ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

ヒッチコックの映画術

2024年12月15日 | ネタバレなし批評篇

ジョン・フォードにハワード・ホークス、そしてアルフレッド・ヒッチコック。フランスの映画批評誌カイエ・デュ・シネマによって再評価されることがなければ、彼らは永遠にB級映画監督のレッテルをはられたままだっただろう。いわゆる“作家主義”という基準を新たに設けて、映画における芸術と娯楽の壁をとっぱらったというべきか。この職人気質的な“作家主義”の基準を満たしてさえいれば、娯楽映画とはいえ芸術にもなりえることを知らしめたわけである。それによって自分達ヌーヴェル・バーグ一派が撮った低予算作品が、けっして“B級”評価を得ることのないよう予防線をはったようにも見えるのである。

今まで巨匠と呼ばれる人のみに与えられていた特権をその他大勢の映画監督にも解放した、という意義は確かに認められる。巨匠が撮った映画にあらずば芸術にあらず的な上から目線はたしかに鼻持ちならないし、映画の自由な表現性を阻害する一因にもなっていた。が、結果はどうだろう。芸術映画の地位は限りなく低く貶められ、代わってハリウッドが金のために作った商業映画が跋扈し始めたのである。リベラルの騙るウォークカルチャーがインチキを通り越したイカサマであったことがトランプによって暴露され終焉を迎えつつあるが、こと商業映画に関しても、自然の摂理に逆らった類いの映画はことごとく“B級”のレッテルにはり直されていくことだろう。

つまり、偽物が世の中にあまりにも氾濫しているせいで、世の中の人々は再び“神”を求めだした、といえなくはないだろうか。メジャーでMVPをとったことで簡単に神扱いされる大谷翔平とはまた違った、正真正銘の芸術作品を世に送り出すことがてきる映画“神”監督を求めだしている気がするのだ。全ての価値観が相対化されたポストモダンを経験した後では、神を見つけるのは難しいのかもしれない。しかし、価値観が相対化されたのをいいことに、不法移民やLGBTQ、ペドフィリアにフェミニストによって、私たちが本能的に心地よいと感じるカルチャーが蹂躙され、センサーシップによってがんじがらめに監視される社会など真っ平御免なのである。

要するにどんなエリートであっても“神”にはけっしてなれない、という事実にそろそろ気づかなければならないのである。じゃあ、ヒッチコックはどうなのって?北アイルランド出身の単なる一シネフィルがヒッチになりかわって自己作品を偉そうに解説しているが、はっきりいって厨二病もいいとこで、鑑賞した映画本数を自慢しているだけのそこら辺にいる映画ライターと大差はない。そもそも、『レベッカ』の演出をめぐって大物映画プロデューサーのセルズニックともめたヒッチは、その後わざと芸術作品と距離をおいた娯楽映画へと走った人である。「でもこの部分が“神”でしょ」と今さら指摘されても、自閉症スペクトラムの呟きとしか思えないのだ。

金髪フェチで有名なヒッチの女優への執拗なストーカーまがいの行動を業界では知らない者はなく、トリュフォーによるヒッチのインタビュー『映画術』(未読)でも、その辺の変態ぶりを大いに伺うことができるそうな。“神”だから変態行為も許されるのか、はたまた、“神”でないからこそ変態なのか。さも“ヒッチは芸術映画監督でござい”とでもいいたげな分析をかましているが、個人的にはヒッチコックの“フェティシズム”についてもっともっと深く掘り下げて欲しかった気がするのだ。フェティシズム抜きでは、ヒッチコック映画の真髄にたどつくことなどほぼ不可能なはずなのだから。

ヒッチコックの映画術
監督 マーク・カズンズ(2020年)
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