数日に渡って「老い」について感じる話をしています。
初めにも言ったんですが、この世に生まれた限りは避けられない問題です。
問題視して悩めと言っているわけでは無いです。
うちのオットなんかに話すとしたらきっと「俺に死ねって言うてんのか!」なんてきっと申します (^^;)
訳わからない所へ話が飛びますので (>_<)
そんな人には通じる話も通じませんので話しません。
ご縁が無いだけです(^^;)
夫婦で共に老後を幸せにという理想などはあってない様なもの。
老いもある意味個人の人生の問題です。
いろんなパートナーでも感謝なご縁の人でしかないです。
老いは一番の人生の最高潮。
その時に傍にどんな人がいるかって考えるから
夫婦や家族というカタチに囚われてしまうのかも知れません。
もっと広い意味で、自分の周りの人の心の次元を考えると
ある意味その時点の自分が観えて来るでしょう。
老いへのステージは自身の奥への広がりで
魂の広がりへでもあるので宇宙への広がりです。
ここで、魂という言葉を出すと
イコール死の世界と即つなげる人もいますが
魂イコール死人や幽霊の世界ではありませんよ
そう思う人は先ず魂という概念の誤解を
解かれた方が楽な人生になると思います。
少しずつ社会との関わりや人間関係も希薄になり孤独にもなります。
もちろんそれまでの人生で心の解放をされてこられた方々は
老いても何かしら自分の外側と関わっておられる事でしょう。
関わってなくても心豊かに暮らされているでしょう。
昨日までもそんな話でありました。
孤独であっても意味や概念は広いもんです。
人生最後の悟りの時かも知れません。
僧侶や出家する人は山へこもりますし、れっきとした人生です。
過去世でそうだったかもしれませんしね、
私の母親も結婚してからは主人や子供に尽くす人生を選択しました。
それが余りにも狭くなり過ぎて大変でもありますが、
友達も作らず、知り合いもごあいさつ程度、
主婦の世界でも周りの関係を断ち切るし
親戚関係も付き合いません。
どんどん断ち切って行きます。
70歳前に父親が亡くなっていますから
その後の人生は子供と孫です。
でもその子供も親の心の過干渉に窮屈さを覚えていますから
どんどん孤独にこもっています。
それでも幸せだというので、
私はそれを受け入れるだけです。
この人の人生はこれで良いんだという事を尊重するだけです。
家に籠っているのを…山へでもこもって修行している人生なんだなと。
そう捉えています。
自分の思いや考えは正しくて、私達の事を思ってと与え続けます。
受け取るのは苦手で、何もしてくれるなと言います。
して欲しい時は言うからと。
きっと素直になれない人なのかなと、
なおさら私から与えないといけないのかなと考え悩んだ時もありました。
これも人生なのかっていろいろ考えました。
母親に対して考えている時も自己嫌悪感に陥る時もありました。
でも山へこもっている修行僧から
何を学ぼうかと考えながら自分を俯瞰するだけです。
親から与えられたことに目を向け、気づく事もあります。
親に対して思う事から気づきもある。
自分を肯定する事も出て来るし、
自己否定する事が出て来ればそれをも
親が与えてくれた気づきだと自分を認めるし、
そんな時の自問自答は普段の生活をしながらの修行で悟りでした。
私自身が我が子を子育てしながら親との関係に気づくという。
母と私が共に年を重ねて行きながらでも
心の成長は同じスピードではないのでまた考える事も多かったです。
親が孤独であって素直になれなくて心の成長がどのくらいでも
それが表面では卑屈な心に観えても心の奥は違うかもしれません。
親子であっても孤独な関係です。
それも尊重です。
親が身をもって心をもって子供に伝えたい事は
そんな孤独からも気づける事です。
現世では考えられない関係性でも魂の上では成立しています。
だから感謝なんです。
孤独だと言ってそこで人生は終わりじゃない。
孤独を受けとめて終わりじゃない。
それも始まりです。
その先にこそ真の広がりが無限に在る (^.^)
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