶宣言を出しましたが
当時は強い感染力の死病で運よく完治しても全身に痘痕が残るので恐れていました。
春日野局も痘痕が残っていたとか、
明智光秀さんは全身に痘痕が残った女性を気にせずに妻にしたとか。
だから彼の妻は彼が浪人の頃、人を接待する時に接待費の為に自らの髪を売ってまで
尽くしたのでしょうか。
笠原白翁の墓石
さて、種痘は牛痘(牛の天然痘)にかかった膿を培養して人に接種し、予防するもの。
京都で蘭学も学んでいるうちに、種痘の存在を知ります。
鎖国中の幕府に種痘菌の輸入を働き掛けたり、
京都では多くの人に種痘を接種しました。
当時は、感染した患者から、その種痘を接種し、次の人に打っていく、人継ぎしか方法がなく、
地元福井に種痘菌を持ち込むのも至難の業。
真冬、種痘に協力してくれる幼子と親を連れて
決死の雪山越えを決行して、福井の除痘館へ持ちこみました。
後々、大阪の緒方洪庵が種痘菌をもらう為にここを訪れています。
この白翁の除痘館、ぶ~たんのご近所。
子供の頃、雪山越えの話よりも、
「牛の膿を打つと、牛になる」」
「除痘館の前を通ると牛になる」
閉鎖的な田舎らしい、迷信に苦しんだと聞かされていました。
蘭学に牛の膿を植え付けるなんて、
当時の福井の庶民にはキテレツだったのも仕方がないです。
ここまで書いてきて、ハッ
雪中山越えの部分、ぶ~たん小学校生の時演じた事がありました。
種痘菌を接種した子供の父親役で(女子なのに股引はいて)
おんぶして「先生さま、わしらの命、先生さまのお役に立てて下され」
そんな台詞で、子供役の同級生をおぶった記憶を思い出しました。
思わぬ、ぶ~たんの記憶の扉が開いたところで
今回はお開き・・・
橘曙覧が亡くなってから、十二年後に逝った笠原白翁
商家出の国学者であり歌人、医者の跡継ぎで多くの人の命を救った医師
この2人がどのような親交があったのかは、今回聞くことはできませんでした。
でも、小さな城下で友情をはぐくんだ二人は
お互いの一族と共に、
大安禅寺のつややかな花菖蒲を静かに見降ろしているようでした。