正岡子規といえば法隆寺で柿を食ってたらしいということと、坂の上で雲がどうしたぐらいしか知らないんだけど、この言葉は『病床六尺』という、新聞連載のエッセイに書いたものらしい。
「病床六尺」というくらいだから、当時の子規は病床で脊椎カリエスの激痛に耐え、死と向き合いながら毎日を過ごしていたんだろう。
余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解していた。
悟りという事は、如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、
悟りという事は、如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
なんて言葉は、日々そういう状況で暮らしている人じゃないと出てくる言葉じゃなかろう。
のうのうと生きていては、とても出てくるものではない。
いや、もしかしたらのうのうと暮らせるということが、意識せずとも悟っているということなのかも。
悟りを意識しているようでは、永遠に悟ることはできないような気もするし。
病牀六尺 (岩波文庫) | |
正岡 子規 | |
岩波書店 |
(もどる/つづく)