雑居空間
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 要害山城と熊城を見てきた後、ふもとに戻り、甲斐武田氏の居城である躑躅ヶ崎館へ行ってきました。



 要害山城の所でもちょこっと書きましたが、躑躅ヶ崎舘は武田家三代に渡って使用された居城です。

 元々の本拠地は、現在の甲府駅から東へ5㎞ ほどのところにあった川田館。しかし1519年に武田信虎の時代に、躑躅ヶ崎館へと移りました。
 信玄の代になると、武田の領地は信濃や駿河方面なにどんどん拡大していくのですが、それでも本拠地を躑躅ヶ崎館から動かすことはありませんでした。もっとも、火災に見舞われた際に、一時的に他へ移ったことはあったようです。
 しかし勝頼の代になり、長篠の戦いに敗北し、織田、徳川、北条など周辺の大名との戦いに苦慮する中、領国をまとめるために新府城を築城して、そちらへ本拠地を移すことになります。

 新府城に移ってすぐに武田家は滅亡してしまいます。その後甲府に入った豊臣や徳川の武将は躑躅ヶ崎館を使用していたのですが、1590年に甲府城が築かれ、以降はそちらが甲府の中心となります。そして躑躅ヶ崎館は、その役目を終えたのでありました。

 現在、躑躅ヶ崎館の跡地には武田神社が建てられています。武田神社は大正時代に創建されたもので、武田信玄が祭神として祀られています。そのご利益はずばり、「勝ち運」だそうです。なかなか説得力がありますね。
 
 なお、躑躅ヶ崎館は日本100名城の一つにもなっているのですが、そちらには「武田氏館」という名前で登録されています。国の史跡としての名称も「武田氏館」なのですが、私は昔から「躑躅ヶ崎館」という名前の方に親しんでいるので、本記事では「躑躅ヶ崎館」で統一しています。





 訪れたのは七五三シーズン。と、いうことで、着物を着た子供と家族連れが大勢いました。 



 この地図は躑躅ヶ崎館の裏の方にあったものなんですけど、躑躅ヶ崎館の全貌はこんな感じになっています。この地図で言うと、主郭と西曲輪を合わせた範囲が武田神社となっています。





 神社の周囲はぐるりと堀で囲まれています。ただ、水堀となっているのは西側、南側までで、東から北にかけては空堀になっています。



 高い石垣に囲まれた階段を登っていきます。
 もっとも、武田神社の正面は南側にあるのですが、こちらは本来入り口が存在しなかったところです。



 主郭の中心に、武田神社の社殿があります。



 手前のキティちゃんがちょっと気になりますが、社殿の東側には宝物殿があります。
 宝物殿の中には武田信玄や勝頼の肖像画、槍や刀や鎧、旗や軍扇などが展示されています。



 社殿横の神符授与所で100名城スタンプを押すことができます。図案は躑躅ヶ崎館の俯瞰図ですね。
 なお、手元の100名城ガイドブックでは、スタンプ押印場所は宝物殿と神符授与所の2ヶ所が記載されていたのですが、宝物殿にスタンプはありませんでした。先に宝物殿に行ったので、どこにスタンプがあるのかしばらく探しちゃいましたよ。



 本殿の西側には舞台のような場所も。



 主郭の中だけだと、城の痕跡は水堀と石垣くらいで、本当にただの神社にしか見えないので、濠の外側をぐるりと回っていきます。





 朝、要害山城に行く前に撮った写真ですけど、武田神社の東側にある大手というエリアです。



 まだ一部調査中なのですが、土塁、石塁跡が残っています。





 元々は水が張られていたはずですが、東側の堀には水がなく、空堀になっています。
 でもなかなか深くて、しっかりとした堀ですね。





 北側に回り込むと、公園のようになっています。





 なんか階段があるなー、と思ったら、小さな祠がありました。
 ここは稲荷曲輪のあった辺りですね。



 北側も、主郭との間に大きな空堀が掘られています。こちら側は当時から空堀だったところですね。





 味噌曲輪の辺りは発掘調査中でした。



 発掘調査中のエリアを区切るトラロープに、前掲の躑躅ヶ崎館の地図と、なぜか要害山城&熊城の地図が掲げられていました。ネット上でいろいろと要害山城の案内図的なものは見つかるのですが、縄張りの説明としてはこれが一番丁寧で分かりやすかった気がします。曲輪とか竪堀の位置とか、一目瞭然ですね。これ、要害山城へ行く前に見たかったです。





 味噌曲輪から土橋を通って西曲輪へ。その先は虎口となっています。



 土塁の上から見下ろす西曲輪。結構広い空間です。



 西曲輪には、武田の家紋「武田菱」と、「500」の数字が。実は今年は、武田信玄の生誕500年にあたり、しかも躑躅ヶ崎館を訪れた数日前の11月3日が誕生日だったのです。なので、11月3日にはイベントも行われていたみたいですね。



 西曲輪から南側へ出られます。



 西曲輪は、西側の土塁の上を歩くことができます。





 西側の水堀は、南側よりちょい広めですね。



 躑躅ヶ崎館は「城」じゃなくて「館」なので、防御能力はそこそこだというイメージがあったのですが、割としっかりとした平城でしたね。
 そもそも、何故「館」なのかと言えば、武田信玄の有名な言葉である「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」から、人がいれば城は必要ないという話を聞いたことがあるのですが、躑躅ヶ崎館もまあまあちゃんとした城だったので、単に言葉だけの問題じゃないかと思います。第一、躑躅ヶ崎館は信玄が生まれる前に、信虎が築いたものですしね。
 ただ、甲斐だったらもっと攻められにくい山城を築くこともできたと思うのですが、それをしなかったのは、戦よりも政務のためだったとは思いますけどね。本当に攻められてヤバいときいは、要害山城もあったわけですし。

 躑躅ヶ崎館のすぐそばに、武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)という施設があります。そこはスルーしちゃったのですが、今考えれば寄れば良かったなぁと思いました。

 あと、甲府城も甲府駅の南側すぐ近くにあるのですが、そっちもこの日はスルー。集中力的にも、余韻的にも、後から思い返すときの印象的にも、がっつり見学するのは1日2ヶ所くらいにしておいた方が良いと思います。
 甲府城へ行くのはまた次の機会に、新府城とセットで見学することにしましょう。



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