青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-01-24 03:26:42 | 月の世の物語・別章

彼は、一面に鏡を敷き詰めた、どこまでも広い王宮の床のようなところで、常に手を鏡について頭を下げ、ひざまずいていました。頭上はるかな月は、その鏡に映り、いつも、そんな彼の様子を下から静かに見守っていました。彼は、もう何百年もの間、その鏡の部屋にひざまずき、頭を下げて、次々に目の前に現れる、誰かの足がはいた黒い皮靴を、自分の舌でなめて清めていました。

ひとことに皮靴と言っても、いろいろあり、中には表面にびっしりと画びょうを張り付けた意地悪な靴があり、彼はそれを、口から血を流しながらなめなければなりませんでした。また時には、童女がはくような小さな皮靴に、密かに毒がぬってあり、彼はその毒にあたって七日ももだえ苦しむことがありました。また時には、鏡に、靴の主のにやにやと笑う顔が映って見えることもあり、その顔は彼を見て嘲笑い、「馬鹿め、死ね」とののしりました。

彼はある人生において、ある国の、ある地方を治める武将でした。そのとき国は戦国の時代でした。たくさんの男たちが、国の覇権を争い、その知恵と力と誇りをかけて、戦っていました。彼はかなり知恵のある武将で、あるとき敵を巧みに罠にはめ、周りを取り囲んで一斉に攻め込み、あっけなく勝利をつかみました。しかし勝利の美酒に酔ったのもつかの間、敵も馬鹿ではありませんでした。彼の使った罠を逆手にとり、それを活用してもっと凝った罠をつくり、彼は自分の使った手と同じ手にはめられ、敵の小兵の放った矢に喉を突かれて死にました。彼の治めていた地方は、敵に占領され、民と兵たちは次々に惨い目にあわされて殺され、あるいは奴隷として扱われ、重い労役を課されたり、恐ろしく恥ずかしい仕事をやらねばならなくなりました。

そして死後、彼は、自分が駒のように扱い、その命と人生を奪ったたくさんの人々の前にひざまずき、その靴をなめねばならなくなりました。それは生前と、まったく逆の姿でした。生きている頃、彼の姿を見ると、人々は地に手をついて彼にひれ伏し、彼を恐れました。彼はその人たちを、とるにたらぬものだというように、これといって興味も示さず、通り過ぎて行きました。それがこんな結果になるとは、彼は思いもしませんでした。その地獄の管理人は、彼に深く教え込みました。
「よいか。ただおまえは、人に『歩け』と言っただけで、その人の誇りを奪ったことになったのだ。言葉には気をつけよ。人に『歩きなさい』と言えるのは、人間ではない。神と、人を愛に導く清らかな人の霊だけだ」
また管理人は、こうも言いました。
「人は少しでも人より強い知恵と力をつければ、すぐにそれに驕り、もっと良いものになろうと人を馬鹿にし始める。あなたもまたそうだ。馬鹿と言えば、馬鹿と返ってくるように、戦って勝てば、必ず負ける。人は常に人に勝つことを求めるが、常に勝つ者などいない。常に勝利するものがあるとすれば、それは愛のみだ。愛でなければ、何ものにも勝つことはできない。あなたは戦ったが、それは愛ではなかったのだ」

男は、何百年かの間を、ただただ人の前にひざまずき、靴をなめ続け、その性根をたたきなおされていきました。男は、最初の頃こそ胸に反抗の心を燃やし続けていましたが、年月が過ぎていくうちに、だんだんと、こうして人の前にひれ伏さねばならない人の屈辱感とつらさがわかってくるようになりました。自分のしたことがなんであったのか、彼はその賢さをようやく違う方向に向け始めました。確かに、まちがっていたと、彼は思いました。このように無理やり人に頭を下げさせることは、確かにまちがいだ。それだけならともかく、自分は彼らをもののように扱い、人と戦わせ、その命と人生の全てを奪った。それはすべて、自分の力と知恵の素晴らしさを人に見せつけ、敵を殺して勝つためだった。

彼は、ある日、靴をなめながら、ふうと息をつき、目から涙を流しました。そして心を変えて、すまなかったと謝りながら、心をこめて丹念にその靴をなめました。胸が震えて、涙がとまらなくなりました。その仕事が、とても大切な、幸せのように思えました。ずっとこうしていこう。全てに耐えて、皆に謝ってゆこう、彼がそう思った、その時でした。

ふと、周りの風景が変わり、彼は白い服を着て、いつしか果てもない砂漠の中に立っていました。そのはるか上空では、彼を見つめていた一人の青年が、魔法で翼ある天使に姿を変え、「ヤオ・フェイ・ライ」と彼を呼びながら、彼のそばに舞い降りました。いくつかの人生の中で、キリスト教徒として戦ったこともある彼は、思わずその姿の前にひざまずき、手を組みました。

「ヤオ・フェイ・ライ。あなたは何百年かの罪の浄化を行い、深く悔いた。そのため、次の段階に進むために、試験を課されることになった。見よ」天使は言いながら、砂漠のはるか向こうを指差しました。すると砂漠の中に、蛇のようにくねりまがった、一筋の白い道が現れました。天使は言いました。
「ヤオ・フェイ・ライ、あなたはこの道を進み、次々に問われる質問に、すべて『はい』と答えなさい。決して『いいえ』と言ってはならない。もしあなたが、質問に『いいえ』と言えば、そこで試験は中断され、すぐに元の地獄に戻り、また人々の靴をなめねばならなくなるだろう」ヤオ・フェイ・ライと呼ばれた男は、天使に祈りの姿を見せながら、素直に、はいと答え、その言葉通り、道を進み始めました。

彼が、道を歩いてゆくと、しばらくして、行く手をさえぎるように、蛙の形をした石像が道の真ん中に現れ、目を光らせて彼を見つめ、言いました。「ヤオ・フェイ・ライ!この盗っ人め!よくもあんなことをやったものだ!」すると彼は、いつだったか、戦いの中で敵の穀蔵を襲い、そこから兵糧を全て奪ったことがあるのを思い出しました。彼は胸を突かれるように苦しい思いがしましたが、静かに「…はい」と答えました。すると蛙の姿はすぐに消え、再び目の前に白い道が現れました。

またしばらく道を行くと、今度は道の真ん中に猿の像が現れ、目を光らせて言いました。「ヤオ・フェイ・ライ!この嘘つきめ!よくも裏切ったな!」するとヤオ・フェイ・ライは、かつて密約を結んだ国を、戦の情勢が変わるや否や軽々と裏切り、敵側についたことがあるのを思い出しました。彼はそれを思い返すと恥ずかしさに身が縮み、消え入るような声で「…はい」と答えました。猿の像はすぐに消えました。

そうして、彼が道を進んでゆくたび、次々と、蛇や兎やイタチや蟹などの像が次々と現れ、彼に厳しい質問をしていきました。彼はそのたびに思わぬ過去の痛い傷をつかれ、眉に苦悩を見せたり、悔しさに歯をかみしめたり、恥に涙を流したりしながら、「はい」と答えてゆきました。

彼は、次々と質問に答え、やがて、ふと、そこから道が消えてなくなっているところまで来て、戸惑いました。上空を見ると、常に彼の様子を見守っていた天使が、硬い表情のまま静かに行く手を指差し、「進みなさい」と言いました。彼はそれに「はい」と答え、道の消えている向こうへ、一歩足を踏み出しました。すると突然、そこに大きな石の扉が現れました。その扉の上には、燃えるような目をした獅子の顔の石像があり、その獅子が、まさに吠えるような声で、彼に問いを投げつけました。

「ヤオ・フェイ・ライ!おまえなど、すべて馬鹿だ!!」

ヤオ・フェイ・ライは、ぐっと、黙りこみ、茫然と獅子の顔を見つめました。…馬鹿だと?おれが、賢いこのおれが、すべて馬鹿だと?

すると突然、頭骨を割るようなひどい叫び声が、脳裏に蘇りました。「この能無しめ!死ね!」
それはかつて、作戦に失敗した部下に向かって彼が発した言葉でした。主君の言葉が絶対だったその時代、その部下は彼の言うとおり、翌日自ら喉をついて死にました。

それは彼が、最も栄光を味わった人生でのことでした。部下の失敗で状況は不利に陥ったものの、彼は寸前に思いついた奇策で優勢を取り戻し、何とか敵に勝利して、自分の持つ壮大な宮殿へと、悠々と帰ってきました。多くの召使が彼の前にひざまずき、彼は食卓で上等な酒に酔い、遠く山海から運ばれた豊かな食材を使った豪華な料理に舌鼓を打ちました。そしてたくさんの美女たちが、玉の寝床に横たわり、薄布を脱いで白い裸体をさらし、誘惑のまなざしで彼を見つめました。しかしそれは、一瞬の夢でした。

彼は宮殿でしばしの憩いを得たあと、すぐに戦に向かい、今度は散々に敵に弄ばれ、命からがら逃げ帰りました。敵はさらに追い打ちをかけ、彼を追って彼の国を攻め始めました。町に、蟻のように敵の兵が攻め込み、彼の国は燃え上がりました。彼は必死に攻め返しましたが、運が彼を見放したように、彼の攻撃は敵に次々と打ち砕かれ、やがて火は彼の宮殿をも燃やし始めました。

炎の中で、多くの人々が死に、あるいは鼠のように彼を見捨てて逃げていきました。彼は敗れ、燃え上がる宮殿に一人残されました。負ければ、全ては終わりでした。やがて彼は敵の兵に捕らえられ、敵の将によって裁かれ、目をつぶされて、残りの短い人生を、寒い牢獄の中で、腐った飯を食わされながら、生きねばなりませんでした。

何のために、戦ったのか。あれは何のためだったのか。美女と寝るためか。うまい食い物のためか。豪華な宮殿に住むためか。

常勝の男とはだれだ。そんなものがいれば嘘だ。すべてに勝利して、すべてを組み敷いて、おれのみが勝つのだ、おれ以外はすべて負け犬だと、そんな男がどこにいる。それはおれか?馬鹿な!おれは負けた。いつも、いつもそうだった。何度かは勝って、何もかもがおれのものになったかに見えた。でもすぐにそれは消えた。おれは負けて、負けて、負け続けた!そしておれに集まるすべての人をそれに巻き込んで、死んだ!

なぜだ!? なぜ戦った!何のために!
彼は、幻を見ました。それは、玉に飾った光る鎧を身にまとい、駿馬を駆って、雄々しく剣を振るうかつての自分の姿でした。彼は目を見開きました。あれは誰だ?なんて格好をしている。なんであんなことをしている?
そのとき、頭の奥を、何かがかちんと割れる音がしました。ああ!彼は心の中で叫びました。わかった。あれは、あれは、…馬鹿だ。

ヤオ・フェイ・ライの心を、静かな風が吹きました。涙は、彼の頬を見知らぬ別の生き物のように流れ、砂漠の砂にほたほたと落ちました。遠い昔の雄たけびが、喉の奥にかすかによぎりました。やがて彼は、身にはりついていた重い鎧の影を脱ぎ、不思議に安らいだ笑いを見せながら、ゆっくりと獅子を見上げ、小さな声で、確かに、「はい」と、答えました。

すると獅子は、かすかに顔をゆらし、彼の顔を見下ろしながらしばし沈黙したと思うと、目をとじて静かにうなずき、扉を開きました。ヤオ・フェイ・ライは、いつしか、静かな緑の森の中にいました。

見ると、森の木々の一本一本には、薄い石の板で作られた扉が立てかけられてあり、それぞれに、小さな名札が貼り付けられていました。
「ヤオ・フェイ・ライ」天使の声が、かすかに遠ざかりながら聞こえました。「ゆく道を探しなさい。たくさんの扉の中に、あなたのゆく道がある。その道を自ら探し、扉を開きなさい…」
彼はその言葉に「はい」と答えて従い、森の木々の間を歩いて、一枚一枚の扉に貼られた名札の名を、ひとつひとつ、読んでゆきました。

シモーネ・ガブリエリ、ミヒャエル・フェスカ、カツラギ・ナオヒコ、アントニア・デニツ、ピエール・ヴィリオン、ムハメド・サドール、ユリアンナ・クリシコワ、シリル・ヒギンス、サリク・テトル、ヨナタン・デ・カーロ……。やがて彼は、その中に、ふと心を魅かれる名前を見つけ、その扉の前に立ち止まりました。

エン・クォ・メイ。

ヤオ・フェイ・ライは、その名に、どこか不思議な懐かしさを感じながら、自然に扉の取っ手に手をかけました。扉は彼のその手を引くように、勝手に開いて、彼を中に導きました。するとまた、いつしか、彼は見知らぬ家の中にいて、目の前で、作業台の上にうつむいて一心に土をこねている、広い背中の男を見つめていました。

彼はその背中に呼びかけました。「エン・クォ・メイさん」。すると男は、驚いたように作業台から顔をあげて振り向き、彼を見ました。その顔を見てヤオ・フェイ・ライは驚きました。どこかで会ったことがあるような気がしましたが、それはどうしても思い出すことができませんでした。エン・クォ・メイは、驚きながらも喜びを顔に表して彼に近づき、土だらけの手で彼の体を抱きしめて、言いました。
「来たのか!おまえも、来たのか!あの道を!」

エン・クォ・メイは自分が今、村で陶工をしていると告げ、一緒に仕事をしよう、とヤオ・フェイ・ライに言いました。ヤオ・フェイ・ライは、ただ「はい」と答えました。

こうして、ヤオ・フェイ・ライは、エン・クォ・メイの元で、しばらく陶器を作る仕事の手伝いをすることになりました。彼らは不思議に息があい、ヤオ・フェイ・ライは、もともとの賢さを発揮して、すぐに仕事を覚え、なかなか上手に器を作れるようになりました。
露草色の空の月に照らされながら、彼らはともに働き、時にお茶を飲みながら語り合い、少しずつ、静かに友情を深めていきました。

はるか昔、彼らが、国境を挟んで互いに剣を向け合った武将であったことがわかるのは、まだずっと先のことでした。

 
 
 
 
 
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