実は、ヨルゴス・ランティモスによる本作が、2009年から10年続いたギリシャ危機と間違いなく関係していることには確信があるのですが、それが本作のタイトル『聖なる鹿殺し』とどうも結びつかずずっとモヤモヤが続いていたのです。最近ある方の書いたレビューを読んではたと気がついたことがあるので、ここに再度本問題作についての考察を述べさせでいただきたいのです。
そもそも、マルティンなる気味悪小僧はなぜ心臓外科医一家に呪いをかけたのでしょうか。親父を(手術中に)外科医に殺されたから。いえいえそうではないでしょう。もしそうだったら、手術失敗の時点で一家に呪いをかけたはずです。おそらく、何かと自分を気遣ってくれる外科医を自宅に招いた時、自分の母親と再婚して新しい父親になることを、外科医の口からハッキリと断られたからではないでしょうか。
ここに観客はタイトルとの関連性を見出ださなければならないのです。新しい宗教を布教しようとする時、それ以前から神が宿ると人々に信じられていた鹿を狩ったことから、“聖なる鹿殺し”には布教者という別の意味があるらしいのです。聖なる鹿→神→父親。もうおわかりですよね。古い父親を殺して新しい父親になってくれると思っていた外科医からキッパリとそれを断わられたがために、このマルティンは激昂して、一家に呪いをかけたのではないでしょうか。
言い換えればこの映画、古い因習に凝り固まっていたギリシャ旧政府を潰して、新しくギリシャの“神”になってくれると信じていたEUないしドイツにまったくその気がないことがわかり、呪い(負債の踏み倒し)をかけたことの“メタファー”だったのではないでしょうか。そして、ランティモスがこの映画を“コメディ”だと位置付けしたのはなぜなのでしょう。あるお方のレビューによると、この映画は“麻酔”ないし“麻痺”がキーワードになっているらしいのです。
“麻酔”をかけた患者や奥さんしか相手にできない感情が“麻痺”した外科医に、はたして呪いなんか通用するんか?その意味での“コメディ”だと思われるのですが、日本人にはちょっと伝わりにくいジョークですよね。公開当時、EUの盟主ドイツも経済的に麻痺状態にあったギリシャを相手にしていたわけで、ランティモスにしてもかなり自虐的なブラックジョークをかましたつもりだったのではないでしょうか。
聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア
監督 ヨルゴス・ランティモス(2017年)
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